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境界  作者: 白烏
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回想

 あの日―。

 六月二十六日。

 今度は彼処あそこの神社にいらしてください―。

 籠の歪んだ自転車を走らせながら、僕は彼女の声を、果敢無はかなくて、何故かどうしようもなく不安定に感じるその音色を、頭の中で何度も反芻した。

彼女と最初に会ったのは何時いつだろう。

ふと考える。

その契機きっかけこそ彼女が自分の両親の店子だったことなのだが、その事実に気付いたのは知り合った後の様な気がする。もしそうであるなら、 自分と彼女に他の接点などある筈もなく、親しくなることはない筈なのだが、今まで何故かそうしたことを余り意識することなく、彼女と逢瀬を重ねていた。最初の頃は、僕の中で彼女との逢瀬は非日常的なイベントであったし、その頃ならば、彼女と出会った契機も覚えていたのかもしれない。

 日常、否、習慣。最早そのイベントは習慣になっている。契機を忘れたのはそのことが原因なのだろうか。しばらく頭の中で自問した。しかしはっきりとした答えはついに見つからなかった。

 今日聞いてみるのもいいかもしれない。彼女は変な顔をするだろうが。

 僕たちは何で出逢ったのでしょうか―。

 何故、何時いつ何処どこで、どのように。

 彼女に真面目な顔でそれを言う己を想起して、僕は笑ってしまった。

 可笑おかしいじゃないか。まるで恋愛小説みたいだ―。

 神社に着いたので、自転車を降り、手で押しながら不自然に紅く染められた鳥居をくぐる。鳥居の上には近所の子供が乗せたのだろう小石が幾つか見えた。

 奥に見える拝殿へ真っ直ぐ伸びる歩道に沿うようにして木々が鬱蒼としげり、境内全体を覆っている。その所為だろう、初夏の夕方だと言うのに、両隣の住宅に比べて神社の内だけ異様にくらい。

 敷石の並べられた道を進む。昏いせいで拝殿の輪郭がぼやけて、何時いつもよりとても大きく見えた。

 急に恐怖を感じた。思わず立ち止まり、拝殿から目を逸らしたが、そうしていたのは一瞬だった。もう闇を怖がる年齢ではないな、と思い直し、馬鹿馬鹿しくなって少し自分を笑った。

 拝殿の横に自転車を止めて、引き返し歩道の中程、その左脇に設けられた、境内の雰囲気から明らかに浮いている木製の長椅子に座り彼女を待つ。長椅子の横には電燈があるが、まだ点いていなかった。

 約束の時間の三十分後に彼女は来た。

「遅れて御免なさい」

 長椅子の横まで来て彼女は少し頭を下げた。長い黒髪がさらさらと揺れる。白いワンピースがとても良く似合っていた。

「少し講義が長引いてしまって―。自分の専攻に関係している講義だから途中で抜ける事も出来なかったの」

「大丈夫です。院の研究は大変なんでしょう?」

「―ええ。とても大変」

 そう言いながら彼女は横に座った。心臓が一拍だけとくん、高鳴る。電燈が点いていない所為で、彼女まで暗闇に紛れている。薄気魅悪い拝殿とは違い、むしろそのことが彼女の儚さを際立たせ、彼女は今にも消えてしまいそうだった。

 聞いてしまおうか。彼女が消えない内に。

「美貴さん、あの」

「何?」

「僕達は、その、何で出会ったのでしょう?」

「え?」

「変な事を訊いて済みません。でも、どうしても思い出せないのです。何故、何が契機で僕達はこうして逢うようになったのでしょうか?否、御免なさい。非常識ですよねこんなことを訊くなんて」

 彼女は訝しげな表情をこちらに向けているのだろう。見なくても解る。

 如何して訊いてしまったのだろう。

 思わず謝ったが、一度出した言葉はもう戻らない。怒るだろうか、それとも呆れて帰ってしまうだろうか。

「そんなことは―そんなことは、別に如何どうでもいいことじゃないかしら」

 返ってきたのは予想外の答えだった。

「如何でもいいこと、ですか」

「―そう。出会った契機を忘れてしまっても、現にこうして度々逢ってるでしょう?それで充分じゃない。人は自分が何時いつ立って歩けるようになったか、覚えていないけど、それでもこうして歩いている。何故かって言うと、それが当たり前だからよ。それと同じこと」

