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九州大学文藝部・三題噺

眩しい灰色 「台風」「ねずみ」「ミュージシャン」

作者: 長尾義明

「いちばんのりばに、かいづかゆき、ふつうれっしゃが、とうちゃくします、ホームドアから、はなれて、おまちください。」


 雨を避けて駆け込んだホームに、タイミングよく目的の電車は滑り込んできた。僕は制服のズボンの裾がビショビショに濡れていることを気にしつつ、何とか乗り込んだ。ドアが閉まる。そこでようやく、ダボっと半開きのままだった傘にしっかり留め具をして、キュッと細くした。台風が来ることは知っていた。でも、朝はちっとも降っていなかったし、福岡の天気予報は、ことに台風情報に関してはよく外れるから、折り畳み傘もレインコートも持たず、呑気に自転車で登校した。気楽な僕に反省させようと、台風は足取りを速めたらしい。空模様を察した僕は、自転車を置いて校門を出て、空から落ちてくる雨粒と競争するように走り、地下鉄のホームに駆け込んだのだった。全く、つくづく要領が悪い。自分の要領が悪いことを、本当は勉強以外のことで思い出したくないのに。今日返された模試の結果とか。そんな高校二年の秋。

 『現実逃避は灰色で』

 電車が動き出した直後、吊革に手を掛けた僕の背後で、突然大音量の音楽が聞こえた。振り返ると、座っている一人の女子が、スマホを胸に押し付けて固まっているのが目に入った。

 イヤホンの付け忘れ。

 周りの人からの視線をほんの一瞬でも浴びた彼女は、申し訳なさそうな様子で鞄の中をごそごそ探って、絡まったイヤホンを取り出した。そこまで見ていてやっと分った。うちのクラスの人だ。マスクをしていたから分からなかった。ほとんど話したことがない人。

突然話しかけたら驚かれるに決まっている。でもその時の僕には、考えるより前に話しかけてしまう理由があった。

 「ねずみ、さん。」

 僕は呟いた。彼女は、イヤホンを耳に着けようとした手をピタッと止めて、こちらを見た。

 「あ、高岸君。ええと。」

 彼女、桜木さんは戸惑った様子だった。名前を知られていて、驚きつつ少し安心した。僕は彼女が座っている側に近づきつつ、

 「今の曲、ねずみさんの曲だよね。」

 と、周りに憚られない声量で囁いた。

 「うん、そうだよ。ねずみさん、好きなの?」

 「めちゃくちゃ好き。」

 僕は不自然なほど食い気味に答えた、ことに後から気づいた。僕はその時決まり悪そうにしていたのだろう。桜木さんは慌てて、

 「いいよね、ねずみさん。」

 と言ってくれた。

 「『十戒』とか、『カチューシャ』とか、『ココアシガレット』とか。」

 彼女がさらさらと挙げたそれらは、まさしくここ最近、動画配信サイトに匿名でオリジナルの曲を投稿している、新進気鋭のミュージシャン、「ねずみ」の曲だった。新進気鋭、というのは僕が勝手にそう思っているだけで、実際その魅力にも関わらず、彼の知名度は高くない。だから、彼の歌声を知る人に会えたことは、ほとんど奇跡のように感じた。

 僕は興奮して言った。

 「今の曲、『灰色』だよね。僕、これの歌詞が好きで。」

 彼女はゆっくりと、でも嬉しそうに応えた。

 「ねずみさんの曲は、あれだよね、なんか、暗い所で、泥臭く生きている人を応援するような、自分のことが嫌いになりそう、っていうときに聴くと元気を貰えるような、そんな曲だよね。」

 桜木さんの分析は百臆パーセント、共感できた。言い得て妙とはこのことだった。

 「その通りだよ、桜木さん。」

 僕が嬉しそうに言うと、彼女はびっくりしたようだった。

 「高岸君、私の名前、知ってるんだ。」

 「知ってるよ、同じクラスだし。でもあんま話したことなかったよね。僕こそ、名前覚えてもらってないかと思ってた。」

 「そんなことないよ。同じクラスだし。」

 桜木さんは小さな声で言った。

 会話に間が生まれそう、になった。僕は頭を回転させた。

 「模試、どうだった。」

 「模試、ね。まあ。」

 桜木さんは黙ってしまった。いけない、まずいことを訊いたか。僕は緊張した。

 「だから、ねずみさんの曲を聴いてた、みたいな。」

 桜木さんは力なく笑った。「だから」の前は省略されていたけれど、伝わるには十分だった。ねずみさんの曲って、そういうもの。

 「そうか。僕も家帰ったら聴こうかな。」

 僕は俯いて独り言のように呟いた。

 「でもさ。」

 桜木さんの声で僕は顔を上げた。

 「ほら、この『灰色』の歌詞にもあるじゃん。『意外と雷雨かもしれない、意外と晴天かもしれない』。まあ、頑張れってことだよ。」

 「そうだなあ。」

 僕はしみじみとこう言うしかなかった。

 足元が斜めに揺らいだ。地下鉄が地上へ出ようとしているのが分かった。

 「外、雨かなあ。」

 桜木さんは肩越しにまだ暗い窓の向こうを見つめ、ポツリと言った。

 「ひどい雨かもね。」

 僕がこう言おうとしたその時、地下鉄は一気に地上へ飛び出した。

 雨は、降っていなかった。

 空は相変わらず曇っていたが、地下から抜けた僕たちには、眩しすぎる灰色だった。

 「さっきの雨はただの夕立だったのかな。台風、関係なかったかも。」

 桜木さんがどことなく嬉しそうに言うので、僕は空かさず言った。

 「福岡の台風の天気予報は、よく外れるからね。」

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