エルガー「エニグマ変奏曲作品36:第9変奏《ニムロッド》」
腕時計を見ると、時刻は午後六時四十五分を指していた。いくら暖かくなってきたとはいえ、この時間になると世界は闇に包まれる。改めて時刻を確認した僕は、その暗闇に向かって、小さくため息を吐いた。
もう、この一連の動作を何度繰り返したかわからない。
今日は、水曜日だ。
僕は今日、時間休を取って早めに仕事を切り上げて、ここに来た。
つい先程まで、山崎さんと守衛室で話をしていた。もはやこの場所とは何の関係もない僕が突然現れて、山崎さんは一瞬、真顔になった。そして続けて、僕が今まで見てきた中で一番と言っていいくらいの笑顔を見せてきた。“破顔一笑”とは、ああいう表情を指すのかもしれない。
「らしくもない。一体どうしたの」
僕は、その言葉に口を噤んだ。しかし、口ぶりとは裏腹に、山崎さんはとても嬉しそうだった。
「いいねえ。若いってさ」
ーーそして今。
僕は、かつての職場の入り口に立っている。
できることならば、今すぐここから逃げ出してしまいたかった。
今なら全てなかったことにできる、引き返せ……という思いと、ここに来た理由を思い出せ、どんなにしんどくてもここに留まるんだ……という思いとが、心の中で力一杯綱を引き合っている。
「何してるんですか?」
どうやら、それは僕に向けられた言葉らしかった。ビクッとした僕が恐る恐る声のした方を見ると、そこにいたのは僕の待ち人だった。凍てつくような無表情に、僕の心は怯む。彼女のこんな表情を、僕はこれまで見たことがない。
久しぶりに鎧塚さんに会えたというのに、僕は、嬉しさがかき消されそうなほどの不安に苛まれた。
「……約束。まだ、有効ですか」
僕は、やっとの思いで声を絞り出した。鎧塚さんの視線を何とか受け止めようと、必死で彼女の目を見つめる。喉がカラカラだ。
「もう期限切れだったら、帰ります。ここへは、二度と来ません」
二人の間に横たわる沈黙が、永遠のように感じられた。無表情のまましばらく僕を見つめていた鎧塚さんは、ややあって小さくため息を吐いた。そして、ゆっくりと鞄から何かを取り出した。
それは、最後に鎧塚さんに会った時に見た楽譜だった。
「……いつ必要になるかわからなかったから、入れっぱなしでした」
鎧塚さんは、そう呟いて持っている楽譜に目を落とした。
彼女が今どんな気持ちでいるのか、僕にはさっぱりわからなかった。怒っているのか、悲しんでいるのか、それとも、喜んでいるのか。表情からも声からも、何も読み取れない。
「何してるんですか」
鎧塚さんはコツコツと靴を鳴らしながら、立ちすくむ僕を追い越した。彼女はセンターの建物を背に振り返って、射抜くような視線で僕を見る。
「“約束”、果たしにきたんじゃないんですか」
鎧塚さんの硬い声にビクビクしながら、僕は彼女の後をすごすごと付いて行った。
*
僕も、そして鎧塚さんも、音楽練習室に着くまで一切の言葉を発しなかった。もっとも僕は、何かを言ったほうがいいのか、それとも言わないほうがいいのかがわからないまま、消極的な選択肢を取り続けただけだったのだけれど。
久しぶりに入った音楽練習室は、何もかもがあの頃のままだった。不意に込み上げてきた懐かしさに、僕は小さく息を吸い込む。この場所を去って一ヶ月ほどしか経っていないはずなのに、自分の居場所はここにはないという寂しさが、僕の心に淡く漂う。
鎧塚さんが、静かにピアノに腰掛ける。
僕は、どこにいたらいいのだろう。少し迷った末に、大きく開いたピアノの蓋の側に立った。そこでふと、ピアノの中身を見た僕は、数え切れないほどたくさん張り巡らされた弦に圧倒されてしまい、慌てて視線を鎧塚さんに戻した。
ピアノというものはすごい楽器だ。改めて、そう思った。
ふう……と深く息を吐いて、鎧塚さんは華奢な手をふわりと鍵盤に乗せた。
考えてみたら、僕が鎧塚さんのピアノをきちんと聴くのは、これが初めてだ。
ポロン……
*
鎧塚さんにこの曲をリクエストした後、僕は、大元の映画を初めて観た。外国のオシャレそうな映画なんて、敷居が高くてとてもとても……と思いかけた僕の背中を、サブスクリプションという便利なサービスがそっと押してくれた。かくして僕は、宙に隠れて映画を観ることができた。
