表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/14

海軍人生

 関宿(せきやど)藩は下総(しもうさ)国にありました。利根川舟運の中継地として栄え、幾多の老中を輩出してきた譜代の小藩です。その関宿藩は遠く上方の和泉(いずみ)国に飛び領を持っています。その飛び領の代官に任命されたのは鈴木為之助(ためのすけ)由哲(ゆうてつ)です。

 時は元治元年、すでに幕末の混乱期でした。水戸、江戸、京、長州などは騒乱の坩堝(るつぼ)と化していましたが、下総国も和泉国はまだ平穏です。

「泉州の者はうまいことをした。為之助さんが代官になった」

 そんなふうに関宿藩の領民は噂しました。まだ三十歳を過ぎたばかりながら鈴木由哲は善政の代官として関宿の領民に知られていたのです。


 和泉国久世村伏尾の陣屋に入った鈴木由哲はさっそく領内を巡視しました。この時代、米が最重要作物であったことは言うまでもありません。また和泉国は木綿の産地でもありました。木綿は藩財政にとって貴重な換金作物です。昨今の作柄を庄屋に説明させながら田畑の様子を見て歩く鈴木由哲の後ろには、たくさんの従者がぞろぞろと付き従って行列を成しました。お代官様の巡視ともなれば、百姓たちは農作業の手を休め、道端に土下座しなければなりません。

 そのとき事件が起こりました。あわて者の百姓が土下座するときに肥桶をひっくり返してしまったのです。肥の飛沫がお代官様の袴を汚してしまいました。その場に居あわせた全員が凍り付きました。失態を犯した百姓は首を斬られても不思議ではありません。

 鈴木由哲は大柄で、見るからに武辺者です。無礼者の百姓を一刀両断するのは容易です。当の百姓は土下座したまま口もきけずに身体をガクガク震わせています。皆が息を呑みましたが、新来のお代官様は黙って畦道の脇の小川で汚れを洗い流しました。

「きれいになったからよろしい。心配するな」

 鈴木由哲はそんな男でした。


 和泉国に赴任して五年目の正月、由哲に長男が生まれました。貫太郎(かんたろう)です。長男の誕生は鈴木家にとって慶事でしたが、世は混沌としています。貫太郎が生まれて十日も経たぬうちに鳥羽伏見の戦いが始まりました。戦場はやがて大阪に移り、長州藩兵が大阪城に殺到しました。城内に火が放たれ、鴫野(しぎの)火薬庫が大爆発しました。その振動は久世村の陣屋の障子をも震わせました。

 幸い久世村は戦禍を免れました。翌年、鈴木一家は江戸へ向けて東海道を上りました。すでに貫太郎は歩けるようになっています。道中、貫太郎は駕籠に乗ったり、父の乗る騎馬の鞍に乗ったりしました。貫太郎は馬を怖がりませんでした。ある宿場では厳めしい顔をした官軍兵士と同宿になりましたが、貫太郎はやはり怖がらず、強面の官軍兵士たちに可愛がられました。旅は順調でした。大井川の川止めに遭うこともなく、島田に至りました。海の見える松並木の宿場で昼飯をとることになりました。駕籠が地面に降ろされると貫太郎は飛び出しました。目に映る総てのものが幼児には珍しいようです。街道の向こう側に、たくさんの(まゆ)が天日干しされていました。その白い光に惹かれて貫太郎はトコトコ街道を横切ろうとします。そこへ悍馬が足掻きつつ突進してきました。皆がハッとします。ヨチヨチ歩きの貫太郎は無邪気に地べたに転んでいます。その貫太郎を悍馬が踏みつぶすかに見えました。が、馬は貫太郎をよけて駆け去りました。

 その晩、藤枝宿に泊まった由哲は大きな(ぶり)と酒を奮発し、長男の無事を祝いました。その後、道中は無事に過ぎ、鈴木一家は江戸小石川の関宿藩下屋敷に落ち着きました。

 明治五年、一家は関宿に移りました。貫太郎は悪戯ざかりの腕白少年になっていました。同年配の子供たちよりも身体が大きく、元気に遊び回りました。ただ、貫太郎には奇妙な泣き癖がありました。わけもなく大声で泣くのです。貫太郎の泣き声は驚くほどに大きく、遠くにまで届きました。

「お宅の貫ちゃんが泣いていますよ」

「あら、ほんとに」

 外出中、母のキヨは人から注意されることがしばしばです。急いで家に帰ると貫太郎が泣いています。

「どうしましたか」

 問いただすと貫太郎はケロリと泣き止みます。そして、母の姿が見えなくなるとまた泣くのです。幼児というものは論理的思考ではなく感覚的思考をするようです。貫太郎が悪戯をすると、キヨは叱ります。

「あまり悪さをすると川崎に帰ってしまうよ」

 川崎というのは下野国足利の在所で、キヨの里です。母の姿が見えなくなると、貫太郎は感覚的に母が里へ帰ってしまったのだと思い込み、それで悲しくなって泣くようでした。幼児にとって母親を喪失するほど巨大な悲哀はありません。だから貫太郎は、この世の終わりとばかりに大声で泣きました。しかし、眼前にキヨが現れると安心して泣き止みます。

 そんな泣き癖もいつしか直りました。明治六年、貫太郎は久世小学校に入学しました。この頃の小学校は八年制です。課業は読物、算術、習字、書取、問答、体操です。本をたくさん読むことが奨励されていました。貫太郎は学年が上がるごとに読書のペースを上げ、やがて一日一冊のペースで乱読するようになりました。特に熱中したのは十八史略です。

 勉強ばかりしていたわけではありません。貫太郎は利根川の河原や堤防や用水路で遊びました。豊かな自然は子供にとって格好の遊び場です。季節に応じて変化する大利根の自然は子供を飽きさせることがありません。ある日、貫太郎は友達と釣りをしていました。圦樋(いりひ)という用水路の水門で釣りをしていたのですが、そこから落ちました。水深が深く、まだ泳ぎ方を知らなかった貫太郎は懸命に犬かきをして岸にたどり着きました。友達が貫太郎を引っ張り上げてくれました。しかし、ビショビショに濡れた衣服のまま帰れば溺れたことが母にわかってしまいます。皆で貫太郎の着物を絞ったり、バタバタさせたりし、何とか生乾きくらいにしました。しかし、母の目を誤魔化すことはできず、大目玉を食らいました。


 明治の大改革は、武士の生計を根底から崩壊させました。鈴木由哲とて例外ではありません。明治十年、家族を養うために由哲は群馬県庁に奉職しました。職にありつけたことは幸運でした。しかしながら、かつては名代官として行政を指揮したことさえある由哲にとって、県庁属官という仕事は退屈であり、ときに屈辱的でさえありました。県庁人事は地元閥によって牛耳られていました。余所者の由哲にどれほどの実力があっても出世とは無縁です。

 由哲の群馬県庁奉職に伴い、一家は関宿から前橋に移りました。貫太郎は桃井小学校へ転校しましたが、そこではお決まりの苦難が待っていました。転校生は余所者です。江戸時代の日本人にとっては藩こそが国でした。ですから郷党意識が非常に強かったのです。そんなところへ余所者が入っていけばどうなるか。いじめられるだけです。貫太郎は、仲間はずれにされたり、馬鹿にされたり、喧嘩を吹っかけられたりしました。それでも貫太郎は喧嘩をしませんでした。貫太郎はおっとりした性格でしたし、その大きな体格が抑止力になっていました。いじめっ子にしてみれば、いじめ甲斐がありません。

 ある朝、父子は一緒に家を出ました。父が先を歩き、貫太郎が後ろに続きます。しばらく歩くと、由哲が後ろの貫太郎に声をかけました。

「人間は怒るものではないよ。怒るのは自分の性根が足らないからだ。短気は損気ということがある。怒ってすることは成功しない。自分の損になるばかりだよ」

 由哲は、県庁内で冷遇されている自分自身に言い聞かせたのかも知れません。この言葉は同じ境遇の貫太郎の脳裏に深く刻み込まれ、生涯の教えとなりました。貫太郎は、いじめられても挑発されても相手にしません。そうかといって逃げもしないのです。

(今に見ろ)

 心の中でつぶやき、戦う姿勢だけを見せました。貫太郎に仲の良い友達が出来るまでに二年ほどもかかりました。

 明治十四年、貫太郎は利根中学校に入学しました。中学時代の貫太郎は、日本外史や日本政記などの歴史書に惹かれました。英語にも力を入れました。しかし、この頃の英語教師は辞書と首っ引きで逐語訳をするのがやっとです。会話はまったく上達しませんでした。

「医者になれ」

 中学生になった貫太郎に父の由哲はしきりに言いました。貫太郎の学業成績は良好です。由哲は長男に期待をかけたのです。しかし、貫太郎は医者に興味がありませんでした。何となく海軍にあこがれていました。

(海軍に入れば外国に行ける)

 新聞記事を見てそう思っていました。その曖昧なあこがれは徐々に決意となって固まっていきました。中学校の掲示板に海軍兵学校生徒募集の告示が出ました。貫太郎は由哲に相談します。

「海軍兵学校に行かせてください」

「お前は惣領だし、医者にするからダメだ」

 お許しは出ませんでした。一年後、再び頼んでみましたが、やはりダメでした。ところが、その年の秋、由哲の方から貫太郎に声をかけました。

「お前まだ海軍に入りたいか」

「はい」

「そんなに入りたければ入ってよい」

 由哲はついに許しました。由哲が子供たちのために捻出してやれる学費には限りがあります。学費無料の海軍兵学校へ貫太郎が行くなら、乏しい資金を弟妹たちに使ってやれます。そんな考えだったようです。

 貫太郎は大いに喜び、さっそく中学校で退学の手続きをとりました。上京して海軍兵学校の予備校に入るのです。友達はみな反対しました。

「海軍は薩摩の牙城だ。出世できないぞ」

「そもそも入学できるものか」

 事実、明治政府は薩長藩閥によって牛耳られています。だから海軍も同じことだと誰もが想像していました。しかし、貫太郎は反論します。

「そんなことはない。いやしくも天下に公募している以上、知力体力さえ優れていれば入学できるはずだ」

 その年、貫太郎は芝新銭座の近藤塾に入塾しました。塾の創設者は幕末の海国主義者近藤真琴です。またの名を攻玉塾といい、航海測量操練所とも呼ばれます。ここは日本初の海員養成機関であり、海軍兵学校の予備校として有名でした。塾生は千名を超えていました。近藤塾では英語、数学、漢学、航海術を学びました。

 六ヶ月後、貫太郎は海軍兵学校の入学試験を受け、見事に合格しました。狭き関門をくぐり抜けたのです。明治十七年九月、鈴木貫太郎は築地海軍兵学校へ入校しました。まだ十六才の貫太郎はつい得意になりました。

(大将になってやる)

 勇んで入校したものの、規律、訓練、学科など課業のすべてが貫太郎の想像を絶するほどに厳しいものでした。

(少佐、いや大尉になれればいい)

 内心舌を巻きました。貫太郎はどこか暢気です。海軍兵学校には褒賞制度があり、学術優等あるいは品行善良な学生には褒賞が授与されます。しかし、貫太郎は欲しいとも思いませんでした。

 明治二十年七月、鈴木貫太郎は海軍兵学校を卒業しました。同期の卒業生は四十三名です。卒業生は少尉候補生となり、遠洋航海に出ます。乗艦したのは軍艦「筑波」です。「筑波」は明治四年にイギリスから購入した蒸気帆船で、すでに老朽の木造艦です。全長は五十八メートル、最大速度は十ノット、大砲九門を搭載しています。「筑波」は九月四日に品川湾を出ました。

(海軍に入れば外国に行ける)

 少年の夢がいよいよかなうことになりました。ところが沖に出るにつれて海が荒れました。貫太郎は船酔いに四苦八苦しました。ほかにも四、五名が船酔いで顔色を失っています。艦長の野村貞中佐は、少尉候補生に総員集合をかけ、気合いを入れました。

「こんな静かな海上で船酔いするとは何事か。意気地がないから船酔いするのだ」

 しかし、こればかりはどうしようもありません。貫太郎は気力で船酔いを克服しようと気張ってみますが、数秒後には嘔吐してしまいます。その様子を見た野村艦長は、先の叱責を忘れたように笑って励まします。

「どうだ、苦しいか。すぐに慣れてよくなるよ」

 野村貞中佐は旧長岡藩士です。戊辰戦争では負傷をものともせずに勇戦し、体内には弾丸がなお残っています。この後、巡洋艦「高千穂」の艦長として日清戦争に従軍し、黄海海戦で武勲を挙げます。

 貫太郎が船酔いを克服するまでに二週間かかりました。「筑波」はなお太平洋上を航海し、三十七日目にサンフランシスコに入港しました。以後、サンディエゴ、アカプルコ、パナマに寄港しました。アメリカの繁栄に比較して、メキシコの退廃ぶりが目立ちました。この頃、まだパナマ運河は通じていません。運河開削工事は中断していました。マラリアが猖獗して労働者がバタバタ倒れていたからです。その多くが支那人の苦力でした。そのためパナマでの上陸はマラリア蚊のいない午前中にのみ許されました。その後、タヒチ、ハワイに寄港しました。この頃のハワイは、ハワイ王国という独立国でした。日本人移民のほか、アメリカ人移民がたくさん住んでいました。アメリカ人は日本海軍士卒の行動を面白がり「バナナ士官と洗濯水兵」と揶揄しました。確かに日本海軍の士官は安価なバナナをよく買って食べたし、水兵は川に大量の洗濯物を持ち込んでよく洗濯しました。ハワイはなにしろ暑い。清潔好きの日本人は洗濯せずにいられません。貫太郎は仲間とともにアイスクリームをたくさん食べて酷暑をしのぎました。やがて明治二十一年七月六日、「筑波」は品川へ帰港しました。ほぼ一年の遠洋航海でした。


 海軍士官の勤務先は転々と変わります。貫太郎の乗艦は、「天龍」、「高千穂」と変わり、明治二十二年六月、少尉任官と同時に「天城」乗艦を命ぜられました。「天城」には三ヶ月ほど勤務しましたが、その間に危うく死にかけるという災難に遭いました。

 「天城」は横須賀海軍工敞で建造された国産の木造蒸気帆船です。「天城」は、武豊港に入港する際、迂闊にも座礁してしまいました。このため艦底を浮かさねばならなくなりました。簡単な方法は艦を軽くすることです。

「錨を外して運搬せよ」

 そう命ぜられた鈴木貫太郎少尉は水兵を指揮し、二艘の短艇で錨を海中にぶら下げながらゆっくり「天城」を離れました。十分に離れたところで錨を海中に投ずるのですが、この作業が危険でした。重い錨を二艘の短艇で吊り下げています。同時に離さねばなりません。ピンを外せば綱が滑って錨が海中に落ちる仕組みになっています。

「いいか、一、二の三、それっ」

 二艘同時にピンを外しました。ところが、二艘とも綱が外れません。なんとも間抜けなことです。仕方がないので斧で綱を切ることになりました。二艘でタイミングを合わせて斧を振り下ろしました。すると、片方の短艇の綱だけが切れました。錨が勢いよく海中に落下し、綱の切れなかった短艇もろとも鈴木少尉は水没しました。同じ短艇に乗っていた水兵は機敏に海に飛び込んで難を避けましたが、貫太郎は短艇内に座り込んでいたため逃げ遅れました。貫太郎が気づいたときには水深十メートルほどの海中にいました。錨に引かれて沈んだ短艇はやがて浮き上がり始めます。貫太郎はそれにつかまって海面に浮き上がりました。士官服を着て、靴を履き、指揮刀まで吊っていましたから思うように泳げません。首だけ海面に浮かんでいるところを、もう一艘の短艇に助けられました。

 そんな苦労の甲斐あって「天城」の船体は浮き上がり、無事に武豊港に入港できました。その夜、貫太郎は名古屋でやけ酒を大いに呑みました。

 次に貫太郎が乗艦したのは巡洋艦「高雄」です。「髙雄」は進水したばかりの最新鋭鋼鉄艦です。また、記念すべき国産巡洋艦第一号でもありました。全長七十メートル、最高速度十五ノット、排水量千八百トン、艦砲六門と魚雷発射管二門を装備しています。艦長は山本権兵衛大佐でした。のちに明治海軍の建設者となる山本権兵衛から受けた数々の薫陶は、貫太郎にとって生涯の思い出となります。

