SECT.1 演武
稽古を終えたところで、これも恒例となった医師の診察が待っていた。
この城の筆頭医師であるというアーディンという青年はくわえ煙草に薄汚れた白衣、無精ひげというとても医者には見えない風体だが、どうやら腕は確からしい。
何より、詳しい事情は分からないが、俺が悪魔の血を引くように、こいつは天使の血を継いでいるようだった。特別隠してはいないらしく、探査能力に欠けた俺でも目の前にいれば天使の気配がする程度にその気配は垂れ流しだ。
そのことをわざわざ口にしたりはしないが、こいつも俺が気づいていることに気付いているはずなのだが……この男は何も言わない。
「今朝の稽古はやり過ぎだ。治んのが遅くなっても知らねぇぜ?」
返答せずにいると、青年医師アーディンはくっく、と笑った。
「まるで子供だな、アンタは」
「煩い」
答えてから、この返答こそ子供じゃないかと自分が嫌になる。
アーディンの後ろに控えていた金髪の少女がくすくすと笑った。
そうやって美しく波打つ金髪を揺らして笑うのはオリュンポスの一人、美神アフロディテであるポースポア=エウカリス。ポピーという名で呼ばれている。
綻んだ口元に手を添えながらポピーは肩を竦めた。
「失礼、クロウリー伯爵」
謝られている気が全くしない。
ため息でもって返すと、さらにくすくすと笑い声が響いた。
「だが、随分な速度で回復してんなぁ。アフロディテの加護があったとはいえ……流石は悪魔の国の騎士サマだ」
最後に左手を分断する傷の治りを確認し、アーディンは席を立った。
「武道大会までには完治するだろうよ。おい、大会には出んのか?」
ミュルメクスの武道大会。
噂には聞いている。
毎年この時期、リュケイオンのみならず、ディアブル大陸全土から屈強な戦士が集結し、強さを競う武道大会がこの軍神アレスの居城で行われる。過去には漆黒星騎士団や炎妖玉騎士団からも生え抜きの騎士が参加していたこともある伝統深き大会だ。
大会は約1週間にわたって行われ、参加者だけでなく応援や見学、観光の人々もかなりの数が訪れ、町全体がお祭り騒ぎで盛り上がる一大イベントだ。
何より、自分の腕を試すまたとない機会。
興味がないはずがない。
「機会があれば出場してみたいとは思っている」
そう言うと、甲高い少女の声が分断した。
「させるわけがないだろう」
声に振り替えると、そこに立っていたのは目の覚めるような赤髪の少女だった。高い位置で二つに髪をくくり、それに負けず鮮やかな紅のセパレートに身を包んだ彼女は、ミリアリュコス=エリュトロン。軍神アレスの居城を我が物顔で闊歩する彼女が何者なのか、俺はよく知らない。
彼女はいつもその背後に東方部族の長身男性を従えていた。左側だけ伸ばした髪を三つ編みにした堂々たる体躯の男は軍神アレス。軍神の名にふさわしい腕の持ち主だが、これまで俺はこの男の声を聴いたことがない。
「お前のような有名人を大会に出すわけにはいかない。面倒だからな。少しは自分の名の影響力を知ったほうがいいぞ、悪魔騎士アレイスター=クロウリー」
「……まるでお前が主催する大会かのような言い方をするんだな」
そういうと、問答無用で睨みつけられた。
「やめなよ、ミリア」
ポピーがほんの少し厳しめの声でたしなめる。
「そろそろクロウリー伯爵をこの城から解放するんだ。もう芥子の禁断症状もかなり治まったし、何より、グリフィス女爵が探しているかもしれないだろう?」
グリフィス女爵、という名にどきりとした。
――死なないで
第27番目の悪魔ロノウェが伝えたメッセージが蘇り、思わず左手の傷を見た。左手を切り落とす寸前まで深く傷つけたこの掌を見て、あいつはまた泣くんだろうか。それとも、生きていてよかったと泣くんだろうか。
どちらにしても泣かせることに変わりなく、それよりなにより、今すぐにでもあいつに会いたかった。
「駄目だ。こいつはここに置いておく」
「何言ってるの。もうやめなって言ったでしょ?」
「嫌だ。アレスもこいつも、私のモノだ」
「ミリア!」
まるで子供を叱る母親のような語気で叫んだポピーは、はっと気づいて軽く会釈した。すみません、と小さく声を添えて。
肩を竦めたアーディンがテンポよく二人の頭を叩いた。
「そんくらいにしとけ、オリュンポスのガキども」
「誰がガキだっ……!」
部屋を出ていくアーディンの背中に向かってミリアが吠えたが、彼はそれを無視して出て行った。
罵詈雑言を扉に向かってわめき散らす赤髪の少女のことはさておき、どうすべきかと考えを巡らせる。
リュケイオンに入ってから幾日立つかしれないが、未だ俺にはあいつの手がかりひとつ入ってこない。捕えられたという話があればきっとポピーが黙ってはいないだろうから、セフィロトの手には堕ちていないと見ていいだろう。
そうすると、あいつは今、いったいどこにいる?
