二月の相談室
ドアをノックする前に、一度だけ息を整える。これはもう、癖のようなものだった。
二月の廊下は乾いていて、暖房の風がストッキングの上から脛を撫でていく。昼休みが終わったばかりのオフィスは人の声がまばらで、この奥まった一角まで足を運ぶ社員はほとんどいない。
健康相談室。プレートの文字を見るたび、灯璃はほんの少しだけ肩の力が抜けるのを感じる。
こんこん、と二回。
「はーい。どうぞ」
聞き慣れた声が返ってきて、灯璃はドアを引いた。
入った瞬間、やわらかい匂いに包まれる。甘すぎない、粉っぽいような、でもどこか温かい香り。この部屋にいつも漂っているもの。空調の低い音だけが響くこの空間は、廊下の向こうとは別の時間が流れているみたいだった。
「宮瀬さん、今月もお疲れさま」
三枝暖は、デスクの向こうから目を細めて笑った。明るいブラウンの髪をゆるくまとめて、白衣の襟元からのぞくブラウスはくすんだピンク。穏やかな垂れ目が、灯璃を見るときにいつもやさしく弧を描く。
「お願いします、暖先生」
灯璃は慣れた動作で椅子に腰を下ろした。デスクの端に並んだ小さなフィギュアが目に入る。先月来たときにはなかった、妙にリアルなカエルのミニチュアが増えている。
「あ、先生。またなんか増えてません?」
「あ、わかる? コンビニのおまけについてたの。このカエル、横から見ると困ってる顔してるんだよ」
暖が嬉しそうにカエルを持ち上げて横を向ける。確かにどことなく困惑した顔をしている。灯璃は思わず笑った。
「先生のセンス、相変わらずですね」
「褒め言葉として受け取ります」
暖は小さく胸を張ってみせてから、手元の記録を開いた。
「先月、プロジェクトの締め切り前で睡眠が五時間切ってるって言ってたけど、あれからどう?」
覚えている。先月の自分の些細な愚痴を、暖はいつもちゃんと拾ってくれる。
「あ、あれは一段落しました。今は次のが始まったとこなんで、まだ余裕あります」
「よかった。宮瀬さん、追い込むタイプだから。繁忙期入ったら早めに来てね」
仕事だから覚えているのだ、と灯璃は自分に言い聞かせる。産業看護師として、社員の体調を記録して、経過を追って、ケアする。それが三枝暖の仕事であり、灯璃は二百人以上いる社員のうちの一人にすぎない。
それでも。
この部屋に来ると呼吸が楽になるのは、空調のせいだけではないことを灯璃は知っていた。ブラインド越しに差し込む二月の低い日差し。空調の静かな音。デスクの上の不思議なフィギュアたち。そして、椅子二脚ぶんの距離で向かい合う暖の声と、あのやわらかい香り。
ここだけが、仕事を忘れていい場所だった。
「そういえば宮瀬さん、今年もバレンタインの義理チョコ禁止令、メールで回ってきたでしょ」
「来ました来ました。去年より文面が厳しくなってて、総務の本気を感じました」
「ふふ、私も相談室にチョコ持ち込まれると困るから、ありがたいけどね」
暖が笑うと、垂れた目尻がさらに下がる。灯璃はその顔を見るのが好きだった。好きだった、と思ってから、胸の奥でそっと蓋を閉める。
先生だから、やさしいのだ。
面談が終わり、灯璃は椅子から立ち上がった。
「来月もよろしくお願いします」
「はい。無理しないでね、宮瀬さん」
ドアを閉める直前、暖がもう一度笑うのが見えた。他の社員にも、きっと同じように笑うのだろう。同じように名前を覚えて、同じように体調を気にかけて。
廊下に出ると、相談室の温かさが一歩ごとに剥がれていく。パウダリーな香りの残像を肺に留めたまま、灯璃は自分のデスクへ戻った。
◇
その日は、ただ書類を届けに行くだけのはずだった。
面談から数日後の昼過ぎ。企画部のフロアから総務に資料を届けた帰り道、灯璃はいつもと違うルートで廊下を歩いていた。理由はない。強いて言えば、自販機でコーヒーを買おうと思ったから。それだけのことだった。
相談室の前を通りかかったとき、ドアが開く音がした。
「ありがとうございます、先生。なんか話してるだけで楽になりますね」
