ショパン「前奏曲:第15番《雨だれ》 Op.28-15 変ニ長調」
「もー……いつまで雨が続くわけ?乾かないじゃん、洗濯物が」
不機嫌そうにピシャッとカーテンを閉める妹の背中を、僕は、ぼんやりと眺めていた。
「四月って、こんなに天気悪いもんだったっけね」
ボサボサのショートヘアをくしゃくしゃとかきながら、妹の宙がこちらへと戻って来る。ダボダボのスウェットに、お揃いのショートパンツ。どこからどう見ても典型的な部屋着だ。ショートパンツから伸びる長い脚は、驚くほど白く、そして細い。
宙は、どかっと音を立ててダイニングの椅子に腰掛けた後、足を折り畳んで腕で抱えた。椅子の上で体育座り、という妙な格好である。真向かいに座る妹の行動を見て、僕はため息を吐いた。
「行儀悪いぞ」
「兄貴の前で品よくしてたって仕方ないじゃん」
僕は、またひとつため息を吐いた。無意識に、先ほどより大きなため息になってしまう。
「……今日、もう火曜日なんだけど」
宙は、変わりありませんかーーそんな風に控えめにこちらの様子を伺うメールを、僕は先ほど読んだばかりだった。僕が家にいることを知っていて、連絡してきたのだろう。
地域交流センターは、年末年始や施設の点検日を除いて、基本的に休みなく稼働している。職員は土日のどちらかを出勤日とし、その代わりに平日に代休を取る。僕の休みは、土曜日と火曜日だ。
「ちゃんと実家に連絡入れてるの?」
「入れてません」
THE、開き直り。僕は目を細めて宙を睨んだ。
「約束したろ。僕と住むなら、母さんたちとちゃんと連絡を取り合うことが条件だって」
「兄貴が何かのついでに私のことも報告してくれればいいじゃん」
「それじゃ意味が無いから言ってるの」
もう何度、こんなやり取りを繰り返したかわからない。僕と宙の話は、この手の話題ではいつだって平行線を辿る。
「……だいたいあの人たち、私に興味なんかないでしょ」
「はい、NGワードも発動。今日の洗い物担当、宙に変更」
僕は、ダイニングの壁に貼ってある紙を指差した。黒く大きな文字で“契約書”と書いてある。あまり綺麗な字ではない。僕が書いたものだ。その後に続く丸文字は、宙の筆跡だ。
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【契約書】
以下の事項を守れなかった場合、ペナルティを負うことを了承します。宙
・毎週必ず、実家と連絡を取る
・親の悪口は言わない
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「……んもう!今のは悪口じゃない!」
「事実を悪意のある形で捻じ曲げようとしたんだから、一緒だろ。自業自得」
僕は、マグカップに入ったコーヒーをひと口飲んだ。酸味が強い。淹れてから時間が経ってしまったせいかもしれない。さっさと飲み干してしまうべきだったなと思い、つい、苦い顔になる。
「母さんも父さんも、宙のことが心配でたまらない。わかってるだろ、本当は」
宙は、まだ十代だ。僕とは随分歳が離れている。宙は、まだ幼さが残るその顔を、僕からわざとらしく背けた。
「……そんなの、私が“天才子役・ソラ”だった時の話でしょ。表舞台から降りた私に、あの人たちは、本当は興味なんてない。放っておいたら寝覚めが悪いから、形式的に連絡してくるだけ」
「被害妄想」
僕の言葉に、宙がキッと眼光を鋭くしてこちらを睨んできた。そんな姿すら何だか絵になってしまうことに、やるせない気持ちになる。僕の妹は、そこらの人ならたじろいでしまうような、ものすごく整った容姿をしている。
「……兄貴の、バカ」
そうぽつりと呟いて、宙は自室へと帰ってしまった。バン!とドアが閉まるヒステリックな音を聞いて、僕はまた、ため息を吐いた。
*
コン、コン。
「宙」
僕は、部屋のドア越しに宙からの返事を待った。反応はない。
「入るよ」
やはり、返事はない。僕は軽く息を吐いてから、カチャリ、と宙の部屋のドアを開けた。
