62. 田中商会のハマちゃん
ベルム・ホムから120キロほど東にあるナウル湖。そこから発したタブ川は東から西へと流れる。そして、ルキアノス山脈から流れるシン川と合流し、そこでマルクトの町の住民と田畑を潤す。その辺りになるとその川の名前はルキウス川と変わる。
そのルキウス川はさらに西へと流れイエソドの丘の脇を通り抜けて、ツェルブルク西端の町ダヴゥに辿り着き、今度は大河ガイウス側の一部へと姿を変える。
このガイウス川はルキアノス山脈とオルティウス山地のガレン湖からの水脈が合流して出来た大河で、南から北のオルべ海に蛇行しながら向かっている。
海に注ぎ込まれるまで、ツェルブルクを含む周辺国を潤す水資源であり、物流を担う大切な大動脈でもある。
ツェルブルクからネルトウスへ向かうなら、普通ダヴゥの町から渡し舟に乗り、ガイウス川を越える。そして、対岸の国ルゴスに入国してガイウス川沿いを北上してリュネスという町からネルトウスに入るか、ルゴスを経由して西に向かいネルトウスの南の交易都市テティスからのルートになる。
「ええ? それでは渡し舟に乗らないで田中商会の船に乗りますの?」
イザベラは初めて旅程を知らされたのだ。この異世界では交易商は別にして旅行は一般的でない。一般人は旅などしない。
だが、それ故娯楽として旅行話は人気があり多く語られている。その為旅行などした事が無い人々がほとんどだが、旅程は一般常識として浸透しているのである。
「ああ、ちょうどハマダさんがイエソドにいてさ。今日、ベルカに戻るっていうから乗せて貰うことにしたんだよ」
ナガマサは馬車に揺られながら、リラックスしている。道がしっかり整備されている所では馬車の乗り心地は快適なのだ。
ナガマサ一行はイエソドからダヴゥまで馬車、それも乗り合いではなくレダ所有の物を使っている。
イエソドの西門からダヴゥまで60キロも無い。この世界の普通の庶民なら歩いていく距離である。
「ハマダさんはナガマサ様と仲良くしたがってるっす。ベルカに来て欲しいってずっと言ってるんすよ」
田中商会のハマダはベルム・ホムへの出入りを許されている極僅かな商人の一人である。当然、ベルム・ホムのゴブリン達との取引もありゴブリン達にも親しくしている馴染みの業者さんなのだ。
「あら、そうでしたの? ついでにベルカも寄りますの?」
「いや、今回は無理かな。俺も田中商会とは仲良くしたいけどな」
「ナガマサ様、アレを」
珍しくクリスが言葉を挟んだが、その意味はすぐ分かった。
ダヴゥまでまだ10キロ以上あるのに、ハマダが出迎えに来ていたのだ。
ハマダはナガマサが馬車を止めて声をかけるとすぐさま飛び乗ってきた。
『出航の準備が出来たんで、呼びにきました。せやけど、馬車とは豪気ですな』
彼は丸い顔にさらに満面の笑みを浮かべて隅っこの座席にちょこんと座った。
不躾なのだが、何故か憎めない。
「この美人さんがイザベラさんですか? こんな綺麗な人が一緒だと皆喜びます」
「あら、お上手」
バックリボンの付いた上品なカプリーヌを被り、濃い青のワンピースは銀糸で飾られている。もう秋なのでその上からロウハリア産の毛長ヤギから作られた高価な白のコート羽織っているイザベラである。
とても従者の装いではない。
普通なら、何処の貴婦人やねん と突っ込みが入る所だがナガマサは元々服装には無頓着だ。さらにこの世界の服の基準などわからない。だからイザベラは希望する服や装飾品は全て叶うのである。その意味では夢のような職場だ。
当然、イザベラの胸元に光る首飾りもナガマサが払っているのだが、その支払い方法は100%レダに回すだけなので、誰も止めるものがいないのだ。
