巡礼
雨を含んだ土の匂いが漂う。荷馬車の轍に水が溜まり、雲が低く垂れ込める下で遠くの丘陵は灰色の獣の背のように連なっていた。その道をひとりの女騎士と、彼女に従う壮年のロバ族の従者が歩いていた。
女騎士の名はクーニュという。王家の傍流、バーホルカの枝に連なる遍歴騎士だ。青の外套の裾を泥に濡らしながらも背筋を伸ばし、視線は常にまっすぐだった。飾り気のない旅装に擦り切れた鞘、古びた胸当て。道行く者たちは彼女がただの旅人ではないことをその物腰で知った。宿代を払えぬ老人に自分の食事を譲り、道端の子供の名を尋ね、誰に対しても目線を外さずに礼を言う。その誠実さには生まれより先に身につく気品があった。
クーニュの半歩後ろへ従うのが、ロバ族の従者オセルである。灰褐色の短い毛並みに幅の広い肩、風雨に削られた岩のような顔。長い耳は物音をよく拾い、脚は太く、背には大剣と荷を軽々と負っていた。ロバ族は強健で、一度踏みしめた道を決して忘れないと言われる。オセルはその血の特質を裏切らなかった。どの峠に湧水があり、どの村に鍛冶屋がいて、何年前に誰がどんな顔でパンを売っていたかまで彼は記憶していた。
だから、忘れたいことをひとつも忘れられなかった。
日が暮れる頃、ふたりは山裾の小村に着いた。村の入口で薪を抱えた娘が泣いている。話を聞けば、戦の兵崩れが関所の真似事をして通行税を取り、逆らった村人を納屋に閉じ込めているという。
クーニュは声を荒げもせずに眉を寄せた。静かに手袋を外し、娘の肩に触れる。
「ご安心なさい。王都は遠くとも、王家の義務は遠くありません」
納屋の前には寄せ集めの革鎧を着込んだ六人の男たちがいた。手入れの悪い槍の穂先は錆び、眼だけが獣のように荒んでいる。クーニュは前へ出て名乗りをあげる。
「我が名はクーニュ・バーホルカ。遍歴の途上にある騎士だ。民から不当に奪ったものを返し、剣を納めなさい」
男たちは一瞬顔を見合わせ、それから哄笑した。痩せた女ひとりが家名を名乗ったところで何になる。そういう笑いだった。
オセルが前へ出る。
「お嬢様、お下がりを」
決まりきった作法を確認するような口調。けれどその声を聞く時、クーニュはいつも小さく息を呑む。すぐに血が流れることを知っているからだ。
男たちが先に飛びかかった。槍が突き出される。オセルは一歩踏み込むと柄を掴んで軽々と折り、肘で一人の喉を打ち、返す刃で二人目の膝を払った。大剣が鈍い音を立てて鞘から抜かれ、相手の武器ごと地面を砕くように振るわれる。オセルには間合いを読む目と、戦場で生き延びてきた者の無駄のなさがあった。六人は長く持たなかった。最後の一人が逃げ出そうとした時、クーニュがその前に立っていた。
「次に民を脅せば、法の名ではなく私自身の怒りで裁きます」
震える男は奪った金袋を置き、何度も頷いた。
村人たちはクーニュに感謝を向けたが、実際に納屋の閂を破り、崩れ兵をねじ伏せ、怪我人を担いだのはオセルだった。彼女はそのことを忘れない。夜、村の鍛冶屋の離れを借りて休むと、彼の前腕にできた浅い切り傷へ薬を塗った。
「お嬢様。この程度、舐めておけば塞がります」
「あなたはいつもそう言うのね」
「事実です」
「それが事実だとしても、わたくしが心配することまでは止められません」
細い指が傷口を探る。オセルはじっとしていた。彼は大抵の痛みに鈍いが、彼女に触れられる時だけは別だった。傷ではなく、もっと奥の、古く乾いた場所が疼くのだ。
クーニュは俯いたまま言った。
「あなたはわたくしの従者ですのに、戦うのはいつもあなただわ」
「お嬢様は守るべきものをお持ちです。私は斬る役目です」
「でも……」
言いかけて、彼女は口を噤んだ。オセルは彼女より二十近く年上だ。すでに壮年の域にあり、それでもなお若者より速く剣を振るう。しかし彼の肩に積もる疲労を彼女は誰より近くで見ていた。
「年は私が生きながら積んだ荷です。捨てれば軽くもなるでしょうが、それでは道を覚えられません」