明かりはついていなかった。雨の日の室内は、窓があっても電気をつけなければ薄暗い。少し目を凝らして部屋を眺めると、宙は、ベッドの中に潜り込んでいるようだった。
「出かけるけど」
僕の言葉に、ワンテンポ遅れて宙が反応した。掛け布団を僅かにめくり、目だけでこちらを見てくる。
「車?」
「当然。雨だし」
「……行く」
そう言うと、宙はベッドからのろのろと起き出してきた。
*
サアアアアアアア……
霧のような雨が、世界を濡らしている。マンションの駐車場に出ると、しっかりと雨の匂いがした。宙と共に車に乗り込んだ僕は、エンジンをかける。
「行き先は?」
「特にないよ。走らせたいだけだから」
「ふうん」
宙はそう言ったきり、そのまま黙り込んでしまった。スウェット姿のまま助手席にもたれかかり、窓越しに遠くを見つめている。実のところ、僕に目的地があろうとなかろうと、どっちだっていいのだろう。
そして僕はまたいつものように、当てもなく走り出す。ドライブのお供は、いつものラジオ番組だ。平日の昼に放送する帯番組なので、いつもは仕事で聴くことができない。だから火曜日は、僕にとって水曜日とは違う意味で特別だ。
僕と宙の間に横たわる沈黙を埋めるように、車のスピーカーからパーソナリティの語りが流れてくる。
『午後一時になりました。皆さん、いかがお過ごしでしょうか……』
*
僕の、唯一と言っていい趣味が車だ。と言っても、メカニズムに対する興味が強い訳ではない。“車に乗って走る”という行為が好きなのだ。
高校三年生の冬。推薦などで既に進路を決めていたメンバーを中心に、教習所に通い出す同級生がポツポツと出始めた。学年が上がって早々に十八歳となり、指定校推薦で既に進学先が決まっていた僕は、何となくその流れに興味を持った。そうか、もう自分で車が運転できるような年齢になったのだ……そう思った。
教習所に通ってみたいという僕の希望は、あっさり両親に受け入れられた。後になってわかったことだけれど、毎年の誕生日プレゼントすら悩んでしまうほどに物欲が薄い僕を、両親は心配していたらしい。そういう意味では、子役という仕事に熱意を注いでいた宙の方が、親としても育て甲斐があったのかもしれないな、と思う。
順調に免許を取った僕だったが、実際に運転が趣味となるまでには少し時間がかかった。実家には車があったのだけれど、それは宙の送り迎え専用と化していたからだ。流石に車をねだるわけにもいかず、僕はすぐにアルバイトを始めた。
初めて買った車は、中古の軽自動車だった。鍵を受け取った時の何とも言えない高揚感は、未だにちょっと忘れられない。
エンジンをかけ、車を走らせる。その時、不意に頭を過ぎる記憶があった。
家族四人で、旅行をしていた頃のものだった。
父が運転をし、既にチャイルドシートを卒業していた僕が助手席に座る。後部座席には母と、まだ幼い宙がいた……
記憶の中の家族を思い描いた時、僕は、少し泣いたのだと思う。
両親は宙にかかりきりだ。放任主義といえばそうとも取れたし、全てに納得していたつもりだった。でも僕は、実のところは寂しかったのだろうか。
それから、僕は車の運転にのめり込んだ。隙を見つけては、東西南北、色々な場所へ行った。自分の手で世界を広げる感覚に、夢中になった。そして、僕の意識が家族から離れつつあった頃、事件は起きた。
宙の心が、限界を迎えたのだ。
宙が、表舞台から退かざるを得なくなってから、僕たち家族はどこにも行けなくなってしまった。閉塞感に苛まれた家族に“分かれる”という選択肢を提案したのは、僕だった。
僕と宙、そして両親。
ただ、一つの家族が二つの班に分かれた。それだけのことだ。
そして月日は流れ、僕と宙はこうして、車さえあれば“何処へでも”行けるようになった。
人前に決して出たがらない宙が、家を出て、遠くへ行くことができる方法。
本当は、家族四人が一緒に、何処にだって行けるようになったらいい。
ーーそんな日がいつかきっと来ると、僕は信じている。