もっとも、ナガマサの仕事振りからすれば、これくらいの贅沢は全く問題ではない。彼はラルンダを死霊から生者へとクラスチェンジさせているのである。
『ナガマサ様、えらい別嬪のお連れですやん。こんな美人連れ歩いてマキナ公からヤキモチやかれませんの?』
その仕組みを知っている極稀な商人たちは、ナガマサに必死で取り入るのだった。ナガマサが望めば幾らでも商品が売れるのだから。
そりゃ、船室くらい喜んで提供する。
ナガマサはハマダの何時もの調子に苦笑した。彼流の顧客への対処方なのだろう。ちなみに『』内のハマダの言葉は日本語である。ナガマサは懐かしい日本語を聞いて少し特別な態度になってしまう。どうしても親しみを感じるのだ。
コレは、多数の異界人を扱う田中商会のやり方である。異界人には彼らの母国語である日本語で話せるように、国外に派遣する田中商会の営業マン達はタイタニア語と日本語が話せる事が必須となっている。
ダヴゥの港には多数の大型船が泊まっている。ガイウス川のツェルブルク側は基本的に川から3~5メートルの崖になっており、本来なら良港は無い。
ガイウス川を物流に利用する為に強引に造った港町がダヴゥなのだ。
その為か、川底までが深く大型船の停泊に向いていたのはツェルブルクに幸運な事だった。このガイウス川がツェルブルクにとっても他国との流通の大部分を占める窓口なのだ。
ナガマサ一行は田中商会所有の大型船に乗りながら、ガイウス川を下る。実はツェルブルク一国を担当するハマダは田中商会の中でも序列は高い。その彼が、ナガマサの為に用意してくれた昼飯は塩鮭と味噌汁だった。
「おお! 凄いな。 味噌汁とご飯かよ、、、」
『そうですやろ? そやけど、ソレは時期外れの塩鮭ですわ。今、ベルカに来てもろたら獲れたての秋鮭が食べれまっせ。この秋の時期は他にも鯖や秋刀魚が美味いですわ。それにもう少ししたら、蟹や牡蠣も獲れます。ベルカは好漁場なんですわ』
「いいねー。帰り寄ろうかな? でも、米は外米なんだね」
『いや、やっぱりわかりますか。方々探してるんですけど、日本の方が喜んでくれるお米はまだ見つからへんのですわ』
丸い顔に心底済まなそうな顔をするハマダにナガマサは笑ってしまった。
「いやいや、十分美味いよ」
「本当っすよ。初めて食べたけど、美味いっす」
「ええ、美味しいですわ。 でも、箸は上手く使えませんわ」
手掴みでガッツリいってるヤンスと違って、イザベラはかなり苦戦しているのだった。
日本にいた頃は別に日本食など好きではなかったナガマサだが、やはり故郷の味は特別なものがある。
そして、それは異界人に共通する特性だ。
田中魔法商会の最大の強みは異界人の特長である強い魔力ではない。実は、日本人が知っている先進技術とそのアイディアだ。
人間は自分の生まれた時代や環境に大きな影響を受ける。その発想はどうしても歴史的に縛られた物になる。それは仕方の無いものだ。
だからこそ、歴史に名を残す人々がいるのだ。例外的に特異な思考で人類を大きく進歩させる人、所謂天才たちだ。
だけど、それは極少数であり、それも運よく歴史の転換点に生まれなければ、大きな仕事はできない。凄い才能を持ちながらチャンスに恵まれなかった天才たちの方が圧倒的に多いのだ。
だが、この異世界アランソフには、想像もできない発想を持った人たち、つまり異界人が時折現われる。彼らの魔力よりも発想力に目をつけた人物が田中氏なのだ。
彼はその発想力を囲い込み、また高い魔力をも駆使して、この世界になかった画期的な商品を生み出し、多大な財を築いたのだ。
彼が生涯を通じて行った異界人の支援は善意100%ではなかったのである。
