45. ナザリオの願い
ナガマサはアナンケに乗りたい意思を伝える。
それを受けてアナンケは巨体にも関わらず音も無く兵舎の屋根から地面に降り立つ。そして、ナガマサの背中を銜えて自らの首の後ろに乗せた。
つまり、アナンケの長い首でナガマサを吊るすのだ。
ナガマサがアナンケの乗る時は常にこの形である。
ちなみに、ナガマサがアナンケから物理的に離れようとダッシュすると同様に吊るされます。
ヤンスはナガマサがドラゴンの上から下ろすロープを身軽によじ登っていく。
アナンケはナガマサ以外の人間を自分から背中に乗せたりしない。だから、ヤンスの為にナガマサがアナンケの背中からロープを垂らすのだ。
「危険ですから少し離れてください!」
ナガマサが大声と念話をミックスして注意する。
最後に挨拶して飛び立とうとした時、突然ナザリオが叫んだ。
「待った! ナガマサ君、ちょっと待ってくれ」
「はい?」
「すまないが、もう一度降りてきてくれ! 話があるんだ!」
「何を仰ってるの貴方? ご迷惑ですよ」
突然の夫の言動に鉄壁の微笑みが壊れそうになってしまうアーシア。
疫病神を引き止めている夫の意図が理解できないのだ。
「ああ、大丈夫ですよ。すぐ降ります」
ナガマサはアーシアの苛立ちを悟ってしまう。なので、すぐに気を使ってアナンケから降りる事にした。彼は何に対して苛立ってるか? までは分からない。ただ、目の前で夫婦喧嘩はみたくない。
ナガマサはドラゴンの首の根元から背中側を滑り降りる。ちょうど尻尾が地面と平行に伸びているので尻尾を利用して安全に降りる事ができる。
「ここで働かないか? きっと、色々勉強になると思うよ! 私が魔法を教えるし、技術も伝授しようじゃないか」
ナザリオはナガマサが地面に降りるや否や熱心に勧誘しだした。
「――!?」
突然の申し出にナガマサよりアーシアが鋭く反応した。
「あなた、ナガマサ様が困ってらっしゃるわ。それにナガマサ様はゾンビ屋にはなりませんよ」
大人の色気の漂う優雅な微笑みを絶やさないアーシア。
だが、その上品な笑顔から青い炎が立ち上っているのを感じるナガマサ。
「・・・・・・」
なにも言えないでいるナガマサにさらにナザリオが詰め寄る。
「それじゃあ、長くいなくてもいい!君が希望する魔法や技術があるなら可能な限り教えようじゃないか。ただ一つだけお願いがあるんだ」
「――なんですか?」
「私の実験を少し手伝って欲しいんだ。長年の研究に協力してほしい」
ナザリオが突然言い出したのは、気まぐれなどではなくナガマサの莫大な魔力を見てしまった故だ。それを必死で考えた末の行動である。
彼は自身の長年の研究を考慮し、それにナガマサの巨大な魔力を加えれば高確率で良い結果が出ると踏んだのだ。
つまり、ナガマサの力を借りれば長年追い求めてきた、自身の理論と技術への答えがでる。
「うーん」
ナガマサは突然の申し出に困惑した。確かに知りたい魔法は多い。というか、今使えるのは基礎魔法の一部だけだ。
でも、自分が原因で家庭不和とか起こしたら嫌だしな。
そう悩んでいるナガマサにヒソヒソ声が聞こえてくる。普段の彼なら聞こえないのだが今は本気の魔力中なので小声が届くのだ。
「そうか、シャルロットか。ナザリオの長年の夢だもんな」
「然り、おそらく魂の再生の問題ですな」
「左様、彼の魔力が使えれば、我ら全ての魔力を合わせてもまるで届かなかった高みが見える」
「あれ? 先生の研究てあと一歩だったの?長年止まってるんでしょ?」
「しょうがねぇんだよ。俺達全員の魔力を合わせてもまるで届かないんだ」
「左様、全員の魔力を合わせると言っても実際にはロスが多いのです」
「然り、やはり中核を担う強大な魔術師が必要なのです」
「そうなんだ。それじゃ、理論完璧なのに魔力不足で止まってたのね」
研究員達の声がナガマサに届いてくる。そういう事なら多少協力しても良いかと思う人の良いナガマサなのだが、アーシアの目が怖すぎる。
ちなみに、キッカはまだ2体の衛兵に両手を摑まれたままなので、研究員の会話には参加できていません。
