坂東蛍子、除菌も出来る
誰もが思わずラムネアイスの封を開けてしまう灼熱の午後、坂東蛍子は夏の到来を実感していた。そう、夏が来たのだ。海と山に人々が溢れ、主婦が電気代に頭を抱え、日焼け止めクリーム会社がしたたかな陰謀を巡らせるあの夏がやって来たのである。大人は夏と聞いてあまり良い顔はしないものだが、子供は夏が大好きだ。蛍子もそんな未成年者の一人として夏には例年好意的な立場をとっていたし、今年もその意見は変わりそうになかった。
「ママー、電話ー」
坂東蛍子は高校二年生の持つ正当な権利を行使して、今年の夏休みを満喫していた。夏休み初日に大抵の宿題を終わらせた彼女は、普段学校生活では猫を被っている分の鬱憤を爆発させ、春に出来た友人や夏に出来た友人と東西南北の名所を連日駆け巡っており、予定表は蛍光ペンの丸印でいっぱいであった。勿論今日も例外ではない。
「はあ・・・・・・もしもし」
そんな彼女であるから、本当は自分と関係のない電話に割く暇など持ち合わせていないのだ。タイム・ウェイツ・フォア・ノー・ワンなのである。蛍子は外に行きたい衝動を必死に押さえながら、アイス片手に無人のリビングで受話器をとった。電話相手がもし勧誘業者だった場合、彼女は相手に一生忘れられない敗北感を味わわせる心積もりであった。
「あれ、その声、タクミ?」
電話の主はタクミであった。微妙に違和感があるけど、この機械的な調子は間違いない、と蛍子は確信する。
タクミというのは近所の公園に時折顔を出す青年で、蛍子の遊び友達の一人だ。この夏休みも公園で何度か顔を合わせており、昨日も「空中あっち向いてほい大会」をしたばかりである。
「なんでウチの電話番号・・・え?そうそう、私、蛍子」
“ホタルコ・・・まさかホタルコと繋がるとは・・・”
タクミの問いに蛍子が答える。彼の声には焦りが滲んでいたが、同時に感動に近い心の高ぶりを感じさせるものだった。
「ねぇ、何か聞き取りづらいんだけど、何処にいるのよ」
“そんなことよりホタルコ、そこにアルキルエーテル硫酸エステルナトリウムはありますか”
「そんなことって、あんた・・・ぎゃあっ!」
蛍子は突然奇声を上げた。手に持っていたラムネアイスの存在を失念し、溶けたそれが外行きの服に落ちてしまったのだ。じんわりと広がるシミを見て、少女は慌てて電話を子機に持ち替え、近くのキッチンに向かった。どうしよう、これ、綺麗に落ちるかなあ。
“出来ればそれにエチルアルコールとクメンスルホン酸ナトリウムを加えて頂きたいのですが”
「もう!ばか!タクミが横文字並べたせいで今大変なんだから、ちょっと黙って!」
“此方の危機とどちらの優先度が高いでしょうか”
こっちよ、と蛍子が言った。ひとまず蛇口を捻り、斑点を水ですすぐ。シミはすぐに落ちたように見えたが、蛍子は念のために台所用洗剤を手に取った。
「で、それをどうして欲しいわけ」
蛍子は洗剤の裏に書かれた成分表に目を落としながら呟いた。そこには先程羅列された横文字の呪文が一通り記載されていた。洗剤なら洗剤って言いなさいよ、と彼女は呆れ顔をする。含有成分で製品を表現しようとする人は初めてよ。
“あったんですか”
タクミが珍しく感情的な声を上げた。それは驚愕の声だった。洗剤ぐらいあるに決まってるでしょ、と蛍子が上流家庭の矜持を眉に乗せた。
“そうか、なるほど、これはそういう・・・では、それを軒先に埋めて下さい”
「はあ?なんで?」
“そこが唯一手の届く場所だからです”
彼女は咄嗟に背後を確認した。家の中には誰もいない。
少女は俄に沸き立つ薄気味悪さを誤魔化し、乾いたタオルで服の水気を拭き取り始めた。タクミの奴、と蛍子は子機を挟んだ首を傾げる。相変わらずわけ分からないことを言うんだから。急に電話掛けてきて、軒先の近くにいるようなこと言い始めて――それとも納涼の季節だから、気を遣って怪談を演出しているのかしら。
“それと、現在通話している電話の番号を一緒に保存しておいて下さい”
「・・・そのココロは」
“タイムパラドックスを防ぐためです”
