表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/14

侍従長

 昭和四年一月、巣鴨の鈴木貫太郎宅を一木喜徳郎宮内大臣が訪れ、侍従長就任を要請しました。海軍軍令部長の貫太郎にとっては寝耳に水の要請であって、大いに迷いました。侍従というのは天皇の御側近くに仕える文官であり、その責任者が侍従長です。武官の貫太郎にとっては異質な仕事です。

(自分が適任かどうか)

 貫太郎は、弟の孝雄と三郎に相談してみましたが、聞くだけ無駄でした。

「適任かどうかはやってみなければわからない」

 一木宮内大臣は、貫太郎のどこをどう見込んだのか非常に熱心で、ある時などは三時間も説得し続けました。貫太郎は、海軍については心配していません。貫太郎に代わるべき人材は豊富です。すでに老境に入っており、もはや野心もありません。海軍軍人として位人臣を極めた貫太郎には、今さら欲望らしい欲望はありません。ただ心配したのは自分自身の適性でした。

(天皇陛下にご迷惑をおかけするのではないか)

 逡巡する貫太郎に対して一木宮内大臣は熱誠を以て説きました。その熱意に負けて貫太郎は侍従長を引き受けました。

 一月二十二日、貫太郎は予備役に編入され、侍従長となりました。なってみると案の定、右も左もわかりません。周囲に教えられ助けられながらの侍従長です。なかでも侍従次長の河井弥八には特に世話になり、一から十まで教えてもらいました。貫太郎は、不器用な自分がイヤになりましたが、ともかく誠心誠意だけは崩すまいと決心して務めました。そんな新米の侍従長に陛下は御声を掛けてくださいます。

「タカはどうしておる」

 タカとは足立タカのことでした。先妻と死別した貫太郎は足立タカと再婚していました。この足立タカは、かつて皇孫御用掛として陛下の御養育にたずさわった女性です。四才から十五才まで御側近くに仕えたといいますから、その感化は大きかったでしょう。幼い頃に添い寝して寝物語を聞かせてくれたタカを陛下は懐かしがって仰いました。

「タカのことは母のように思っている」


 貫太郎の見るところ、天皇陛下の御日常は、御祈りと国事行為の連続です。毎朝、御食事前に御朝拝をなさいます。伊勢神宮をはじめとする御歴代の皇霊と天神地祇に御祈念なさるとともに、宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)に侍従を御代拝として差し向けられます。御食事後、陛下は新聞をご覧になりますが、東京、大阪のほか、地方主要紙も広くご覧になります。

「今日はこういうことがあったが、どう思うか」

 昭和天皇は時に侍従長にお尋ねになります。しかし、貫太郎の知らぬこと、わからぬことが多く、ただただ恐懼して畏まるしかありません。とはいえ、知ったかぶりをしないところが貫太郎のよいところです。

 九時半になると、天皇陛下は表御座所へと御出でになり、侍従長、侍従武官長、皇后宮大夫などに謁を賜ります。正午までは御政務や定例の御用を御勤めになります。正午、いったん御奥へ入御あらせられ、午後一時から再び表御座所にて御政務を行わせられます。御日課を決めるのは奉仕の侍従です。午前中はほとんど御日課に埋められています。木曜日の午前中は一般拝謁の日です。年間四千人ほどが拝謁を賜ります。外国人が拝謁を願うことも少なくありません。また軍事や外交に関する御進講をお聴きになることもあります。

 午後二時から四時までは運動の時間です。乗馬とゴルフを隔日になさいます。運動後はご入浴のうえ、再び表御座所において各方面からの上奏書類を御裁允あらせられます。夕方六時、御奥へ入御遊ばされます。

 天皇陛下が御裁允なさるべき書類は多く、内閣、軍部、宮内省、その他からひっきりなしに書類が出てきます。書類の御点検は迅速になされました。ただ重要書類については詳しく御覧遊ばされました。その上で御裁可の御印を御捺しになるか、御署名を遊ばされます。御政務には誠に御厳格であらせられ、決して他に御命じになることはありませんでした。書類は年間で六千通にも達します。書類がたくさん奉呈された日には遅くまで時間を御掛けになりました。

 御政務にはいろいろな種類があります。拝謁、奏上、上奏、奉呈、親任式、親補式、御前会議などです。様々な事案をどのような形式で処理するかを決めるのが侍従と侍従武官です。侍従は一般政務を扱い、侍従武官は軍務を扱います。ちなみに陸軍の侍従武官は阿南惟幾中佐でした。