「相撲をとったら鈴木には負けそうだ」

 大柄な山本艦長は、やはり大柄な貫太郎に目をかけてくれました。もちろん貫太郎だけを見ているわけではありません。山本艦長は総ての乗組員を実によく見ており、また艦内の出来事を実によく知っていました。そして、時に即し、事に応じて一声かけます。その一言が部下の心をつかむのでした。

「高雄」が大阪に入港した際、大阪砲兵工廠の見学が下士官に許されました。上陸人数には限りがあるのでクジ引きになりました。貫太郎はクジに当たりましたが、以前に見学したことがあったので上陸を人に譲りました。このあたり貫太郎には欲がありません。

 その後、朝鮮半島の京城で撤桟事件が起こったため、「高雄」は仁川に入港しました。山本権兵衛大佐は上陸し、高平小五郎代理公使と共に支那公使袁世凱との談判に臨むこととなりました。艦長の随行者一名がクジ引きで決められました。当たったのは貫太郎です。

「お前は正直者だからよく当たる」

 山本艦長はそう言って笑いました。貫太郎のクジ運の良さまで知っていたのです。貫太郎は感服しました。

(統率とは、こういうことか)

 勇ましいばかりが統率ではなく、繊細な心配りと緻密な観察眼こそが統率の要諦だと知りました。ユーモアも大切です。山本艦長はときどき若い者を四、五名連れて遠足をし、その帰りに食事を鱈腹食べさせました。艦内では煙草盆を囲んで様々な訓話をしました。

 ある日、山本権兵衛大佐は倹約論をぶちました。山本大佐の倹約論はすでに海軍内で有名です。山本権兵衛が中尉だった頃、山本中尉は海軍建設のために様々な意見を建白し、上司に遠慮なく意見をぶつけていました。若かったせいもあり、無遠慮に建白したため、時の海軍卿の不興を買ってしまいました。山本中尉は待命を仰せつけられました。待命とは、仕事を取り上げられ、給料を三分の一ほどに減らされることです。こんな状態が半年も続いたため山本家の家計は困窮してしまいました。米櫃に残った米をすくいながら山本中尉は考えました。

(なんたることだ。海軍のためを思って意見をすれば首を切られる。かといって首を恐れて何も言わないなら木偶の坊に等しい。木偶の坊は良いとしても海軍はどうなる。俺は海軍で一生を終わるつもりだ。海軍建設のためには上司の威を恐れず、どしどし意見を具申せねばならぬ。それにはいつ首を切られても半年くらいは平気なように平生からの用意が要る)

 以来、山本権兵衛は倹約家になり、部下にも頻りに倹約を勧めました。それは貯蓄のためではなく、意見具申のため、つまり海軍建設のためでした。「高雄」艦上で山本艦長は語りました。

「浪費するな。自分も若い頃は酒を飲んだが、それはいかん。自分の説を主張するには内に後顧の憂いがあってはならない。海軍を辞めろと言われたら、いつでも辞めるという覚悟がなければならない。そのためには日頃の倹約が大切じゃ」

 しかし、元気の良い部下は反論しました。

「待ってください。艦長、重要な意見が通らず、そのうえ辞めさせられては元も子もないではありませんか」

「それもそうだ」

 一同、哄笑となりました。部下の意見に山本艦長は寛大でした。ただし、規律には厳しく、艦内規則を厳守させ、日誌を毎日書かせました。書かない者には上陸を許しませんでした。


 そんな山本権兵衛大佐に貫太郎は希望を述べたことがあります。

「水雷教育に応募したいのであります」

「水雷?そんなところをなぜ希望するか」

「はっ」

「理由がはっきりせぬと取り次がぬぞ」

「はい。海軍で使う武器は何でも知っておかねばならぬと思います」

「それならば宜しい」

 山本権兵衛大佐は、鈴木貫太郎少尉の希望を容れてくれました。明治二十三年十二月、貫太郎は横須賀の水雷練習艦「迅鯨」に乗艦しました。この時期、日本海軍にはまだ水雷学校も砲術学校もありません。練習艦がそのまま学校です。「迅鯨」は明治九年に進水した国産の木造外輪船です。外航用御召艦として設計されましたが、今では水雷練習艦として利用されています。

 水雷といえば、この時代の海軍の最新兵器です。喫水線下で水雷が爆発すると、軍艦の土手腹に大穴が空き、どんな大艦でも轟沈してしまいます。艦載砲の砲弾よりも威力があります。ただし、敵艦に水雷を命中させるのが難しいところでした。

 水雷には機雷と魚雷があります。機雷は、機械水雷の略称です。軍港の港口や外縁部などに敷設して敵艦の侵入を防ぎます。敵艦がこれに触れれば大爆発を起こして沈没するでしょう。一方、魚雷は魚形水雷の略称です。魚雷は圧縮空気の推進力によって水中を進みます。敵艦に命中すれば致命傷を与えます。問題は、魚雷の自航推進装置の性能が未発達だったことです。魚雷の有効射程は五百メートルほどに過ぎませんでした。数キロ以上の射程距離を有する戦艦に水雷艇が五百メートルまで接近するには決死の覚悟が必要です。その意味で水雷艇は本質的に命がけの肉薄兵器でした。

 水雷は精密な電気機器ですから、これを取り扱うためには電気工学の基礎知識が不可欠です。「迅鯨」では機雷および魚雷の工学的理解、調整および修理方法、機雷敷設法、魚雷発射管の操作方法、機雷敷設法、掃海法、探海法、防材除去法、装薬法、試験法、外装網設置法などが教えられました。

 水雷教育は七ヶ月ほどで終わり、明治二十三年八月、鈴木貫太郎少尉は「鳥海」への乗艦を命ぜられました。「鳥海」は明治二十年に進水したばかりの国産鋼鉄艦です。全長四十七メートル、排水量六百トンの小型艦で、船種は砲艦です。任務は朝鮮警備でした。

 この警備任務は、貫太郎に初めての失望を味あわせました。とにかく退屈なのです。警備といっても何が起こるわけではありません。単調な警備活動が毎日毎日くり返されるうち、どうしても艦内には惰気が生じます。緊張感を失うと、もともと船に弱い体質の貫太郎は船酔いに悩まされるようになりました。気分を変えるために艦内で碁を習ったり、仁川沖の月尾島に上陸して部下と相撲をとったり、苦手な酒を飲んでみたりしましたが、どうにもなりません。狭い艦内に閉じ込められていると大声で喚きたくなります。貫太郎にとって試練の時でした。怠け癖を身につけてしまえば立ち直るのは難しいものです。これはこれで緩慢な危機です。

(本でも読むか)

 幸い、貫太郎は読書の習慣を身につけていました。まず、海軍兵学校時代のテキストとノートを読み返しました。次いでコロム著「海戦論」、マハン著「海上権力史論」、マコーレー著「フレデリック大王」等を読みました。さらに「七書正文」という漢文の本も読みました。これは孫子、呉子など古代支那の兵書を集めたものです。古今東西の兵学書を読むうち、貫太郎の心中にひとつの問題意識が生まれました。

(艦隊の戦闘陣形はどうあるべきか)

 海戦では、それぞれの軍艦がそれぞれに目標を定め、それぞれ個別に敵艦を撃つのが当時の常識でした。陸上戦術に比較して海上戦術は未熟だったのです。したがって、貫太郎の問題意識は時代の最先端だったと言えます。

 こののち日本海軍は日清日露の戦勝によって単縦陣の有効性を証明することになります。戦艦戦隊の単縦陣は砲弾の集中性と艦隊の運動性において優れています。日本海軍の勝利がそれを実証したのです。しかし、この明治二十四年の段階では、まだ何もわかっていませんでした。そもそも艦隊が組織的に運動し、組織的に射撃すること自体が珍しかったのです。

 貫太郎は、自分で設定した研究課題に自主的に取り組みました。暇にまかせて考え続け、ある程度に考えがまとまると、それを原稿用紙に書き出してみました。二十頁ほどの論文になりましたが、とりあえず発表するあてはありません。

「鈴木少尉は勉強ばかりしている」

 やがて艦内に評判が立ち、勉強を教えて欲しいという下士官兵が現れました。海軍内には様々な訓練機関があります。訓練を修了すれば手当が付くし、昇進にもなります。しかし、訓練機関に入るためには試験に合格せねばなりません。貫太郎は時間を決めて数学を教えたり、作文の講習を行ったりしました。


 明治二十五年十二月、貫太郎は大尉に任官しましたが、さらに一年間、砲艦「鳥海」での単調な警備任務が続きました。

 明治二十六年十一月、鈴木貫太郎大尉は横須賀水雷隊攻撃部艇長に補せられました。単調な警戒任務からは解放されましたが、新しい乗艦は「鳥海」よりもさらに小さい第一号水雷艇でした。

 第一号水雷艇は日本海軍が初めて保有した水雷艇です。英国ヤーロー社製で、明治十四年に就役しています。全長三十メートル、排水量四十トン、速力十四ノットです。兵装は機関砲一門、単装魚雷発射管一基です。

 今に残る写真で見ると第一号水雷艇はずいぶん不格好な軍艦です。艦橋がなく、二本の煙突が唐突に突っ立っています。丸太のような魚雷発射管が前部に横たわっています。防弾設備は全くありませんでした。後部に機関砲があるおかげで、かろうじて軍艦とわかります。この時期、日本海軍は二十四隻の水雷艇を保有していましたが、どれも似たような形状です。

 水雷艇の一号から四号までは英国製の三等水雷艇(排水量四十トン)であり、すでに老朽艦です。五号から九号までは仏国製の三等水雷艇(排水量五十四トン)で、一年前に就役したばかりです。十一号艇からようやく国産となり、二十三号艇まであります。このうち二十一号艇だけが二等水雷艇(排水量八十トン)で、他の十二隻は三等水雷艇(排水量五十四トン)です。このほか一等水雷艇(排水量二百三トン)が一隻あり、この艇にだけ「小鷹」という名が付けられています。「小鷹」は英国製で、全長五十メートル、機関部舷側には装甲が施され、機関砲二門、魚雷発射管二門を装備しています。

 鈴木貫太郎大尉が第一号水雷艇に乗り組んで間もない明治二十六年十二月、横須賀水雷攻撃部所属の水雷艇十二隻は東京湾を航行し、千葉沖に停泊しました。素晴らしく良い天気だったので留守要員を残して乗員は上陸しました。ところが、夜九時頃から猛烈な風が吹きはじめ、海は大荒れになりました。

 艇内に残っていた貫太郎は、錨を上げさせ、蒸気を焚かせ、沖へ艇を出しました。僚艇との衝突を避けるためです。適当なところで錨を降ろし、夜を徹して懸命に操船し続けました。小さな水雷艇は揺れに揺れましたが、こんな時にはかえって船酔いしないものです。僚艇の中には沈没したものもありましたから、最老朽艇が沈没を免れたのは貫太郎の手柄といってよいでしょう。

 年が明けると貫太郎は第六号艇の艇長になりました。六号艇はフランス製の新鋭艦で一号艇より一回り大きく、速力は二十ノット出せます。兵装は速射砲一門、魚雷発射管二門です。

 春、横須賀鎮守府の演習が実施されました。貫太郎の第六号艇は横須賀湾口を警戒していました。夜に入ると敵方の砲艦「天城」が湾内偵察のため近づいてきました。貫太郎は巧妙かつ果敢に肉薄し、「天城」が艦砲を発射するより早く魚雷を発射しました。演習ですから魚雷の代わりに火箭信号を上げます。「天城」は撃沈と判定されました。

 翌日、第六号艇は走水港での伏艇を命ぜられました。伏艇とは、港内に潜み、沖合に敵艦を見つけたら襲撃するのです。ところが第六号艇は港内で座礁してしまい、敵襲どころではなくなりました。艇体を損傷しないように支え、次の満潮を待つうち、敵艦は通過していきました。

 六月、第六号水雷艇は汽罐に故障を起こしてしまいました。このため神戸で修理することになりました。水雷艇の汽罐修理ができるのは神戸の小野浜造船所だけだったからです。横須賀から神戸まで応急修理を繰り返しながらヨタヨタと航海しました。浦賀、下田、五箇所、串本、田辺を経て、なんとか小野浜にたどり着きました。ここでボイラーチューブを入れ替え、第六号水雷艇の汽罐は復旧しました。

 その後、第六号水雷艇は佐世保で魚雷を受け取りました。すでに日清両国の緊張が高まっていたこともあり、鈴木貫太郎大尉は佐世保港内での魚雷の試射を願い出ました。ところが許可が下りません。普段は鷹揚な貫太郎ですが、頑固なときは頑固です。

「どうしてもやらせてください。試射もせずに実射はできません」

 何度も粘ったあげく、ついに許可が下りました。魚雷には一本一本に固有の偏斜角があり、まっすぐに発射したつもりでも左右どちらかに曲がっていきます。その癖を事前に把握しておかねば、実戦で発射したところで敵艦には命中しません。

「まず三百メートルから」

 有効射程五百メートルといわれていますが、貫太郎の実感では三百メートルまで接近しないと命中は難しいと思われました。ちなみに試験発射した魚雷は回収して再利用します。魚雷という最新兵器は実に高価なものです。使い捨てにはできません。魚雷を喪失しないように細心の注意を払いながらの試験です。

 明治二十七年七月二十一日、第六号水雷艇は対馬警備任務に就きました。貫太郎は常備艦隊への編入を希望しましたが、こればかりは命令ですからどうしようもありません。退屈な警備任務に従事するうち、日清戦争が始まりました。七月の豊島沖海戦、九月の黄海海戦、ともに日本海軍の勝利です。第六号水雷艇には出番がありませんでした。艇内の誰もが功名に逸りました。

「戦争に行きたい」

 今日では信じがたい感覚ですが、この時代の将兵は戦争に参加して国家に貢献したいと本気で望んでいました。戦線に投入されていく僚艦を見送るたびに貫太郎は唇を噛みます。

 同じ頃、佐世保港の警戒任務にあたっていた第十九号水雷艇も同じ境遇でした。艇長は、貫太郎と海軍兵学校同期の岩村俊武大尉です。岩村大尉は、後に、自伝「馬鹿鳥の声」に書いています。

「余はその当時水雷艇の一少壮士官として佐世保に居た。まわりが騒がしくなるにつれて、戦争に行きたくて、むずむずして来た。いろいろ司令にせびりなどしたが、なかなか出征さして呉れない。そのうち我が艦隊は舳艪堂々佐世保港に集合して、そこから出征の途に就いた。なさけない哉、余等は留守番にまわされて、佐世保港口警戒という、それでも戦闘作業には違いないが、一向に面白くもない、軍人としては実に気の利かない仕事に日を暮らしていた」

 貫太郎も同じ気分でしたが、十月二日、第六号水雷艇はようやく連合艦隊に編入され、佐世保から朝鮮半島の大同江に向かうことになりました。

 大同江は朝鮮半島第五の大河であり、平壌を通って黄海に注いでいます。日本海軍の主力がここに集結しています。水雷艇隊の集結地は大同江の漁隠洞錨地です。水雷艇は第一水雷艇隊、第二水雷艇隊、第三水雷艇隊に編成されていました。貫太郎の第六号水雷艇は第三水雷艇隊に属しています。第三水雷艇隊司令は安田八束大尉です。ちなみに岩村俊武大尉の第十九号水雷艇も同時期に第二水雷艇隊に編入されています。

 この大同江で鈴木貫太郎大尉は巡洋艦「秋津島」の艦長上村彦之丞大佐を訪ねています。「秋津島」分隊長の永田廉平大尉は貫太郎の義弟ですが、黄海海戦の際に大孤山沖で戦死していました。生前の義弟が世話になったことを貫太郎は御礼申し上げました。

「よく来た」

 上村大佐は歓待してくれました。双方、儀礼的な挨拶を丁寧に行った後、時事問題に話題を転じます。

「大連湾の掃海問題をどう思うか」

 水雷の専門家たる鈴木大尉に上村大佐は尋ねました。ここ数日、大連湾の掃海を水雷艇隊が行うべきか、それとも連合艦隊が行うべきかで論争になっていたのです。貫太郎は明解に答えます。

「日常の訓練では掃海作業は艦隊側の短艇で行うことになっております。今にわかに水雷艇でやれと言われても我々には準備も装備も訓練もありません。これは艦隊側で実施すべきです」