宙にもしこんなところを見られたら、“らしくない”“何かあった”“教えろ”と質問責めに遭うに違いなかった。文明万歳、である。
不思議に満ちた映画だ、と思った。僕は、映画やドラマを観るならば、登場人物の言葉や演出の意味をしっかり考えたいタイプだ。しかし、それらを一つ一つゆっくり考える暇など、与えてはもらえない感覚があった。
不思議な言動、不思議な画作りーー僕は、頭の中にハテナをたくさん浮かせたまま、くるくるくるくるとパラパラまんがのように軽やかに場面が移り変わっていくのを、呆然と眺めていた。
しかし、嫌な気持ちにはならなかった。何なら、“置いていかれる”ことが、心地良いとすら感じていた。
そして、何より、音楽がとても美しかった。
印象的な場面は、いつもピアノの美しいメロディと共にあった。もっともそれは、音楽にあまり興味がなかった僕が、ここ数ヶ月ピアノの音色を気にかけた結果なのかもしれない。
鎧塚さんに渡した楽譜は、作中に度々登場する「アメリのワルツ」を、ピアノ用に編曲したものらしかった。
明るさを孕みながらも、どこか物悲しさを帯びた音の並びーーピアノ曲の「アメリのワルツ」は、静かに、そしてゆったりと始まる冒頭から、同じメロディが何度も繰り返される。しかしそのメロディは次々と、そして複雑に色を変え、渦を巻くように豊かに広がっていく。まるで、モノクロの世界が色彩を獲得していくように。
そして今、この音楽練習室という小さな世界をカラフルに染めているのは、鎧塚さんの小さな手だった。
ーーこのまま。
どうか、このまま。
世界が、美しく染まったまま。
時が止まってしまえばいいのに。
僕は、鎧塚さんと最後に会ったあの時と同じことを考えていた。
でも、今日はこの言葉たちに、きちんと続きがある。
ーー怖くても、時を動かそう。
そのために、僕はここに来た。
*
鎧塚さんがピアノを弾き終わってから、しばらく二人とも言葉を発しなかった。温かく、そしてにわかに緊張した空気が、二人を包む。
「……ひどく、ないですか」
口火を切ったのは、鎧塚さんだった。顔を上げた鎧塚さんの目は、僅かに潤んでいるような気がした。
「約束、したのに。何も言わずにいなくなるなんて。あなたは、私が毎週水曜にここに来るって知ってるからいいかもしれないですけど、私には、あなたと連絡を取る手段はなかったんですよ」
鎧塚さんは、しっかりと僕の目を見つめていた。
「本当に、勝手な人」
鎧塚さんが、吐き捨てるようにそう呟いた。
「……ほんと、頭に来る。もうここへ通うのはやめようかと思ったことだって、あったんですよ。私が今までどんな気持ちでいたか、わかりますか」
「……わからないです」
「は?」
僕の言葉に、鎧塚さんの視線がいっそう険しいものに変わった。僕は、またここから逃げ出したい衝動に駆られたけれど、グッと踏みとどまる。
今日は、どんなに情けなくても最後までやり切る。たとえ、綺麗に終われなかったとしても。
そう決意して、僕はここに来た。
「わからないです。僕は……わかろうともしなかったから。自分のことしか考えていませんでした」
僕はゆっくり、そしてしっかりと頭を下げた。
伝わるだろうか。いや、伝わるかどうかの問題じゃない。
「ごめんなさい」
僕はそう告げると頭を上げた。必死で、鎧塚さんと目を合わせる。
「わかりたいと、今は思っています。怖い……ですけど」
僕の言葉を聞いて、鎧塚さんは眉間に皺を寄せた。
「僕は、ここでのあなたしか知りません。あなたのことを、ほとんど何も知らない。だから……怖いんです」
でも、と僕は言葉を繋いだ。
「ちゃんと知りたい。あなたのことをわかりたいと思っています」
「じゃあ、全部話しましょうか?」
苛立ったようなその言葉にびっくりして、僕は目を見開く。鎧塚さんは小さく息を吸い込み、堰を切ったように話し始めた。
「私は、鎧塚ケイといいます。出身は東京の西の方で、いま、28歳です。ピアノを弾いているのは、私の母が音楽家だったからです。小さな頃からピアノがそばにありました。私の生活はピアノ一色だった」