 大臣、参謀総長、軍令部長などから突然に御拝謁の願い出があれば、陛下は早速に御許しになりました。重要な案件の場合には真夜中に上奏や報告が行われることもあります。

 陛下は何事も、その日のことはその日のうちに処理なされましたが、提出された書類の中に御疑問のあらせられる場合にはご下問なさり、御納得のいくまで御留置かれることも再々であられました。

 宮中の御祭典については誠に御丁重であられました。皇祖皇宗から御継承になられた日本を統治し、敬神崇祖の範を国民に垂れさせたまうのです。そのお姿を身近に拝見するたびに貫太郎は感激して言葉を失いました。宮中には大祭から小祭まで多くの御祭典があります。年間では六十ほどになります。そのいずれをも御親拝あらせられます。天皇陛下の日常とは、国家の安泰と臣民の幸福を御祈りすることでした。その御姿を拝見するにつけ、貫太郎は心底から湧き上がる感慨を抑えられません。

(日本は神国なり)

 御行幸の機会もたくさんあります。なかでも陸海軍特別大演習の行幸と地方行幸が大規模な年中行事です。陛下は御日程が過密でも天候が悪くても予定どおりに御敢行遊ばされました。大演習では雨に濡れることにも御躊躇なされませんでした。地方行幸には数万人の国民が集まり、その御親閲には数時間もかかります。その間、直立不動の御姿勢で敬礼を御受けになります。陛下は微動さえなさりません。

(軍人でもこうはいかない)

 貫太郎は陛下の御修養に感嘆しました。

 昭和天皇の御生活ぶりは質素であられました。衣服は何度でも洗濯して破れるまでご使用になり、御調度品は出来るだけ国産品を御使用になりました。腕時計も国産でした。御食事も御質素です。御朝食はオートミールとハムエッグ、御昼晩食もいわゆる一汁三菜の御献立です。

「無駄を省け」

 陛下はしばしば仰せられました。

 昭和天皇の御学識の広さと深さに貫太郎は、ただただ驚嘆するばかりです。政治、法律、経済、四書五経、歴史、地理、生物学、いずれの分野に関しても深い御造詣をお持ちでした。

 ある日、昭和天皇は侍従長の貫太郎に御声を御掛けになりました。

「天皇機関説は将来面倒になるね。あたかもルネッサンス当時の思想対立のような厄介な問題だよ」

 天皇機関説の新聞記事をお読みになってのご感想です。貫太郎には、その意味がよくわかりません。世間はまだ天皇機関説について何も騒いでいない時期です。その後、貫太郎は新聞記事を探し、世界史を読み返し、ようやくその意味を曖昧ながら理解できました。要するに旧教と新教の対立のことを仰せられたのです。

 ある日、貫太郎は陛下に伺ってみました。

「歴史はどのようにして御学び遊ばされましたか」

「歴史は白鳥博士(白鳥庫吉)から進講を受けた。箕作博士(箕作元八)の著書は全部見た」

 貫太郎も名前くらいは知っています。箕作博士の膨大な著作を思い浮かべ、貫太郎は呆然としました。また、ある日、陛下は侍従らに顕微鏡を御見せになりました。そこには何やらバイ菌のようなものが映っています。

「この粘菌が人工で出来るようになったら、おそらく医学は一変するぞ」

 こうおっしゃる陛下に対し、貫太郎は畏れ入るしかありません。後日、書庫の整理を仰せつかった貫太郎は、蓄積された書籍の膨大さに唖然としました。分厚い本が何冊も出てくるのです。

(凡百の政治家、学者、軍人などより陛下おひとりの方がどれだけ優れていられるか)

 まだ三十才の若き天皇に貫太郎は心からの信頼を寄せました。


 昭和六年、陸軍の特別大演習が熊本県で実施されました。昭和天皇御統監の下、十一月十二日から三日間にわたる演習が行われ、十五日の観兵式で演習は幕を閉じました。その日の午後からは熊本県内各地の地方行幸です。陛下は分刻みの行程で移動なさいました。沿道には切れ目なく奉送迎の民衆が詰めかけ、日の丸の小旗を振っています。八代、水俣、阿蘇、大津を御巡幸なされ、十八日には熊本市内での大御親閲式に臨まれました。十九日、御召列車で鹿児島へ移動され、親閲式に臨まれた後、鹿児島港第一桟橋より御乗艇になり、戦艦「榛名」に御乗艦あそばされました。この間、貫太郎は侍従長として常に陛下の御側近くに仕えました。

