先制攻撃
〈オーブンは?使えるようになったか?〉
普段は冷静なライネがイライラした様子で叫んだ。
商店の裏手の厨房で、近所に駐留する兵士向けに販売する菓子等を作る予定だったが、ガスオーブンに火が着かないのだ。
〈駄目ですね〉
ビリーはオーブンの中に右手を突っ込み、ガスの吹き出し口からガスが出てるか確かめた。
〈出て来ないですよ〉
〈夜中は使えてたろ?〉
市の担当者が昨日、ガスの元栓を開けてくれた時に火が出るのを確認していた。それなのに、急にガスが出て来なくなるとは。
〈参ったな。コレじゃ仕事にならないぞ〉
今日はまだ、正式な開店日では無いが、菓子類を販売する事は近所に触れ回っていた。前にライネが人民軍の兵士達に売り付けた物と違い焼き立ての菓子類だ。宣伝効果を考えると是が非でも今日は販売したかった。
〈元栓は空いてますがガス計は動いてないですよ〉
元栓を確認しに行ったジョージが戻って来たが、元栓が空いているのにガス計が動いていないと聞きライネは眉をひそめた。
〈……建物までガスが来てないのか?それか、誰か間違えて中間弁を閉じたか?〉
元栓に付随するガス計が動かないとなると、建物に引き込まれたガスが出口が無く、単純にガスが流れないか、建物までガスが到達して無いかのどちらかだった。
〈管を追いかけて来ましたが、元栓からオーブンの間には弁の類は有りませんでしたよ〉
〈あのー……〉
厨房の入り口から、従業員として採用したマルターが顔を出した。
〈ガスでしたら、今の時間は止まっています。次は11時から出ます〉
ライネ達3人は、壁に掛けてある時計を見た。
〈あと30分も?〉
オーブンを温める時間も考えると早くガスが出てほしいのが本音だった。
〈ガス不足でして。時間によって供給制限してるんです。なので、電気式のオーブンを使ってる人も多いです〉
まさか、都市ガスが供給されない時間帯が有るとは思わず、ライネはビリーと目を合わせた。
〈参ったな、何分有れば全部焼ける?〉
既に型抜きしたクッキーや卵黄を塗ったパイの山に視線を移しながらライネは呟いた。
〈2時間近く掛かりますよ〉
予熱の時間を考えるとそれぐらいは掛かりそうだった。
〈だったら、なんとかなるかも知れませんよ。ガスは11時から13時まで供給されます〉
マルターに供給される時間を教えられ、ライネ達3人は再び時計を見た。
〈よし、昼時に売れそうなパイから先に焼いてくれ〉
「着剣!」
第2師団所属の砲兵中隊が放った25ポンド榴弾砲の砲弾が、第2師団と人民軍が対峙している農地に一斉に着弾した。
「「「「着剣!」」」」
突撃発起位置の塹壕に待機している、第2師団の歩兵達は指揮官の号令を復唱しながら、M3ライフルに銃剣を挿し、塹壕から飛び出す用意をした。
アルター民主共和国の占領下に置かれて4年余りの間に、占領されたファレスキとケシェフの間に広がる荒れ地は開拓され。今は秋の種まきを終えた小麦畑や葡萄畑が広がっていたが、第2師団の砲兵により無残に吹き飛ばされるのは、突撃を控えた兵士達からしても、見ていても良い気がしなかった。
徐々に榴弾砲の着弾する音が遠のき、人民軍が潜んでいる陣地に段々と近づくので、塹壕で潜んでいる兵士達は突撃の時が近付いているのを肌で感じていた。
〈退避だー!早くしろ!〉
一方、陣地に駐留する人民軍兵士は深いタコ壺や鉄筋コンクリートで補強された掩蔽壕へ逃げ込み、野戦砲や4連装15ミリ機関銃等の重火器を輓馬に牽かせ掩蔽壕へと退避し始めた。
〈敵の準備砲撃です!現在、陣地に向け榴弾砲の砲撃が始まりました!〉
駐留する兵士は1個中隊規模だが、人狼との前線なので指揮所は立派な物であり、占領下のファレスキやティルブルクの師団司令部への直通電話の回線引かれ、指揮所のデスクの上には多種族に対応するため受話器と送話器が別れた電話が幾つも置かれていた。
