SECT.5 『踊リ子』試験
武道大会では、最初に3人の女神に扮した踊り子が軍神アレスに踊りを奉納する習わしがある。
運命を司るモイラ3姉妹、現在を司る『クロト』、過去の『ラケシス』、そして未来の『アトロポス』を選ばれた3名の踊り子がそれぞれ演じるのだ。
戦闘に挑む戦士たちが、運命の女神の加護を得られるようにと。
武道大会と並んで人々の注目を集める演武の一つだ。武道大会の半年前から地方で予選が行われ、一週間ほど前からこの居城で本選を行う。国外からの参加者のための枠もある。
あのくそガキが参加するとすれば国外からの参加枠だろう。
しかし、予選がない分、書類審査がかなり厳しいと聞くが、いったいどうやって通ったのか。不思議で仕方がないのだが。
「ここにおったか」
次の日、珍しく稽古場に現れない軍神アレスを待って、稽古場で一人、剣を振っていると、唐突に声をかけられた。
稽古場に入ってきたのはブロンデン=アスティノミコス、名目上はミュルメクスの護衛団長だということになっている。が、実質は軍神アレスの補佐に近い。あの無口な男が政務に携わるはずもなく、実のところミュルメクスと、その領地を仕切っているのはこの男の力が大きいのだろう。
無論、自身もかなりの経験を持つ猛者で、大槍を得意とし、かつでの武道大会で優勝経験もあるらしい。40を過ぎた今でも体躯は健在であるし、真っ向勝負を挑めと言われたら躊躇する相手であることに間違いはない。
「三日後の審査に参加するようミリアから聞いたと思うのだが」
「ああ、聞いている」
「ならば話は早い」
ブロンデンはどさり、と分厚い紙の束を手渡した。
「何だこれは?」
「踊り子候補の資料だ。一応、目を通しておくといい」
「……」
50名分の書類を手渡されて、いったいどうしろというのか。
思わず眉間に皺が寄る。
「何も誰を踊り子にするか考えろと言っているわけではない。決めるのはミリアだ」
分かっている。
俺が踊り子試験に参加するのは、ただの『布石』。
逃げはしない、俺自身が確実に演武に参加すると確約するためにあの場に出なければいけないだけなのだ。
それにしても。
分厚い紙束をぺらぺらとめくると、見慣れた名を見つけてふと手を止めた。
ルゥナー・ミタール。
その名は、あの歌劇団ガリゾーントの歌姫のものだった。
出身は北の大国ケルト。東の小国との小競り合いで両親をなくし、以来、両親の古い友人が経営する歌劇団ガリゾーントに身を寄せた。
そこからは、各地を転々としながら生活する。
4年前の戦争が終結してからは、少しでも多くの人に見てほしいと、旧グリモワール王国の領地を横断、現在に至る。
一目見れば忘れることはない、青みがかった白銀の髪と、強い意志を秘めた蒼の瞳――美しく気高い北の歌姫の噂はこの城までも届くほどだ。
そしてもう一枚めくれば、嫌というほどに見た名が目に入った。
グレイシャー=ロータス。多くの名を持つ少女が、もっともよく使う名前だ。
グリモワールのさる貴族の娘で、戦争により失脚。歌劇団ガリゾーントに拾われ、剣舞師としての才能を開花させ、今に至る。
確かにあいつはグリモワール王国で7つしか存在しない公爵家の出身であり、稀代の天文学者ゲーティア=グリフィスの唯一の子孫でもある。生粋を極めたような高家の出身であることは間違いない。
たとえ本人が、貴族という言葉と無縁の阿呆の鳥頭だったとしても。
それにしても、この経歴を読む限りでは、王国の地位を追われ失脚し、絶望から立ち上がった健気な娘の姿しか思い浮かばない。
とんだ詐欺もいいところだ。
大きくため息をついたところで資料を閉じた。
「いいな、確かに渡したぞ」
念を押して出て行った護衛団長の背が見えなくなったところで、分厚い紙の束を部屋の隅に放り投げた。
審査当日は快晴だった。
今日は本当にあいつが来るのだろうか――ほんの一か月、会っていないだけのはずなのにもう何年もあいつの顔を見ていないような気がする。
重症だ。
自覚はある。自分の世界があいつ中心に回っていることなど、とうの昔から知っている。
朝稽古に身が入らないのも、どこか気が急いているせいだろう。
ほぼ完治した両手足にぐっと力を込めて、最後の一振りを終えた。
「終わりましたか?」
それを待っていたかのように、ポピーが声をかける。
「時間です。闘技場へ行きましょう」
「闘技場?」
「ええ、ここは軍神アレスの居城です。この城の下部は、円形の闘技場になっているのですよ」
ポピーに連れられ、たどり着いた先には軍神アレスと護衛団長のブロンデンが待っていた。
「ミリアは?」
「ミリアは……踊り子審査の『参加者』です」
「は?」
軍神アレスがなぜ踊り子に、と尋ねる間もなく、銅鑼の轟音が鳴り響き、背を押された俺は光あふれるバルコニーへと押し出されていた。
一瞬、光に目を細めた。
しかし、次の瞬間には目の前に壮大な光景が広がっていた。
ぐるりと円を描く客席が、連綿と目の前に横たわり、見下ろせば黒土の闘技場が純白の壁と対比するように視界を埋め尽くす。
ここで幾多の戦士が技を競ってきたのだ。
闘技場に込められた歴史を実感し、背筋が震えた。
数日後、ここで軍神アレスと決闘する。
それはただ、この城を出るためだけではない。
一介の剣士として、不足なき相手と剣を違えることが、どれほど名誉な事なのか。俺は今それを肌で感じ取っていた。
見下ろした闘技場には、踊り子候補の女性たちが散らばっていた。
皆一様に華やかな意匠を凝らしているのだが、その中にひときわ目立つ漆黒の衣がまず目に入った。
銀糸の刺繍をした上着にどこか見覚えがあるのは、あれが漆黒星騎士団の衣装を模しているからか。歩くたびひらひらと揺れる漆黒の帯が風にはためいて、両腰にはサブノックの鍛えたショートソード。
意志の強い大きな漆黒の瞳がこちらに向けられていた。
唇が、小さく動く。
その声が聞こえなくとも、俺の名を呼んでいることを確信するのは、ただの自惚れなんだろうか。
会いたいと焦がれた少女の姿がそこにあった。
まるで泣きそうな顔をして、一歩、こちらに歩み寄った。
と、こちらに向かって駆けだそうとした少女を、隣にいたルゥナーが留めた。
この観衆の中駆け寄るわけにはいかない。仕方がないとはいえ、自分も駆けだしそうになる気持ちをかろうじて抑えた。
あの様子を見るに、どうやら元気そうだ。頼んだ通りに、歌劇団ガリゾーントの面々はあいつを連れて国境を越えてくれたらしい。
全身の力が抜けた。
あいつが死ぬはずがないと思っていても、全く恐れていなかったわけではない。
一度、俺たちは戦場で死別しているから。
震えそうになる体を必死で押さえつけた。
――必ず生きて、リュケイオンで。
ようやく誓いが果たされた。