出てきたのは、去年の秋に中途で入った男性社員だった。名前は確か、藤川。灯璃と同い年くらいで、配属先は製造管理。人懐っこい笑顔で社内にすぐ馴染んだ、と誰かが言っていた。
「そう言ってもらえると嬉しいな。体調のほうも順調そうで安心しました」
暖がドアの横に立って、笑っていた。いつもの、目が細くなるあの笑顔で。
「次は来月でいいですか? また来ていいですか?」
「もちろん。いつでもどうぞ」
藤川が軽く手を振って歩き去る。暖がそれを見送りながら、小さく手を振り返す。
灯璃の足が止まった。
心臓のあたりに、熱い杭を打たれたような感覚があった。
嫌だ。
何が、とは言えない。でも、嫌だった。暖が誰かに笑いかけているのを見るのが。誰かが暖の時間を使って、暖に「また来ていいですか」と訊くのを聞くのが。暖が「いつでもどうぞ」と返すのが。
気づいたとき、灯璃は踵を返していた。自販機の前を通り過ぎて、そのまま自分のフロアに戻った。コーヒーのことは忘れていた。
デスクに戻って、パソコンの画面に向かう。企画書の文字を目で追うけれど、一文字も頭に入ってこない。心臓がまだ痛い。あの場面が、まぶたの裏にこびりついて消えない。
暖の笑顔。藤川に向けた、あのやわらかい顔。
仕事なのに、と灯璃は思う。あれは仕事だ。産業看護師として社員をケアするのが三枝暖の役割で、藤川は前の職場で体調を崩して転職してきた社員で、暖が経過を見ているのは当然のことで。
それなのに。
どうしてこんなに、胸が詰まるのだろう。
退勤して、電車に乗って、アパートに帰って、コンビニの弁当を温めて。ひとりの夜に沈んでいくと、昼間の感情がぶり返してくる。嫉妬。そう名づけてしまえば簡単だけれど、灯璃が抱えていたのはもう少し複雑で、もう少し切実なものだった。
藤川が憎いわけではない。あの人懐っこい笑顔は好感が持てるし、暖を頼りにしているのも理解できる。
嫌だったのは、藤川が男だということだった。
男であるというだけで、あの人は暖の隣に自然に立てる。暖に好意を持ったとしても、「普通のこと」として受け止められる。告白しても、おかしくない。付き合っても、おかしくない。結婚しても、おかしくない。
灯璃には、その「普通」がない。
仕事なのに。しかも女同士で、何を期待してたんだろう。
弁当の蓋をテーブルに置いて、灯璃は天井を見上げた。目の奥が熱かった。
男だったら、先生の隣に立てる気がする。男だったら、好きだと言える気がする。男だったら。
男じゃないから、無理なのだ。
一年以上、そう言い聞かせてきた。三枝暖に惹かれていることには、とっくに気づいている。声が好きで、笑顔が好きで、あのやわらかい香りが好きで、相談室のドアを開ける瞬間が好きだ。でもそれを「好き」と呼んでしまったら、もう相談室には行けなくなる。
だから封をした。「先生だからやさしいんだ」と。「仕事だから覚えてくれてるんだ」と。
でも今日、封の端が剥がれてしまった。
藤川に笑いかける暖を見た瞬間、灯璃の中で何かが灯って、それはまだ消えてくれない。
◇
嫉妬から数日が経っても、灯璃の中に灯った火は消えなかった。仕事中にふと暖の笑顔を思い出しては振り払い、振り払ったそばからまた浮かび上がる。集中力を欠いた日が続いて、案の定、体が先に音を上げた。
こめかみの奥に鈍い痛みが巣くっている。鎮痛剤はポーチに入っているけれど、二日続けて飲むのは気が引けた。
行くべきかどうか、灯璃は迷った。今あの部屋に行ったら、きっと普通でいられない。でも頭が痛いのは事実で、仕事にも差し支えていて、相談室を使う正当な理由がある。
正当な理由。そういう言い訳が必要な時点で、もうおかしいのだと灯璃は分かっていた。
それでも、足はあの廊下へ向かった。
こんこん。
「はーい」
ドアを開けた瞬間、あの匂いが灯璃を包んだ。パウダリーで、甘すぎなくて、どこか粉っぽいような。この匂いが好きだ。この匂いを嗅ぐと安心する。いつからこの香りを、先生の香りだと覚えたのだろう。
「宮瀬さん? 定期は先週だったよね。どうかした?」
暖がデスクから顔を上げる。少しだけ眉を寄せた、心配そうな顔。
「すみません、ちょっと頭痛がひどくて」