そして、この田中氏がそんな自由な活動を行えた理由がある。実は彼は一度も奴隷になどなっていない。
田中氏が活動する以前の異界人の扱いは、現われた土地の所有者の所有物。つまり奴隷。それも無期限の奴隷となるという慣例だった。
だが、田中氏がこの異世界に招来されたのは北海のオルベ海。
ベルカ島とシール島の間の海に突然投げ出され、凍死寸前の所を土地の亜人に助けられた。彼らは人間のように気の毒な異界人を奴隷になどしなかったので、田中氏は最初から自由人として活動する事が出来たのである。
田中氏はその亜人たちを親しみを込めてエサマンと呼んだ。
その亜人は愛嬌のあるカワウソをそのまま人間にしたような人懐こい人々だったのだ。
北海に広く住むその亜人の本来の名前はオットー族だ。だが今はエサマン族としての愛称の方が有名になっている。何故なら田中商会の従業員の多くは彼らエサマン族だからである。
田中氏は恩人であるエサマン族の地位向上にも努めており、自らの商会にも多数のエサマン族を採用して彼らの恩に報いている。
この異世界アランソフの隅々まで走り回る田中商会。その営業マンにはタフで人見知りなど全くしないエサマン族が多く採用されている。彼らは、愛嬌を武器にタイタニア文化圏さえ越えて商売をしているのである。
彼らは自らをオットー族ではなくエサマンと名乗った。北海の一部にしかいない亜人の名前より、エサマンの名前の方が有名となるのにさほど時間はかからなかったのだ。
ハマダさんの丸い顔、さらに丸い耳、丸いつぶらな黒目、そして北海の冷たい海でも活動できる立派な毛皮。田中商会の営業マンである彼もエサマン族である。だからこそ、ベルム・ホムへの出入りを認められているのだ。
彼らエサマン族に日本語だけでなく営業マンの基礎を叩き込んだ最初の異界人が大阪生まれなのだ。彼らエサマン族は、師匠の異界人からよく学び営業を叩き込まれている。そして、大阪弁こそが標準的な日本語であると信じ込んでいるのである。
なお、エサマン族には本来姓は無い。名のみである。彼らには真名という考え方も無いのだが、『ハマダ』という名前は彼の師匠である異界人が彼につけた名前である。姓というより、田中商会で働く為の名前、ニックネームのようなものだ。
最初は初代の教育担当の異界人がつけた愛称だったのだが、この日本風の名前の授与は伝統となった。今は一人前の営業マンとなり各地に配属される時にもらえる慣例となっている。
ちなみにベルカは、ガイウス川の河口部である入り江一帯と、その沖合いに浮かぶ大小7つの島からなる島国である。
朝早くにダヴゥを出航し、ガイウス川を下り続けて、夕方になる頃リュナスに到着した。
入港するとハマダたちは忙しくなるので、お礼を言って此処で別れる。
田中商会にとってリュナスはネルトウスとの貿易で大事な拠点であり、ナガマサ一行はここからネルトウスに入国する事になる。
ナガマサ達はとりあえずリュナスで一泊して、明日は馬車でネルトウスの首都であるフェーべに向かう予定である。
はずだったのだが。
ナガマサ一行は外国人が自由に出入りできる港湾地区から、リュナスの内部へ入れる城門に向かう。ところが、そこで入国審査をしている官吏から思わぬ対応を受けていた。
「はい? 入国できないってどういう事ですか?」
「それは、入国許可証。または旅行許可証が無いからです。現在ネルトウスは個人の旅行者を基本的に受け入れていません」
旅行が一般的で無い国や時代だと、普通の対応である。
ナガマサは旅行許可証、つまりパスポート或いは通行手形を持っていない。そして何より、それを持っていない事によりどうなるか? という常識を持っていなかった。