「そんな―ものでしょうか」

 当たり前だから、忘れる。自転車を漕ぎながら考えていたことと似ている。確かに、答えは出さなくていいのかもしれない。逢っているだけで充分なのは僕も同じなのだから。そんなことを熟々つらつら考えているうちに、彼女は突然吹き出した。

「なんちゃって。少し気取ってみたけど、正直に言うと、私も今いち覚えてないの。だからお互い様。それに、例えも変よね。人が自分の歩き始めた時期を覚えていないのは、単に幼いからだもの」

 自嘲気味に話す彼女の声は矢張り何処どこか不安定だった。

 暗いね、電燈は点かないのかしら、と彼女は言う。

 そうですね、と馬鹿の様に答える。

「―今日は、大切な話があるの」

 急に声の調子が変わった。重く、冷たく、それでいて何時もよりかすかに。その変わりようが、僕にとても不吉な予感をもたらした。

「大切な―話?」

「そう。とても大切」

「何です?」

「遠くに行かなければならない」

「な―」

 彼女の言葉の意味を理解できなかった。

「遠くに、行かなければならないのよ。引っ越すの。だから、貴方とはもう会えない」

「と、遠くって。あ、会えない?」

 にわかに錯乱した。上手く言葉が出てこない。彼女は何を言っているのか。

「大学院も辞めるわ。今まで、話し相手になってくれて有り難う」

「そんないきなり……」

 僕が必死に理解しようとしている間に、彼女は独白を始めた。

「今になって思うのだけれど、不思議な関係だったよね、私達。一週間に一度は逢っているのに、付き合っているわけでもないしさ。友達でもなくて、恋人でもないけど、友達以上恋人未満、なんて良く言うような間柄でもない。友達と呼べる程会ってないし、恋人よりも多くのことを語り合ったし。突詰めてみれば人なんて皆そういう曖昧な関係なのかもしれないね。でも、そういう関係に人は皆名前を付けて、それで釣合いをとっているんだよ。友達とか恋人とか、家族とか。他人っていう言葉だって、関係が無い、ってことを示す立派な名前じゃない?でも私達の関係って何なんだろうね。―名前をつけることができる?瑣末な事かもしれないけど、やっぱり名前が無いと、いずれ釣合いが取れなくなる時が来るんじゃないかしら。今がその時なんだよ、きっと」

 恋人より多くのことを語り合った―彼女の独白の中で、その言葉だけが妙に耳に残った。

 本当にそうなのだろうか。僕は、彼女のことをどれ程知っているというのか。それにしても、彼女はこんなに理屈屋だっただろうか。

 次々と疑問が頭に浮かんでは消えていく。一つだけ解った事は、彼女がもう僕と逢うことを望んでいないということだった。

「御免ね。突然決まったことだから」

 突然決まったこと。

「何故、引っ越すんです」

「理由は言えない」

 そう言って彼女は立ち上がった。彼女の四肢は夕闇にけて、かろうじて白いワンピースと、夕闇よりも濃い黒髪だけが風になびいて揺れているのが解った。

 消えてしまう。

「ちょ、ちょっと待って下さいよ。遠いところに行ったって、逢いに行くことはできます。せめて、何処に行くのかぐらい教えて下さい」

 彼女は僕に背中を向けて、少し首をかしげた。

「―天国、とか」

「じょ、冗談は止めて下さい!」

 冗談の様な言葉とは裏腹に、彼女の口調は無性に悲しげだった。御免ね、と彼女は繰り返し言う。

「二度と逢えないくらい遠いところ、って意味よ。多分もう、生きて逢うことはないと思って。今日だって、無理をして逢いに来たのよ。私は、私は本当ならもう」

「そんな―」

 然様さようなら―。

 彼女は鳥居に向かって歩き出した。

 消えていく。

 四肢の先から胴体に、すうっと闇が侵食する。闇と対極の存在である筈の純白のワンピースも、闇より濃くその存在を示していた筈の黒髪も、絶対的な闇に沈んでいく。

 やがて葛原美貴は、丁度鳥居の辺りで、完全に融けた。

 消えそうだった彼女は、本当に消えてしまった。

 神社だけでなく、街全体に夜のとばりが降りて、忘れていたことを思い出したかのように電燈が点くまで、僕はただ呆けたように茫然としていた。

 日常が、とても大切な日常の一部が欠けてしまった。

 遠いところ。二度と逢えない。

 ―天国。

 風が吹いて、境内の木々が一斉にざわめいた。

 怖い。独りは厭だ。

 僕は急いで神社から離れた。

 次回の投稿まで、少し時間がかかります。気長にお待ち下さいませ。

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