ナザリオのライフワークの完成まで後一歩、だが理論に実践が追いつかない状態である。このクルツ城の面々は常人の基準から見るとかなり強い魔力が揃った人々なのだ。だが、届かない。つまり、ナザリオの要求する魔力量が高すぎるのだ。
そのため、彼は人間の魔術師を使う事を諦め、強い魔力を運用できる魔法装置による実験を目指していた。
ただ、その装置は個人で持つことはまず無理だ。ナザリオが想定している装置はかなり大掛かりで高度な設備を要する。現にそれが有るのはタイタニア本国とメリクリウスくらいである。そして、現在メリクリウスは魔境の只中にあるので使用不可能であり、残ったタイタニアの設備はさらに希少な物となっている。
もしその装置を個人で造ろうとしても不可能だ。技術的に造るのが難しい上に費用も膨大なので富豪であるアクィナス家でも到底無理である。さらに燃料となる高価なマナタイトを大量に必要とする。日本で例えれば、原子力を使った実験設備のような高額な代物なのだ。
そのため、彼は母校であるタイタニアのアカデミーに実験の許可を求めている。ただ、一度下野したナザリオに高度な実験設備の許可など簡単に降りるはずも無い。彼は恩師に縋って、献金と論文を長年送ってそのチャンスを掴もうとしていた。
だが、ナガマサが協力してくれたら研究は一気に進む可能性が高い。
ナザリオも必死でナガマサを口説いているのだ。
ちなみに、アルドとコージモはその伝でクルツ城にやってきたナザリオのかなり下の後輩である。
「どうかな? ナガマサ君」
「・・・・・・」
ナガマサは、自分が助けになるなら手伝っても良い気がしている。彼自身の魔法のスキルアップにもなるのだ。ナザリオの夢に協力しても彼の名前を伏せてくれるの間違いないからだ。
それに尖塔をぶっ壊したお詫びにもなる。まだ若く人の良いナガマサはそう考え結論を出そうとしていた。
だが、彼の思考スピードはナザリオほど速くない。
それをナザリオは誤解した。ナガマサが渋っているか断るつもりだと。
「わかったナガマサ君、ではこうしよう。成功したら君とミリアとの交際を認めようではないか!」
「はい?」
ナガマサは驚きのあまり頓狂な声を出してしまったが、ビックリしたのはかれだけでは無かった。
「えええ!!」
「あなた、正気なの?」
突然の出来事に目を丸くするミリアに怒りの炎をさらに燃やすアーシア。
「本気か、ナザリオ!」
「・・・・・・先生、」
「――」
研究員達は、普段の子煩悩なナザリオを知っているだけに信じられない。
だが、彼らはナザリオの必死さも理解できていた。それは娘を交換条件に出すほどであったのだ。
この世界では子供の結婚を親が決める事は珍しい事では無い。ただ、この家でその決定権を持つのは父親ではない。それも、研究員達はよく知っていた。
そして、その決定権を持つ当主のアーシアは平静を装いながらも怒りに震えていた。アーシアは夫の長年の努力も知っているから、彼の気持ちも分かる。
だが、ミリアの事も決して軽々に考えることなどできない。アーシアの目から見て、ナガマサの存在はかなり怪しい。関わりたくないのだ。
各々の思惑が交錯する中、ナガマサの拡大された鋭敏な感覚はミリアだけに集中していた。
ナガマサはこの異世界に来て強大な魔力を持つ魔法使いとなっているが、彼は本来器の小さいダメ人間なのである。彼は、美少女ミリアがナザリオの発言をどう思っているか、自分をどう思っているかが気になって仕方なかったのである。
異世界に来たからと言って、そう簡単に性格は変わらない。変わらないが状況が変化する事で変わる物もある。
この異世界でナガマサに芽生えたプライドは彼に自信を与えていた。それが彼をほんの少し変えていた。
その人間達の葛藤を一人ヤンスだけがドラゴンの背中から見下ろしている。
ヤンスは丸い目を細くして笑みを浮かべる。
ベルム・ホムというゴブリン社会で生きてきたヤンスにとって外の世界で暮らす人間達はとても興味深いものだ。
今まではナガマサという人間がベルム・ホムという異世界のゴブリン社会で生活してきたが、現在はヤンスというゴブリンが人間社会を垣間見ている。
好奇心旺盛なこのゴブリンにとって、ご飯三杯いける状況である。