「いいよ、座って。いつから?」
「昨日の夕方くらいからです」
「食事は?」
「一応、食べてます」
「睡眠は?」
「……五時間くらい」
暖が小さくため息をついた。責めるような響きはなくて、ただ心配している、というだけの息だった。
「プロジェクト始まったばかりって言ってたのに、もう追い込んでる?」
「いえ、仕事はまだそこまでじゃ」
そこで言葉を切った。仕事のせいじゃない。眠れなかったのは、あなたのせいだ。そんなことは口が裂けても言えない。
暖は体温計を差し出し、灯璃のこめかみに触れて熱を確認し、いくつか質問をした。いつも通りの丁寧な対応。プロの手つき。灯璃はそれにひとつずつ答えながら、椅子の上で背筋を伸ばしていた。近い。いつもの距離なのに、今日はやけに近く感じる。
「熱はないね。肩こりからかな。最近目も疲れてない?」
「そうかもしれないです」
「ちょっと休んでいきなよ。急ぎの仕事なければ」
灯璃が頷いて、暖が記録をつけている間、ふたりの間に穏やかな沈黙が流れた。空調の低い音。ブラインドの隙間から差す二月の光が、床に細い線を引いている。
不意に、暖が引き出しからチューブを取り出した。
「今日も乾燥するね」
ハンドクリームのキャップを外し、手の甲に出す。白いクリームが少し多く出たらしく、暖は小さく声を上げた。
「あっ、出しすぎちゃった。宮瀬さん、もらって」
「え、いいんですか」
「うん。はい、手出して」
差し出された暖の手に、灯璃はおずおずと自分の手を重ねた。
暖の指が、灯璃の手の甲にクリームを伸ばしていく。やさしく、丁寧に、関節のひとつひとつに馴染ませるように。指の間にも、爪のまわりにも。揉み込むような手つきで、ゆっくりと。
ミルクの匂いがした。さっきまでのパウダリーな香りとは違う、もっと近い、やわらかい匂い。暖の手は温かくて、灯璃の指先の冷たさを溶かしていくようだった。
思考が白くなる。
暖の手が自分の手を包んでいる。それだけのことなのに、心臓が喉のあたりまでせり上がってきて、息をするのを忘れそうになる。
「冷えてるね、手」
暖が独り言のように言った。灯璃の手を両手で挟んで、ほんの一瞬だけ温めるような仕草をした。
「……はい」
声が震えなかったのは、奇跡だったと思う。
暖が手を離す。灯璃の手の甲にミルクの香りが残った。
それから少しの間、ふたりはいつものように話をした。はずだった。暖がいくつか話題を振って、灯璃がそれに返して。でも灯璃の返事はどこか上の空で、目線が定まらなくて、声のトーンがいつもより低かった。
暖がペンを置いた。
「宮瀬さん」
「はい」
「何かあった?」
灯璃の心臓が跳ねた。
「いつもと違うよ、今日」
暖の目がまっすぐにこちらを見ている。穏やかだけれど、見逃すまいとするような目。産業看護師としての目ではなくて、もっと――いや、きっとこれも仕事だ。社員の異変に気づくのが、この人の仕事だから。
「……別に、何も」
「そう?」
暖はそれ以上追わなかった。ただ少し間を置いて、静かに言った。
「無理しないでね」
たったそれだけの言葉だった。いつも言われている、聞き慣れた言葉。なのに今日は、その発音が灯璃の胸のいちばん柔らかいところに触れた。
目の奥が急に熱くなった。
だめだ。泣きそうだ。ここで泣いたら、理由を訊かれる。理由を訊かれたら、誤魔化せない。誤魔化せなかったら、全部壊れる。
「もう行きます」
灯璃は立ち上がった。声が少し裏返った。暖に背を向け、ドアに向かって一歩踏み出す。
「待って」
暖の声が、背中にかかった。
◇
灯璃は立ち止まった。ドアノブに手をかけたまま、振り向けなかった。
振り向いたら、泣いてしまう。
「何か私、した?」
暖の声は静かだった。責めているのではなく、心配している声だった。それがよけいに苦しい。
灯璃は首を横に振った。
「してないです。先生は何も」
「でも、泣きそうな顔してる」
沈黙が部屋を満たした。空調の音だけが、低く唸っている。ブラインドの隙間から細い光が差して、灯璃の足元に白い線を引いていた。
暖は待っていた。黙って、椅子に座ったまま、灯璃の背中を見ていた。
