74. 医学者バルトロメオ・ベネトの功績
もし、この異世界に現代日本の医師が転移して来たら彼は驚き喜ぶだろう。
何故なら、人類の夢である肉体の再生、特に神経の再生が魔法により高いレベルで実現しているからだ。そのレベルは最先端の医療技術でも遠く及ばない。
また物理的な外傷に対する回復魔法も桁違いに凄い。
例えば、剣で斬り付けられて創傷を負い出血しても回復魔法により瞬時に傷口を塞ぐ事ができる。また、剣により手足が切断したとしても、すぐに手足を繋ぐ事ができ、さらにすぐさま動かす事さえ可能なのだ。
ただ、この小説の世界では無くした腕をにょきにょきと生やす事はできない。人間の腕はそんな造りになってない。
尻尾を自切し再生するトカゲでも、尻尾は再生するが千切れた手足は二度と生えてこない。
魔法といっても、再生するのには限度がある。
だからこそ、ナザリオの確立した技術に価値があるのだが、それにも少し問題がある。
一度魂を分離しないと完全な再生が難しいのだ。
つまり、一度死ぬ必要がある。
☆
「ナガマサ先生、膝が痛くて歩けのんです。特に左膝が痛うて」
杖を持った老人がナガマサの前に座っている。訴えは膝だけだが顔には生気がない。老人にはよくある症状だが、新米のナガマサには予断は10年早い。
この堂舎の看護人(前述しているが医療知識の無いお手伝い)のアンヌさんがすぐさまカルテを差し出す。彼女はこの堂舎で暮らす在家の信者でもある。
ここには沢山に人が訪れ、医師もそれなりにやってくるので、アンヌさんは対応に慣れている。また、患者の管理、カルテの整備は徹底されている。
また、アンヌさんは長袖の洗いざらしの白いエプロンを着用し、頭と口に白い布を巻いている。
この現代的な衛生観念や患者管理などはフェーべのアスラ寺院に居たという、ナガマサの先人であるナガモリさんの影響かもしれなかった。
ま、それはともかく、昨日逃げ出したナガマサに対するアンヌさんの視線は厳しい。即座に出てくるカルテはナガマサへの献身ではなく、二度と逃げ出すなよ! との無言の意思表示。明確な威圧行動であった。
それにアンヌさんの忠誠心は他の人に向けられているのだ。
それはナガマサの診察を見学をしているイレーヌという女医である。
彼女は本堂のエリートにも関わらず、無償で何度も此処で診察してくれている親切な優しい女性。
この聖堂に通う文無しの人たちだけでなく、此処の孤児院出身であるアンヌも無償で見てくれているのだ。
「何でガイア語で書いてる記述があるんだよ。えっと、、、」
別にカルテはタイタニア語で書くという決まりは無い。ただ、知識人にタイタニア語は常識なので、情報を共有する為にそれぞれの医師が自発的に共通語たる言語で書く機会が多いだけだ。
ナガマサはガイア語読めるように初期設定されている。なので必死で読む。
「えっと、カルテによると、この爺さんはフェーベ近郊のアスラの農場で働いるクロトさん。小作人、って何だっけ?」
必死でタイタニア語とガイア語で書かれているカルテを読み、日本語で独り言喋るナガマサ。
彼には知らない単語もあるので大変なのだ。
カルテには2年前の脇腹の骨折。5年前の脛骨の骨折の記述がある。そのどちらも内科的記載は無い。現代日本と違って、この世界の庶民はあまり医者になどかからない。骨折でもだ。
ただ、この町の庶民は時折アスラ様の聖堂で無料で医者に診てもらえるチャンスがあるとやってくるので、こういう記録になる。
でもナガマサはなんか納得できない。新人医師のイザベラの能力と知識が彼の基本だから、イザベラの守備範囲外だと途端に判断が遅くなってしまうのだ。
