過去は振り返らずにまいりましょう
「あら、失礼」
右半身に盛大にぶちまけられた熱々の紅茶に
飲み物を粗末にするなと物申すのも馬鹿馬鹿しい。
ギロリと睨めば相手は僅かに顔色を青くした。
…これは本人の意思じゃないな。
自分で実行するだけの度胸があるなら少し睨んだくらいで怯むわけがない。
あの子があらゆる男に色目を使っていたせいで首謀者の心当たりが多すぎる。
だがまあ、人を動かせるのなどそう多くはない。
容疑者の筆頭株主はリタ。だがあの騒ぎ以来彼らには一切近づいていないし、なんなら視界にも入れないようにしている。
まあほっておけばいずれ沈静化するだろうと結論づけ
それ以上は何も言わずに持っていた空のお皿を受付に戻した。
そのまま裏庭の人気のない水道で冷やそうと腕を捲りかけて
やめた。
「直ぐに冷やした方がいい」
後ろに立っていたのはつい今しがた人の頭の中に浮かんでいた人物
ランカスター公爵キース=ハドソンだった。
表情は読めないがこちらを心配しているような口ぶりが非常にわざとらしい。
「なら席を外してもらえませんかね。
殿方に素肌を見られたくないもので」
「そんな事を気にするタイプじゃないだろう」
当然といった風に退席の意思はないと近寄ってくる。
あの子をよくわかってるじゃないか。
だがエレナもおいそれと彼の前で腕をさらすつもりなんぞない。
挑戦的に睨み返してリタがお嘆きになりますよ、と嫌みを放ったら鼻で笑われた。
「君が今更そんなことを気にするのか?」
キースは嘲るように肩を揺らすといよいよこちらに近づいてくる。
嫌な予感がして後ずさるとさらに距離を詰めてきた。
慌てて後退すると何故か余計足を速めてくる。
「こんな人気のない所で男女が2人であっていたら周りはどう思うでしょうね」
「君はそれを狙っていたじゃないか。望み通りにしてあげたのに拒否するのか?」
そんなことしてたんかーーーーーい。非常識にもほどがある!
「心を入れ替えましたのでっ」
「冬休みのたった10日で?前はもっと制服もラフに着崩していたし
歩き方もそんな隙のない動きじゃなかったろう」
おおおおおこの男、勘が良くてめんどくさい!!!
もはや走り出すレベルの早歩きで水道の周りを逃げ回るエレナに
ますます歩調を速めてくるキース。
「たかだかクラスメイトの女子が1人態度を変えたくらいで大袈裟でしょう!」
「明らかにおかしな点があれば気になるだろう?」
「そもそも公爵様がこんな所で1人でいたら危険なのでは!?」
「ご忠告ありがとう。それに関しては対策済みだ」
「そういう慢心が隙を作るんです!
ご自身の立場をお考えになったほうがよろしい!」
「懐かしい。フィオナにも昔同じことを言われたよ」
言われてしまったと舌打ちをする。
流石に婚約を申し出た相手の事は覚えているらしい。
エレナのその反応にキースも反応した
「クラス替えで会った時から思っていたんだ。君はフィオナだろう?エレナはどうした」
「何のことです?お姉様はアディントン伯爵の家へ嫁がれました。私は正真正銘、妹のエレナですよ」
「ほう、なら確かめようじゃないか」
そういってキースが何をいいかけた瞬間、背後で人が動く気配がした。
咄嗟に振り向くと覆面の男が飛びかかってくる。
直ぐに体を捻って男の拳を交わすと勢いそのまま背中に回し蹴りを食らわせ地面に男の体を叩きつけた。
即座にキースを背に庇うが、男も予想していたのか直ぐに体制を立て直して再度食らいついてくる。
正直このままではあまりに分が悪い。
実戦から離れて程遠いいし、獲物も持っていない。
何よりキースを守って戦える程この男は弱くない。いや、強い。
エレナでは足止めがどこまで持つかもわからない
「人のいるところへ!!」
男の拳が風を切る。だが後方のキースが動く気配はなかった。
このまま避ければキースに当たる以上自分が盾になるしかない。
両腕を前に出して防御体制に入った瞬間後ろから静かに声が響いた。
「もういい、そこまでだ」
その言葉を合図に弾かれたように覆面の男が後ろへ後退する。
「キース様、これはあまり趣味が良いとは言えませんよ」
覆面の男がやれやれというように埃を払うのを見て嫌な予感が頭をよぎった。
「これでもご自身をエレナだと言い張るかな?