鎧塚さんは早口で一気にそこまで言い切ると、ふう、と一つ息を吐き出した。そして、意を決したようにキュッと口を結ぶ。その唇は僅かに震えているように見えた。
ーーああ。
この後に話そうとしていることを告げる決意をするために、彼女はどれだけの勇気を振り絞っているのだろう。
『“鎧塚”って名前、目立つんですよ。すぐ覚えられちゃう』
僕の脳裏に、かつて彼女が発した言葉が過ぎった。そして、僕は決意する。
「私にはピアノが弾けない時期がありました。それは……」
「待って!」
珍しく大きめの声を出した僕に、鎧塚さんは言葉を止めた。
「あの……もう、いいんじゃないですか」
「え」
僕は、唾をごくりと飲み込んだ。息を一つ吐いて、言葉を繋ぐ。
「何もかも背負わなくて、いいんじゃないですか」
僕の言葉に鎧塚さんは、口をしっかりと結んで、固まってしまった。
ーー宙といい、この人といい。何でみんなこんなにバカ真面目なんだろう。
僕は、もどかしくてたまらなかった。
「とんだ勘違いだったら、すみません。でも、親しくなりたかったら全部を話さなきゃいけない、打ち明けなきゃいけないって……思ってませんか」
鎧塚さんがはっとしたように目を見開いた。みるみるうちに、その表情が頼りないものへと変わっていく。
「そういうの、やめませんか。すごく窮屈じゃないですか、そんなの……」
僕は軽く息を吸い込み、しっかりと鎧塚さんの目を見つめて言った。
「背負ってるものを全て詳らかにしない限り、誰かと親しくすることすら、許されないんですか」
そこまで言って僕は、自分の発した言葉たちに大きな矛盾が生じていることに気がついた。
「ああっ!」
慌てた僕は、視線をあわあわと彷徨わせて、行き場のない手を身体の前でブンブンと振った。
「あの、知りたくないわけじゃないんです、鎧塚さんのこと!ちゃんと知りたいんです……あれ?違うんです!あの……」
「本当に」
頼りない表情のまま、鎧塚さんが静かに言葉を零した。
「何なんですか。知りたいって言ったり、言わなくていいって言ったり」
「……知りたいです」
これだけは、どうか誤解がないようにーーそんな気持ちを込めて、僕は大切に言葉を紡いだ。
「知りたい、です。でも、急ぎたくはないんです。自然な形で進めたら……それが、一番嬉しい」
僕が言葉を切ったその瞬間、僕たち二人の間に、つんざくような爆音が割り込んできた。驚きで呆気に取られた僕は、何秒後かにやっとその爆音の正体に気がついた。それは、ついさっきまで鎧塚さんが弾いていた“アメリのワルツ”のメロディだった。
鎧塚さんが、ポケットの中から何かを取り出す。スマートフォンだった。彼女が画面をタップすると、鳴り響いていた爆音がブツっと途切れた。
「……アラーム」
「へ?」
表情の読めない顔で、鎧塚さんがポツリと呟く。
「アラーム、かけてるんです。九時になる十分前に、いつも。五分かけて支度して、終了時間の五分前に受付に電話を入れてます」
おかしいな、まだ九時まで全然時間があるのにーー鎧塚さんはスマートフォンに視線を落としながら、静かにそう言った。
「すごい音量でしょ?でも、これくらいパンチのある音じゃないと、気が付けないんです。集中しているから」
「パンチのある音、って……」
僕は、咄嗟に耳を押さえる仕草をしていたことに、この時初めて気がついた。
「いいじゃないですか、これくらい。仕返しですよ」
そう言うと鎧塚さんは目を瞬いて、上目遣いで僕を見た。
「散々待たされたんですから、いいでしょう。これくらいの仕返しは」
鎧塚さんはそう言うと、柔らかく口角を上げて、笑った。
それは、雨上がりの空のような、とても綺麗な笑顔だった。
*
時刻は、午後九時を回ったところである。
地域交流センターを出るときにすれ違った山崎さんの顔を、僕はしばらく忘れられそうにない。何か言われるかなとドキドキしていたけれど、彼は、鎧塚さんの前で“どこにでもいる地域交流センターの警備員さん”を演じきってくれた。
鎧塚さんに続いて歩く僕を見た彼は、とても満足そうな表情をしていた。最後まで僕は、山崎さんには頭が上がらないままだったな、と思う。