だから、ナガマサは患者がメッチャ待ってるのに聞いてしまう。
「クロトさん最近調子どう?」
「膝です。膝の治療で来てます先生」
たまりかねてアンヌさんが口を挟む。ただでさえナガマサの診察や治療は時間がかかるのだ。
「お前に聞いてない。邪魔すんな」
沢山の患者が待っているのに、ナガマサはいつまで帰ってこなかった。待っている患者さんに頭を下げていたのは、嫌味を言われていたのはアンヌさん達だ。
そりゃ、口くらい挟む。
もし現代日本で新人医師がベテランナースに、この情況でこんな態度を取ったら、、、というか、そんな態度は普通の神経なら取れない。
ただ、ナガマサの弁護をするなら、彼も必死なのだ。
ここはラルンダがお膳立てしてくれた病院ではないのだ。自分の専門外の患者が多く来ている。逃げ出したいが、それは失敗した。それなら、自分で患者と向かいあうしかない。
判断が遅くなるかもしれないがそれは仕方ない。丁寧にやるしかないのだ。
現代日本の医師でも専門外の診断は難しい。もちろん素人よりは格段に知識はあるがそれでも、専門外の仕事はしない人が普通だ。
ましてや、普通よりできないナガマサ君なのだ。
集中して患者に向き合えば、他は見えなくなる。余裕が無いのだ。
「はあ、最近物忘れが酷くなりました。まあ、歳ですから」
「ふんふん、膝以外に不調は無いの?」
「はあ、腰はずっと痛いです」
腰の痛みを俺に訴えないのは、慢性的になっているからだな。 と、ナガマサはクロトさんの問診を自分なりに読み解く。
患者の病状とは様々なもの。教科書通りに分かり易く病気になってくれる人など滅多にいない。座学で習ったイメージと実際の病気とのギャップに驚くのは新人のあるあるだ。
だからキャリアの無いナガマサは必死に情報を集める。ガリガリに痩せているクロトさんの身体。老人性のかさついた皮膚。やや嗄声、体臭・口臭ともに異常なし。近眼のナガマサは匂いが分かるくらいの距離で話を聞く。
幾つもの示された状態から、ナガマサはクロトさんの状態を推察した。今度は彼を直接接触して診察する為にクロトさんをベッドに横たえる。
ナガマサが一番欲しい情報がカルテには全くなかった。
彼がこの地に来るまで知らなかった事だが、彼の医療技術はかなりマイナーなのだ。それは、イザベラの師匠のバルトロメオに起因する。
彼はタイタニアのアカデミーで名のある医学者だった。それが、お金持ちとはいえ田舎の小国であるツェルブルクの大学に、わざわざやってきてくれたのだ。
彼がやってきた理由は彼が提唱する医療魔法の理論にあった。バルトロメオが編み出した技法がかなり異端なのだ。そのため、彼の故国であるタイタニアの医学界では全く相手されなかった。
だから、自分の理論に自信があったバルトロメオはイエソドにやって来た。
つまり、彼の流派を伝えるのはタイタニア文化圏広しと言えども、ツェルブルクしかいないのである。他国の医学者はそれをイエソド流、またはバルトロメオ先生の姓からベネト流と呼んでいる。
だから、ナガマサが欲しい情報を欲すれば自分で探るしかない。
彼は患者の身体に接触してクロトさんの体内を探る。イエソド流では人体に流れる魔力の流れを利用して治療や診断に用いる。
大地に流れる魔力を竜脈や魔脈と呼び、その魔力が集まる若しくは魔力が濃い場所を龍穴などと称する。
それと同様に人体も血液のように魔力が流れ循環している との考え方をイエソド流ではしている。
その考え方では、人体の流れる魔力を幾つもの見方で捉え診断する。その体内に流れる力を5つの属性、循環の経路は6つ、それをさらに陰陽に分けて12の経、さらに魔力が宿る輝点で800(現在も増加中)以上の指標を持っている。