 戦艦「榛名」は排水量二万六千トン、三十六センチ主砲四門を備えた現役艦です。この日の任務は、御召艦となって今上陛下を鹿児島から横須賀までお送りすることです。艦尾の司令官室が陛下の御座所とされました。

 鹿児島県民の御奉送の歓声の中、戦艦「榛名」は日没とともに出港しました。鈴木貫太郎侍従長をはじめとする供奉員一同も艦内に落ち着きました。間もなく食事の時間となりました。供奉員は食堂に集まって食事をとりました。その中に、宮内省総務課長の木下道雄がいました。木下課長は行幸事務の主管者です。それだけに今日まで緊張し続けていましたが、まだ緊張を解いていません。木下課長は海の様子を気にしました。奉送の船が近くまで来ているのではないかと思ったのです。

(陛下は御食事中だからご無理だが、せめて自分が手を振るなりしよう)

 そう思った木下課長は早めに食事をすませると、後甲板へ向かいました。すでに日は暮れ、月もないので海上は暗く、甲板も薄暗い状態でした。木下課長は、誰もいないだろうと思っていましたが、後甲板にただ御一人、陛下がいらっしゃいました。陛下は右舷のハンドレール近くに直立なさっています。双眼鏡を御顔から降ろされると、真っ暗な海上に向かって片手を御挙げになり、誰やらに御挨拶なさっているようでした。

(?)

 木下課長は不審に思いました。右舷方向には薩摩半島があるはずですが、肉眼では何も見えません。付近に船もいません。木下課長は舷側に設置されている偵察用双眼鏡をのぞいてみました。夜空の手前に山の端が識別できました。しばらく目を凝らしていると、海陸の境目が徐々に鮮明になってきました。さらによく見ると遙か陸上には篝火が点々と焚かれており、たくさんの提灯が揺れています。海上はるかに進む御召艦に対する鹿児島県民の奉送です。

 木下課長は一切の事情をようやく了解しました。陛下は、はるか陸上の人々に御答礼なさっているのです。しかし、陸上からは戦艦「榛名」の燈火が二つ三つ小さく見えるのみであるに違いありません。

(陛下が陸上に向かって御答礼なさっていることを鹿児島の人々に伝える方法はないものか)

 一案がひらめきました。木下課長は艦橋へ上って艦長に依頼しました。

「探照灯をつけて欲しい」

 大胆な提案です。木下課長は事情を説明しました。艦長の園田実大佐は感激し、命令しました。

「探照灯!点火!」

 暗夜の鹿児島湾口に、突如、戦艦「榛名」の艦影が浮かび上がります。「榛名」は六基の探照灯を煌々と光らせました。探照灯の照射距離はおよそ六キロです。その光芒で夜空を掃き、鹿児島半島と大隅半島を撫でまわしました。真っ暗な海上に忽然と現れた御召艦の艦影と六本の光線の旋回を見た何千何万の奉送の人々は歓喜の声を上げました。

 貫太郎は、ちょうど食事を終えたところでした。木下道雄課長から事情を聞き、供奉員一同も感激しました。みな後甲板に出て探照灯の演舞を眺めました。この時代の天皇と国民との関係を物語る一挿話です。


 太平洋の平和を保証してくれるはずだったワシントン条約は、結果的に、欺瞞に過ぎませんでした。条約成立後、同条約の履行に最も熱心だったのは日本政府です。一方、条約を全く遵守しなかったのは中華民国です。支那大陸は軍閥割拠状態でした。そのため中華民国政府にはそもそも条約遵守能力がありませんでした。それぞれの支那軍閥は、蒋介石軍閥であれ、張作霖軍閥であれ、条約も国際法も守りはしませんでした。そんな状態が十年も続きました。このため煮え湯を呑まされ続けたのは日本です。日本政府は業を煮やし、アメリカ政府に訴えました。

「ワシントン条約はアメリカの主導で締結された。あれから十年、中華民国はまったく条約を履行しない。アメリカは中国に条約を遵守させるべく行動すべきである」

 日本政府の訴えに対しアメリカ政府はつれない返答をしました。

「各国は自由に行動する権利を有する」

 日本政府は絶句します。

(それなら条約など意味ないじゃないか)

 ワシントン条約遵守に対する米中二国のきわめて消極的態度が日本政府を変えました。激怒させたといってよいでしょう。列強諸国の欺瞞に気づいた日本政府は国際協調主義を捨て、自主外交路線へと舵を切ります。