 怒気を含めて貫太郎は自説を述べました。

「なるほど」

 上村大佐は微笑して賛成してくれました。

「わが輩が司令官に申し上げておこう」

 その後、上村彦之丞大佐は会津戦争の思い出を語ってくれました。

「あの時はわが輩も一介の兵隊じゃった。会津兵は強く、容易に降服しなかった。互いに土手をへだてて相対していたが、連日連夜の戦闘で不眠不休だった。あの時ほど苦しかったことはない。何よりも辛いのは眠れないことじゃ。そうすると仲間の内から斬り死にする者が出てきた。こんなに苦しいのなら、いっそのこと敵中に飛び込んで死のうじゃないかと言うのだ。隊長は禁じたが、それでも幾人かは斬り込んで死んでいった。隊長は制止するのに苦労していた。斬り込みする者は卑怯者だとまで言って戒めていた。戦いの最中は眠りたくても眠れない。すると死にたくなるものなのだ。だから注意しなければならん。君も責任ある艇長だから部下を犬死にさせるようなことがあってはいかんぞ」

 上村大佐は、自身が体験した戦場心理を語り聞かせてくれました。しかし、まだ実戦経験のない貫太郎には半知半解でした。

 日本海軍の主力は大同江に集結し、黄海の彼方にある大連、旅順をにらんでいます。豊島沖海戦、黄海海戦で敗れたとはいえ、旅順港内には清国北洋艦隊が健在です。主力艦の「鎮遠」、「定遠」は世界最大の戦艦です。この二艦が活動している限り、その実力を侮ることはできません。日本軍は大連攻略のため、遼東半島南岸の花園口へ第二軍を上陸させることを決定しました。海軍は輸送船団を護衛せねばなりません。もし丁汝昌(ていじょしょう)提督が北洋艦隊を率いて妨害に出てくるなら、これと決戦することになります。第二軍の花園口上陸は十月二十四日に始まり、十一月一日に終わりました。この間、水雷艇隊は輸送船団の護衛に奔走しました。北洋艦隊の丁提督は出撃しませんでした。戦うことより艦隊の保全を選んだのです。丁提督は、主力艦を率いて旅順を出港し、威海衛に入港しました。

 花園口への上陸作戦が終了すると水雷艇隊は大同江から裏長山列島へと根拠地を推進しました。ここは遼東半島に近く、大連まで八十キロ、旅順まで百三十キロほどの距離です。水雷艇隊には旅順港外の警戒監視任務が与えられました。三つの艇隊が交代で監視します。

 その初日、第三水雷艇隊は安田八束大尉の第十一号水雷艇を先頭に第五号艇、貫太郎の第六号艇、第十号艇の四隻で旅順港外に進出しました。戦争に欠かせないのは兵要地誌です。海軍にあっては海図です。各艇の艇長は海図を見ながら進みました。しかし、なにしろ初めての海上です。土地勘があれば対景を見ただけで位置が分かるのですが、初めての戦場ではそうはいきません。各艇は、北に旅順要塞を眺めながら進みました。もちろん要塞砲の射程外です。やがて敵戦艦らしき艦影を認めました。「鎮遠」か「定遠」らしいと思われました。その位置は遼東半島の最先端にそびえる老鉄山の下です。この位置ならば旅順要塞から離れているし、時は夕刻です。薄暮に紛れての肉薄攻撃が可能だと思われました。第三水雷艇隊の四隻は二隻ずつに分かれて接敵行動に入ります。敵艦から四キロほどの海上に近づいたとき、貫太郎は首をひねりました。

(あれは米艦「ボルチモア」だ。まずい)

 貫太郎は僚艦に知らせるため発光信号を送りました。すると陸上からすさまじい砲声が響き渡り、砲弾の雨が海上をたぎらせはじめました。旅順要塞の巨砲群が火を噴いたのです。第三水雷艇隊の誰もが老鉄山だと思い込んでいたのは、実は饅頭山でした。饅頭山は旅順要塞の一角をなし、海上艦艇を撃沈せんと砲列を布く要塞巨砲群を備えています。そのうえ老虎尾半島の砲台群も狙い撃ってきます。第六号水雷艇の周囲には水柱が何本も立ち上がりました。貫太郎は生きた心地がしません。百八十度回頭を命じ、射程外に難を避けました。その後は僚艦に近づいて「攻撃中止」と大声で怒鳴りました。初めての要塞砲の洗礼に当初は度肝を抜かれましたが、小さな船体の水雷艇には滅多に命中しないことが分かると気が楽になりました。気の毒なのは観戦中だった米艦「ボルチモア」です。巻き添えの発砲を受け、錨を切って逃げ出しました。その後、第三水雷艇隊は旅順港外の監視や敵情視察を継続しました。

 花園口に上陸した第二軍は進撃を続け、大連を陥れて旅順要塞に迫りました。旅順要塞が陥落したのは明治二十七年十一月二十一日です。この日、貫太郎の第六号水雷艇は早朝から旅順港外の海上にあり、陸上の戦況を視察していました。快晴です。貫太郎は壮観な合戦絵巻を見るような気分です。日本陸軍の銃砲火の砲煙が徐々に要塞に迫っていきます。清国軍の要塞砲も盛んに砲煙を上げています。正午頃になると、清国兵が敗走し始めました。その様子は海上からよく見えました。同じく海上視察中の敷設艦「八重山」が信号を発信してきました。

「右側砲台は我陸軍兵すでに之を占領し、敵兵は海岸を経て東方に向かい遁逃せり。砲撃は全く止む。左側砲台は我騎兵いま攻撃中。旗艦に至りてこの報を伝えられたし」

 伊東祐亨( すけゆき)中将の旗艦「松島」は主力艦隊を率いて老鉄山方面を遊弋中です。第六号水雷艇は旗艦「松島」の後を追いました。午後三時二十五分、旗艦「松島」に際会した第六号艇は「八重山」からの報告を伝達しました。その後、旅順港外に戻るとすでに夕刻です。「八重山」に近づくと再度の信号です。

「敵水雷艇二隻が港口から脱出、西岸に沿って逃走。十号艇が追跡中」

 貫太郎の第六号水雷艇は西走しました。敵艦二隻を視認した頃には、我が水雷艇が集合し、敵艦二隻を包囲する形勢となっていました。砲撃戦の結果、敵艦一隻を撃沈、一隻を擱座させました。旅順要塞の砲台群は盛んに射撃を浴びせてきましたが命中弾はありませんでした。

 戦果を挙げた水雷艇隊は意気揚々と投錨地に戻りました。投錨地は旅順と大連の中間地点にある小島で、小浜島と呼ばれていました。昼間の好天が打って変わり、夜から大荒れとなりました。突然の暴風雪です。異変を感じた貫太郎は第六号艇をやや沖に出し、錨を二本下ろして汽罐を焚かせました。それでも位置を保てません。波に引きずられては元に戻ります。乗組員は、高波に翻弄され、寒さに凍え、冬の嵐に耐え続けます。天候がようやく回復したのは翌日の昼です。不眠不休の操船でした。錨地に戻ってみると、損傷を負った僚艇が少なくありません。座礁したものさえありました。水雷艇にとっては敵よりも荒天の方が脅威です。

 十一月二十三日、第六号水雷艇は旅順港外に出動しました。そこに旗艦「松島」がいました。接近すると、「乗艦せよ」との信号です。艇長の貫太郎が乗艦すると、こう問われました。

「どうだ、お前の船で旅順に入れるか」

 旅順要塞はすでに陥落しています。しかし、港内には機雷が多数敷設してあるに違いありません。旗艦「松島」が進入するのは危険すぎました。

「入れます」

 危険を承知で貫太郎は答えました。連合艦隊司令部の湯地定監機関長と島村速雄参謀を乗せた第六号水雷艇は旅順港口をゆっくり進みました。貫太郎は艇首に立って海面を注視し続けます。むろん機雷をよけるためです。清国軍の機械水雷は赤い色をしていました。十メートルほど手前になればそれが見えます。第六号水雷艇は機雷を避けて進み、旅順東港に係留することができました。

 旅順港内では第二軍の将兵が勝利の祝杯をあげていました。大山巌大将や山路元治中将の姿が見え、外国人記者の姿もありました。貫太郎は弟の孝雄を捜しました。しかし、居ませんでした。その日、貫太郎は日記に書きました。

「乃木将軍のみこの宴に列せず。暴風を衝いて金州に清軍追撃中の由なり。弟孝雄もその隊に加わり金州に赴きたりという。よってこれと会する能わず。大いに失望せり」

 ちなみに孝雄は、のちに陸軍大将に昇ります。


 花園口に上陸して一ヶ月、日本陸軍部隊は遼東半島を制圧しました。かねてより清国宰相の李鴻章は、北洋艦隊の丁汝昌提督に対して再三の督戦を行っていましたが、丁提督は戦うことなく旅順港を出て、主力艦隊を山東半島の威海衛に入港させていました。北洋艦隊はすでに二度の海戦で敗北しており、残存している主力艦にも様々な故障や損傷が出ていました。加えて将兵の士気は低く、とても勝ち目がありません。ならば、戦うよりむしろ艦隊を保全しておくほうがよいと丁提督は考えました。そして、北洋艦隊が存在しているという威圧効果を政治的に活用してもらいたい、と李鴻章に訴えました。

 北洋艦隊に戦意の乏しいことは明らかでしたが、日本海軍は油断しませんでした。なんといっても世界最強の戦艦である「定遠」と「鎮遠」が健在でしたし、陸軍の輸送船が黄海を安全に航行するためには、どうしても北洋艦隊を撃滅しておかねばなりません。

 海の戦場は遼東半島から山東半島へ移りました。山東半島の突端に栄城湾があります。威海衛から四十キロほど東です。この栄城湾に陸軍部隊を上陸させて陸上から威海衛要塞を攻略するとともに、海軍が海上から北洋艦隊の動静を監視し、敵艦隊が出撃してくるなら決戦する。これが日本軍の新作戦となりました。

 陸軍部隊の輸送作戦は明治二十八年一月十九日に始まりました。輸送船団は大連湾から南下して威海衛の目と鼻の先をかすめ、栄城湾を目指します。海軍の主力が輸送船団を護衛し、また一部艦艇が威海衛内にある北洋艦隊の動静を監視します。

 鈴木貫太郎の属する水雷艇隊は輸送船団とともに大連湾を出港しました。山東半島沖に到達すると各水雷艇隊は監視哨戒任務につきました。哨戒区域は、威海衛海域、栄城湾海域、鳥鳴島海域です。このうち鳥鳴島は威海衛と栄城湾の中間地点にあたります。これらの三海域を三艇隊で交代しながら監視するのです。

 このとき水雷艇隊を悩ませたのは敵艦隊よりもむしろ風浪と寒気でした。厳冬の海上での監視業務は寒気と凍傷との戦いです。甲板上は凍りついています。足を滑らせて海中に転落すれば数分で死んでしまいます。しかも監視任務には休みがありません。哨戒監視、陸上部隊への援護射撃、威海衛の港内偵察、敵水雷艇との小競り合い、威海衛の防材破壊、連日連夜の任務です。三日もたつと貫太郎の第六号水雷艇では乗組員たちの疲労が目立ってきました。水雷艇の艇内は狭いものです。そんなところに総員十六名が乗り組んでいます。疲労の一因は居住性の悪さにもありました。

 船体の小さい水雷艇は備蓄ができません。そのため水雷艇は毎日欠かさず水雷母艦のところへ通い、水や食糧や石炭などを補給します。

 この日も補給作業がようやく一段落しました。疲れ切った水兵が座り込んで居眠りしています。水雷艇の甲板は狭く、厳冬期の海中に滑り落ちたら命がありません。

「おい、起きろ」

 艇長の貫太郎が揺さぶって起こしてやりました。乗組員は誰もが眠そうな目をしています。

(まずいな)

 そう思いましたが、任務を果たさねばなりません。可哀想だとは思いますが、休ませてやれないのです。数日後、下士官が貫太郎に意見具申しました。

「艇長殿、これは乗組員全員の意見であります。威海衛襲撃を早く実行して欲しいのであります。このままでは眠くて死にそうであります。どうせ死ぬなら、いっそのこと敵と差し違えて死にたいのであります」

 貫太郎は、かつて上村彦之丞大佐に聞かされた会津戦争の話を思い出しました。戦場では眠気が極限に達すると死にたくなるという話です。貫太郎は総員に集合を命じました。

「皆の考えはわかった。しかし、今すぐ襲撃することはできない。第一、敵情がわからぬ。敵情もわからずに襲撃しても犬死にするだけだ。俺はお前たちを無駄死にさせたくない。もう少し気張れ。そのうち襲撃の時は来る。威海衛が陥落したときにはお前たちに真水の風呂を振る舞ってやるから、それまで気張ってやれ」

 水兵は真水に飢えています。海上では真水は貴重品です。うがいの水さえ惜しいのです。そんな水兵にとって真水の風呂ほどの御馳走はありません。歓声が上がりました。

「頑張ります」

 水兵たちは元気を取り戻しました。


 栄城湾に上陸した第二軍は迅速に進撃しました。早くも威海衛要塞の南部一角を占領し、鹿角嘴砲台、趙北嘴砲台、龍廟嘴砲台などの要地を得ました。その大砲で北洋艦隊を撃てばよいのですが、丁汝昌提督は艦隊を威海衛湾内の劉公島付近に移動させていました。要塞砲の射程がギリギリで届かないのです。また、丁提督は、威海衛の湾口に厳重な防材を敷設して懸命の艦隊保全に努めています。

 こうした戦況をみた連合艦隊司令長官伊東祐亨( すけゆき)中将は第三水雷艇隊に命令を下しました。

「第三艇隊は防材を破壊突入して敵艦を砕くべし」

 防材とは軍港内に設置されている防御設備のことです。敵艦の侵入を防ぐとともに、敵の発射した魚雷を海中の網で絡め取る設備です。防材は角材の骨格に大きな網を取り付けた構造で、木造仮設の堤防のようなものです。ワイヤーで岩礁に固着されているほか、錨によって海底に固定されています。威海衛は東西九キロほどの広い湾口を持っており、そのほぼ中央に劉公島があります。つまり、西口、劉公島、東口という地形です。この西口と東口に清国軍は長大な防材を設置して敵艦の侵入を防いでいます。この防材を破壊して威海衛内の敵艦を襲撃するのが第三水雷艇隊に与えられた任務です。


 一月三十日未明、貫太郎の第六水雷艇は威海衛東口の防材に接近しました。すぐに砲撃されましたが、命中弾はありません。とはいえ、方角から見てどうも日本陸軍からの砲弾らしく思えました。

(まずいぞ)

 貫太郎は、同士討ちを避けるため防材破壊を断念しました。翌日も防材破壊に赴きました。この日は強風のために操船が思うにまかせず、諦めました。以後、天候が荒れました。ようやく海が凪いだのは二月三日です。

 その夜の第三水雷艇隊の作戦は次のとおりです。第二十二号艇と第五号艇は威海衛の南外縁にあたる陰山口に停泊待機する。貫太郎の第六号艇と第十号艇は暗夜に紛れ、威海衛東口の防材を破壊する。防材破壊は深夜零時までに実施する。破壊が成功したら、待機中の第二十二号艇と第五号艇が威海衛内に突入し、敵艦を雷撃する。

 作戦どおり、貫太郎の第六号艇と第十号艇は威海衛の防材に接近しました。寒気が厳しく、水雷艇が進むと海面がシャリシャリ鳴きます。灯火管制、無線封鎖です。二艇は劉公島の南側を進み、ようやく爆破すべき防材に突き当たりました。これを破壊して突撃路を開くのです。しかし、劉公島や日島には清国軍の砲台があります。これに狙われたら水雷艇など木っ端みじんに吹き飛んでしまいます。貫太郎は、いったん防材から離脱して威海衛南部の鹿角嘴付近に接岸しました。この辺りはすでに日本陸軍によって占領されており、清国軍の要塞を砲撃することができます。貫太郎は、第二軍に依頼して陸軍砲をもって清国軍要塞を砲撃してもらおうと思い、篠原利七少尉を伝令に出しました。援護射撃下の方が防材破壊も水雷攻撃もやりやすいからです。

 伝令に出た篠原少尉はなかなか帰って来ませんでした。このままでは防材破壊が午前零時を過ぎてしまいます。貫太郎は、僚艇の第十号艇に伝令を依頼しました。陰山口で待機している第三水雷艇隊司令の今井兼昌大尉に防材爆破が予定より遅れることを伝えてもらうのです。ところが、第十号艇の艇長中村松太郎大尉はこれを嫌がりました。

「ここまで来て防材破壊をせずに帰れますか」

「命令だ。伝令に行け」

 先任の貫太郎は心を鬼にして命令しました。中村大尉の気持ちはわかりましたが、どうしても伝令が必要です。やむなく第十号艇は威海衛をはなれて陰山口へ向かいました。やがて篠原少尉が戻って報告しました。陸軍は協力してくれるといいます。