「……ええ。わたくしも、あなたが積んできた荷を愛しく思っています」
彼女は少しだけ笑った。その笑顔が好きだとオセルは胸の内でだけ認める。声に出したことはない。言える立場でも、年でもなかった。
村を出てからふたりは北へ向かった。継承戦争の爪痕がまだ色濃い土地である。焼け残りの塔、草に埋もれた塹壕、名もない墓標の数々。戦の終わりは王都で宣言されても、地方では終わり損ねた悲しみが何年も土に残っていた。
クーニュは立ち寄る先々で負債証文の読み上げを手伝い、孤児にパンを配り、争う兄弟の話を聞いて仲を取り持った。剣を抜くことよりも膝を折って相手の言葉を聞くことのほうが多かった。
彼女はよく、自分は高貴なる遍歴騎士なのだと言った。王家の傍流として、豊かな者からではなく、弱き者からこそ先に名を呼ばれるよう努める義務があるのだと。村人はその言葉に半信半疑の顔を見せても、彼女が帰る頃には頭を下げる。血筋の証は紋章ではなく振る舞いに宿るのだと思わされた。
そしてオセルはそのたびに胸の奥で鈍い痛みを覚えた。彼女が高貴に振る舞えば振る舞うほど、その姿は真実に近づき、同時に真実から遠ざかるのだと彼は知っていた。
峠越えの前日、巡礼路の脇で狼鬼に襲われた避難民の一団に遭遇した。灰色の毛皮を持つ狼鬼は飢えと戦の残滓に狂った獣で、人の匂いを嗅ぐと群れで襲ってくる。子供の泣き声に引き寄せられたのだろう。クーニュはとっさに避難民を荷車の内側へ集め、火打石で松脂の松明を作らせた。
「輪を崩すな。老人と子供を中心に、力なきものを守るのだ!」
指示は明快で、声はよく通る。人を落ち着かせる才が彼女にはあった。
オセルは輪の外側へ出た。狼鬼は八頭。夜の始まりに溶ける影のように地面を滑り、こちらに牙を剥く。最初の一頭が飛びかかってくるのを彼は左腕で受けた。牙が革を裂き、血の匂いが立つ。大剣を横薙ぎに払い、二頭まとめて叩き伏せ、顎を蹴り上げた。ロバ族の脚力は馬にも劣らぬと言われる。彼が踏み込むたびに凍った地面がひび割れた。
だが数が多い。最後の二頭が左右からきた時、クーニュが松明を持って輪の外へ飛び出した。
「オセル、右です!」
炎にひるんだ狼鬼の首筋へ彼の剣が落ちる。残る一頭が彼女へ向かった。オセルは間に合わない。そう判断した瞬間、クーニュは躊躇なく焼けた枝をその口へ突き込み、狼鬼が怯んだ隙に避難民の荷車の後ろへ身をひるがえした。彼女は剣を抜くより先に人を守る形へ場を変えたのだ。
戦いが終わるとオセルの左腕からは血が滴っていた。避難民の子供が泣き、母親たちが涙ながら礼を言い、クーニュはその子の頭を撫でて安心させたあと、ようやくオセルの前に立った。
「無茶をし過ぎです、オセル」
「あなたの前に立ち、あなたが守るべき者たちを守ることが従者たる私の役目です、お嬢様」
言い返すと、彼女は困ったように微笑んだ。いつものやりとりだった。正論は大抵、彼らの間では円を描いて元の場所へ戻ってしまう。
その夜は古い礼拝堂の跡で火を焚いた。天井は半ば崩れていたが、雨風は避けられる。クーニュは傷の手当をしながら不意に口を開いた。
「わたくし、近頃よく思うのです」
火が彼女の横顔を赤く染めていた。
「もしわたくしが、王家の名も、騎士の誓いも持たない、ただの旅の女だったなら……あなたに、もう少し違う頼り方ができたのかもしれない、と」
オセルは返せなかった。喉の奥が固くなる。
「しかしお嬢様は、クーニュ・バーホルカ様です」
「ええ。ですから、こんなことは考えてはいけないの……」
彼女は包帯を結ぶ手を止めて目を伏せた。従者に心を乱される主人などあってはならないのだと戒めるように。
火が爆ぜた。オセルは膝の上で拳を握った。彼女の想いはずっと前から気づいていた。気づかぬふりをしていたのは立場のためだけではない。彼女が若く、彼が年を重ねすぎていたこと。彼女が人で、彼がロバ族であること。何より、彼女が信じている自分自身の輪郭を、彼が知りすぎていること。そのすべてが愛の告白を罪のように思わせた。
