76. 突然の選択肢
クリスとイテルツは実は面識がある。
ただ、イテルツは生前のクリスを思い出したが、クリスにはイテルツの記憶は無い。彼らが顔見知りだったのは、先代のアマトリリア聖堂の主、ルキウス浄人の計らいによる。
ルキウスはお気に入りの用人クリスに時折武術指南を命じていた。20年以上前の事でクリスがツェルブルクで行方不明になる数年前からの話だ。
誰の指南?
ルキウスが引き取り育てていた幼い弟子達のだ。
ガイア平野の内乱はタイタニアの凋落と同時に新しい秩序、新しい権力者を生み出した。ルキウス達の活躍もあり人的被害も少なくほぼ終了しつつある内乱だが没落する支配階層は少なからず存在する。
この異世界において支配階層とは高い魔力を生まれ持った人達だ。
ルキウスは僧なので結婚できない。その為、ナガモリとルキウスが築いた巨大な権力の後継者を広く求めていた。没落貴族の子弟は格好の標的だ。彼らは高い魔力の素養を持つ知識階級である。また法衣の世界でも家格の高さは隠然と価値を持っているのだ。
イテルツはフェーべの北西の海沿いの町ナルヴィの貧乏貴族の5男。幼くしてアスラ寺院に入山している。
実は内乱が無くてもアスラ教に入れられた身の上だった。彼の高い資質を伝え聞いたルキウスによって引き取られ現在に至っている。
イテルツは自分を何度も指導してくれた剣士を事を良く覚えていた。幼時から衆に優れていた彼にとってクリスは印象的な男だったのだ。彼がクリスの指導を受けたのは10歳から12歳の短い期間だが、一度も触れる事さえ出来なかった対手は他にはいない。
彼がナガマサ達に親切なのは少年時代に指導してくれた無口な剣士の記憶があるからだ。
☆
「何でダメなんすか? 口寄せして情報聞くだけっすよ?」
「何故と問われると困るが、そういうものなんだ」
ヤンスの聖人ナガモリの遺体を利用する案にクリスが珍しく反論している。
「アスラ教の聖堂内で聖人の遺体に手を出せば即座に処刑だ。実行犯は八つ裂きにされるぞ」
「ええ? マジすか?」
クリスの目を丸くするヤンス。
ヤンスからしたら、別に遺体を盗むわけでも傷つけるわけでもない。
ただ、数時間、場合によれば数十分遺体を借りるだけなのだ。
彼は『聖人』という概念をよく分かっていなかった。
マキナ山には聖人の遺体は祭られていなかったし、ナガモリという聖人はルキウスと比べるとアマトリリス聖堂に集う人々には縁が薄い。ヤンスが情報を収集した人々はその縁の薄い人たちに限られていたので少し判断が甘かったのだ。
「アスラ教では死霊術は禁忌なんだ。遺体を保存しているのは聖人を慕い偲んでいるからだ。ゾンビにする為じゃないんだ」
「だから、内緒でやればいいっすよ。イテルツさんに口利いてもらったら、簡単っすよ」
もちろん、ヤンスだって死霊術が人間の世界で嫌われている事くらいわかっている。そして、人間社会に裏があり、ボスの意向で判断基準がコロコロ変わる事も彼は良く知っていた。だからこその、聖人ナガモリ利用案だったのだ。
「うむ、、、そういう事じゃない。ナガモリ様は生前の功績と高潔な人格を称えられて聖廟で祭られているんだ」
クリスはルキウスに可愛がられていたが、アスラ教徒ではない。なので信徒達の気持ちをヤンスへ苦労しながら説明していた。
「聖人を私的に利用する行為が言語道断な行いなんだ。これは理屈というより心情による。この土地の人の気持ちだ」
元々魔力の薄いこの地域は死霊術とは縁が薄い。
普通に魔力がある地域でも死人の扱いは微妙だ。まして魔法と縁遠いガイア平野ではネクロマンシーなど受け入れられない。
