J.Sバッハ「平均律クラヴィーア曲集第一巻:第一番前奏曲ハ長調BWV846」
「今日も来るかねえ」
山崎さんがそう言いながら、いつものようにニコニコして話しかけてくる。僕は窓口のカウンターで、施設の貸し出しに関する書類を整理していた。
「誰がですか」
書類から目を離さずに答えると、山崎さんがニコニコした顔のまま、僕の顔を覗き込む。
「誰って、“水曜日の君”に決まってるじゃない」
「……何度も言ってますけど」
僕は、書類の束をトントン、と揃えた。別の束へ手を伸ばしつつ、いつもの苦言を山崎さんへ呈する。
「利用者さんに変なあだ名をつけるのはやめてください」
「変とは失礼な。“○○の君”っていうのは親愛の気持ちを込めて使う愛称なんだぞ」
「仕事で関わる相手のことをそうやって呼ぶのはどうかと思う、という話です」
「相変わらずつれないねえ、スーちゃん」
僕はため息をひとつ吐いて、山崎さんを見上げた。呆れ顔の僕と目が合うと、山崎さんは嬉しくてたまらないと言った様子でいっそうニコニコとした。目も、唇も、それらの傍に刻まれた笑い皺たちも、線のように細くなっている。
こうして雑談に耽る余裕があるのはありがたいことだが、山崎さんはとても背が高い。このまま見上げ続けていたら、僕の首はいずれ痛みで曲がらなくなってしまうだろう。
「山崎さん、仕事してください」
「はいはい、っと」
そう言うと山崎さんは、帽子のツバを持ち、大袈裟に身なりを整える仕草した。そして僕にクルリと背を向け、センターの入り口付近にある守衛室へと帰っていった。年相応に軽く丸まった背中を見送った後、僕は書類の整理作業へ戻った。
山崎さんは、この地域交流センターに勤める警備員である。本人の話によると、名のある一流企業を定年退職した後、暇を持て余したので高齢者向けの人材バンクに登録したところ、派遣先として提案されたのがこのセンターだったのだそうだ。その話が嘘か本当かどうかは確かめようがないが、もうこのセンターで警備の仕事をして八年ほどになるらしい。公務員として配属となった職員の多くは二、三年のスパンで異動してしまうことを考えると、山崎さんのような人は、もはやこのセンターの“主”と言っても差し支えないのかもしれない。
仕事中だから、とさっさと追い返してしまったけれど、僕は山崎さんのことが結構好きだ。おしゃべり好きだけれど、本当に立て込んでいる時は絶対に話しかけてこない。必ず今のように、仕事が落ち着いているタイミングを見計らって話しかけてくる。話す内容はいつも他愛のないもので、その雑談に僕はとても癒されていた。
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、先程のようにそっけなく接したとしても、山崎さんは僕に話しかけるのを辞めようとはしなかった。あまり積極的に人と絡めない僕のような人間にとっては、本当にありがたい話である。
何より、山崎さんはいつも機嫌がいい。そういう同僚が一人でも職場にいてくれると、やはり空気が和むものだ。
ふと、カウンターの上にある置き時計に視線を向ける。時刻は午後六時四十五分を指していた。自動ドア越しに見える外の風景は、すっかり闇に包まれている。
ーーそろそろかな。
僕がそう思ったタイミングで、センター入口の自動ドアが静かに開いた。一人の女性が、Aラインの白いコートをふわりとはためかせて入ってくる。彼女は僕の座るカウンターに向かって、真っ直ぐに歩いてきた。
「七時から音楽練習室を予約している鎧塚です。附帯設備として、ピアノもお借りしたいのですが」
そう言うと鎧塚さんは、予め手にしていたらしい利用者カードを僕に見せてきた。
もう何度もこういったやりとりを繰り返しているのに、鎧塚さんとは目が合ったことがない。単にシャイな人なのか、あるいは、僕が嫌われているのか。
「鎧塚様ですね。確認しますので、お掛けになってお待ちください」
利用者カードを受け取りながら、僕はそう促す。鎧塚さんは黙って、カウンターの前の椅子に静かに腰掛けた。外が寒かったからなのだろうか、彼女の頬や鼻の頭は少し赤くなっている。
しばらく、無言の時間が続いた。僕は黙々と手続きを進め、パソコンから打ち出した音楽練習室の利用許可証を彼女に提示した。
「午後七時から、音楽練習室のご利用ですね。ピアノの使用料金と合わせて、二千円です」
「ちょうど、だと思います」
差し出された二枚の千円札を、僕は丁寧に数えた。
「ちょうど、いただきます。少し早いですが、もうご利用いただいて構いませんよ。今は空室ですので」
そう言って僕は、受付印を捺した利用許可証と、音楽練習室の鍵を鎧塚さんに渡した。
「ありがとうございます」
やはり僕の目を見ないまま、桜色のマフラーに顔を埋めるように首だけで軽く会釈をして、鎧塚さんはカウンターから立ち去った。
彼女が、山崎さんが名付けた“水曜日の君”。
ーーそして、これは彼女と僕の、物語。