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内通者

 核開発施設から出たコーエン博士は大通り脇に設置された公衆電話に向かって駆け寄った。


「番号……番号……」


 背広の左前側、内ポケットの横を引きちぎり、丸められた10センチ四方のメモ紙を取り出すと書かれていた番号に電話をかけた。


『交換です』

「市内だ、493307を頼む」


 呼び出し音がなる間、コーエン博士はメモ用紙に目を移した。


(爆縮レンズ、運び出し、行き先不明……。黒豆、ディナー、延期。この組み合わせか)


 コーエン博士が手にしたメモは事前にアルター民主共和国の諜報員から渡された緊急連絡用の暗号表だった。

 対応する単語に置き換えた別の単語で文を作ることで、連邦捜査局(FBI)に盗聴されてても内容が知られない為に用意されものだ。


『もしもし?』

 出たのは若い女の声だった。

「あー……」


 事前に渡されていた暗号表を見ていてもコーエン博士は固まってしまった。


「黒豆のディナーを予約していたマルクだが、ディナーの延期を頼む」

『マルク様ですね。ただいま、担当の者と変わります』


 数十秒程、待たされたが。コーエン博士にはまるで数時間のように感じられた。


『もしもし、支配人のヨハンです』

 聞き覚えのある声だった。

 カエサリアタイムズの記者に核開発情報を流した日に接触してきたアルター側の諜報員だ。


「黒豆のディナーの予約の延期を頼む」

『黒豆のディナー……』

「18時に予約していたが行けなくなってしまってね。申し訳ないが延期できないだろうか?」


 暗号表を頼りに大急ぎで“今日の18時に爆縮レンズが運び出された”と伝えたコーエン博士は神経質そうに周囲の様子をうかがった。


『わかりました、可能です。20時はどうでしょう?』

「20時……っ!」


 向こうから時間を指定された場合は、その時間までに“会いたい”の意味だった。


「あー、それでよろしく頼む」

『では、マルク様。20時でお待ちしております』


「ふぅー……」


 受話器を置くとコーエン博士は深い溜め息をついた。

 ひどい手汗と緊張で背中に冷や汗をかいているのが判った。


「後2時間……時間は有る……」


 コーエン博士はカエサリアタイムズの政治部部長、オルネ・イスゲル部長の事を思い出し大通りを走って渡った。


「タクシー!」

 大通りの反対車線に止まっていた、黄色い自動車に叫ぶとコーエン博士は後部座席を開けて中に乗り込んだ。


「カエサリアの中央駅まで頼む」

「はい、判りました」





(終わったな)


 会談の日程をすべて消化し終え、オスティアに戻ったイシス達使節団は士官食堂に集まり紅茶やコーヒーを各々飲んでいた。


「お疲れ様でした。後は明日の条約文書の署名だけです」


 アルター側の施設に居る内、いや移動中の車両の中ですら私語1つ口にできない緊張感から開放され使節団達はホッとしていた。

 何処にアルター側の盗聴器が仕掛けられているか判らないからだ。


 会談で不利な内容を聞かれる可能性も十分にあり、イシス含め使節団一同、警戒していた。


「疲れた……」


「いやはや、全く!」


 イシスが絞り出すように声を出した真後ろで、ブレンヌスが大声を出した。

 思えば、ブレンヌスが居ることすら忘れるほど使節団は静かだった。


「……私は寝室に向かいます。時間になったら起こしてください」


 イシスはそう言い残し、そそくさと用意された士官寝室に入っていった。


「だいぶお疲れだな」

 ブレンヌスの一言に、一緒に居た人猫のニスルは短く答えた。

「気が張ってたからね」


 自身も紅茶を一杯飲み干すと大きな欠伸をしニスルは自身の寝室へと向かって歩き始めた。

「明日は文書に署名して、その後メディアを引き連れて変えるだけ……何も無ければいいけど」


 すでに昼間の停戦交渉と食事会の後に開かれた記者会見で質問攻めに有っておりイシスはじめ使節団は疲れていた。

 これ以上大きなトラブルはゴメンだった。




「どの辺で降りますか?」


 1時間掛け、カエサリアの中央駅に出てきたコーエン博士は進行方向を指差した。


「3つ先の信号のところで」


 タクシーが指定した所に止まると、コーエン博士は100デナリウス紙幣を5枚出した。

「釣りはいらないよ」


 大慌てで飛び出すと、広場に入り早歩きで横断し始めた。


(あそこだ)


 目指すはカエサリアタイムズの本社ビル。そこの政治部のフロア。停戦交渉が行われている関係上、オルネ・イスゲル政治部長はじめ、記者達が詰めているはずだった。




「……おい見ろ!」

「コーエン博士だ」


 エドガー・コーエン博士の姿を見つけた元CIAのレオン・ルチンスキーは大慌てで上着を着ると外に出た。


「コーエン博士の身柄を確保する必要があるかもしれん。全員心してかかれ」


 レオンがそう言うと、部下たちは首を縦に振った。


「行くぞ」





 広場の真ん中、大噴水の脇を通り過ぎたところでコーエン博士は右から近づいてくるレオンたちに気付いた。

 一瞬お互いに目が会ったが沈黙を破ったのはレオンだった。


「コーエン博士!」


「……っ!」


 コーエン博士は一目散に走り出すと、レオンとその部下2人も一斉に駆け出した。


「確保しろ!」


 声を掛け、何をしているか聞くだけの筈が大騒動に発展したのでレオンは興奮した。


「どいてくれ!」

 荷物を持った男とぶつかり、男が持っていた箱が3個地面に散乱したがコーエン博士は構わず走り続けた。


「カエサリアタイムズに向かってるぞ確保しろ!」


 広場を抜け通りに出た所で、レオンの別の部下が危うく車でコーエン博士を轢きかけた。


「うわ……うわ……」


 一瞬、四つん這いになったが再び走り出したコーエン博士に対し、車から飛び降りた連邦捜査官が大慌てで後を追いかけた。


「……くそ、入られたか」


 後少し。


 後少しの所で、コーエン博士がカエサリアタイムズの社屋内に飛び込んだため追えなくなってしまった。


 流石に令状なしでマスメディアの社屋内に踏み込んで怪しい科学者を連行するなど出来なかった。


「……社屋を監視しろ。コーエン博士が出てきたら身柄を確保する」

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