「よし」

 貫太郎の第六号艇は威海衛へ向かい、防材に舳先を付けました。水兵が防材に飛び移って爆弾を装着します。そこから電線を伸ばし、十分に距離をとってから破壊するのです。ところが艇を後退させた際に電線を錨に引っかけて切断してしまいました。

「今度は私がやります」

 そういって防材に飛び移ったのは上崎辰次郎上等兵曹です。上崎上等兵はうまくやりました。一回目の防材爆破は成功しました。二回、三回と上崎上等兵が爆破作業をくり返すうち、清国軍の要塞砲が撃ってきました。すると、打ち合わせておいたとおり、鹿角嘴から日本陸軍が掩護射撃を始めてくれました。劉公島の清国要塞と鹿角嘴の日本軍砲台が盛んに撃ち合います。第六号艇の頭上には敵味方の砲弾が飛び交いましたが、貫太郎は恐怖を感じませんでした。防材破壊のあと、第六号艇は威海衛を脱出し、陰山口で待機中の第三水雷艇隊司令今井兼昌大尉に報告しました。

「防材破壊に成功しました。突撃路は開いています。今ならやれます」

「ご苦労。しかし、我が隊だけでやるのではない。第二水雷艇隊も一緒だから、攻撃は明日だ」

 二月五日零時、第二水雷艇隊と第三水雷艇隊の水雷艇十隻は陰山口に集結しました。出撃に際し、貫太郎は第六号艇の総員を集めて訓示しました。

「いよいよ襲撃だ。どんな危険なときでも心配するな。わが輩はお前たちを殺すような下手な戦さはしないから安心していけ」

 同じ時刻、第二水雷艇隊の第十九号艇では岩村俊武大尉がやはり乗組員に訓示していました。

「今朝未明、第二、第三両艇隊は防材を越えて威海衛港内に驀入し、敵艇を襲撃する。本艇の諸般の準備はすでに完備した。余は幸いに諸士の力によって今日までこの波濤荒き海上の困難を凌ぎ、堪え難き酷寒の辛苦を忍び、遂にこの名誉ある攻撃に参与することを得たのである。どうして奮励努力せずにいられよう。諸士も幸いに努められよ。そもそも我が第十九号艇に掲げた軍艦旗の名誉は、沈没に至るまで汚損せられてはならない。余がもし斃れたら、少尉これを指揮し、少尉がもし斃れたら、准士官がこれを指揮して、いやしくも本艇内一人の生存者のある限り、誓って本艇の名誉を保ち、所謂、斃れて後止まん覚悟である」

 岩村大尉の名演説です。これに対して村井機関士が応じました。

「乗員の身命は謹んで艇長に捧げます。ただ命に従って奮励することを誓います」

「よし」

 この後、恩賜の清酒を酌み交わし、互いに健闘を誓いました。

 十隻の水雷艇が陰山口を出たのは午前二時です。単縦陣で威海衛に向かいます。単縦陣の先頭は貫太郎の第六号艇です。以下、第二十二号艇、第五号艇、第十号艇です。ここまでが第三水雷艇隊で、それに後続して第二水雷艇隊が続きます。第二十一号艇、第八号艇、第十四号艇、第九号艇、第十八号艇、最後尾に岩村大尉の第十九号艇です。防材を破壊した貫太郎の第六号艇に嚮導艇の役割が与えられたのは当然でした。やがて威海衛に近づくと各艇は灯火を消し、通信を封止し、低速で進みました。

 このとき第十九号艇では、艇長の岩村大尉が大山少尉に耳打ちしていました。

「これではまるで泥棒だね」

 十隻の水雷艇は泥棒のように威海衛に接近しました。先頭を行く貫太郎の第六号艇は昨夜のうちに破壊しておいた箇所から防材を突破して威海衛に進入しました。後続艇も防材を越えていきます。第三水雷艇隊の四艇はうまく防材を越え、それぞれに獲物を求めて攻撃に移りました。

 しかし、攻撃は困難をきわめました。威海衛の湾内はかなり広く、そのうえ岩礁などの海図情報に乏しく、しかも無灯火航行であり、厳寒のおまけ付きです。さらに、日本海軍の侵入に気づいた清国軍が盛んに砲弾を撃ち始めました。貫太郎の第六号艇は大艦の艦影を捜し求めて方向転換をくり返しました。そのうち運悪く横波をくらってしまいました。その衝撃で水雷の一本が発射管から飛び出てしまいました。飛び出た魚雷は安全用の繋索にぶら下がり、艇腹を叩いています。危険この上ありません。艇を止めて回収することもできますが、弾雨の下で停止するのは危険です。それに魚雷はもう一本あります。貫太郎は決断しました。

「斧で繋索を切れ」

 貫太郎は魚雷を海に投棄させました。これまで丹精込めて整備してきた魚雷を棄てることは全乗組員にとって大きな失望です。特に魚雷整備担当の上崎辰次郎上等兵曹は断腸の思いです。上崎上等兵は凝然たる表情をしました。貫太郎は声を上げてみなを励まします。

「みな聞け、まだ魚雷はある。人が大功を建てる前にはこのくらいの失敗はあるものだ。しっかりやろう」

 皆に気を取り直させました。やがて貫太郎は大艦の艦影を見つけました。戦艦のようです。貫太郎は第六号艇を十分に接近させ、魚雷発射を命じました。上崎上等兵が魚雷発射管の引き金を引きました。しかし、魚雷は発射されませんでした。

「不幸にして水雷滑出せず」

 と「二十七八年海戦史」(海軍軍令部編集)にあります。無念と思う間もなく、敵艦から激しい機銃を受けました。篠原利七少尉があらかじめ「伏せろ」の号令をかけていたおかげで負傷者は出ませんでした。しかし、のんびりもしていられません。貫太郎は撤退を命じました。

 一方、第二水雷艇隊も混乱していました。第十四号艇が不幸にも防材突破前に岩礁に乗り上げてしまい、進退の自由を失いました。このため後続の三艇が足止めを食いました。すでに敵の砲撃が始まっています。探照灯の光芒が港内を掃射し、機銃弾がバリバリと艇体に当たります。軍律では勝手に単縦陣を崩すことは許されません。最後尾にいた第十九号艇の岩村俊武大尉はイライラして怒鳴りました。

「第十四号艇!嚮導を他艇に委されよ!」

 敵要塞直前でボヤボヤしていたら敵弾を食って沈んでしまいます。岩村大尉は独断専行を決意し、短縦陣を外れて進みました。防材破壊の場所がよくわからず、しばらくは防材直前で戸惑いましたが、ようやく破壊箇所をみつけて威海衛に突入し、予定参集地点に向かいました。すると戻ってくる水雷艇があります。岩村大尉は大声をあげます。

「こちらは第十九号艇、何号艇か!」

「第六号艇!」

 岩村俊武大尉と鈴木貫太郎大尉とは真っ暗闇のなかで声だけのやりとりをしました。

「鈴木、第十四号艇が座礁したため参集が遅れた。いったいどうなっている」

「岩村よ、すでに攻撃は終わった。我が艇は大型艦を見つけた。おそらく定遠か鎮遠だ。魚雷を発射したが不発だ。魚雷が凍結してしまったようだ。それで仕方なく怨みを呑んで港外に去るところだ」

「鎮遠はどっちの方向だ」

「それは」

 貫太郎はだいたいの方向と目標になる目印を教えました。

「ありがとう」

 岩村大尉は勇んで進みました。岩村大尉は艇上の魚雷発射管の引き金に指をかけたまま、敵艦を捜し続けました。しかし、二時間ほど探し回っても「鎮遠」らしい艦影を見つけられません。敵艦を捜しあぐねる内、第十九号艇は第九号艇を発見しました。第九号艇は「定遠」に魚雷を命中させるという勲功を立てていましたが、その直後に敵弾を機関部に受け、進退窮まっていました。

「どの艇か?救援を乞う」

 第九号艇艇長の真野巌次郎大尉が大声を上げました。負傷者もいました。岩村大尉は迷います。救援か、攻撃か。大いに迷いましたが、一瞬のうちに決断しました。

「真野艇長よ、余は眼前の名誉を擲って救助する」

 岩村大尉は血を吐くように怒鳴りました。岩村大尉は第十九号艇を第九号艇に横付けさせ、繋綱で二艇を固縛しました。曳航して退却するのです。

「しっかり縛れ。締め直す暇はないぞ。確かか」

「大丈夫であります」

 第九号艇艇長の真野大尉は第十九号艇に乗り移り、岩村大尉に握手を求めました。しかし、岩村大尉はこれを拒みました。

「今はまだ握手する時ではない」

 第十九号艇はゆっくり進み始めます。第九号艇を牽引しているため速度は出ません。このままでは夜が明けてしまいます。明るくなれば敵方の集中砲火を浴びてしまいます。岩村大尉は威海衛の南へ船首を向けました。鹿角嘴砲台の一帯はすでに陸軍第二軍によって占領されています。そこまでたどり着ければ全員助かると思いました。第十九号艇は氷を割って進みました。しかし、氷は厚みを増し、前進できなくなりました。すでに東の空は明け始めています。

「真野大尉、ご覧のとおりだ。この際、全員を我が艇に乗せて撤退するしかない。残念だが貴艇は放棄せざるを得ない」

 第九号艇から秘密書類と乗員が第十九号艇に移りました。負傷者の移動には難渋しました。なにしろ水雷艇は狭く、人や物を艇外に出すだけでも一苦労です。しかも時間がありません。多少の荒っぽさはやむを得ませんでした。第九号艇の錨を下ろし、軍艦旗を外し、繋綱を解きました。

「後進全速」

 岩村大尉は伝声管で機関士に号令しました。第十九号艇は進行路を逆にたどり始めました。ここで再び友艇と遭遇しました。第二十一号艇です。座礁していたのです。

「本艇は座礁した。この付近は危険である。乗員は上陸中である。ボートを送られたい」

 第二十一号艇の少尉が援助を乞いました。岩村大尉はボートを渡してやり、帰路を急ぎました。第十九号艇は無事に防材を越え、安全な海域に到達することができました。そして、このときはじめて岩村俊武大尉は真野巌次郎大尉と握手しました。


 貫太郎の第六号艇は陰山口に戻り、そこに居るはずの第三水雷艇隊の司令艇を探しました。しかし、指令艇がいません。再度、威海衛に戻ってみると今井司令の第二十二号水雷艇は威海衛の南、鹿角嘴砲台下あたりで座礁していました。すでに夜が明けており、敵の砲弾が第二十二号艇に集中しています。救助してやりたいところですが、危険なために近づくことができません。やむなく貫太郎は、威海衛港外まで進出していた旗艦「松島」に艇首を向けました。そして、連合艦隊司令長官伊東祐亨中将に報告しました。

「威海衛にて座礁中の第二十二号水雷艇には生存者がいます。救援のため援護射撃をお願いいたします」

 しかし、伊東中将は全く別のことを問いました。

「昨晩の成績はどうだった」

 貫太郎は返答します。

「成績はわかりません。私の水雷は凍ってしまって出ませんでした。敵艦が沈没した様子はありません」

 貫太郎は正直に報告しました。すると伊東中将は「チェストー」と言って後ろを向いてしまいました。これではとりつく島もありません。やむなく貫太郎は第十号艇とともに弾雨を冒し、座礁した第二十二号水雷艇に接近し、ボートを下ろして生存者を救助しました。

 その夜、貫太郎の第六水雷艇は陰山口に停泊しました。全員が疲れ切っています。貫太郎も士官室で横になっていました。そこへ訪ねてきたのは大英帝国海軍の観戦武官数名です。貫太郎は身形(みなり)を整えて上甲板に出て、挨拶しました。

「貴官の艇は襲撃したか」

「襲撃した」

「成功したか」

「成功したかどうかわからない。しかし激戦だった」

 そういって貫太郎は艇体に残る機銃の弾痕を指し示しました。

「艇内を見せて欲しい」

「どうぞ」

 観戦武官は艇内を隈無く見て回り、一等巡洋艦「エドガー」に戻っていきました。

 水雷攻撃の成果が判明したのは翌日です。水雷艇隊は敵艦三隻に魚雷を命中させていました。その後、日本海軍は全力を挙げて威海衛内に潜む北洋艦隊への攻撃を続けました。陸軍も陸上から威海衛要塞を攻め立てました。


 二月十二日朝、陰山口沖合で警戒監視していた「山城丸」は一隻の清国軍艦を発見し、直ちに旗艦「松島」に信号しました。

「清国軍艦一隻白旗を立てて来たる」

 北洋艦隊の丁汝昌提督は毒を呑んで自殺していました。こうして威海衛は陥落しました。

 貫太郎は部下との約束を果たすため、水雷母艦で補給を受ける際、事のいきさつを水雷母艦の艦長に話しました。勝利は人の心を大きくするようです。

「水はいくらでもやるから水兵を真水の風呂に入れてやれ」

 水雷母艦の艦長は、気前よく大量の真水を分けてくれました。


 第六号水雷艇は威海衛にとどまり哨戒任務をつづけました。明治二十八年三月、第一軍は遼河平原作戦に成功し、遼東半島の全域を抑えました。第一軍はさらに直隷平野へと進出する勢いを見せました。ここに至り清国政府は講和のため全権大使李鴻章を日本に派遣しました。その李鴻章の乗る清国船を第六号水雷艇の乗組員は威海衛沖で見送りました。

 その翌朝です。椎名機関士が悲愴な顔で艇長の貫太郎に報告しました。

「上崎上等兵が割腹自殺しました」

「なに!」

 准士官室に行ってみると上崎辰次郎上等兵曹は日本刀で見事に腹を斬り、さらに喉を突いていました。上崎上等兵の遺書を読んだ篠原利七少尉が言います。

「艇長に申し訳ないから切腹すると書いてあります」

「見せろ」

「いえ、艇長にはお目にかけない方がよろしゅうございます」

 後にわかったことですが、威海衛襲撃時に魚雷発射に失敗したことが上崎上等兵には相当に無念だったようです。その後、雪辱の機会を待ちましたが、清国が講和のため全権大使を派遣するに及び、時は去ったと悲観したようです。

 水雷艇隊の有志は上崎辰次郎上等兵曹の碑を建立するために拠金し、また関係者に寄付を募りました。上崎上等兵の死は世の同情を集め、たちまち千円が集まりました。碑は横須賀に建立されました。子爵小笠原長生大尉は作歌してこの英霊を(とむら)いました。


  二月五日の月落ちて

  (あかつき)近くなりにけり

  劉公島にこもりたる

  敵の北洋艦隊は

  闇に煌めく電光を

  灯し連ねて油断なく

  すわやとばかりに待ち受けぬ 

  勇みに勇むわが軍は

  これをばなどて恐るべき

  第三隊の水雷艇

  東口へと乗り入りて

  真一文字に無二無三

  堅く敷きたる防材の

  上をばヒラヒラ躍り越え

  港内ふかく入るときに

  近く聞こゆるラッパの音

  彼所や此所に撃ちいだす

  敵の弾丸雨あられ

  ヒョウと音して飛び来るを

  誰か避くべき日の本の

  益荒猛(ますらたけお)男はかねてより

  五尺の身をば大君に

  捧げまつりしものなれば 

  忠義に凝りしこの身体

  撃ち抜くことのなるならば

  いざや撃て撃て大砲の

  壊るるまでも撃ちてみよ

  よしや身体は粉となりて

  散るとも堅き一心の

  なに砕かれんもののふの

  進め進めと競いゆく

  中にあはれは六号の

  水雷艇にとどめたる

  数十発の弾丸に

  貫かれしを見もやらず

  舵を定めて鎮遠の

  太腹めがけて目前で

  水雷チョウと放ちしに

  発射管内凍りつき

  撃ちいだしたる水雷は

  無残や全くいでやらず

  機会はすでに遅れたり

  艇長鈴木大尉をば

  はじめとなして乗組は

  無念無念と叫ぶのみ

  わけて上等兵曹の

  その名は上崎辰次郎

  のこる憾みのやるせなく

  家重代の左文字の

  剣を抜きてわが腹を

  一文字にぞ斬りにける

  惜しやと惜しむ諸人の

  声を冥途の土産にして

  はかなくなりしその心

  まことや旭に咲き匂ふ

  花は桜に人は武士

  日本男児の魂は

  かくと世界に知らせけり

  かくと世界に知らせけり


 この時代の日本人の精神は勇壮にして悲壮でした。


 明治二十八年五月、鈴木貫太郎大尉は三等巡洋艦「海門」の航海長となりました。「海門」は明治十五年進水の旧式木造艦です。この二ヶ月後、「海門」は測量艦となり台湾に派遣されました。

