SECT.4 アーディン
赤髪の少女、ミリアリュコス=エリュトロン。彼女が本当の『軍神アレス』であるという。3年前に東の戦で前任の軍神アレスを務めた父親を亡くしている。その時に、軍神アレスの力を継承したのだという。
いったいどういう経緯かはわからないが、その戦で傷を負った東方の民を一人連れ帰り、新たな『軍神アレス』であると公表した。
ミリアの感情は分からないでもない。しかし、目の前に対峙する男が、いったい何を考えて此処にいるのかはわからなかった。
未だ芥子の毒に苦しみ、逃れえぬのかもしれないし、他に何か理由があるのかもしれない。
俺は目の前の赤髪の男を見ながら、昨晩のポピーとの会話を思い出していた
いかんせんこの男は無口で、単語ひとつ口にしないのだ。憶測すらできない。
今日もただ無言で剣を合わせる。
東方の剣術と手合せする機会などそうあるはずもないので、その時間が稀有なものであることは分かっていたが、詮索が心を占めるのも事実だ。
気を削いでいると、すぐに一本取られてしまう。
現在のところ、客観的に見て実力は拮抗している。10日後に行われる演武でどちらが勝つかは正直分からない。
「休憩しよう」
剣をおろしてそう告げると、男は目礼して壁際に下がった。
その間、口を開きもしない。
もはや無口というレベルではない。
何か理由があるのだろうか。
あのくそガキなら何も考えずに本人に聞くに違いないが、そういうわけにもいかないだろう。
と、そこへミリアが医者のアーディンを引き連れてやってきた。アーディンの方は診察時間として、ミリアはいったい何をしに来たんだ?
しかも、壁際に佇む軍神アレスには目もくれず、まっすぐ俺の方に向かってくる。
「……何か用か?」
牽制に放った言葉も無視し、ずかずかと間合いまで踏み込んできた彼女は、真下から俺を見上げて言い放った。
「お前、『踊り子』試験の開幕に立ち会え」
「……は?」
「今回の大会で特別招待客のお前は軍神アレスと演武を行うと既に公表したのだから、事実を裏付けるために人前に出てもらう」
いきなり何を言っているんだ、こいつは。
思わず眉間に皺を寄せてしまった。
面倒な事になった。こいつはまだ俺の事を自分の所有物だと勘違いしているらしい。
「何を訳の分からん事を言っている。俺がお前の命令を聞かねばならない理由でもあるのか?」
言い返すと、ミリアは挑発するようににやりと笑った。
「グレイシャー=ロータス」
彼女の口から出た名前に、俺は閉口した。
「知った名だろう? 今回の『踊り子』試験の参加者だ。かなりガキくさいやつだったな」
確かにあいつは鳥頭で阿呆だが。
この物言い。
ミリアはあいつに会ったのか?
「あんま年上の男をからかうもんじゃねぇよ、ミリア。とくにこいつはガキ臭ぇんだから」
咥え煙草のアーディンが窘めた。
ポピーといいアーディンといい、ここではガキ扱いされてばかりだ。おかしい。いつもなら隣にあいつがいるから、俺が子ども扱いなんぞされることはないはずなのに。
「お前に選択権はない。これは命令だ。3日後の審査初日、アレスと一緒に舞台に立て。それだけでいい。詳しいことはブロンデンから説明させる。分かったな?」
きっぱりと言い切ったミリアは、俺の返答を待たずに踵を返し、部屋を出て行った。
突然の出来事が理解できず呆けていたのだが、アーディンに目の前で手をひらひらと振られ、はっと気づいた。
「ほれ、手、出せ。あと右足もだ。ほぼ完治してるが、無茶すれば10日後の大会に間に合わねぇぜ?」
そうして、咥え煙草の不良医師は、気にせず日課の診察を始めた。
煙が目の前に立ち上ってくる。
煙と共に、ヒトならざるモノの気配も強まっている。
「おい、医者」
「何だ、悪魔」
「その理屈でいくとお前は天使か」
思わず言い返すと、アーディンはふいにこちらを見上げた。
感情の読めない褐色の瞳にどきりとする。
「それは禁句だ、クロウリー伯爵」
「だが事実なんだろう? 隠す気もなさそうに見えるのだが」
「俺の気配に気づける人間は国中探しても12人しかいねぇよ。12人とも面識あるし、俺に害意がないことは証明済み。あとはセフィロトになら10人、グリモワールなら72人……いや、今は2人なのか? アンタみたいな例外相手に、隠す意味なぞ微塵もねぇ」
「……グリモワールは6人だ」
俺たちの他に、ライディーン、ヴァイヤー老師、アリギエリ女爵、メイザース侯爵の4人がいる。アリギエリ女爵はミュレク殿下のもとに留まり、ヴァイヤー老師は俺たちの子を預かる義兄上の近くに。ライディーンは革命軍の実働部隊として国中を忙しく飛び回っていた。
現在のところ、所在が知れないのはメイザース侯爵のみだ。
セフィロト国軍によって王都ユダが制圧された際、行方をくらましたと聞いた。それ以来、メイザース侯爵の安否は知れない。
「そう簡単に身内の情報漏洩していいのかよ」