こういう時、自分の探査能力のなさにため息が出る。千里眼を操ることのできるあいつなら、いくら遠くても見つけ出してしまうだろうに――
と、俺はそこまで考えて、ようやく答えを導き出した。
「……そうか」
呟き、かすかに笑んだ俺を見て、ポピーが首を傾げる。
「どうなさいました? クロウリー伯爵」
「いや、えらく簡単な事を忘れていたなものだと思ってな」
進む方向を示してやるだけ。
ただそれだけでいい。簡単な事だ。
そもそも、俺自身が迎えに行くなんて言う過保護な姿勢を取ったことなどこれまで一度もなかったのだ。レメゲトンになるときも、戦争の時も、難攻不落のディファンクタス牢獄を破ったときだって、あいつは自分で決断し、自分で道を決めて、まっすぐに歩いていた。
俺がわざわざ迎えに行くまでもなく、あいつはいつも自分で道を切り拓く力を持っているのだから。
「ミリア」
俺は、扉に向かって悪口雑言を振りまく少女を呼んだ。
ミリアは赤髪を揺らして振り向き、きっと俺を睨みつける。
「なんだ、アレイスター=クロウリー」
「お前は俺をこの城から出す気がないようだが、それは本当か?」
叫びかけたポピーを制止し、俺はまっすぐにミリアを見据えた。
「勿論だ。私はお前を手放す気などさらさらない」
自分がこの少女のモノになったつもりなど微塵もないのだが、それはさておき。
俺は床に膝をつき、二人の少女に対して頭を垂れた。
「セフィロト国の手から守ってもらったことは感謝している。負った怪我も完治した。俺一人ならば野垂れ死んでいただろう。心から感謝する」
「面を上げてください、クロウリー伯爵。貴方を助けたのはあくまで政治上の理由によるもの。お心を砕くようなことではございません」
淡々とポピーが返した。
無論、俺がここにいることもポピーが俺を治療したことも、単純な政治上の理由だけでないことは分かっている。が、建前としてそう言わざるを得ないのだろう。
「だが、俺にも帰るべき場所がある。いつまでもこの場所にとどまるわけにはいかない。だとすれば、俺はここから力ずくで出ればいいのか?」
「力ずく? は、やってみろ。私の結界とアレスを超えられるわけがなかろう」
「試してみるか?」
大きく傷痕の残る左手を握り、俺はミリアを挑発した。
「もしここから本気で出ようと思ったら、手加減はしない。お前と軍神アレスは無事でも、街と城はそうもいかんだろうな。それとも、癒しに秀でたアフロディテが護りにも長けているというなら話は別だが」
どうやら俺の意図をくみ取ったのか、ポピーはくすりと笑って首を横に振った。
「残念ながら僕の力は攻撃から身を守ることには向いてない。それが得意なのは、軍神アレスの力だよ」
軍神アレス――あの赤髪の男はあれだけの戦闘力を持ちながら、さらに守りの力までも持つというのか。
厄介な相手だ。
だが――
「俺とて無差別の破壊が目的ではない。だが、このままここには留まれない。そこでだ、ミリア。取り決めをしようじゃないか」
だからこそ、交渉材料にもなる。
「取り決め? いったい何を?」
ミリアの眉が跳ねる。
「無為に戦えば周囲を巻き込みかねん。だから、規則の中で、正々堂々と勝負して決める」
「規則の中で勝負だと?」
一瞬怪訝な顔をしたミリアだったが、すぐに納得したのかにぃ、と笑った。
「武道大会」
「そうだ。観客の前で正々堂々と戦って決めれば、文句はあるまい」
「いいだろう。アレスと戦い、勝てばお前をここから解放してやる」
自信たっぷりに言い放ったミリアは、軍神アレスの勝利を確信しているのだろう。
それはとてもよくわかる。あの無口な男は実際、武道大会に出場すれば優勝も狙えるだろう程の手練れであることは俺もよくわかっている。
「まってミリア、さすがにアレスは大会に出られないよ?」
ポピーが慌てて止める。
「大丈夫だ。私が舞台を用意してやろう。神前舞踏の後に、演武の席を設けてやる。軍神アレスと悪魔騎士の演武だ。これで文句はないだろう?」
ミリアの考えは分かっている。
この少女は、俺をどうにかして軍神アレスの下についたと思わせたいのだ。それが、虚栄心から来るものか、ただの支配欲から来るものかはわからないが。
だとすれば、演武で軍神アレスが悪魔騎士アレイスター=クロウリーを打ち負かすのが早道。
軍神アレスのほうが各上であることが大陸全土に知れ渡ることだろう。
「ない。後になって逃げるなよ、ミリア」
「それはこちらの台詞だ、アレイスター=クロウリー」
これでいい。これでミリアは演武のことを大々的に宣伝する。
この地を治める軍神アレスと、先日セフィロト国の追手を派手にひきつれて亡命した悪魔騎士アレイスター=クロウリーの演武なのだから、確実に人々の話題になるはず。
そしてきっと、いつかあいつの耳にも――
あいつに会うために俺がやるべきは、この城を出て迎えに行くことじゃない。
ここに俺がいることを、わかりやすく教えてやることだ。
そのためなら俺は、セフィロト国の追手も恐れず、この名を知らしめてやろう。