すでに日清講和条約が調印され、独仏露による三国干渉の受け入れも決まっていました。遼東半島は清国政府に返還され、その後にロシアの支配下に入ります。しかし、日本の台湾領有に干渉してくる列国はありませんでした。日本政府は台湾統治のため陸海軍を派遣しました。測量は、単なる海図作成の作業ではありません。大げさに言えば測量することは主権の主張です。同時期、台湾の陸上では陸軍部隊が抗日勢力を掃討していました。

 ある日、貫太郎は台北に上陸して台湾総督府を訪ねました。その際、海軍の参謀から「繁華街を見物に行ってみろ」と言われたので出かけてみました。しかし、すぐに総督府に引き返しました。

「どうした。馬鹿に早いな」

「いや、どうも臭いがひどくて」

 台北の街は衛生状態が悪く、その強烈な悪臭は日本人には堪え難いものでした。参謀は笑います。

「君は煙草を吸うか」

「吸います」

「それならこれをポケットに入れていけ」

 参謀は煙草を一箱くれました。煙草を吸えば臭いが消えるというのです。貫太郎は言われたとおり、常に煙草をくわえながら台北の中心街を見て回りました。確かに賑わってはいますが、街そのものが不潔です。以後、貫太郎はヘビースモーカーになりました。台湾は日本統治によって近代化していきます。

 測量艦「海門」は八ヶ月ほど測量作業を続け、明治二十九年三月、佐世保に帰港しました。翌月、貫太郎は練習艦「比叡」の航海長になりました。「比叡」は十二月から遠洋航海に出る予定であり、その準備が貫太郎の任務です。この「比叡」で貫太郎は生きるか死ぬかの体験をします。

 九月、「比叡」は呉から東京に向かう途中、鳥羽に寄港しました。伊勢神宮参拝のため上陸する乗員が多い中、貫太郎は艦内に居残りました。夜、残暑がきびしく、艦内では暑苦しくて眠れません。こんな時は、どうしても甲板の涼しいところで眠りたくなります。貫太郎は寝間着姿のまま甲板に出て、艦尾に向かいました。艦尾にはノルデンフェルト砲という四連装機関砲が二門あります。その砲台は舷外に突き出ており、砲身はさらに海側に突き出ています。そして砲身の下には鉄格子が渡してあります。その上に貫太郎は寝転びました。鉄のヒンヤリした感触が心地よく、下は海であり、上には砲身と月夜があります。風が吹き抜けて、快適です。そのまま貫太郎は居眠ってしまいました。

(ん?)

 目の覚めた貫太郎は、その場で起ち上がりました。背の高い貫太郎の頭が機関砲の砲身にゴンとあたります。

「てっ!」

 バランスを崩した貫太郎はそのまま海中に落下しました。まるで漫画です。水面に浮かび上がった貫太郎は、機関砲を見上げましたが、自分の身体がどんどん「比叡」から離れていきます。

(まずい)

 貫太郎は懸命に泳ぎ始めました。波静かな港内にも潮流があります。このまま流されてしまえば、人知れず行方不明ということになってしまいます。これは笑い事ではありません。潮流に流されて行方不明になることは、しばしば起こる海難事故の典型例です。貫太郎は一気に目覚め、懸命に泳ぎましたが、なかなか「比叡」に近づけません。大声を上げて助けを呼ぼうかと思いましたが、思いとどまりました。

(そんなみっともない真似ができるか)

 命より恥のほうが重いのです。貫太郎は懸命に泳ぎ、目と鼻の先にある錨の鎖にとりつこうとします。潮流は予想外に速く、懸命に泳ぎ続けているのに少しも進みません。ちょっとでも力を抜けば流されてしまいます。身体はズブ濡れですが、口の中はカラカラに乾きました。やっとの思いで錨の鎖に手を届かせることができました。すでに息が上がり、身体はヘトヘトです。一瞬、弱音を吐きたくなりましたが、気を取り直します。

(さて、どうやって艦上に戻るか)

 貫太郎は鎖をよじ登り始めました。身体は海面を出たものの、なお甲板ははるか上です。やや離れたところに綱梯子が垂れ下がっていました。精一杯手を伸ばしましたが三十センチほど足りません。

(だめだ)

 気持ちが萎えました。しかし、「こんな無様に死ねるものか」と思い直します。すでに疲れ切っています。しかし、不思議と頭は冴え、身体は動きました。必死だったのです。貫太郎は帯を解いて結び玉を作りました。結び玉に充分な重みを与えておいて振り回し、綱梯子に絡みつけました。

(やった)

 貫太郎はターザンの要領で綱梯子に飛び移り、なんとか甲板に這い上がりました。徒労といってよいでしょう。しかも命がけの徒労です。船室に戻るためズブ濡れのまま歩いていると、艦橋で信号兵と鉢合わせしてしまいました。貫太郎はつい腹が立ち、信号兵に八つ当たりしました。

「おい、わが輩が海に落ちたのに気づかんのか」

 信号兵は貫太郎を見ました。月が明るいので良く見えます。貫太郎はビショ濡れの寝間着を着崩していて、とても海軍士官には見えません。

「ははあ、航海長、落ちましたか。先ほど後方でボチャンと音がしたと思いましたが、何かはわかりませんでした」

 信号兵は皮肉を言いました。貫太郎は自室に戻って横になりました。もう暑いなどと贅沢は言っていられません。

 翌朝、朝食のために貫太郎は何食わぬ顔で食堂に入りました。しばらくすると、貫太郎の世話を焼いている従兵がやってきて報告しました。

「航海長、お部屋を掃除したところ、寝間着が濡れていますがどうしますか」

 これで皆に昨夜の事件がバレました。周囲の目が貫太郎に向かいます。

「さては落ちたな」

 もはやこれまでと貫太郎はいっさいを白状し、一同、大哄笑となりました。


 そんなこともありましたが、ともかく十二月までかけて貫太郎は遠洋航海の準備を整えました。貫太郎は張り切っていました。航海長として世界の海を航海することは海軍士官として何物にも代えがたい経験になります。そして、いよいよ出港という直前、貫太郎に異動が発令されました。練習艦「金剛」への異動です。これには呑気者の貫太郎もさすがに腐りました。腐ったあげくに思いついたのが海軍大学校の受験です。貫太郎は「金剛」の艦長に申告しました。

「海軍大学校を志願したいのであります」

「海軍大学校は試験が厳格だ。君のことだから大丈夫とは思うが、しかし、学校なぞより遠洋航海の方が君のためになるぞ」

「なにとぞ、よろしく願います」

 貫太郎が何度も何度も依頼したので、艦長は遂に折れました。年の明けた明治三十年一月から試験が始まりました。試験は一日では終わりません。ほぼ二ヶ月にわたり、学科、論文、実技、口頭試問などあらゆる方面から試されます。論文試験の問題を見たとき、貫太郎は驚喜しました。

「艦隊における最良の戦闘陣形を論断せよ」

 かつて砲艦「鳥海」での単調な哨戒任務中、暇にまかせて研究したあのテーマです。

(しめた。あのとき書いた作文があるはずだ)

 貫太郎は旅行李(たびごうり)の中から原稿用紙の束を引っ張り出しました。読み返してみると十分に使えそうです。貫太郎は、五年前に書いた作文をベースにしつつ、最新の海軍知識や日清戦争の戦訓を織り交ぜて論文を書き上げました。論文提出には一ヶ月の猶予期間が与えられていましたが、貫太郎はわずか三日で書き上げ、すぐに提出しました。これに勢いづいた貫太郎は砲術、水雷術、運用術、航海術などの試験も突破して、ついに合格しました。

(暇なときには勉強するに限る)

 貫太郎は心から自身の幸運に感謝しました。三月、海軍大学校に入校し、一年後に卒業しました。そのまま甲種学生となり、さらに九ヶ月間の参謀教育を受けました。この間、貫太郎は結婚し、少佐に昇進しました。

 明治三十一年十二月、貫太郎は海軍軍令部第一局局員および海軍省軍務局軍事課課員となり、初めて軍令および軍政の中枢に参加しました。貫太郎は海軍大学校教官、陸軍大学校教官、学習院教授などを兼任し、官僚として多忙な日々を送りました。


 貫太郎が水雷戦術上の大議論で見識を示したのは明治三十三年です。この頃、海軍戦術の世界的権威と言えばロシア海軍のマカロフ提督でした。マカロフ提督は、明治十年に始まった露土戦争において世界初の対艦魚雷攻撃を実施した人物であるとともに、二度の世界一周航海を通じて海洋学的研究成果を発表した海洋学者でもあります。そのマカロフ提督の著書「海軍戦術論」は世界注視の兵書です。当然ながら海軍軍令部は同書を入手し、翻訳、研究しました。

 マカロフ提督は一章を設けて水雷戦術を論じています。この時代の魚雷の基本性能は、速度二十三ノットで射程距離六百メートルです。したがって水雷艇は敵艦に六百メートルまで接近して魚雷を発射するのが基本戦術でした。魚雷を敵艦に命中させるためには魚雷速度は速い方が良いに決まっています。ですが、魚雷速度を落とせば射程距離を延ばすことができます。繰り返しますが、魚雷は、最大速度二十三ノットのとき射程距離が六百メートルとなります。しかし、魚雷の速度を十一ノットに落とせば射程距離は二千四百メートルまで伸びます。射程距離が長ければ遠距離から敵艦を攻撃することができます。ただし、魚雷速度が低いうえに遠距離であるため命中精度は落ちます。要するに一長一短です。近距離発射か遠距離発射か、いずれが有効な水雷戦術であるかについて専門家のあいだで意見が割れていました。この難問に関してマカロフ提督は次のように結論しています。

「吾人は寧ろ遠距離から射撃を開始する説に賛同する者なり」

 たとえ命中率が低くても多数の魚雷を発射すれば命中弾が出るであろう。魚雷の威力は強力だから少数でも命中しさえすれば敵艦に致命傷を与えることができる。そのためには数十本の魚雷をも惜しむべきではない。そのようにマカロフ提督は説きました。いかにも大国の海軍提督です。一本の魚雷を宝石のように惜しんでいる貧乏な日本海軍とは感覚が違います。さらにマカロフ提督は、近距離発射にこだわるあまり海戦中に発射機会を得られないこともあると説いています。また、当たり前ですが、敵艦に接近する前に敵弾をくらってしまえば魚雷攻撃そのものを断念せねばなりません。これでは宝の持ち腐れです。ならば、いっそ遠距離から魚雷を多数発射する方が敵艦隊に打撃を与える可能性において優れている。これがマカロフ提督の水雷戦術でした。

 これを読んだ海軍軍令部が影響されたのも無理はありません。なんといってもマカロフという世界的権威の意見です。海軍軍令部は甲種魚雷という新型魚雷の開発を起案しました。魚雷の速度を落とすかわりに射程距離を三千メートルに伸ばし、遠距離から水雷攻撃するという構想です。この案は、軍令部長の決裁を得て、海軍省に回されました。海軍省軍務局軍事課で水雷を所掌していた鈴木貫太郎少佐が真っ先にこの書類を見ました。

「これはダメだ」

 貫太郎は、この起案書を軍令部に突き返しました。議論になりました。貫太郎は水雷の専門家として独自の戦術論を展開します。

「昼間の艦隊決戦では、わずか十二ノットくらいの魚雷など回避するのは容易である。仮に命中したとしても相対速度が五ノット以下ならば爆発しない。遠距離からの魚雷は少しも恐くないのだ。また、夜間に遠距離から敵艦を攻撃するのは無理である。魚雷の射程が三千メートルあったとしても、夜間の場合には五百メートルにまで接近せねば敵味方の識別ができない。つまり甲種魚雷にはまったく意味がない。それに加えて付言するなら、遠距離攻撃にこだわるようでは海軍内に怯懦の気風を生ずる。卑怯な軍人を育てることになる。マカロフ提督は尊敬すべき戦術家ではあるが、水雷戦術に関してはおそらく机上の空論であるに違いない。日清戦争の実戦経験からしてマカロフの水雷戦術には賛成できない」

 堂々たる戦術論です。これに対して軍令部の高島万太郎少佐は反論せず、戦術論とは次元の異なることを言いました。

「貴様の意見に反対はしないが、すでに軍令部長が決裁している。因業なことをいわずにさっさと印を捺せ」

「そうはいかぬ。これは将来わが海軍に必ず累を及ぼす。軍令部が書類を引っ込めればよいのだ」

 普段は陽気な貫太郎ですが、頑固なときは頑固です。貫太郎があまりに頑固なので軍令部は海軍省の軍事課長加藤友三郎大佐に掛け合いました。

「頑固な鈴木を説得してくれませんか」

「いや、鈴木の言うことが正しい」

 加藤友三郎課長は貫太郎を支持してくれました。さらに軍務局長の諸岡頼之少将までが貫太郎の意見に賛同したので、軍令部は困ってしまいました。ついに伊集院五郎軍令部次長が山本権兵衛海軍大臣に懇願する事態になりました。山本大臣は斉藤実次官に事態の収拾をまかせました。貫太郎は次官室に呼び出されました。

「理屈はともかく軍令部長が太鼓判を捺しているのだから黙って印を捺したらどうか」

 並の官僚なら、恐縮し、温和しく従ってしまうでしょうが、貫太郎は違いました。

「私は平生、執務に過ちの無いように心掛けておりますが、この問題は他日かならず大臣の責任にかかわってくることと思います。だからこそ反対するのであります。この問題の非なることを知りつつ捺印することは良心が許しません」

「君がどうしても捺さないなら、加藤課長も諸岡局長も捺すまいな」

「そう思います」

「もし、このまま海軍大臣が決裁したら、君はどう思うか」

「それは別問題です。この問題は軍務局と軍令部の意見対立です。それを海軍大臣が大所高所からご裁断なさるならば、私には何の不満もありません」

「それなら書類をすぐに官房に回すように」

 結局、甲種魚雷の起案書は、軍務局の捺印なしに決裁されました。世界的権威たるマカロフ提督の説に正面から反論し、しかも官僚的保身を微塵も考慮しなかった貫太郎の態度は実に立派だったと言えるでしょう。


 明治三十四年七月、鈴木貫太郎少佐はドイツ駐在を命ぜられました。九月七日に日本郵船「丹波丸」に乗って日本を発ちました。船長はイギリス人です。この時期、民間外航客船の船長にはお雇い外国人がまだ多かったのです。日本人船長は育成の途上でした。

 貫太郎がベルリンに着いたのは十月三十日です。欧州はまさに帝国主義の舞台です。強勢を誇ったのは大英帝国とロシア帝国です。小国分立状態だったドイツは統一によって勢力を増し、東方に伸張しました。同様にイタリアも統一を果たしました。オーストリア・ハンガリー帝国とフランスは勢力を維持しています。退潮にあったのはスペインとオスマントルコ帝国です。トルコ帝国は東欧の支配地を失い、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャなどの独立を許していました。

 欧州諸国にとってヨーロッパは狭すぎました。そのため世界各地に植民地を保有し、その富を搾取することで国家経営の原資としています。オランダ、ベルギー、ポルトガルといった小国とて例外ではありません。アフリカ、アジア、中南米の国々には欧州列強の侵略に抵抗する力がありませんでした。唯一、日本だけが欧米諸国の帝国主義に異議を唱えようとしています。

 貫太郎のドイツ駐在は足かけ四年に及びます。この間、語学の習得、欧州各国の視察、各国武官との交際、軍事関連施設の視察を精力的にこなしました。訪問国は九ヶ国、訪問都市は三十を越えます。なかでも軍港や軍事工場が重要な視察対象でした。貫太郎は、アームストロング社(英)、クルップ社(独)、ホワイトヘッド社(墺)の工場を視察することができました。軍港ではウィルヘルム(独)、キール(独)、ポーラ(独)、スペチャ(伊)、シャネス(英)、クロンスタット(露)を視察しました。クロンスタット軍港では建造中の戦艦「スワロフ」を見ることができたし、マカロフ提督に会うこともできました。しかし、あくまでも儀礼的訪問でしたから、水雷戦術について意見を戦わせることはありませんでした。

「スパイみたいな真似は性にあわん」

 駐在武官の仕事は要するにスパイなのですが、貫太郎はスパイを嫌いました。写真も撮らず、メモも書かず、真正面から視察を申し込み、見せてくれる施設を見て、聞かせてくれる説明を聞き、もらえる書類をもらいました。貫太郎は、手紙を出すときは必ず葉書にし、封書はいっさい使いませんでした。軍艦の絵葉書さえ買いませんでした。そんな貫太郎の堂々たる態度がかえって信用されたのか、キール軍港ではほぼ一ヶ月の長期視察が許されました。