灯璃は必死に息を整えた。ここで立ち直って、いつもの顔をして、「大丈夫です」と笑えば終わる。来月も普通に面談に来て、カエルのフィギュアの話をして、「先生だからやさしいんだ」と自分に言い聞かせて。それで終わる。今まで通り。
ドアノブを握り直した。
「すみません、なんでもな」
手首を、掴まれた。
暖がいつの間にか椅子から立ち上がって、灯璃のすぐ後ろに来ていた。白衣の袖から伸びた指が、灯璃の細い手首をやわらかく、でもしっかりと掴んでいる。
「灯璃ちゃん」
息が止まった。
灯璃ちゃん。先生が、名前を呼んだ。一年以上ずっと「宮瀬さん」だったのに。
掴まれた手首から暖の体温が伝わってくる。さっきのハンドクリームの、ミルクの香りがかすかに残っていた。逃げられない。逃げたくない。この手を振り払えるほど、灯璃は強くなかった。
振り向いた。
暖が、すぐそこにいた。いつもはデスクを挟んで椅子二脚ぶんの距離にいる人が、手を伸ばせば届く場所にいた。穏やかな垂れ目が、灯璃の濡れた目をまっすぐに見ていた。
何か言おうとした。大丈夫です、と。なんでもないです、と。でもそのどちらも喉から出てこなくて、代わりに別の言葉がこぼれた。
「……先生が、男の人と話してるの見て、嫌だったんです」
言ってしまった。
暖の目が、わずかに見開かれた。
「この前、廊下で。相談室から出てくるところ。先生が笑って見送ってて。それが、すごく」
灯璃の声は震えていた。もう止められなかった。封をしていたものが、暖の手の温かさで溶けて、ひとつずつ溢れ出していく。
「羨ましかった。男だったら、先生の隣に立てる気がして。男だったら、好きだって言っても、おかしくないから」
涙がぽろぽろと頬を伝った。灯璃は掴まれたままの手首とは逆の手で拭おうとしたけれど、全然追いつかなかった。
「女同士で、ごめんなさい」
最後の言葉は、ほとんど聞き取れないくらい小さかった。
暖は動かなかった。灯璃の手首を掴んだまま、黙ってすべてを聞いていた。
長い沈黙があった。時計の秒針が進む音すら聞こえないこの部屋で、灯璃の鼻をすする音だけがかすかに響いた。
やがて、暖が口を開いた。
「隣に立ちたいの? 私の」
灯璃は顔を上げた。涙でぼやけた視界の中で、暖の表情は穏やかだった。怒ってもいない。困ってもいない。ただ静かに、真剣に、灯璃を見ていた。
答えられなかった。頷くことも、首を振ることもできなかった。でも涙が止まらないことが、何よりも正直な返事だった。
暖が灯璃の手首からそっと手を滑らせて、指先を握った。
「私もね」
暖の声が、少しだけ揺れた。
「宮瀬さんのことが、気になってた。ずっと」
灯璃の涙が一瞬、止まった。
「面談の時間、宮瀬さんのときだけ少し長くなってるの、自分で気づいてた。他の人にはしない話をしてるのも。でも、それが何なのか、ちゃんと考えないようにしてた」
暖は灯璃の指をそっと包んだまま、小さく笑った。
「考えたら、困るから」
「先生も……わからなかったんですか」
「うん」
暖が頷いた。灯璃の顔を見つめて、涙の跡をたどるように目線を動かして。
「あなたが教えてくれた」
◇
暖の手が灯璃の指を離して、背中に回った。
引き寄せられた、と気づいたときにはもう、暖の胸元に額が触れていた。白衣の下のブラウスの、清潔な布の感触。その向こうにある体温。パウダリーな香りが、今までで一番近い距離で灯璃を包んだ。
暖の腕が、灯璃の背中をやわらかく抱いている。灯璃より少し高い背丈が、灯璃のすべてを覆うように。
堰が切れた。
灯璃は声を殺して泣いた。暖の白衣の胸元に顔を埋めて、肩を震わせて、ずっと封じ込めていたものを全部流し出すように。一年ぶんの「好き」と、一年ぶんの「無理だ」と、一年ぶんの「言えない」が、涙になって止まらなかった。
暖は何も言わなかった。ただ灯璃の背中をゆっくり撫でて、時折、髪に触れた。灯璃の低いポニーテールの結び目の少し上を、指の腹でやさしくなぞった。
どれくらいそうしていたのか、わからない。灯璃の嗚咽がだんだん小さくなって、肩の震えが収まって、呼吸が戻ってくるまで、暖はずっとそうしていた。
