偽文 弟子(中島敦「弟子」より)
己たちには漠然としか気づかれないものをハッキリと形に表す・妙な才能がこの若造にはあるらしいと、子路は関心と軽蔑とを同時に感じる。
(李陵・山月記 弟子・名人伝 中島敦 角川文庫クラシックス 81ページ)
顔淵は海を眺めていた
師であればこの海のうねりからも何かを見出すのだろうか
聞こえるともなく聞こえてきた子貢の話に子路ばかりではなく顔淵にも思いあたるものがあった
ただそれは子路、子貢とは全く別のものだ
師の自分に対する態度には他の弟子達に対するそれよりも明らかに熱がこもっている
顔淵はそれを嬉しく思いながら、しかしどこか師の態度を素直に受け取れない自分を感じていた
勿論九分九厘までが自分に対する期待であることはわかるが残りの一厘はどうか?
子貢に「一を聞いて十を知る」と評された顔淵はその言葉の裏にかすかな侮蔑を感じる
子貢の才は誰もがはっきり形として見えるものだ
師は言うに及ばず
では、己はどうか、己の才とはなんだ?
子貢の言うように師は聖人として(この呼び方はいささか相応しくない気もするが)後世に伝わるだろう
そう考えると子貢や兄弟子・子路では務まらない、自分の役目を感じる
顔淵は再び海に目を落とす
師、あるいは子貢を通して歴史に伝わっていく自分を思うと苦笑を禁じえなかった