 ドイツ駐在中の明治三十六年九月、貫太郎は中佐に進級しました。本来なら祝うべきところですが、貫太郎は鬱々として楽しみません。昇進が順当だったならば貫太郎は一年前に中佐になっているはずでした。昇進が一年遅れたのです。その結果、海軍兵学校の一期後輩たる財部彪、竹下勇、小栗孝三郎らと同時期の昇進になりました。それはいいとしても、我慢ならなかったのは先任序列です。後輩三名が貫太郎の上位になっていました。つまり時と場合によっては貫太郎が後輩に指揮されねばなりません。

(なぜだ)

 経歴からみても日清戦争の戦功からみても貫太郎に劣るところはありません。もちろん貫太郎にも短所はあります。頑固なところがあって上官に楯突くことがあります。しかし、だからといってこんな人事があってよいものか。

(海軍なんか、もう辞めよう)

 貫太郎は本気でした。月給取りの狭い世界にどっぷりつかっていると、どうしても人事というものが気にかかります。まして海軍は厳しい競争社会であり、軍人は争うことが職業です。名誉心もあり、廉恥心もあります。組織外の人々から見れば笑うべきことに神経が逆立ってしまうのです。貫太郎とて例外ではありません。

 下宿に戻ると、父の由哲から手紙が届いていました。由哲は無邪気に息子の昇進を喜んでおり、日露の国交が悪化しているこの時にこそ、お国のために尽くせと書き送ってきました。父の記した文字の列は息子の目を覚まさせました。貫太郎は群馬県庁に勤めていた頃の父の姿を思い浮かべ、自分の心の狭さを(わら)いました。


 明治三十六年十二月二十八日、海軍大臣から命令予報の電報が貫太郎の元に届きました。電報によればイタリアで建造中のアルゼンチン軍艦二隻を日本政府がアルゼンチン政府から買い取ったとのことです。のちに「日進」と「春日」として日露戦争に参加するこれら二隻の回航委員として乗艦せよという命令でした。

 この時期、日露両国の対立が深刻化していました。外交交渉は継続されていたものの、そんなことにはおかまいなくロシア帝国は鴨緑江下流域を朝鮮政府から租借し、朝鮮半島の要地を次々に要塞化しています。日本としては我慢の限度を越えていました。そんな開戦必至の情勢下、イタリアのジェノバ港で二隻の装甲巡洋艦が進水しようとしていました。アルゼンチン政府がアルサンド社に発注したものです。この二隻をめぐって日露間で購買競争になりましたが、これには日本が勝ちました。問題は、購入した二隻をいかにして日本まで回航するかです。

「至急、秘密裏にジェノバに赴任せよ」

 早くも二日後、本命令が届きました。貫太郎は目立たぬように身の回りを整理し、年明け早々の一月三日にハノーバーを発ちました。

 回航委員を命ぜられた八名の海軍士官がジェノバにそろったのは一月六日です。その夜、会議が開かれました。「日進」、「春日」をいかにして安全に回航するか、最適な航路はどれか、ロシア艦隊の監視をいかにして振り切るか、防諜をいかにするか。議論は百出しました。

 最短航路をとるならスエズ運河を経てインド洋を横断するのがよいのです。しかし、地中海にはロシア海軍の艦船が多数存在しており、攻撃あるいは拿捕されるおそれがあります。事実、地中海沿岸チュニジアのビゼルト港には戦艦「オスラビア」や巡洋艦「アブローラ」など有力なロシア艦艇がいます。「日進」と「春日」は進水したばかりで艤装も兵装もありません。これを航海しながら整備していくのです。そのうえ軍人として乗り組むのは八名の日本海軍士官だけであり、残りは民間の技師と航海士と船員です。戦闘力はありません。しかも、機関部員はイタリア人技師、航海部員はイギリス人航海士、残りは国籍の定かならぬ下級船員たちです。攻撃されれば手も足も出ません。

 ロシア軍艦の攻撃を避けるためには、地中海から大西洋に出て南米大陸を迂回して太平洋を横断する航路があります。しかし、航路は長大となり、時間と経費がどれほどかかるかわかりません。それでも安全を第一に考えるなら長距離航路を選ぶしかありません。あらゆる可能性を検討した後、最先任の竹内平太郎大佐はスエズ運河通過航路を選択しました。時間と経費を節約できるし、いかにロシア艦隊といえども手を出すまいと判断したからです。

 ロシア艦隊が手を出さないと判断した根拠は、日本政府が両艦の回航をアームストロング社に発注していたことです。金百万円でした。決して安くはありません。しかし、上手い方法でした。英国人船長と英国人船員が操船するのですから、イギリス海軍は当然これを護衛します。よってロシア海軍としては手を出し難いのです。

 出港は一月九日午前零時と決められました。ところが「春日」の機関に故障が発生し、「日進」でも汽罐の故障から火夫が火傷を負う事故が発生したため出港が遅れました。悪い幸先でしたが、それでも午前五時には両艦とも軍艦旗を掲揚してジェノバを出港しました。「日進」には竹内平太郎大佐以下四名、「春日」には鈴木貫太郎中佐以下四名が乗り組みました。両艦はティレニア海を南下してシチリア海峡を通過しました。無線電信によれば、ロシア艦隊は先回りしてポートサイドに向かっているようです。チュニジアのビゼルト港をかすめて航行し、マルタ島に近づくと英巡洋艦「キングアルフレッド」が姿を現しました。「キングアルフレッド」は「日進」と「春日」を先導し、ロシア艦隊との間に割って入ってくれました。

 貫太郎の乗る「春日」は、機関故障のため遅れ気味になりましたが、その他には特に問題はありません。英国人のペインター船長が、イタリア人機関員との融和に努めてくれたおかげで、艦内の雰囲気は良好です。貫太郎は何事もペインター船長に任せるという態度をとり、口出しを最小限にしました。これは貫太郎の性格でもありましたが、そもそも日本政府とアームストロング社との契約でもありました。

「回航中、日本監督将校は艦内事業に干渉せざること」

 契約を遵守できたのは「春日」艦内が平穏だったからです。それはペインター船長の功績です。他方、「日進」では乗り組み士官たちが苦労していました。出港直前に機関部で負傷者が発生し、艦内に動揺が広がっていました。

「ロシアのスパイが入り込んでいる」

 そんな憶測をイタリア人機関員が信じ込んでしまい、ついに機関室を放棄するという事態になりました。これでは航海ができません。イギリス人のリー船長は激怒しました。リー船長は性格的に偏屈なところがあり、イタリア人を激しく罵倒しました。このためイギリス人とイタリア人との関係は険悪でした。いったん関係が悪化すると、双方言葉が通じないこともあり、修復が困難です。竹内平太郎大佐以下四名の士官は頻繁な英伊間の喧嘩の仲裁に苦労しました。

 それでも一月十四日までにはポートサイド港に着きました。ここはスエズ運河の入り口です。港内にはすでにロシア軍艦が停泊しており、また、スエズ港にも先回りしているようでした。イギリス政府の好意により「日進」と「春日」は優先的に石炭を積み込むことが出来ました。先着していたロシア軍艦が石炭を要求しましたが、イギリスはこれを拒否しました。

「この石炭は日本軍艦に積み込む予定だから、その後にしてくれ」

 おかげで「日進」と「春日」はロシア軍艦よりも先に出港することができました。スエズ運河を過ぎ、スエズ港で再び石炭を積み込みました。その後、「日進」と「春日」はスエズ湾と紅海を抜け、アデン港に停泊しました。港に停泊するたびに乗組員の交代があります。イタリア人機関士、イギリス人航海士のほか、艤装を担当するアルサンド社の技師、兵装を担当するアームストロング社の技師などです。下級船員たちにも一定の担当範囲があるらしく、順次交代していきます。

 アデン湾を出るとアラビア海です。ロシア軍艦は追跡を諦めたらしく、もはや艦影が見えません。貫太郎は気が楽になりました。もともとペインター船長に一切を任せているから暇です。航海中、ボイルという男と仲良くなりました。ボイルはアームストロング社から派遣された回航業務の責任者です。貫太郎は暇さえあればボイルと世間話をして過ごしました。

 地中海から護衛し続けてくれた英巡洋艦「キングアルフレッド」はセイロン島の手前で針路を変え、オーストラリアに向かいました。「日進」と「春日」は、一月二十七日、相前後してセイロン島コロンボに入港しました。石炭と水と食糧を補給して二十八日午前六時に出港し、シンガポールを目指します。ベンガル湾を越え、マラッカ海峡を抜け、シンガポールに到着したのは二月二日です。日本海軍の回航委員は、翌日には出港する心づもりでいました。ところが思わぬ足止めを食うことになりました。

 アームストロング社では、シンガポールでの載炭は桟橋積みを予定していました。ところが、給炭を請け負った三井物産シンガポール支店は勝手に沖積みと思い込み、「日進」と「春日」の入るべき桟橋を確保していませんでした。このためアームストロング社と三井物産とで押し問答になりました。

「桟橋にしろ」

「今さら桟橋確保は無理だから沖で頼む」

「沖積みという指定はしていない」

「コロンボでは沖積みだったから、沖だと思ったのだ」

「馬鹿な。特に沖積みという指定が無い場合には桟橋積みというのが常識だ」

 両社が不毛なやりとりをしているうちに沖積みのために集められていた炭夫らは解散して帰ってしまいました。結局、桟橋積みをあきらめて沖積みの載炭作業を始めたのですが、こんどは炭夫が集まりません。載炭は遅々として進みません。

 悪いときには悪いことが重なるもので、「日進」のリー船長が新聞記者にイタリア人機関員の悪口を話し、それが翌日の新聞に掲載されてしまいました。このため「日進」乗り組みのイタリア人は激昂し、そろって退艦するという騒ぎになりました。さらに追い打ちをかけたのが、日本政府からの訓電です。

「時局はいよいよ切迫、和戦いずれにか決するは数日中、故に両艦ともにその地より本邦に直航せしむべし」

 訓電を受け取った竹内平太郎大佐は驚きました。フィリピン、台湾、沖縄のどこかに寄港する考えだったからです。日本へ直航するためには積み込むべき物資を増やさねばなりません。船員に周知したところ、下級船員の中には「話が違う」と言って退船する者が多数現れました。シンガポールにおける竹内平太郎大佐の苦労は並大抵ではありませんでした。懸命に奔走しました。給料をはずんで炭夫を確保し、リー船長に謝罪させてイタリア人機関員をなだめ、不足した下級船員を新たに補充しました。

 「日進」と「春日」がシンガポールを出港したのは二月六日午前一時です。載炭量は予定を下回りましたが、訓令どおりに急がねばなりません。日本政府は、両艦のシンガポール出港を確認したうえでロシアに対して国交断絶を通告しました。

 南シナ海を北上するにつれ徐々に涼しくなりました。しかし、大急ぎの出港だったため防寒着が艦内にありません。船員の中には寒さに慣れないアラビア人、インド人、マレー人、黒人がいます。支那人とて華僑は寒さを嫌いました。両艦が台湾を過ぎると寒気が増しました。彼らは石炭袋に穴を空けて防寒着代わりにし、暇さえあれば機関室に集まって暖をとりました。石炭袋のお化けのような連中が艦内を歩き回る様子が貫太郎には何とも滑稽に感じられました。

 二月十六日午前、「日進」と「春日」は横須賀に入港しました。竹内平太郎大佐と鈴木貫太郎中佐は直ちに海軍省に呼び出されました。出頭すると山本権兵衛海軍大臣が待っていました。

「これから同道して拝謁にいく」

 宮中に参内すると、山本海軍大臣が明治天皇に申し上げました。

「陛下のお買い上げになりました日進、春日の回航委員を連れて参りました。これから回航の状況を言上申し上げます」

 明治天皇は龍顔も麗しくお喜びになり、いかにも感慨深げに山本海相に仰せられました。

「心配じゃったなあ」


 すでに日露戦争が始まっています。鈴木貫太郎中佐は装甲巡洋艦「春日」の副長に補せられました。「日進」と「春日」は無事に日本に回航されましたが、まだ戦場に出ることはできません。艤装、兵装を整えて各種の訓練をせねばなりません。五百名以上の将兵が有機的に連携し、出入港から航海、砲撃、魚雷攻撃に至るまであらゆる動作を円滑にこなせるようになるまで訓練せねば、実戦では役に立ちません。海軍省は周到でした。砲術学校、水雷学校、機関学校の教員を数多くこの両艦に配置しました。このため訓練は進捗し、三月中に早くも戦闘能力を発揮し始めました。

「日進」と「春日」が実戦投入されたのは四月初旬です。済州島で連合艦隊に合流しました。一等巡洋艦の「日進」と「春日」は第二艦隊第二戦隊に配属されました。鈴木貫太郎中佐は「春日」副長として戦場に臨むことになりました。

 すでに開戦から二ヶ月が経過しています。この間、仁川沖、旅順港口外、老鉄山沖などで小規模な海戦が行われましたが、主力艦隊同士の決戦はまだ生起していません。ロシア太平洋艦隊は決戦を避けて旅順港内に逼塞しています。東郷平八郎中将ひきいる連合艦隊は何度か旅順港外に進出して敵を誘い出そうとしました。しかし、ロシア艦隊は小規模艦艇を要塞砲の射程内に出し、逆に東郷艦隊を要塞砲射程内に誘おうとします。これでは敵艦隊主力を撃滅することができません。そこで連合艦隊は旅順港口の閉塞作戦を二度にわたり敢行しました。しかし、成功しませんでした。一方、活発だったのはロシアのウラジオストク艦隊です。ウラジオストク艦隊は放胆にも日本近海に出没し、盛んに通商破壊を行いました。楽観できない状況です。


 明治三十七年四月十一日、連合艦隊司令長官東郷平八郎中将は、第一戦隊(戦艦)、第二戦隊(一等巡洋艦)、第三戦隊(二等巡洋艦)、第四戦隊(三等巡洋艦)、駆逐隊、水雷隊、特務艦「蛟龍丸」を率いて黄海を北上し、大連の南東沖およそ百キロの地点に進出しました。翌十二日深夜、駆逐隊、水雷隊、特務艦「蛟龍丸」は秘かに旅順港口に近づき、機雷を沈置しました。この日、密雲が重く、雨が降り、海上には霧が立ちこめました。機雷敷設には絶好の天候です。駆逐隊と水雷隊はそのまま旅順港外の哨戒任務につきましたが、十三日早朝、第二駆逐隊は敵駆逐艦一隻を発見しました。第二駆逐隊司令石田一郎中佐は攻撃を決意し、四隻で単縦陣を組み、敵駆逐艦と併走しつつ砲撃を開始しました。敵艦はわずか一隻ながら激しく反撃し、駆逐艦「雷」が命中弾を受けました。それでも衆寡敵せず、敵駆逐艦「ストラーシヌイ」は大きく損傷して火災を起こし、航行不能に陥りました。敵の砲撃が止んだため、第二駆逐隊は生存者救援のため、短艇を下ろそうとしました。するとそこへ装甲巡洋艦「バヤーン」が現れました。港外の砲声を聞き、駆けつけてきたのです。「バヤーン」は「春日」に匹敵する大型艦です。駆逐艦は逃げるしかありません。第二駆逐隊は直ちに逃走します。

 この朝、出羽重遠少将率いる第三戦隊は旅順港外に進出していました。その指揮下には二等巡洋艦四隻の他、臨時に編入された一等巡洋艦二隻がいます。遠くに砲声を聞くうち、敵艦「バヤーン」の姿を望見しました。「バヤーン」はたった一隻にもかかわらず第三戦隊に向けて突進し、距離一万メートルで発砲を開始しました。出羽少将は指揮下の巡洋艦に単縦陣を組ませます。「千歳」、「高砂」、「笠置」、「吉野」、「常磐」、「浅間」の順です。第三戦隊は北東に針路をとり、左舷に「バヤーン」を見つつ、距離八千メートルで射撃を開始しました。「バヤーン」は不利を悟り、距離五千メートルで回頭し、旅順港口に向けて退却しはじめました。そのとき、日本艦隊の放った一弾が「バヤーン」の左舷後部に命中し、黒煙が吹き上がりました。距離が開いたため第三戦隊は射撃を止め、旅順港の様子を注視しました。昨夜来の霧が残っており、海上の視界は効きません。それでも旅順港に煤煙が上がっており、ロシア太平洋艦隊が出港しつつある様子がわかりました。午後八時、出羽少将は左百八十度逐次回頭を命じ、旅順港を右舷に見つつ南西に航行し始めました。そのまま旅順港口を行き過ぎましたが、敵の姿がはっきりとは見えません。出羽少将は八時四十分、左百八十度逐次回頭を命じ、再び旅順港を左舷に見つつ、東北に航行しました。すると「バヤーン」が再び現れました。そして、そのうしろに戦艦三隻、巡洋艦三隻、駆逐艦九隻を濃霧の中に発見しました。第三戦隊を上回る大戦力です。敵の主力艦六隻は単縦陣で直進してきます。出羽重遠少将は旗艦「三笠」に向けて発信しました。