「お前が聞いたんだろう」
「答える義理はねぇだろ。ちっとは用心しろよ」
何故か理不尽に叱られた。
この医者としゃべっているとどうにも調子が狂う。
「まあ、治りは順調だ。この分なら演武に支障はねぇだろ」
いつものように、煙草を床に落として踏み消して――稽古場に煙草を落としていくのをやめろ、と最初の三日は言い続けたが、全く聞かないので諦めている。
後で片付けよう。
と、この日は珍しく、アーディンが二本目の煙草に火を点けた。
ああ、片付けが増える、と思っていると、アーディンはこれまた珍しく真剣な顔をしてぽつりと言った。
「なあ、アンタ。自分の中の血を煩わしく思ったことはあるか?」
唐突な質問だった。
普通の人間には意味を為さないが、俺とこの医者の間に限っては特別な意味を持っていた。
そして、答えは簡単だ。
「ある」
即答したことに、咥え煙草の医師は驚いたようだ。
「意外だな。その血のお陰で民衆に崇められてんだから、喜んでるもんだと思ってたぜ」
「確かにそういった面もあるかもしれないな。だがそれは理由にならない」
生を受けてすぐ、自分の血が原因で母を亡くした。その上、クロウリー家に引き取られることになった。そして、堅牢な悪魔耐性を持つが故、レメゲトンに就任し騎士の道を断たれた。
何より、この血がある限りにおいて、俺はあいつと戦う運命にある。
「だが、マルコシアスの事は尊敬しているし、この血は誇りだ」
「臭いセリフだ」
確かにその通りかもしれない。
しかし、この感情を言葉にするには、俺は口下手すぎる。
剣の師匠であり、生死を共にした戦友であり、先祖であり、父親であるマルコシアスに対する感情は、どんな言葉にも替えがたかった。
「そのマルコシアスのせいで、力が顕在化して暴走してもか?」
アーディンの褐色の瞳に冷たい光が灯った。
「……その時は、あいつが止めてくれるだろう」
俺が何もかもを破壊する前に、容赦ない牙で以て俺の息の根を止めればいい。
ほとんど願望に近い推測だった。
「あいつってのはグリフィスの生き残りの事か?」
「ああ」
「信頼してんだね、美しいもんだ。いや、ガキなのか?」
鼻で笑ったアーディンは、二本目の煙草を床に落とした。
「言っとくが、芥子はきっかけでしかねぇ。アンタの中の悪魔は確実に表に出かかってる。それだけは覚えとけ」
「……それが分かるのは、天使の力か?」
不覚にも口をついた言葉に、アーディンの空気が変わった。
あからさまに不快そうな顔をし、舌打ちした。
「これだから悪魔は……」
煙草を取り出し、三本目。
そういえば、アーディンはウリエルが嫌いだ、とポピーが言っていたな。
少しばかり不躾な質問だったか、と思ったが、よく考えればアーディンの不遜な態度の方がよっぽど不躾だ。謝る気はない。
「あいつが城内に進入した時に解析したのもお前だと聞いた。探知能力に優れているようだな」
「アンタ、俺が嫌がってるのが分かってて続けてんのか?」
「無論だ。普段お前がやっていることだろう?」
と、そこでアーディンは目を丸くした。
「なんだ、気にしてたのか。そんでこれは、仕返しだってのか?」
「そうだ」
少しは反省するべきだ――と、言う前にアーディンは次の瞬間には腹を抱えて笑いだしていた。
いったいなんだというんだ。
思わず眉間に皺が寄る。
「いやあ、ガキだガキだと思ってはいたが、まさか仕返し、とはなあ。アンタ、マジで面白れぇな。だからミリアが懐くのか?」
涙を滲ませながら身をよじったアーディン。
「悪魔騎士で、元伯爵で、貴族で、マルコシアスの子で、セフィロト国から指名手配されてて、こんだけの容姿で、無愛想のくせに、それはねぇだろ!」
「……」
相変わらず失礼な奴だ。
「真面目で面倒なお堅いヤツかと思いきや、とんだド天然だ。これ反則じゃねぇの?!」
肩で息をしながらぽんぽんと俺の肩を叩いた。
「アンタの嫁の気持ちがわからなくもねぇな」
「はぁ?」
意味不明な台詞に、思わず不機嫌な声が出た。
が、アーディンは気にしないようだ。
当たり前だ。この不良医師は俺が不機嫌だからと言って態度を改めたりしない。
「あー笑った笑った」
ひとしきり笑った後、咥え煙草の医者は俺を見上げてにぃっと笑った。
「俺、アンタのこと嫌いじゃないぜ。会うまでは心の底から嫌いだったけどな」
「……既視感のある台詞を吐くな」
それは戦争の時に、ライディーンが俺に言った台詞と同じだった。
「アンタは人がおおよそ欲しいと思うモンをだいたい持ってるからな。妬まれるんだよ。だが、実際会ったらコレだ。そりゃあ、この台詞を言いたいのは俺だけじゃないと思うぜ?」
どういう事だ。
眉を寄せていると、アーディンは三本目の煙草を床に落として火を踏み消した。
「じゃあな、明日、同じ時間に来るぜ。無理すんじゃねぇぞ、アレイ」
ひらひらと手を振りながら。
三本の煙草を床に残し、気まぐれな医者は去って行った。