 昭和六年九月、満洲事変が始まり、翌七年には満洲国が成立しました。これを日本政府は承認しました。さらに昭和八年、日本は国際連盟を脱退します。


 国内的には政府の経済失政が災いして不況となり、社会が不安定化し、暗殺事件が頻発しました。浜口雄幸、井上準之助、団琢磨、犬養毅などが暗殺されました。熱狂的な革命熱にとりつかれた左翼青年たちの心情は、たとえば昭和維新の歌に表現されています。しかしながら、この頃の日本には国難などありませんでした。昭和維新を希求した彼らの怒りの根源は、要するに経済不況と貧富の格差から来る様々な社会矛盾と、共産主義というイデオロギーです。

 昭和九年、麹町区三番町の侍従長官邸を三名の青年が訪ねてきました。このなかに陸軍将校安藤輝三がいました。貫太郎は三十分の約束で面会しました。彼らは昭和維新の理想を語り、政治革新の必要を訴えました。その内容は矯激です。元老、重臣、財閥、政党などを国体破壊の元凶とみなし、その排除を訴えたのです。そして荒木貞夫大将を総理大臣とする軍部中心の政府を樹立すべきだといいます。また、農村の疲弊を論じ、農村出身の兵たちは後顧の憂いを抱えており、いざというときに戦えないと訴えました。三名ともに真剣です。

(若いなあ)

 貫太郎は思います。真面目ではあるものの、思い込みが激しく、思想が幼稚です。世の中の一部しか見えておらず、流言蜚語に惑わされている様子です。貫太郎は論ずる気になりました。彼らの真剣味に打たれたからです。もちろん反論しました。

「そもそも軍人の政治関与は軍人勅諭で禁じられておる。軍隊というものは外国軍隊と戦うのが仕事であり、その軍が内政や治安維持をやっているようでは、いざという時に戦えないではないか。それは警察の仕事である。誰を総理大臣とするかは天皇大権に触れる事柄であって、軍人があれこれ言うべきではない。農村の救済は確かに必要だが、日本兵に限って後顧の憂いがあるから戦えないなどということはない。事実、ワシはこの目で見てきた。日清・日露の戦役では見事に戦ったぞ」

 侍従長の貫太郎と三名の青年は、昼食をはさんで三時間、大いに論じ合いました。三人の青年は納得した様子で帰りました。なかでも安藤輝三は、数日後に再び訪ねてきて揮毫を求めたほどです。

 安藤輝三は、上官には信頼され、部下には尊敬される立派な陸軍将校でした。兵にも家族にも優しい常識人であり、クーデターには最後まで反対していたようです。しかし、仲間に引きずられ、ついに決起しました。

 昭和十一年二月二十五日、鈴木貫太郎侍従長夫妻はアメリカ大使主催の晩餐会に出席し、夜十一時頃に官邸に帰宅しました。翌朝午前四時、熟睡していた貫太郎は女中に起こされました。

「いま兵隊さんが来ました。うしろの塀を乗り越えて入って来ました」

(ついにやったな)

 かねてから悪い噂を聞いていた貫太郎は直感的に何事かを感じとり、跳ね起きました。

(何か武器を)

 床の間の白鞘を払ってみると槍の穂先です。これでは闘えません。

(納戸に長刀があったはずだ)

 納戸に入ってあれこれ捜しましたが、見つかりません。ジタバタしているうちに兵隊に囲まれてしまいました。貫太郎は潔く八畳間に入り、電燈をつけました。三十名ほどの兵が着剣した歩兵銃を突きつけ、囲みます。その中から一人が進み出て言いました。

「閣下ですか」

「そうだ。まあ静かにしなさい」

 貫太郎は両手を広げて無防備であることを示し、兵隊たちひとりひとりの顔に視線を注ぎました。

「このようなことをするからには何か理由があるのだろう。その理由を聞かせてもらいたい」

 兵隊は無言です。何も知らないのでしょう。

「理由があるだろう。それを話しなさい」

 しかし、兵隊は無言です。

「何も理由がないということはあるまい。理由は何か」

 すると、ひとりの下士官が進み出ました。

「もう時間がありませんから撃ちます」

「それならやむを得ません。お撃ちなさい」

 貫太郎はまっすぐに立ちました。下士官ふたりがピストルを構えます。わずか三メートルほどの距離ながら一発目は外れました。二発目が股に当たり、三発目が左胸に当たりました。貫太郎は右腕を上にして倒れました。倒れた瞬間、頭と肩に銃弾が命中しました。血液が流れ出し、畳に広がっていきます。