「敵艦隊主力港外に在り、我今之と砲戦中」

 そして九時五分、出羽少将は右九十度一斉回頭を命じました。この動きは、敵主力を外洋に誘い出すとともに、北上しつつある東郷平八郎中将直率の第一戦隊にバトンタッチするという意味がありました。この動きに対してロシア艦隊は右九十度一斉回頭を行い、梯陣を組んで第三戦隊の追撃に移りました。距離は六千五百メートルに縮まり、両軍とも盛んに砲弾を撃ち合います。ロシア艦隊は要塞砲の射程圏を出て、旅順港から三十キロの外洋まで進出しました。

 九時十五分頃、南方から東郷中将の第一戦隊が到着しました。戦艦「三笠」を先頭に、「朝日」、「富士」、「八島」、「敷島」、「初瀬」が続き、さらに「春日」、「日進」が後続しています。優勢な敵艦隊の出現を見たロシア艦隊は直ちに回頭し、旅順要塞砲の射程内まで退避します。第一戦隊は全速で北上して敵主力を捕捉しようとしましたが、ついに追いつけません。やむなく東郷中将は旅順港外を遊弋しつつ敵艦隊の入港を注視しました。

 すでに海上の霧は晴れ、見通しは良くなっています。敵艦隊の先頭は戦艦「ペトロパウロウスク」です。敵艦隊はなかなか入港せず、要塞砲射程内を遊弋しています。その様子は日本艦隊を挑発しているらしく見えました。ところが十時三十二分、突如として先頭艦「ペトロパウロウスク」が轟音とともに海没し、海上には爆煙だけが残りました。さらに戦艦一隻が大きな水中に巻き込まれ大きく傾斜しました。その様子を「春日」の艦橋上から貫太郎は確かに見ました。

「マカロフが吹き飛んだ」

 冗談のつもりで言ったのです。しかし、後日、この日の戦闘でマカロフ提督が戦死したことを知りました。


 貫太郎の乗る「春日」は、その後、第二艦隊司令長官上村彦之丞中将の指揮下に入り、ウラジオストク艦隊の撃滅に向かいました。一等巡洋艦五隻、三等巡洋艦四隻を主力とする戦力をもって四月下旬から五月初旬まで実施された作戦は、濃霧に阻まれて所期の目的を果たせぬままに終わりました。「春日」は上村中将の指揮を離れ、第三戦隊司令官出羽重遠少将の指揮下に入りました。その任務は旅順港の監視です。

 連合艦隊は艦隊決戦を希求し続けていますが、ロシア艦隊は艦隊保全主義をとって決戦を避けています。やむなく連合艦隊は旅順港閉塞作戦を繰り返しました。危険な作戦を敢えて実施したものの、閉塞効果は不十分です。敵艦隊が旅順港から出てこないとはいえ、放置するわけにもいきません。連合艦隊は絶え間なく旅順港を監視し続けねばなりません。

 明治三十七年五月七日、旅順港から百キロほど東にある裏長山列島に錨地が整備されました。連合艦隊主力はここに集結しました。主力艦は交代で旅順港沖に進出し、敵の動向を監視し、挑発し、もし敵艦隊が挑戦してくれば決戦する決意です。

 五月十三日早暁、出羽重遠少将は艦隊を率いて旅順港外に進出しました。例によって単縦陣を組んでいます。先頭は二等巡洋艦「千歳」です。以下、二島巡洋艦「吉野」、一等巡洋艦「春日」、戦艦「八島」、戦艦「富士」と続きます。旅順港外にはロシア海軍の駆逐艦六隻が遊弋していましたが、主力艦は出てきません。海上には濛気が立ちこめ、見通しが悪い状況です。そのまま夜を明かしましたが、翌日も相変わらず海霧が濃いままでした。午後四時、出羽重藤少将は裏長山列島への帰投を命じました。艦隊は単縦陣で進みます。深夜になっても濃霧は晴れません。航海は困難を極めました。「千歳」に座乗する出羽少将は艦尾速力燈、舷燈、帆桁速力燈の掲揚を各艦に命じ、濃霧対策に万全を期しました。それでも「春日」は先行する「吉野」の航跡を見失ってしまいました。先行艦の舷燈を探すうち、右舷前方にそれらしきものを認めました。「春日」は後続しようと舵を切ります。ところが「吉野」は直前にあって回頭中でした。「吉野」も先行艦を見失っていたのです。「春日」はゴースタン(後進)をかけましたが、間に合わず、「吉野」と衝突してしまいました。

 新鋭巡洋艦「春日」の衝角は老朽艦「吉野」の腹を割ってしまいました。「吉野」艦内の燈火はことごとく消え、喫水線下に生じた穿孔から海水が奔入します。「吉野」艦長佐伯(ぎん)大佐は乗員に万歳を三唱させ、御聖影を短艇に奉移させ、総員退去を命じました。直ちに全短艇が海上に降ろされましたが、「吉野」の艦体が覆没したため、多くの短艇がこれに巻き込まれました。艦長以下、三百十七名が死亡しました。

 衝突の瞬間、「春日」副長の鈴木貫太郎中佐は休息のため軍服のまま自室で寝ていました。激しい衝撃で貫太郎の身体はベッドから放り出されました。部屋を飛び出そうとしましたが、靴がありません。従兵が手入れのために持ち出したようです。やむなく足袋はだしのまま甲板に出ました。ひどい霧です。

「探照灯をつけろ!」

 貫太郎は後甲板に向かって大声を出しました。すぐに二基の探照灯が光を放ちました。この一声が「春日」を救ったといえます。後続する戦艦「八島」は、この探照灯の光を見、わずか十メートルをへだてて「春日」を回避していきます。一万二千トンの戦艦に衝突されたら、八千トンの「春日」は無事ではすみません。大げさに言えば連合艦隊の主力艦二隻が一度に沈むところでした。ホッとした貫太郎でしたが、「春日」がゴースタンの振動音を立てていることに気づきました。

(まずい)

 「八島」の後ろには「富士」が続いています。貫太郎は艦橋に駆け上りました。

「痛っ」

 途中、艦内の段差に足指をぶつけました。靴も履かずに軍艦内を走り回るのは無茶ですが、今はそれどころではありません。

「ゴースタンをやめろ」

 後進を止めさせると、貫太郎は艦橋から綱を伝って前甲板へ降り、船首へ向かいました。衝突の被害を確認するためです。ハッチから艦内をのぞくと、船首隔壁にかかる水圧を支えるため水兵たちが内側から木材を組み上げています。その作業は捗っているようでした。

(ここは大丈夫だ)

 貫太郎は上甲板に戻りました。「春日」艦内は騒然としています。非常事態であることは皆がわかっています。ですが、何をどうしてよいかがわからない様子です。結果、無意味に騒ぎ、右往左往しています。こんな場合こそ指揮官の存在価値が問われます。貫太郎は大声を上げました。

「みんな聞け。本艦は安全だ。だから救援艇を出せ。吉野の乗員を救うことをやれ」

 具体的な指示を与えられた下士官兵たちはようやく秩序だって動き始めました。「春日」は錨を降ろして位置を固定し、それから短艇を漕ぎ出させました。救助作業は濃霧に遮られて捗りません。時に「吉野」の乗組員が海上を漂って流れていきます。竿を突き出したり、短艇を近づけたりして助けようとしますが、漂流者はすでに冷え切っており、物につかまる力さえありません。竿に手が届いてもそのまま滑っていくのです。助けたくとも助けてやれません。「板子一枚、下は地獄」とはまさにこのことです。

 悪いことは重なるものです。この日、出羽重遠少将の艦隊と入れ代わりに、第一戦隊司令官梨羽時起少将率いる戦艦三隻、巡洋艦一隻、通報艦一隻が旅順港外を航行していました。午前十時五十分頃、梨羽少将の座乗する先頭艦「初瀬」が機雷に触れ、艦尾に大爆発を起こしました。梨羽少将は後続艦に進路変更を命じました。三番艦の戦艦「八島」は針路をかえましたが、やはり機雷に触れて右舷を破られました。それでも二艦は沈ます、艦内では懸命の排水活動が続けられ、他艦は救援に努めました。しかし、午後零時半、「初瀬」は再び触雷して轟沈しました。死者四百九十二名です。「八島」ではなお排水活動が続けられましたが、復旧はできませんでした。「八島」艦長坂本一大佐は投錨し、総員を整列させて君が代を吹奏させ、軍艦旗を降納し、万歳三唱の後、総員退去を命じました。こうして二隻の戦艦が沈んでしまいました。

(この先、どうなさるのだろう)

 貫太郎は一中佐の身ながら連合艦隊司令部の動向を注視しました。主力戦艦六隻のうち二隻が沈んだのです。大損害です。しかし、作戦には何の変化もありません。連合艦隊司令長官東郷平八郎中将は旅順港の威圧行動を継続し、封鎖を緩めることは一切ありませんでした。それどころか東郷中将は五月二十六日、封鎖宣言を発布して世界に意志を示しました。その宣言に曰く。

「帝国海軍の充分なる兵力を以て封鎖し、之を維持する」

 その剛毅さに貫太郎は感心し、妙に安心しました。


 貫太郎が大規模な艦隊決戦を経験したのは、明治三十七年八月十日の黄海海戦においてです。早朝、「日進」と「春日」は旅順の東四十キロの海上、帽島付近で警戒任務についていました。旅順港外で哨戒任務に当たっている駆逐艦からは敵艦が盛んに掃海作業をしているとの報告が入りました。東郷平八郎中将の率いる戦艦四隻は、大連の東南海上五十キロの圓島付近に布陣していました。

「敵艦隊出港」

 午前六時三十五分に警報が入ります。その後の報告によれば旅順を出港したロシア艦隊は渤海方面に進み、以後、黄海を南下しているといいます。ここにおいて東郷中将は艦隊を旅順港の南東五十キロの遇岩付近に推進させるとともに、「日進」と「春日」に合同を命じました。

 午後零時九分、東郷艦隊は主力艦六隻で単縦陣を組み、西方の海上を注視しつつ、遇岩北方付近でロシア艦隊の出現を待ち構えました。その戦闘序列は「三笠」、「朝日」、「富士」、「敷島」、「春日」、「日進」です。

 開戦以来、待ちに待った敵主力艦隊を発見したのは午後零時三十分です。敵艦隊は戦艦六隻、巡洋艦四隻で単縦陣を組んでいます。さらに巡洋艦一隻と駆逐艦九隻が別の単縦陣を組み、その後方に病院船を帯同しています。旗艦「三笠」のマスト高く軍艦旗が掲げられました。戦闘開始の合図です。

 両艦隊の距離が一万二千メートルになった時、「春日」艦長の大井上九磨大佐は旗艦「三笠」に砲撃開始の許可を求めました。「春日」の主砲は二万メートルの射程を持っているからです。十分に狙える距離です。「三笠」からの信号は「よろしい」です。黄海海戦の第一弾を「春日」の主砲が発射したのは午後一時十五分でした。

 ロシア太平洋艦隊司令長官のウィトゲフト少将は戦うために出港したのではありませんでした。旅順港を脱出して、ウラジオストク港へと遁走するつもりだったのです。戦うより逃げることを考えていました。

 南下するロシア艦隊に対して、東郷艦隊は行く手を阻むように西進しました。丁字戦法をとって砲弾を敵の先頭艦に集中しようとしたのです。ウィトゲフト少将はこれを嫌い、東郷艦隊の殿艦の後方に向けて変針しました。いなされたかたちの東郷艦隊は行き過ぎました。東郷艦隊は左九十度一斉回頭を二度繰り返し、「日進」を先頭とする単縦陣でロシア艦隊を追い、再び丁字戦法の陣形をつくりあげました。しかし、ロシア艦隊は東郷艦隊の殿艦後方へと針路を変えていなします。東郷艦隊は右九十度一斉回頭を二度繰り返して「三笠」先頭の単縦陣となってロシア艦隊を追い、三度目の丁字戦法を目指します。ロシア艦隊はやはりこれを嫌い、東郷艦隊の殿艦後方へ針路を向け、いなそうとしました。

 これら午後一時十五分から午後三時二十分までの砲撃戦を黄海海戦第一合戦といいます。およそ二時間、日露の艦隊は五千メートルから六千メートルの距離で激しく砲撃し合い、双方ともに相当の命中弾を被りました。

「私は副長なのでブリッジにズーッといて格別の用もなくブラブラしていた」

 鈴木貫太郎自伝の記述です。貫太郎は「春日」の艦橋で一部始終を見ていました。「春日」の大砲が放った砲弾は敵艦によく当たりました。その命中率の高さに貫太郎は感心しました。じつは「春日」には砲術学校の教員が多く配属されていたのです。この第一合戦の最中、東郷艦隊とロシア艦隊とが並行戦になった瞬間があります。海戦では敵の先頭艦を狙うのが原則ですが、並行戦になると五番艦の「春日」から敵の先頭艦は遠くなります。そのかわり、すぐ目の前には巡洋艦「アスコリド」がいます。

(無理して遠くの戦艦を狙うより、手近の巡洋艦から叩けばどうだろう。弱敵に砲弾を使うのは癪だが、すぐ近いから当たるだろう)

 貫太郎は艦長に意見具申してみました。

「遠くの強敵より、まずは手近の弱敵から叩いたらどうでしょう」

「それは良いなあ」

 艦長は貫太郎の意見を採用してくれました。「春日」の砲門は巡洋艦「アスコリド」に照準を向けました。十インチ砲、八インチ砲の砲弾が次々に「アスコリド」に命中しました。やがて「アスコリド」の艦橋から黒煙が上がり、戦列を離れていきました。後続するロシア巡洋艦は「アスコリド」に従ったため、敵の単縦陣が乱れ、ふたつの単縦陣に分裂しました。これは「春日」の手柄といってよいでしょう。

 連合艦隊司令部は、ロシア艦隊を旅順港へ帰港させまいと考えていました。そのため東郷艦隊は単縦陣のままやや北へ針路をとり、敵艦隊の旅順港への帰港を阻止しようとしました。ところがロシア艦隊はウラジオストクを目指して南下を続けました。このため東郷艦隊は見事にいなされてしまいました。針路を再び南に向けて追撃に移りましたが、「春日」の長距離砲でも届かぬ遠方にロシア艦隊は去っていました。東郷艦隊は砲撃を止め、追走に移りました。

 副長の貫太郎は自由に艦内を動き回ります。艦橋の一番高いところには測距儀があり、測的係がひとりで距離を測っています。貫太郎は測距員に声をかけ、見晴らしのよいこの場所から海戦の様子を観戦しました。

 この日、誰も昼飯を食べていません。戦闘中は食事どころか、小便さえ持ち場で垂れ流すのが海軍の心得です。しかし、いまは追走中です。幸い「春日」の受けた損害は軽く、食事には何らの支障がありません。貫太郎は彼我の速力を概算し、追いつくまでには二時間ほどかかるとみました。貫太郎は食事を命じます。

「食事五分前」

「総員、手を洗え」

 号令がかかりました。「春日」では普段どおりの食事が出されました。士官の食堂にはワインも出ました。とはいえ眼前には敵艦がいます。みな早々に食事を済ませると持ち場に戻りました。貫太郎は持ち場での喫煙を特別に許しました。自分も艦橋で煙草を吸いながら敵艦を眺めます。

 ちなみに貫太郎のこの措置は、戦後になって批判を招きました。「緊張感が欠けている」というのです。事実、「春日」以外の軍艦では持ち場で握り飯をほおばるだけでした。合理性よりも同調性を要求するのが日本人の病弊です。貫太郎は屈しませんでした。