故に、この地域で発展した宗教アスラ教では死霊術は禁忌なのだ。
クリスはこのガイア平野に生きる人たちの気持ちをヤンスに伝えるが、それは非合理的な感情によるものなので、少しヤンスには理解しにくい。
「そっすか。理解したっす」
眉間をひそめながら、ヤンスは考える。
「番人を買収とかしてもダメっすか?」
といっても、ヤンスはあくまで合理的だ。聖人を慕う人々の気持ちもバレなければ問題ないと考える。
なにより、人間社会における賄賂の威力をヤンスは学習していた。
ここでナガモリから話を聞けたら、ナガマサの目標の大きな助けになる可能性が高い。そして、それはナガマサなら容易く実現できる方法なのだ。
「まあ、待てよ。クリスが困ってるぞ」
長椅子に寝そべっていたナガマサが座り直して助け舟を出す。
本来なら、誰よりもヤンスの案に乗りたいナガマサだ。でも、今日の彼はヤンスの味方はできなかった。
何故なら、ナガマサはイテルツの実力を思い知らされている。
「普通なら良い手だと思うけど、今回は無理だ。イテルツを誤魔化すのは難しい。アイツなら俺の仕業だって絶対気が付く」
イテルツが持つ真眼はいとも容易くナガマサの魔力の痕跡を見つけ出すだろう。それを察知すれば、彼は直接ナガマサを調べる。
そうなれば即発覚だ。
日本でなら物的証拠がない事を訴える事もできるが、この世界では証拠はあまり意味をなさない。現在のナガマサのように立場の弱い人間には特にだ。
「この町でイテルツが死刑って言えば、ガチで処刑されそうだからな。ちょっと言い方間違えただけで切れるぞ、あいつ」
実際に理不尽なキレ方をされたナガマサだが、身分差とはそういうものだ。
よく時代劇で庶民がお偉いさんに頭を下げているのは伊達ではない。
喋り方一つで処刑は有り得る。まして、宗教的なタブーを犯せば死刑になるのはむしろ普遍的な事例だ。
「そっすか、、、」
ヤンスは肩を落とした。なんだかんだ言っても、いつもは味方をしてくれるナガマサにやる気がなさそうだったのだ。
折角の彼の名案は廃案だ。
「あら、珍しい。諦めますの? 名案ですのに」
「――?」
咄嗟に言葉が出ないヤンス。
幽鬼の如く佇むクリス。
長椅子に座るナガマサ。
彼らは皆、声の主に視線を向けた。
嫣然と微笑むイザベラはいつの間にか人数分のお茶とお菓子を用意している。
「はい、お茶が入りましたわ。このお菓子イレーヌ先生から頂きましたの。とっても美味しいですわよ」
「いや、あの、お菓子は、、、それより、何か秘策があるんすか?」
「秘策?」
ヤンスの言い回しにイザベラは思わず笑みを漏らす。
「そんなの要りませんわ。イテルツさんに認めてもらえばいいだけですもの」
「え? イテルツさんに賄賂は効かないっすよ?」
「当たり前ですわ」
イテルツは普段着は粗末だが大貴族以上の収入もあるので、賄賂は無効。さらに、若くして大宗派であるアスラ教の浄人位なので、ツェルブルクの王族ラルンダの影響力も効果がない。
「もしかして、色仕掛けか? 相手は坊主だぞ?」
「あら、ナガマサ様ったら。もちろんそれでも自信はありますわ。でも、そんなの必要ありませんでしょう?」
「じゃ、どうするんすか?」
「どうもこうも、イテルツ様に貸しを作れば良いだけですわ。それも、無視できないくらい大きいのを」
「そんなのあるか?」
「どっちかって言うと、こっちが借りてる感じっすよ」
「ちょうど、カレル様の治療を命じられていますわ。そうそう、カレル様本人にも大きな貸しになりますわ。アスラ教のトップの一人ですわよ。楽しみですわね」
「なるほど、、、て、でも治せるか? 胃がんなんだろ?」