「謝らないで」
暖の声が、頭の上から降ってきた。
「女同士だから、って灯璃ちゃんは言ったけど」
灯璃ちゃん、と暖が呼ぶたびに、灯璃の心臓がぎゅっと縮む。
「私は、それで困ったりしない」
暖が少しだけ体を離して、灯璃の顔を覗き込んだ。涙でぐしゃぐしゃになった灯璃の顔を、暖は笑わなかった。ただ真剣に、やさしく見つめていた。
「私が、あなたを選ぶから」
灯璃の目から、また涙がこぼれた。今度はさっきとは違う温度の涙だった。
暖の手が灯璃の頬に触れた。涙を親指の腹で拭って、そのまま頬を包む。ハンドクリームのミルクの香りが、すぐ近くで匂った。
暖の顔が近づいてくる。灯璃は目を閉じた。
唇に、やわらかいものが触れた。
短く。ほんの一瞬。確かめるような、そっと置くだけのキス。暖のローズ系のリップのかすかな艶が、灯璃の薄いティントに重なって、離れた。
目を開けると、暖がすぐそこにいた。いつもの穏やかな垂れ目が、今は少しだけ潤んでいるように見えた。
灯璃はまだ泣いていた。嬉しいのか悲しいのかもうわからなくて、ただ涙が勝手に出てくる。鼻も赤くなっているだろうし、目も腫れているだろうし、ひどい顔をしているに違いない。
暖が灯璃の頭をぽんぽんと撫でて、ふっと笑った。
「泣き虫」
「……う、ちが……」
「違ってないよ、今」
灯璃はうまく言い返せなくて、鼻をすすった。暖がポケットからティッシュを出して渡してくれる。灯璃がそれで目元を押さえている間、暖はずっと灯璃の髪を撫でていた。
ブラインドの向こうで、冬の日が傾き始めていた。相談室は外の寒さとは無縁で、空調のやわらかい温風と暖の体温で満ちていた。
「……暖ちゃん、って呼んでいいですか」
灯璃が鼻声で言った。暖が一瞬きょとんとして、それから目を細めた。
「どうぞ」
「暖ちゃん」
「はい」
「暖ちゃん」
「はいはい」
「……もう一回、抱きしめてもいいですか」
暖は答える代わりに、灯璃の肩を引き寄せた。今度はさっきよりもゆっくりで、さっきよりも長く。灯璃は暖の首元に顔を埋めた。パウダリーな香りと、ミルクの香りと、白衣の下の体温。
外は二月だ。窓の向こうは冬で、夕方になれば息が白くなる。
でもここは。
暖の腕の中は、暖かかった。
◇
翌週の火曜日。灯璃はいつもの面談より十五分早く、相談室のドアを叩いた。
こんこん。
「はーい。……早いね」
暖がデスクから顔を上げる。白衣の襟元から今日はラベンダー色のブラウスが覗いている。
「今日は何の用?」
「用がないと来ちゃダメですか」
暖が一瞬黙って、それから目を細めた。あの笑い方。垂れた目尻がさらに下がる、灯璃がいちばん好きな顔。
「……どうぞ」
灯璃はいつもの椅子に座った。デスクの上のカエルのフィギュアが、相変わらず困った顔をしている。その横に、新しいアヒルのミニチュアが増えていた。
「暖ちゃん、またなんか増えてる」
「コンビニのシリーズで集めてるの。あと一個でコンプなんだけど、なかなか出なくて」
「……一緒に買いに行こうか」
「え、いいの?」
「いいよ。仕事終わりとかに」
暖が嬉しそうに笑って、灯璃も笑った。椅子二脚ぶんの距離はいつもと同じなのに、空気の温度がまるで違った。
◇
その日の退勤後、ふたりは正面玄関で合流した。
二月の夜気が容赦なく頬を刺す。灯璃はマフラーに顔を埋めて、白い息を吐いた。隣を暖が歩いている。白衣を脱いだ暖はグレーのコートを着ていて、見慣れた白衣姿とはまた違う大人っぽさがあった。
「寒い」
灯璃がぽつりと言った。
暖が横目でこちらを見て、ふっと笑った。それから何も言わずに、灯璃の手を取った。コートのポケットの中に、ふたりの手を一緒にしまう。
「暖ちゃんの手、あったかい」
「灯璃ちゃんが冷たすぎるんだよ」
暖がそう言って、ポケットの中で灯璃の指をきゅっと握った。灯璃は握り返した。
オフィスの灯りが遠ざかって、駅までの道に街灯がぽつぽつと続いている。二月の夜は暗くて冷たくて、吐く息はすぐに白く消えた。
外は寒いのに、繋いだ指先だけが溶けそうだった。




