「アメリのワルツ」
『それでは次の相談に参りましょう。恋愛相談のようですね。ラジオネームは……』
宙も僕も、あれから言葉を発していなかった。車内には、僕がつけたラジオの音声と、雨が車体を打つ音だけがこだましていた。
「……“水曜日の君”、だっけ」
「は?」
「兄貴、どうなったの?その人と」
気まずさMAXのこの状況で、第一声がそれか……僕は、色々な意味で口を開くことが出来なかった。
「兄貴、いつから彼女いないの。てか、その歳になってまだ彼女いないとか結構やばくない?もうアラサーでしょ」
「……大きなお世話過ぎて、どこから突っ込んだらいいかわかんない」
「だよね」
そう言うと、宙はポツリと呟いた。
「……よくグレなかったよね、兄貴」
「え」
「歳の離れた妹が有名子役になって、親はそっちにかかりきりで。私が兄貴の立場なら、絶対グレてたと思う」
「いや。当たり前のことのように言ってるけど、グレるかどうかって人それぞれなんじゃないの」
「……兄貴だけは、変わらなかったよね」
話題がポンポン飛ぶのは、宙のクセだ。慣れているとはいえ、流石に話の展開が読めなかった僕は、会話の行き先を黙って見守った。
「私が有名になっても。持て囃されても。つけ上がっても……兄貴は、変わらなかった」
僕は困惑した。変わったとか、変わらなかったとか、自分ではよくわからない。
「忙しくて大変そうではあったけど、宙も母さんたちも、楽しそうだったじゃん。それが一番だと思ったから、僕のことは別に」
「あははっ」
宙が声を立てて笑った。
「……そう、そうなんだよね。私……楽しかったんだよ、仕事」
軽く伸びをした後、宙は、ボン!と勢いよく背もたれにもたれかかった。
「ずーーーーーーっと、勘違いしてるんだよ、あの人たち。私が仕事をできなくなった理由。“私たちが宙に仕事を強制したせいだ”って勝手に決めつけて……そんな単純じゃない。自分たちのせいにして悲しみに酔いたいだけで、私と向き合う気なんてないんだろうなって思うと、絶望する」
「……今日、お風呂掃除も追加にしとく?」
「だから、悪口じゃないってば!」
宙は、僕の言葉に口を尖らせる。そして不意に、真剣なトーンで語り出した。
「……ひょっとして、私のせいだったりする?」
「何が」
「彼女、いないの」
宙が、気遣わしげにこちらをチラッと見る。もっとも、僕は運転中なわけだから、そんな気がしただけだけれど。
「私のために……私のせいで、犠牲にしてることがいっぱい、あるんじゃないの。彼女ができても、家に連れてくることもできないもんね……いや、私がさっさと自立しろって話か」
自虐気味に、宙は笑った。
もう、このようなやりとりは数え切れないほどしているはずだった。それでも宙は、僕の気持ちを確かめずにはいられないのだ。そう思うと、やりきれなかった。
「別にいいよ、いくらでも。僕のところに居たいなら、居たいだけ居れば」
何度聞かれても、答えは変わらない。僕は淀みなく言葉を続けた。
「ただ、僕に頼りきりじゃなくても宙が元気で過ごせるようになったら、宙は今よりもっと息がしやすいと思う。母さんたちとも適切な距離で接せるようになったら、お互いに楽になると思う。それが家族にとって一番いいと思うから、そうなってくれたらいいなと思ってるし、そのためにできることは、やる」
「……その割には、強制とかしないよね。文句は山ほど言うけど」
「相手があることを無理強いしても仕方ないよ」
いつも言ってるけど、と僕は付け加える。
「僕は自分がやりたいことしかしない。やりたくないことを進んでできるほど、器用じゃないから」
意思のある場所に向かって淡々と進む。
そして、結果は大人しく受け入れる。
僕は、ずっとそうしてきた。そしてきっと、これからもそうだ。