「ですわね、それもかなり悪化してますわ」
この地の俗語で胃癌をガスパールという。
ガスパールとはこの地に伝わる悪魔の名前なのだ。
胃癌は現代日本では早期に発見できれば予後の良い疾患だ。
ただ、過去においてはそうではないし、この異世界でも脅威だ。
意外と症状が出にくいので無自覚のまま進行しやすく、そして、胃癌が進行すれば患者は食物を受け付けなくなり、やせ衰えるようになる。
ガイア平原ではその時の死相が浮かんだ顔を悪魔に憑かれたと称し、胃癌の事を隠語で悪魔の名で呼ばれる原因となったのだ。
なので、ガスパールと隠語で呼ばれるのは、かなり癌が進行した状態になる。
そして、その悪魔を払う事はこの異世界でも人間には難しかった。
癌と治療魔法は相性が悪いのだ。
癌=悪性腫瘍とは、自分の肉体の一部が異常に自立的に増殖し、それが転移したり周りの組織を侵食してしまう病気だ。それに治療魔法をかけたら癌細胞が元気になってエライことになる。
この病気に治療魔法が効かない事はすぐに、この異世界に人たちも気が付いた。
古代においてはともかく、この魔法の使える世界でも臨床における観察は医学にとって極めて重要である事を、魔法医だって理解しているからだ。
現代日本でも50年前くらいなら、癌宣告は死刑宣告と同等の重みがあったが、この異世界だと魔法というツールがあるため、ある程度対応はできた。
その辺は、中世の日本や欧州と比べたら雲泥の差。医者にとって夢の世界だ。
例えば、癌の位置を特定できれば(別に魔法を使わなくても、胃癌とかだと触診で分かることもある)、限定的だが外科手術も可能なのだ。
ただ、この世界の医者達は外科といっても開腹手術をしようとは思わなかった。彼らは文字通り魔法の杖を持っている。まず、前提条件が違うのだ。
外傷に対する治療魔法のリカバリーは、現代医学よりも圧倒的に高い。それでも開腹手術をすれば患者を殺すリスクが高い。それならそんな危険な手取らない。他の方法を模索することになる。
超人的な魔法を使える医師が数名チームを組めば可能だろうけど、そんなメンバーが揃うのは特殊な事例だ。
沢山の人たちに医療技術として受け継がれていくのは、普通の技術者でも継承可能な技能に限られる。
そこで、前述した魔道具、医療針を使う。イエソド流のは人体に刺さないが、本来は人体に突き刺し内部に魔法を行使するの魔道具なのだ。
人間の身体には大量の魔力が流れている。だからこそ、人間は魔法を使えるのだが、その魔力の対流の中、つまり体内に他人が魔法を編むのは難しい。
だから、魔力を直接伝導できる魔法針を使って術者の魔法を患者の患部へと直接作用させる。
治療魔法を伝達させる細い針なら患者に穴を開けてもリスクは小さい。細い針であるから小さく弱い力を持続的に安定して使える術者が望ましく、大抵術者は魔法の行使で背一杯でになる。これが魔法医による手術だ。
ただ、癌治療の場合、患者の体内で攻撃魔法を使い癌細胞を殺す事になる。かなり危険なので患者を観測する魔法医を別に要する事になるが、早期癌ならなんとか治療もできるのだ。
他にも癌治療に対する内科的アプローチもある。
癌は細胞の異常増殖なので、人体の恒常性には異常がでる。
そもそも、病気とは健康ではない状態。人体に異常がある事態だ。
それを、抑え人体全体に治療魔法を施して、心身の調和をもたらす。難しいが魔法医達が目標とする所だ。
直接的な効果は弱いが、心身のバランスを崩している患者に調和を取り戻すことになるので、ゆっくりだが効果が出る。
ただし、決め手に欠け完治しない。癌だと進行を遅らせる効果があるだけだ。
