「蚊の音」
夏の夜、耳元を飛ぶ一匹の蚊。
もし、あの不快な羽音が少しずつ変わり始めたら――。
蚊の音
蒸し暑い熱気が部屋中に淀み、肌に重くまとわりついていた。エアコンの吹き出し口からは生ぬるい風が流れるばかりで、ちっとも冷えてくれない。息をするたびに、湿った空気が喉の奥に張り付くようだった。
じっとりと汗ばんだシーツの上で、何度も寝返りを打ちながら、マサトはベッドに横たわっていた。Tシャツが胸元に張り付き、体の向きをいくら変えても不快な熱がまとわりついて離れない。寝苦しい夏の夜だった。
『シュゴォォ……ボコボコボコ……』
暗闇の中、突如として弾けた湿った音に、マサトは弾かれたように目を覚ました。心臓が不快な拍動を打つ。息を整えながら音の主を探すと、部屋の隅に置いた電気ポットのランプが赤く点灯していた。白い湯気が立ち上り、その湯気は、部屋の熱気と同じようにねっとりと漂っている。自動再沸騰が始まっただけだった。
「……びっくりさせんなよ」
汗ばんだ胸元を撫で下ろし、マサトは再び枕に頭を沈めた。だが、あの湿った音は、耳の奥にまだねっとりと残っていた。しつこく、まとわりつくように。
静寂が戻る。……はずだった。
『プーン……』
耳元をかすめた不快な高音が、脳の神経を逆撫でする。
「ちっ、蚊かよ……」
マサトは体を起こし、壁のスイッチを押して蛍光灯を点けた。部屋がパッと明るくなる。
両手をパンと叩く準備をしながら壁や天井を見渡したが、どこにも小さな羽虫の影はない。しばらくじっと警戒してみたものの、気配すら失せてしまった。
「見失ったか……」
溜め息をつき、再び電気を消してベッドに入った。
数分後。
『プーン……』
まただ。顔のすぐ近くで羽音が揺れる。
マサトは手で顔の周りを払ったが、手応えはない。
「うっとうしいな……」
諦めて無視を決め込もうと目を閉じた。しかし、音は消えるどころか、少しずつニュアンスを変え始めていた。
『ブーン……』
音が低い。さっきまでの蚊の軽やかな音ではない。スズメバチでも迷い込んできたかのような、重みのある駆動音。
『ゴォォォ……』
いや、蜂でもない。音量は刻一刻と増し、今や部屋の空気が微振動を起こしている。重低音が耳膜を直接揺らし、部屋全体が巨大な機関室の中にでも閉じ込められたかのような錯覚を覚える。
「な、なんだこれ……!?」
背筋に冷や汗が吹き出した。ただの虫の音ではない。家鳴りでもない。
恐怖のあまり、マサトは足元からタオルケットを引き上げ、頭まですっぽりと被った。暗闇の中で自分の荒い呼吸音だけが響く。だが、外からの轟音は布越しでも容赦なく鼓膜を叩いた。
『ゴゴゴゴゴゴゴゴ……!』
逃げ場のない音の暴力。マサトは身体を丸め、耳を強く塞ぎながら、ひたすら嵐が過ぎ去るのを待った。
どのくらい時間が経っただろうか。
唐突に、轟音が『バタバタバタッ!』という周期的な硬い音に変わった。
「……え?」
マサトは恐る恐る耳から手を離した。
マサトはゆっくりとタオルケットから顔を出した。
『バタバタバタ、カチッ、バタバタバタ……』
規則的な音を聞いているうち、ようやくその正体に思い当たった。
首振りに設定していた扇風機だ。きっと、引き上げたタオルケットの端が網状のカバーに触れ、首が回るたびに布地が擦れているのだろう。
「……なんだよ、そういうことか」
緊張が一気に解け、マサトは全身の力を抜いて荒い息を吐いた。
音の正体さえ分かれば、恐怖など一瞬で吹き飛ぶ。
「脅かしやがって……」
苦笑いを浮かべながら、扇風機のスイッチを切るために身を起こし、振り向いた。
そこには、扇風機などなかった。
月明かりが差し込む窓を背にして立っていたのは、部屋の天井に届くほど巨大な、漆黒の影。
その顔面の中央から、太く、長く伸びた、黒く鋭利な筒状の針が——まっすぐにマサトの首元へ向けられていた。
筒の先端が、微細に震えている。
『ブスッ。』
おしまい