センターを後にした僕たちは、人一人分くらいの距離を空けて、並んでゆっくりと歩いていた。駅に向かう足取りは、軽いようで重く感じられた。鎧塚さんがどう思っているかはわからないけれど、少なくとも僕はこのまま、温かい空気に浸っていたかった。
「……でも」
脈絡なく、鎧塚さんが話し始めた。僕は、彼女の顔を見る。
「ちゃんと会えて、よかった。“約束”を果たすために、いきなり電話とかかかって来たらどうしようかなと思ってました」
「は?」
鎧塚さんの言っていることが咄嗟には理解できずに、僕は、間抜けな声を出してしまう。
「だって……その気になれば調べられたでしょう?電話番号とか」
その言葉の意味にようやく気付いた僕は、思わず大きな声を出した。
「そんなことするわけないじゃないですか!」
鎧塚さんの目をしっかり見ながら、僕は捲し立てる。
「僕たち公務員が大きな顔をしていられる理由って“信頼”なんですよ。どんなに心が揺らいだってそれだけはやっちゃいけないんです。だいたい、水曜日の夜に鎧塚さんがここにいるっていうのも、立派な個人情報なんですから。僕がここにくるのだって、どれだけ迷ったか……“約束”がなかったら絶対に来たりしませんでしたよ!」
僕はそこまで一気に言い切って、息が足りなくなって肩を上下させた。僕のただならぬ様子を見て、鎧塚さんがぽかんとした表情になる。
「ごめんなさい」
鎧塚さんは眉をハの字にして、申し訳なさそうに目を伏せた。
「でも……その言葉を聞いて安心しました」
そして、彼女はひとりごとのように小さく呟いた。
「……やっぱり、あなたで良かった」
思わぬ方向から球が飛んできた。僕は大きく目を瞬いて、鎧塚さんから顔を背ける。何だか、顔が熱い。
「……少しずつでいいから、私の話、させてくださいね。無理はしませんから」
話題が変わり、僕は慌てて鎧塚さんに向き直って頭を下げた。
「ほんと、すみません……大事な話を途中で遮ったりして」
「良いんです……後ね、あなたの話も、私は聞きたいんです。私だって、あなたのことを全然知らないんだから」
そう言って、鎧塚さんは目を細める。
「何だか、楽しみだな」
ーーもしかしたら、僕らの関係はいずれ壊れてしまうのかもしれない。だって、“知る”ということには、常にその可能性がつきまとう。相手のことを知れば知るほど、いろんなことを美化して解釈していたことに気がつくだろうし、お互いに幻滅するようなできごとだって、きっとこの先起きるのだろう。
それでも僕は、彼女のことを、ちゃんと知りたい。少しずつ、知っていきたい。
変わらない関係性なんて存在しない。ならば、関係性が変わっても一緒にいられる方に、僕は賭けたい。この人といい関係でいられるように、努力をしていきたい。
「名前」
「へ?」
考えごとをしていた僕の口から、気の抜けた声が漏れる。鎧塚さんがニコニコしながら、下から僕を覗き込んでいた。僕は、再び顔がどんどん熱くなってくるのを感じた。
「名前ーー下の名前、何ていうんですか?私の中であなたはずっと、“地域交流センターの佐藤さん”だったから、気になって」
「あ」
言われてみれば、そうだった。僕たちは今日の今日まで本当に、お互いのことをほとんど知らない状態だったのだ。
「佐藤……昴、です。昴、という字は、日本の“日”の下に、卯年の“卯”と書いて、“すばる”と読みます」
「そうなんですね。ちょっと、珍しい名前かも」
「そう……かもしれません」
「まあ、私が欲しいのは苗字の方だから、お名前は何だって構わないんですけど」
「え」
思いがけない返しに、僕は口を僅かに開いて呆けてしまった。鎧塚さんが微笑む。
その笑顔に、ああ、僕は、この人が笑うところを見るのが好きだなあと、改めて思う。
「冗談です」
もう早速彼女のペースだ。でも、不思議と僕にはそれが心地良かった。何なら……“置いていかれる”ことが、心地良いとすら感じていた。
「佐藤、昴……さん」
そう言って“水曜日の君”は僕に微笑む。
僕が大好きなこの笑顔を、これからもたくさん見られますようにーー僕は、そう願わずにはいられなかった。
「素敵な名前ですね」