「彼我の距離と速度を勘案すれば十分に時間があった」

 日本社会の同調圧力を跳ね返すだけの知力、体力、気力を貫太郎は備えていました。


 東郷中将直率の第一戦隊はロシア太平洋艦隊を追いかけています。また第三戦隊、第五戦隊、第六戦隊、駆逐隊、水雷隊も敵艦隊を追尾しており、包囲陣形が形成されつつありました。そして貫太郎はというと、艦橋で椅子に座り、欄干にもたれて海上を眺めているうち、居眠ってしまいました。食事にワインを飲み、天気はよく、真夏とはいえ海上を全速で走る艦上は風が豊かで心地よかったのです。ふと目が覚めて間もなく戦闘が始まりました。

 午後五時半、彼我の距離は七千メートルに縮まっていました。ロシア戦艦「ポルターワ」が一弾を放ったところから黄海海戦第二合戦が始まりました。東郷艦隊はドンドン距離を詰めていき、追撃戦から並走戦へと移ります。この間、激しい砲撃戦が展開されています。被害が最も大きいのは先頭艦の「三笠」です。五番艦の「春日」は比較的に少ない命中弾数ですんでいます。もし敵弾が命中して損害が発生した場合の処置は、副長たる貫太郎の仕事です。「春日」では命中弾によって短艇が破壊され、帆綱が切断されました。さらに一弾が士官室に命中し、一度に十五名が負傷しました。脚を失った者もいましたが、幸い死者は出ませんでした。また、一時、火災が発生しました。副長の貫太郎は命中弾が出るたびに現場へ急行して復旧対処を指揮しました。

 東郷艦隊はやがてロシア艦隊を追い越していき、その行く手を阻むように回り込み、丁字陣形を形成しようとしました。ロシア艦隊はこれを嫌がり、舵を左へ切りました。午後六時三十七分、ロシア艦隊の先頭艦「ツェザレウィッチ」の司令塔に一弾が命中し、司令部要員を全滅させました。制御を失った同艦は左に大きく舵を切り、小さな円を描いて味方の単縦陣に突っ込みました。このため後続艦は混乱し、陣形が乱れました。東郷艦隊はこれを包囲するように圧迫し続けました。

 統一指揮を失ったロシア艦隊は数艦毎に四散し始めます。これを日本側の各戦隊は追撃しました。真夏の日は長く、午後八時の日没まで戦闘が続きました。

 日が沈むと東郷平八郎中将は駆逐艦および水雷艇に魚雷攻撃を命ずる一方、主力艦隊を南下させました。敵はウラジオストク港を目指して朝鮮海峡へ向かうと予想したからです。

 しかしながら翌朝、東郷艦隊は敵艦隊を発見できませんでした。大きな損傷を負ったロシア太平洋艦隊の主力艦は、ことごとく旅順港に逃げ帰っていたのです。大損害を被ったロシア艦隊には、もはや積極行動は不可能です。それでも艦隊の存在そのものが脅威であることに変わりはありません。決戦の好機を逸した東郷艦隊は裏長山列島に戻り、旅順港の封鎖監視を再開せざるを得ませんでした。

 一方、第二艦隊司令長官上村彦之丞中将は、八月十四日早朝、ようやくウラジオストク艦隊を捕捉しました。場所は対馬の北方、蔚山沖です。一等巡洋艦「出雲」、「吾妻」、「常磐」、「磐手」の四艦は単縦陣を組み、敵艦隊に肉薄しました。この海戦でウラジオストク艦隊は巡洋艦一隻を失い、二隻が大破しました。以後、ウラジオストク艦隊の活動は止みました。


 九月十一日、鈴木貫太郎中佐は「春日」副長から第五駆逐隊司令への転属を命じられました。貫太郎は連合艦隊司令部を訪れ、東郷平八郎中将に挨拶し、参謀長の島村速雄少将に訓令を求めました。

「何か訓令を受けることはありませんか」

「別に何もないが、かねての君の説のとおり十分やってもらいたい」

 日露開戦以来、駆逐艦や水雷艇は数多くの海戦に参加し、何百本もの魚雷を放ってきました。しかし、戦果は乏しいものでした。黄海海戦にしても、夜間の魚雷戦において駆逐艦と水雷艇は敵艦を沈めていません。いずれも遠距離からおそるおそる魚雷を発射していたからです。そこで連合艦隊司令部は、かねてより水雷艇の肉薄攻撃を主張していた貫太郎に着目したのです。貫太郎としては望むところでした。

 貫太郎の率いる第五駆逐隊は四隻の駆逐艦で編成されています。「不知火」、「夕霧」、「村雲」、「陽炎」です。ちなみに駆逐艦という艦種は日清戦争後に現れた新艦種です。当初は水雷艇駆逐艦と呼ばれましたが、後に、駆逐艦となりました。水雷艇よりも一回り大きい戦闘艦であり、主要兵器はもちろん魚雷です。第五駆逐隊の四隻は同型艦です。イギリス製、全長六十四メートル、排水量三百トン、最高速力三十ノットです。兵装は単装砲二門、水上魚雷発射管二門です。

 第五駆逐隊は旅順港の哨戒任務につきました。哨戒は地味で危険な任務です。旅順港外には数多くの機雷が沈置されているからです。日露両軍が敷設したものです。自軍の定置機雷は位置がわかっているからよいのですが、ロシア軍の浮流機雷が危険です。貫太郎が赴任してみると、現場では危険を避けるために哨戒をおざなりにする行為が横行していました。

「訓令どおりにやれ」

 貫太郎は第五駆逐隊の四隻を哨戒区域に入れ、自らが操艦して訓令どおりやって見せました。すると悪評が立ちました。

「今度の司令は素人だ。盲蛇におじず。危険水域を平気で歩いている。今にドカンだ」

 しかし、貫太郎は気にかけず、方針どおりに哨戒区内を丹念に掃海しました。一日で七基の浮流機雷を見つけることもありました。

(なるほど)

 確かに恐ろしい。貫太郎は昼間に丹念に掃海させ、乗組員を安心させておき、夜間の哨戒を訓令どおりにやらせました。ただ、天候の悪い日や海流の激しい日には無理させないようにしました。そのうえで、連合艦隊司令部に哨戒任務の改善について意見を具申しました。

 単調な哨戒任務は九月、十月、十一月、十二月と続きました。この間、駆逐艦同士の小競り合いはあったものの、ロシア太平洋艦隊の主力は動きません。

 要塞内に立て籠もる敵艦隊を海上部隊で撃破するのは困難です。そのため乃木希典大将の指揮する第三軍が陸上から旅順要塞を攻撃しています。八月から始まった第三軍の旅順要塞攻撃は悪戦苦闘の連続でしたが、十二月六日には要衝の二百三髙地奪取に成功しました。二百三髙地に砲兵隊の観測所が置かれました。旅順港内が丸見えになり、直接射撃が可能になりました。陸海軍の重砲陣地から撃ち出される砲弾は旅順港内の主力艦を次々に撃破していきました。

 ただ一艦、戦艦「セバストーポリ」のみが秘かに旅順港を脱出し、老虎尾半島の付け根に難を避けました。十二月九日未明のことです。この場所は二百三髙地からは死角になっています。また要塞砲の射程内にあるので、安易には近づけません。「セバストーポリ」は艦の周囲に防材を張り巡らせて徹底抗戦の姿勢を示しています。

 その夜、第五駆逐隊の「不知火」は、敵戦艦「セバストーポリ」から十五キロ離れた地点から監視を続けていました。夜を徹し、午前四時になりました。貫太郎は監視を艦長以下に任せて一休みするため自室に入りました。真冬の海上は猛烈な寒さです。室内には七輪が置かれ炭が焚かれていました。

(従兵は気が利くな)

 そう思って横になりました。

(七時に起きよう)

 自分に言い聞かせて貫太郎は眠りました。言い聞かせておけば不思議と目が覚めるのです。

(ん?)

 目が覚めました。すでに明るくなっています。起きようとしましたが、いつになく眠く、身体が動きません。

(起きねば。セバストーポリが)

 しかし、あまりに眠く、動けません。貫太郎の心中、睡魔と義務感との葛藤になりました。眠い。猛烈に眠い。起き上がろうとしても身体に力が入りません。それでも義務感が勝ちました。朦朧(もうろう)としながら立ち上がり、部屋の扉を開けてトイレに向かいました。そこに杉浦少尉がいました。

「君は早く起きて関心だね」

 そう言って二、三歩進んだところで意識を失いました。

 意識が戻ったとき、貫太郎は上甲板にいました。みんなが貫太郎の顔をのぞき込んでいます。

「どうした?」

「司令、今まで死んでいましたよ」

 「不知火」艦長の桑島省三少佐が言います。ハッとして貫太郎は海上に視線を投げました。「セバストーポリ」は動いていません。一安心した貫太郎は桑島少佐から事情を聞きました。要するに一酸化炭素中毒だったのです。睡魔に勝って起き上がった貫太郎は杉浦少尉にニヤニヤしながらモゴモゴと訳のわからないことを言い、倒れたのです。皆で貫太郎の大きな身体を甲板に運び上げ、人工呼吸をして新鮮な空気を吸わせ、水を飲ませました。それで蘇生したのです。

(よく死ななかったものだ)

 時間がたつにしたがって貫太郎は空恐ろしくなりました。かつて経験したことのない快い眠気だったからです。あのまま寝ていたら死んでいたに違いありません。貫太郎を生かしてくれたのは敵艦「セバストーポリ」の存在であり、戦場の緊張感でした。貫太郎は敵の存在に感謝しました。


 東郷平八郎中将は、水雷艇隊に夜間の雷撃攻撃を命じました。「セバストーポリ」に対する水雷攻撃は毎夜のように行われました。しかし、なかなか成功しません。敵の探照灯に目を眩まされたり、悪天候に遮られたりしたからです。浮流機雷に触れて沈没する水雷艇も出ました。それでも十日後には敵戦艦「セバストーポリ」は水雷攻撃のために浸水し、擱座しました。

 日本陸海軍の協同によってロシア太平洋艦隊は全滅し、旅順要塞は明治三十八年一月一日に陥落しました。連合艦隊の各艦は修理のため佐世保に帰港することになりました。はるか北欧から回航しつつあるバルチック艦隊との決戦に備えるためです。

 佐世保帰港の前、鈴木貫太郎中佐は第四駆逐隊司令に転補されました。貫太郎が指揮するのは「朝霧」、「村雨」、「朝潮」、「白雲」の四隻となりました。いずれも日本初の国産駆逐艦です。佐世保で一週間、呉で二週間、大阪で四日と、修理には時間がかかりました。貫太郎は佐世保と呉では下宿を借り、久しぶりに家族と過ごしました。家族と過ごしたのは「春日」回航直後の数日以来です。まだ幼い長男の(はじめ)は、長じて官僚となりますが、昭和二十年、貫太郎が総理に就任すると秘書官になります。

 一月末、修理を終えた第四駆逐隊は鎮海湾で連合艦隊に合流しました。以後、水雷戦闘の訓練を繰り返し、時に護衛任務や掃海任務につきました。


 日本中が待ちに待ったバルチック艦隊は、五月、日本に接近してきました。五月二十七日の早暁、第四駆逐隊は対馬にいました。

「敵艦見ゆ」

 駆逐艦「朝霧」の受信機は「八幡丸」および三等巡洋艦「和泉」からの電信をキャッチしました。

(ああ、やって来た)

 午前五時、貫太郎は第四駆逐隊に抜錨を命じました。二十ノットで南下し、午前九時には五島列島の北方まで到達しました。そこでバルチック艦隊を発見しました。戦艦八隻を主力とする全三十八隻の大艦隊です。以後は敵艦隊との接触を保ちながら北上しました。バルチック艦隊の周囲を日本海軍の小型艦艇多数が取り巻いています。その報告によって連合艦隊司令部はバルチック艦隊の様子を戦闘開始前に詳細に知ることができました。

 午後一時頃、東郷中将の率いる主力艦隊が北方に見え、二時過ぎから日露間の砲戦が始まりました。海上が明るいうちは主力艦隊の舞台です。貫太郎は海戦の様子を眺めます。二十分ほどで勝敗の趨勢は決したように見えました。この日、波が荒く、駆逐艦や水雷艇などの小型艦艇は大波に翻弄されつつ攻撃命令を待ちました。

「駆逐隊は敵を襲撃せよ」

 午後四時三十分、通報艦「千早」がもたらした命令です。貫太郎の指揮する第四駆逐隊は、損傷して艦列を離れた戦艦「スワロフ」に向かいました。一万三千トンの巨艦はひどく損傷を受けていました。艦上には各所で火災が発生し、黒煙を吹き上げています。前檣塔や煙突は吹き飛び、艦上設備には穴がたくさん空いています。それでも十ノットで航行し、小口径砲で発砲してきます。旗艦「スワロフ」の周囲には数隻の小型艦艇が帯同しており、これらが盛んに撃ってきました。水面に敵弾が落ちるたび水柱が上がります。まだ海上は明るいものの、第四駆逐隊の四隻は単縦陣でスワロフと並航しつつ六百メートルの距離まで接近し、魚雷を発射しました。波が高いために命中したかどうかの判断が難しいところです。四隻はそのままスワロフを追い越しました。その後、「朝霧」と「村雨」のみ反転し、敵艦隊と反航しつつ距離三百メートルまで思い切って接近し、魚雷を発射しました。「村雨」の放った魚雷が命中したらしく、「スワロフ」は十度傾斜しました。貫太郎は四隻に東北方向への離脱を命じました。魚雷装填のためです。

「駆逐艦隊、襲撃せよ」

 午後六時、駆逐隊五隊、水雷隊六隊、合計四十四隻による夜間水雷攻撃の命令が下されました。駆逐隊相互の事前合意により、貫太郎の第四駆逐隊は最後に攻撃参加することとなっていました。貫太郎は僚艦の戦闘を眺めつつ、腕を鳴らします。第四駆逐隊が敵艦を攻撃したのは日付の変わった二十八日午前二時半です。目標は戦艦「ナバリン」と「シソイベリキー」です。貫太郎は敵艦の前方から突撃し、反航しつつ魚雷を発射するよう命じました。「朝霧」は六百メートルで発射しました。「白雲」は三百メートルまで近づきました。魚雷は「ナバリン」に命中し、「ナバリン」は五分後に沈みました。「シソイベリキー」にも魚雷を命中させましたが、沈没は確認できませんでした。

 攻撃後、朝鮮半島蔚山で補給を受け、鬱陵島、元山と索敵しましたが、好敵は見つかりません。やむなく鎮海湾に向かいました。友軍はすでに鎮海湾を去っていました。三十日、第四駆逐隊は佐世保へ帰港しました。貫太郎は報告のため旗艦「三笠」へ向かいます。駆逐隊司令のなかで貫太郎が最後の報告者でした。連合艦隊司令長官東郷平八郎中将は報告を聞き終わると、話し始めました。

「あなたの攻撃はよく見ていました」

 第四駆逐隊による白昼の「スワロフ」攻撃のことのようです。東郷中将は三十分ほどかけて二十七日以来の海戦の経過を語ってくれました。貫太郎は内心驚きました。東郷中将は無口な提督だと聞いていたからです。雄弁な東郷提督は、統率のために無口を貫いていたのだと初めて知りました。


 日露戦争後、日本はロシアと協商し、日英同盟を継続し、第一次世界大戦には深入りせず、自国の平和を保ちました。自由貿易の恩恵を受けて経済も発展しました。国際連盟常任理事国となり、国際的地位を高めました。世界で唯一、列強諸国の植民地支配を峻拒し、白人国家と肩を並べ得た有色人種国家です。この時代にあっては奇跡に近い偉業です。そんな日本の興隆を背景に鈴木貫太郎の後半生は順風満帆でした。


  大正 三年 海軍次官

  大正 六年 海軍中将

  大正十二年 海軍大将

  大正十三年 連合艦隊司令長官

  大正十四年 海軍軍令部長


 もちろん様々な苦労がありました。シーメンス事件の後始末、海軍予算獲得のための折衝、軍縮問題への対応、関東大震災時の救助活動、荒天下の艦隊訓練などです。とはいえ大正期の日本の安全保障環境は良好でしたから、貫太郎は平時の提督でした。

 貫太郎は海軍軍令部長として海軍戦略を樹立させました。アメリカを仮想敵とした漸減邀撃作戦です。日本近海に敵主力艦隊を引きつけて決戦するという構想です。この戦略が成立する限り、日本の国防に大きな不安はありません。しかも、ワシントン海軍軍縮条約が成立し、世界の海は平和になったように見えていました。大手柄もありませんが、危機もない時代です。その意味で貫太郎は幸運だったといえます。貫太郎は海軍軍人として功を成し、名を遂げることができました。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