「トドメ、トドメ」

 兵隊の中から声があがります。

「トドメはどうかやめていただきたい」

 そう言ったのは妻のタカです。そこに安藤輝三大尉が現れました。下士官は貫太郎の喉元にピストルを突きつけて言います。

「トドメを刺しましょうか」

「トドメは残酷だからやめろ」

 安藤大尉はどういうつもりだったのか、妙な号令をかけました。

「閣下に対して敬礼。折り敷け!捧げぇー、筒!起てい。引き上げ」

 兵隊を引き上げさせた安藤大尉は、タカに近づいて言います。

「あなたが奥さんですか」

「そうです」

「奥さんのことはかねがね聞いておりました。まことにお気の毒なことをいたしました」

「どうしてこんなことになったのです」

「我々は閣下に対して何も恨みはありません。ただ日本の将来について我々と閣下とは意見を異にするため、やむを得ずこういうことにたち至ったのであります。我々の目的は国家改造のため元老、重臣、財閥、政党など君側の奸を除くにあります。そして真崎甚三郎大将を総理に仰ぎ、荒木貞夫大将を関東軍司令官となし、大義を正し、国体を擁護いたします」

「あなたはどなたですか」

「安藤輝三。暇がありませんから、これで引き上げます」

 兵隊は去りました。タカは貫太郎に応急の止血をし、宮内省に電話して事の次第を話し、侍医の来診を依頼しました。タカは懸命の止血に努めます。間もなく湯浅倉平宮内大臣が見舞いに訪れました。

「私は大丈夫でありますから、どうか陛下にはご安心いただくように申し上げてください」

 貫太郎が話すと血が容赦なく流れ出します。

「もう口をきいちゃいけません」

 タカが忠告しました。小一時間ほどすると塩田広重博士が駆けつけてくれました。

「私が来たら大丈夫だ。安心しなさい」

 塩田博士は陽気に声を上げましたが、部屋に入った途端、血糊に足を滑らせて転倒しました。

「包帯はないか」

「ありません」

「何でもいい。白い布はないか」

 白い反物を包帯がわりにして止血しました。貫太郎の意識は朦朧とし始めます。寒さが身にこたえました。この日、雪が降っています。加えて大量の出血です。稲垣長治郎博士と吉田真博士も駆けつけてくれました。医師たちは怪我人を動かすことをためらいましたが、血の海に置きっ放しにもできません。すぐそばの床の間へ移すため、貫太郎の大きな身体を持ち上げました。そのとき貫太郎の意識が飛び、脈が消えました。


 ニ二六事件は日本の中枢機能を麻痺させました。政府要人は銃弾に倒され、陸軍中枢は迷走しました。政府と統帥部が機能を停止したのです。大日本帝国はじまって以来の不祥事です。昭和天皇は果断に御親裁なされました。

「速やかに事件を鎮圧せよ」

 にもかかわらず陸軍は遅疑逡巡しました。叛乱軍に同情的な意見が多く存在していたからです。陛下は御意志を繰り返し御表明なさいました。

「自分が頼みとする大臣達を殺すとは。こんな凶暴な将校共に許しを与える必要などない」

「私が最も頼みとする大臣達を悉く倒すとは、真綿で我が首を締めるに等しい行為だ」

「陸軍が躊躇するなら、私自身が直接近衛師団を率いて叛乱部隊の鎮圧に当たる」

 昭和天皇の再三の御叱責により、陸軍の方針はようやく定まり、事件の沈静化をみました。


 貫太郎は十日間の絶対安静状態の後、命をとりとめました。六十代後半の老体は四発の命中弾によく耐えました。左胸に命中した一弾は心臓をかすめて背中でとまっていました。頭に当たった一弾はこめかみから耳の後ろに抜け、脳には損傷がありません。不思議なほどの幸運です。

(なかなか死なないものだ)

 貫太郎は我がことながら不思議の感に打たれました。安藤輝三大尉がトドメを刺さなかったこと、タカの献身的な止血、医師団による迅速な輸血、何一つ欠けても貫太郎は死ぬべきはずでした。峠を越えた後、身体はゆっくり回復していきました。宮中からは滋養のための食物が下賜され、全国から励ましの手紙が届きました。

 貫太郎は五月に退院し、侍従長の仕事に戻りました。九月の海軍特別大演習、十月の陸軍特別大演習に供奉しました。そして、十一月、自らの意志で侍従長を辞任しました。

 これより前、貫太郎は昭和四年から枢密院顧問官を兼務していましたが、侍従長を辞任した後は枢密院の仕事に専念するようになりました。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