『計画通りティルブルクの連隊から援軍派遣する、敵の規模は?』
今もこの陣地を守っている中隊長がティルブルクに居る師団長と直接会話をしていたが、師団長からの返事は安心できるものではなかった。ティルブルクからこの陣地まで徒歩で半日の距離があり、守り切れる事は難しいと中隊長は判断していた。
〈砲撃の規模から、敵の総攻撃だと思われます。我々だけでは何時までもつか……〉
指揮所が大きく揺れ、電灯が一瞬落ちてから再び灯りが着いた。
地下に在る指揮所の地上部分に25ポンド砲が落ちたのだ。
〈もしもし?もしもし!?〉
中隊長は送話器側に着いたフックスイッチを何度も押し、左耳に当てていた受話器から通電時に鳴る音が出るか何度も確かめた。
〈ダメだ、回線が切れた〉
全く音がせず。電話線が断線したと中隊長は判断した。
「良いか。目の前で何か光ったら地面に伏せろ!ボサッとしてると直ぐに蜂の巣だ!」
第2師団側の塹壕では、前世でも兵士として戦争に行っていた小隊長が部下達に助言をしている横で、中隊長はカニ眼鏡を覗き込み砲撃の効果を確認していた。
時折、遠くに在る人民軍の砲兵陣地からの応射が飛んでくるので、その度に塹壕に土が降り注いだ。
「そろそろだ、用意を」
突撃の合図の笛が鳴る頃合いだと、中隊長は判断したが、突然右隣の中隊がバクパイプで「勇敢なるスコットランド」の演奏を始め、それを合図に突撃を始めてしまった。
「Shit!Charge!」
自分達の中隊にだけ、突撃の合図が届かなかったのか?それとも、隣の中隊が勇み足から合図を待たずに突撃を開始したのか?
原因は判らなかったが、中隊長は部下に突撃を指示すると塹壕から飛び出し、それを見た部下達は一斉に喚声を上げ後に続いた。
「……!?」
後方の師団司令部では突撃指示を出す前に全ての中隊が突撃を始めたので軽い混乱が生じた。
「突撃指示は?誰が出した?」
直ぐに大隊長が司令部内で叫んだ。
「いえ、未だ指示の方は……」
「……構わない、そのまま計画通り“突撃の段階”へ移行。砲兵中隊には歩兵の援護をするように指示を」
幸い、混乱が広がる前に師団長のニュクスが作戦を次の段階に移行するように指示したので幕僚達は計画通りに動き始めた。
「「「「……ぁぁぁぁぁあああああ!」」」」
〈負傷者を下げろ〉
準備砲撃が終わり、人狼側の歩兵が喚声を上げて突撃を開始したので、退避していた人民軍兵士達は陣地に戻り迎撃の準備を始めていた。
崩れた機関銃座に土嚢を数人がかりで退かすと、分隊支援用の機関銃を設置し直し、掩蔽壕に曳き入れていた野戦砲や大型の4連装機銃も大急ぎで押し出される。
〈固定よし!〉
射撃位置まで4連装機銃を前進し、レール上から動かないように固定する作業していた兵士が叫ぶと、他の兵士が箱型の弾倉を入れ、機銃の槓桿を引いた。
〈装填完了!〉
「Feuer!」
「っ!?」
遠くで何かが光り、一拍遅れてから仲間の兵士の右肩が弾け飛び、近くに居た兵士達は砲撃で出来た穴に飛び込んだ。
「誰がやられた!?」
「判らねえ、見てねえ!」
同じ穴に飛び込んだのは3人。
だが、3人共返り血を浴びたが、誰が撃たれたのか目撃していなかった。
「バーンズか!?」
3人の内、先任の軍曹が穴の外に向かって叫んだ。
「無事です!」
別の穴に飛び込んだであろう部下の叫ぶ方に耳を向けると、近くに立っていた木に銃弾が当たり、木片が降り注いできた。
「誰が撃たれたか見たか!?」
「大尉です!」
バーンズの答えに軍曹は愕然とした。
寄りにも寄って、自分達の中隊長が早々に戦死したのだ。
「参ったな……」
この場合は、代わりに先任の小隊長が指揮を執るのだが、中隊長戦死の事実が周りに伝わっているか判らなかった。
一応、小隊規模で行動するように訓練されているが、漠然と中隊全体が行動し、孤立する恐れが有った。