『……それではここで一曲、お聞きください。メランコリックな雨の日にぴったりな曲です。どうぞ』
会話の合間に、タイミングよくラジオの音声が滑り込んできた。パーソナリティの語りに導かれるように、カーステレオから曲が流れ出す。
「あ、これ」
宙が声を弾ませた。
「あの曲じゃん。ほら、兄貴が私に曲名聞いてきたやつ。“アメリのワルツ”だよ。ちゃんと覚えた?」
意思のある場所に向かって淡々と進む。
そして、結果は大人しく受け入れる。
僕は、ずっとそうしてきた。
薄氷を踏むように緊張した生活から離れるために、僕と宙が家を出て一緒に暮らすことを家族に提案したのだって。宙と一緒にいる時間がきちんと取れるように、時間に融通が効きやすく、安定した立場の地方公務員に就職したのだって。全部全部、僕の意思だ。
ーーでも。
“あのこと”だって同じように自分で決めたのに、これほどまでに後悔ばかりが押し寄せてくるのは、何故なんだろう。
『楽譜、見つかったんです。今、練習中』
壊れたビデオデッキで再生された動画のように、鎧塚さんのその言葉と笑顔だけが、脳内で繰り返し再生される。頭にこびりついて、離れない。
僕は、後続車がいないことを確認して、路肩に車を寄せた。
「……兄貴?」
宙の戸惑ったような声がした。僕は、ハザードランプを点灯させ、車を止める。止めていた息を大きく吐き出して、僕は、そのままハンドルに覆い被さるようにもたれかかった。
「兄貴。どうしたの、具合でも悪いの」
宙の声はひどく心配そうだった。いろいろと強がっていても、やはりまだ彼女は十代なのだということが、こういうときにわかる。声に、はっきりと不安が滲み出ていた。
忘れたつもりだった。
でも、忘れようと試みている時点で、それは忘れられないことと同義なのだ。
「……綺麗に終われることの方が少ないだろ、世の中」
限界を超えて、仕事をキャンセルした宙。家で彼女を出迎えた時に見た表情を、思い出す。
もう二度と僕は、あんな表情は見たくない。それが、誰のものであっても。
そう思ったら、他人に深入りすることが、怖くなってしまったのだ。自分でも本当にひどいと思うけれど、週に一度、仕事として、職員という立場で会う関係が“ちょうど良かった”。その先に踏み込む勇気が、どうしても持てなかった。
「だったら、綺麗にさよならしてもいいのかもしれないって、思ったんだ」
最後に脳に焼き付いたのが鎧塚さんの笑顔なら、きっと、それはとてつもなく幸せなことなのだろうと思ったのだ。
ーーいや、違う。
僕は、逃げ出しただけだ。鎧塚さんと向き合うことから、逃げた。
僕の異動をきっかけに何か行動を起こしたせいで、“笑顔以外の鎧塚さん”と出逢うことが怖くなったのだ。人間としての生々しい付き合いを、僕は拒んだ。鎧塚さんとのことは、綺麗な思い出のまま、心に保存しておきたかった。
それを選んだのは自分なのに、どうして僕は今、こうしているのだろう。
「……いやちょっと、脈絡がなさすぎて意味わかんないんだけどさ。“水曜日の君”の話?兄貴、割と話飛ぶよね」
「……宙には言われたくない」
僕は駄々をこねるような声を出した。情けないことこの上ない。
「よくわかんないけど……兄貴がそんな風に突っ伏してる時点で、“綺麗に終わって”ないんじゃないの」
不意に、背中に温かい感触がした。
宙の手が、遠慮がちにゆっくりと僕の背中をさする。
「……何もせずに終わっちゃったのが後悔なんだとしたら。せめて、当たって、砕けてみたら?」
「……何で砕けるのが前提なんだよ」
「あれ、違うの?」
そう言って宙が笑った。彼女なりの気遣いが、心に沁みる。
兄貴の好きなようにしたらいいよ。でも、結果は教えてねーー
宙のその呟くような声を、僕はどこか他人事のような気持ちで聞いていた。何をどうするのかを決めるのは、いつだって自分自身だっていうのに。