ちなみに、イエソド流はこちら。この調和という基本から歩を進めた治療法となっている。
「だけどさ、癌が進行してたら、どっちにしても無理なんだよな?」
「そうですわね。ガスパールと言う言葉は、そういう意味ですわね」
ナガマサは癌さえ初めて見るのだ。
イテルツには 診ないと分からない とか言ったが、実は最初から自信は無かった。一応、言われたから診るだけ診る、といった所だ。
「じゃあ、やっぱ無理じゃないか? 転移とかあるだろうし、ちくちく治療できたとしても、どれだけ時間かかるかわからないぞ」
「いやですわ、ナガマサ様。世界唯一のお方の言葉とは思えませんわ」
「はい??」
「ナガマサ様は、私とラルンダ様を再生させたお方でしょう?」
「おま、、、何、言ってるのか分かってるか?」
「でも、シャルロットの技法を使えば何の問題もありませんわ。違いますかしら?」
「肉体を再生しろってか? お前やラルンダは魂だけだからやったんだ。生きてる人間にそれやったら、一度殺すことになるんだぞ」
「嫌ですわ、元通り再生させるんですから、問題ありませんわ。実際末期癌の治療より速く完全に治りますでしょう?」
「う、、、うん。確かにな」
それに、元の肉体も魂もある状態だ。患者の身体を一時的に生命活動を停止させたら身体の各部に移転したであろう癌の切除も容易だ。
何故なら、それは生体の状態に神経を要する手術ではなく、死体の解剖に似ている。ナガマサが何度もベルム・ホムで行った豚を解体した練習や、クルツ城での死霊術の訓練のようなものだ。
「でも、でもな。死霊だったお前達と違うだろ? そんな事いつから考えていたんだ?」
この世界に転移して以来、常に死者と接してきたナガマサだ。彼ら死霊には慣れているが、それは元々死んでいた者たちだ。彼が手を下した死人は居ない。
飛竜アナンケはナガマサが殺しているが、情況が果し合いのような物だったし、やはりドラゴンが相手なので、彼は良心の呵責はあまり感じていない。
「まあ、失礼ですわ。私達だって元々人間ですもの。それに医師なら誰もが考える事ですわ。死霊術と医学は関わりは深いですもの」
イザベラの言う事には何の間違いも無い。
シャルロットの技法を使えば、末期癌でもどうってことない。そんな技術があるなら医療技術として考えて当然なのだ。
それを考えなかったナガマサの方が迂闊なのだ。
新米のナガマサは医師としての自覚・成熟度が足らないのだから、仕方ないが。
末期癌の治療より新たな肉体を再生させた方が速い。
いや、一から肉体を再生させるのはそれなりに時間がかかる。だが、死体から悪性腫瘍を取り除き、再び蘇生できるなら末期癌でも治療は容易になる。
ただ、それを行う為には、一度魂と肉体の分離が必要だ。
つまり、アスラ教フィオニクス派の指導者で王族と同等の貴種僧をナガマサの手で一度殺す事を意味している。
いや、高貴な人であると無いとかは、関係ない。
ナガマサは人を殺すのが怖い。
それが、彼の本心だ。
後で再生できる自信はあるが、人殺しは嫌だ。
それは、理屈じゃない。
嫌なものは嫌なのだ。
そして、同時にイザベラの提案に強い魅力を感じている自分をナガマサは自覚していた。
イザベラの提案は正しい。
成功から得られる成果も正しいだろう。
それはヤンスのアイディアを生かす事になる。
ヤンスがナガマサの目的をサポートする為に考えたアイディアを。
ナガマサが一度それを意識してしまうとそれは頭から離れない。
ナガマサにとって目的、彼の使命こそがこの世界にいる理由だからだ。
ナガマサは魔法契約の虜。
ミフラ神マサイエから課されたクエストに拘らずにいられないのだ。