ハーツフォーン子爵の長女にして、騎士養成所 第7部隊隊長
フィオナ=バート殿?」
「計りましね…」
「現在進行形で計っているのは君だ」
「私はエレナですよ。残念ながら姉のフィオナは伯爵家に嫁ぎましたからね。」
そう答えると苦々しい顔をしたキースは
そんな事は分かっている、と応えた。
「だが冬休み前の君は確かに病弱で運動は苦手、勉強もイマイチで
その代わり色恋沙汰が得意なハーツフォーン子爵の次女エレナだった」
「人は変わるものですよ」
「この場所で、この状況で君がそれを言い張るのか?
あの事件を忘れたわけではあるまい」
「事件なんてしりませんね」
「俺はよく覚えているよ。あの時も襲い掛かる侵入者相手に君は
こうして俺を庇って右腕に大けがを負ったじゃないか」
「…知りません!私はエレナったらエレナです!」
「あの時と全く同じ事をしておいて君も粘るな」
「しつこい!エレナはエレナ!フィオナはフィオナ!
フィオナはお嫁に行きました!ハイおしまい!」
前後を塞がれているため脇の水道台を飛び越えると
固まる2人をひと睨みしてからその場を後にした。
颯爽と去っていく少女を見送っているとやがて覆面の男が感心したように声を漏らした。
「ノーモーションであの跳躍は素晴らしいですね、反応も悪くない。
ウチの護衛に誘いませんか?鍛えれば相当伸びますよ」
「…絶対ダメだ」
「でしょうね。凄い嫌な顔してましたもんね?
女性に護られるのはそんなにお嫌いですか。」
女性だって強い騎士は沢山いますよーと笑う部下にキースは気分を害した風でもない。
「そうじゃない。当時の事を思い出していただけだ。」
そういってキースは今しがた彼女が退場した方向を苦々しい顔で睨みつけていた。
「"エレナ”、隣にお邪魔しても?」
「キース様、他にもっと広い席がありますよ」
「ありがとう、助かるよ」
おかしいな。同じ国の言語を使用しているはずなのに会話が全く成立していない。
「君はワンディッシュが好きだな」
「チマチマお皿を変えるの面倒じゃないですか」
「同感だ。騎士養成所の食事が懐かしいよ」
「そ…っ」
思わず賛同しそうになって危うく思いとどまった。
慌てて食事を口に運ぶと隣の男がニヤニヤしているのがわかる。
見なくてもわかる。
「別に君をこの学園から追い出そうとか言ってるわけじゃないんだ。
早く認めたほうが楽になるぞ」
「容疑者を追い詰める時の常套句ですねそれ。」
「あらいざらい話してくれたら、悪いようにはしないと誓おう」
「悪役の常套句ですよねそれ」
クラス替えが終わってから3ヶ月が経過した。
予想通りエレナが大人しくなると嫌がらせの類は格段に減って
今や至ってまともに生活が送れるようになったのは一重にエレナの忍耐力の賜物だと自負している。
途中何度かキレかけたが相手が女子だった事が幸いした。
男子だったら鉄拳の1つでもお見舞いしていた所だが、
可憐な少女が相手では睨みを効かせるのがせいぜいである。
「君の周りの小鳥達は最近は静かになったかな?」
時々この男は人の考えていることが見えるのか?
と言うほど的確に話題を振ってくるので心臓に悪い。
「…まあ"小鳥"は減りましたかね。そもそも小鳥の可愛い囀りなんて一々気にしてませんが」
その代わりでっかい金色の狼?いや犬が増えましたけど
「君は変わらないな。昔から周りの嘲笑や批評を歯牙にも掛けない。そのくせ
聞くところはきっちり聞いている」
「評価をするのは自分ではなくて周りですからね」
「昔から、と言うところは否定しないと」
やらかした。
こうなってはもう分が悪い
「ご馳走様でした」
さっさと撤退を決め込んで立ち上がればそれ以上相手も追求する気は無いのか
お疲れ様、と労いの言葉をかけてくる。
疲れさせてる自覚があるならやめてくれないかな
「来週の立食パーティーを楽しみにしているよ」
返事はできなかった。
面倒な事この上ない”授業”に一気に疲労感が増したのである。
ここは紳士淑女の生産工場、社交界での嗜みも授業の内なのだ。
といっても殆どが既にプライベートで社交界デビューなど
済ませているため本当に"授業"になるのは極少数でしかない。
上流貴族にとっては只のお喋りの時間を、どうやり過ごすか、
そもそもドレスがないと言う根本的な問題にエレナはがっくりと肩を落とした。