ナガマサが一番参考にしているのは、イエソド流の魔力の状態の把握だ。その状態で人体の地図を読んでいる。
ナガマサはゆっくりと患者を驚かさないように、クロトさんに声をかけながら腹診をする。両手を両季肋部から正中線に沿って下腹部まで柔らかく触り、次に両手首と両足首を触る。
全く患部の膝に触れずにナガマサは触診を終えた。
「クロトさん、食欲ないでしょ?営気の力が落ちてるよ。それと年齢もあるから仕方無いけど志気も弱ってる」
「・・・・・・?」
「ああ、ごめん。えっとね、食欲が無いでしょ? ご飯食べないとダメだよ」
「はい、最近無いです。 あまり食べれんです」
「大丈夫。食欲と腰も治しとくから、それで快方する」
「はあ、、、あの、膝が痛いんですが」
「分かってる。膝も治すよ。心配しなくていい。あとは養生しな」
ナガマサは説明してないが、膝だけ治してもクロトさんの膝はすぐに悪化する。
患者さんの体調を把握して不調な点を改善させるのがイエソド流なのだ。
ナガマサはクロトさんの左足の親指に銀の針を当てる。イエソド流は治療魔法も独特だ。普通の治療魔法では直接手を触れて患者の衛気を無効化して直接患部を治そうとする。
でも、この普通の治療魔法は基本にして簡単で効果的なのだが、この方法だと適応となる症状は限定される。どうしてもピンポイントに治療魔法を使うのに限界があるのだ。
例えば膝痛だとして、疼痛の箇所に手を当てても、その負傷部位は皮膚の下、膝の関節包の中だ。場所によっては分厚い筋肉や腱がある。
そして、痛みの原因は加齢による軟骨の磨耗、それによる関節の変形。半月板や各靭帯の損傷など多様だが、どれも治療する部位は関節内の一点に過ぎない。
そこに雑に治療魔法をかけると骨や靭帯ごと癒合してしまう。その事故を避け負傷部位にだけ魔法を編めるのが魔法医なのだが、皮膚や筋肉の上から見えない厳密に一点の治療箇所を狙うのは至難だ。
2章に出てきたナザリオの娘ミリアみたいに掌底打ちで体内に衝撃を与えるなら簡単だが、例えば変形性膝関節症の痛みの原因となる骨棘など、大きさは数ミリだ。それだけを狙撃手の如く狙う必要がある。外れたら当然周囲の組織に悪影響がある。
それでも容易に想像が付く事だが外傷などはまだ良い。内臓疾患になると魔法医の治療は難度はさらに跳ね上がる。直接患部にアプローチできても肉眼で見えない人体の内部に学識と経験で魔力を行使するのは困難だ。だから、長年治療魔法は外傷にみ適応されてきた。いわゆる回復魔法である。
だが難しくても病に立ち向かうのが、医学者の仕事である。魔法のある異世界では必ず医学者は魔法での内科治療も研究するだろう。どれほどの難事でも諦める事などありえない。絶対研究し続ける。
その結果、この魔法の有る異世界では幾多の理論や技術が考えられ優秀な物が主流となり世界に広まっていく。
その為、この魔法が使える世界では様々な医療魔法の技法が編み出されている。
その一つがイエソド流という事だ。
その中にバルトロメオ先生の新しい技法もあった。
ナガマサはクロトさんの足先から針を使って魔力を注ぐ。
彼は人体の魔脈に沿い、流れに合わせて魔力の手はゆっくりとか細く魔法を展開する。この技法は魔力の流れの速度の患者の速度に合わせゆっくりと、場合によっては速く強く合わせる。患者の病状に合わせて治療魔法を展開する。
そして、このか細く弱い魔法を編む術者は、長距離の魔力の展開も痛感する。その様は、蟻の歩みの如き物だからだ。人間なら5分で歩く距離も蟻のサイズで移動するなら遥かに時間が必要なのと同様だ。