いつも通りのタクミだ、と蛍子が肩を竦めた。埒の明かない会話が面倒くさくなった蛍子は、とりあえず電話の相手の言う通りに軒先に洗剤と電話番号を埋めることを承諾した。ビー玉の入っていたアルミの箱を開けて中を空け、そこに一式詰め込むと小脇に抱える。彼女は受話器を元に戻すと廊下で何度か跳躍し、玄関口でサンダルを引っかけた。そうしてドアノブに掛けた手を一度引っ込め、改めてお腹の辺りに目を落とす。うだるような夏の暑さで、濡らした衣類は既に乾き始めている。へその脇に染み込んでいたラムネの跡は、台所洗剤に秘められた科学力によって綺麗に消失していた。
少女は満足そうに口を割いた。流石は私、汚れも落とせる。
誰もが思わず目を背けたくなる退廃の果て、TK-M量産O型アンドロイド・タクモは世界の終わりに直面していた。終焉の時である。地表は一面を未知の液状菌生命体に覆われ、人類に取り代わる最後の陰謀を完遂させようと緩やかに蠢動している。
「ここも駄目だったか」
西暦三二〇六年、即ち宇宙歴五二二年、世界は滅亡の危機に瀕していた。新エネルギー開発過程の事故で生まれた粘油生命体はそのスライムのような体を下水道の影に滑り込ませ、地下に潜伏し、瞬く間に増殖した。やがて地上に戻ってきた彼らは、世界中の機械という機械にべっとりと染み込んで機能を停止させ、電力供給から順に人類の文明は崩壊していった。
あの運命の日から半年。粘油生命体は東西南北の都市に横溢し、人類の住処は新しい主人に取って代わられていた。対して人類は各地にレジスタンスを結成し、スライムの分解方法を探るべく先の見えない抵抗活動を始めた。戦いは今も続いている。
「奴らが迫っています。退却しましょう」
「駄目だ!ここはあの初代ケンゾウの拠点なんだぞ!ここを逃したらもう旧文明の遺産は手に入らない!」
現人類は粘油生命体を分解する方法を持たない。そのため旧文明の科学者達の家の跡地を周って遺産を発掘し、そこに残された僅かな科学の痕跡から分解手段を模索しているのだ。特に最も期待値の高い遺跡は、粘油生命体を生み出した「ツルギ・コーポレーション」の生みの親、ケンゾウが居を構えていた拠点跡地だ。その男は各国を転々とする生活を送っていたようで、世界中に拠点を持っている。タクモの立つこの場もその一つだ。
もし彼らが二十一世紀の主婦の買い物袋を覗くことが出来れば、あるいは皿洗いという庶民文化を知っていれば、この戦争も随分楽なものになったことだろう。しかし残念ながらそれら旧時代の記憶は何百年も昔に地中深くに埋もれたきりで、戻って来る見込みはなさそうだった。タイム・ウェイツ・フォア・ノー・ワンなのである。
(これは・・・時間電話ですか)
タクモは地中から掘り出したそれを手に取り、自身に搭載されているケンゾウ発明リストに検索をかけ、該当するものを見つけ出した。時間電話は過去に電話をかけることが出来る携帯電話であるようだが、生憎電話帳などは内蔵されておらず、番号は自分で見つけなければならないようである。なんて意味がない置き土産だ、とタクモは開発者を呪った。我々が求めている打開策はこんなものではない。もっと具体的な成分配合を持った洗浄兵器だ。それがたった一滴あるだけで、この絶望的状況を覆せるというのに。
「おい!こっちにも何か埋まってるぞ!」
遠くの小山で男が掲げたのは金属の箱だった。主成分はアルミのようであり、何故か新品同然に表面を研磨されていた。
「まずい!奴らだ!囲まれた!」
周囲をスキャンする。どうやら逃げ場はなさそうだ。
「空中あっち向いてほい作戦は!」
「もう学習されている!無理だ!」
「クソ!タクモ!何とかしろ!」
男が箱を投げてよこした。タクモがキャッチし、反撃準備を保留してそれを振る。直方体はカラカラと鳴った。何が入っているにせよ、この中身が我々にもたらされた正真正銘最後の武器だ。アンドロイドは緊張を振り切り、指先に願いを込めて箱をこじ開けた。中に入っていたのは、不思議な形をしたボトルと、一枚の紙切れであった――。