しかも、そこで求められる魔力は一瞬の高火力ではない。むしろ、小さく細かく場合によっては強く、それをムラ無く均質の魔力の放出で行うのだ。
これがイエソド流の基本技術になる。とても難易度の高い魔法技術だ。
だが、高い利点もある。元々人体に流れる魔脈にそって治療魔法の手を伸ばす事で、治療の障壁となる体内の組織を容易く回避する事ができる。その上、流れる魔力の乱れにより患者の状態や患部を把握する事も可能になる。
このバルトロメオ先生の新技術は理論通りに施術できれば、患者に全く負担をかけずに重病の内臓疾患に対応できると考えられている。
ただ、バルトロメオ先生本人を含め、彼の技法を完全に使いこなす医師は一人もいなかった。
ただ、比較的魔力操作が楽な腎の疾患には効果的な技術となっており、イエソド流は他国にも知られている。
ちなみに、治療具を針と称するが先は尖ってないでの刺さらない。また、患者の病態に合わせる為、材質と太さの違う針を数本ナガマサは常に携帯している。この治療具はイエソド流固有の物では無い。ピンポイントに魔力を注入する為の器具で治療師が良く使っている。
「あの、患者が寝てしまいましたが問題ないのですか?」
クロトさんはナガマサが魔力を巡らすと、十秒も立たずに大口を開けて眠ってしまっている。
見学していたイレーヌ先生がナガマサに質問したのは、左足に続き、左手首に針を当て終えた後である。
イレーヌ先生の目にはクロトさんの顔色は赤みが差し肌に潤いが現われていた。明確なナガマサの治療の副産物を彼女は目の当たりにしている。
「ええ、もう治療は終わりです。治療魔法が上手く当たると寝ちゃう人が多いんですよ」
ナガマサは膝と腰、胃の治療を終えている。
ちなみに、新米であるナガマサの治療時間はベテラン魔法医の診断・治療時間よりかなり長い。
「もう一つ質問良いですか?」
イレーヌ先生はそれを分かっているので、遠慮がちに質問している。
クロトさんはベッドに残してナガマサは次の患者を呼ぶ。少し寝かせてから帰宅させるのだ。
その為に生まれた小さな猶予で質問しているのだ。ナガマサに否やは無い。
「イエソド流は硬化症や汚水症などの腎系に最適だと学んだのですが、先ほどの治療は全く違いますね? 何故です?」
「ああ、腎の治療に向いてますが、別にそれに特化してるわけでも無いんですよ。ただ、他の属性の症例が少ないから、今俺が苦労してます」
ナガマサはイレーヌ先生に苦笑してみせた。
腎の治療だと診断はともかく、治療魔法は針を使わなくても可能なのだ。水属性の魔法を使ってかなり大きく患者にアプローチできるので、術者を選ばないのだ。
ナガマサのように小さい細い魔力を安定して人体に深く伸ばすのは至難の技なのだ。実際にその技法を使いこなせる者はいなかった。
人体という恒常性の保たれた環境に沿い、細く小さい魔力を長く出すのは実行するのは困難で、実際の距離とは比べ物ならないほどの遠距離への魔力の展開を意味している。
亡者の指輪の影響により近距離では弱い魔力しか出せないナガマサには苦にならない。そして、生来の遠距離特化のナガマサなればこその話ではあるが。
ナガマサなら人体のどの臓器へも魔力の小さい手を自在に伸ばし治療する事ができる。いうまでも無くそれが魂魄という小宇宙であってもだ。
彼の特性と右手の指輪の為せる技である。
ちなみに、今もイエソドのヨーゼフ・グロー大学で研究と指導をしているバルトロメオ先生はナガマサの存在を知らない。彼の理論が証明された事実は知らされていないのだ。
ナガマサの存在はあと数ヶ月は国家機密扱いだ。つまり、初めて彼の技術を使いこなせる術者が誕生しているのは秘匿されている。