答えは喉の内側で崩れた。あなたに触れたいと思うたび、私は守るという誓いの形に逃げている。そんな言葉を、口にしてよいはずがなかった。
翌朝ふたりは峠を越え、その向こうに広がる灰野へ出た。そこには黒く焼けた石垣と崩れた門柱だけを残す古い屋敷跡があった。クーニュは足を止める。風が吹き、焼け跡に伸びた冬草が揺れた。
「不思議です。初めてきたはずなのに、ここを知っている気がする」
「このあたりに、王家に連なる方のお屋敷があったと聞いたことがあります」
「ではきっと、継承戦争で焼けてしまったのね」
彼女はそう言って石垣に手を触れた。その指先は震えていたが、本人は気づいていないようだった。
「このような時代、このような場所だからこそ、騎士は旅をやめてはいけないのだわ」
クーニュの言葉で、オセルの中に古い夜が蘇った。
十二年前のことだった。継承戦争の最中、王都から離れたこの土地にも火の手が上がった。バーホルカ傍流の小さな館と、その麓の集落がまとめて焼かれた夜。オセルは館の警護として仕えていたが、敵を引きつけるため別働で外へ出ており、戻った時にはすべてが遅かった。屋根は崩れ、主人夫妻も、若き令嬢クーニュも、既に炎の中で息絶えていた。
生き残りを探して灰の中を歩き回った彼が見つけたのは、館の裏手にある井戸のそばで煤だらけの娘がうずくまっている姿だった。村の織工の娘、ペス。館へ糸を納めにくる時に何度か顔を合わせたことがあった。彼女の家は集落の端にあり、火に呑まれて両親も弟も見つからなかった。
娘は熱に浮かされた目でオセルを見上げた。
「皆は、逃げきれたかしら」
それは本来、死んだ令嬢が最後まで口にしていたであろう言葉だった。焼け落ちる回廊で、令嬢は使用人たちを裏門へ逃がし、自分は火の中へ戻っていった。
「わたくしは……高貴なる遍歴騎士、クーニュ・バーホルカ。民を守るのがわたくしの役目」
娘はそう呟き、それきり自分の名を思い出せなくなったようだった。
医師は言った。強い衝撃で記憶が絡まり、それを無理にほどけば心が壊れるかもしれない、と。けれどオセルが沈黙を守った理由はそれだけではない。娘が名乗った虚構は、死んだ令嬢が最期まで守ろうとしたものの続きだったからだ。
ペスという娘が消えた灰の中から立ち上がったその人は確かに誰よりも高潔で、誰よりも騎士であろうとしていた。ならばオセルにはその嘘を裏切ることができなかった。
真実を告げるべきか迷ったことがある。ある冬の村で凍えた子に外套をかけてやり、自分は雪の中で震えていた彼女を見て、口を噤む決意をした。この人を支えているものを壊してまで誰も救われぬと知ったからだった。
クーニュはまだ焼け跡を見ていた。夕暮れが近い。彼女は振り向き、いつもの静かな顔で微笑んだ。
「行きましょう、オセル。先の村で、橋の修繕を待っている人たちがいるそうです」
「承知しました、お嬢様。どこまでもお供いたします」
胸の奥で忘れられぬ記憶の重みが軋んでいた。それでも彼女が差し出した手を見れば、応えずにはいられない。その手は主人が従者を促すためのものに見えて、ほんの僅か、ひとりの女がひとりの男に寄せる躊躇いを含んでいた。オセルはその手を取り、段差を越えさせるふりをして、必要より少しだけ長く支えた。
クーニュは気づかないふりをした。あるいは気づいていても、騎士としての品位の影へ隠したのかもしれない。頬に夕焼けより淡い赤が差していた。
「ねえ、オセル」
「はい」
「あなたは、わたくしが立派な騎士になれていると思いますか」
問いは軽い声音で発せられたが、その奥には子供のような不安があった。失くしたものの名も知らぬ者が持つ、空洞の響きだった。
オセルは迷わなかった。彼の記憶は、嘘も真実も等しく刻む。だから自分が何を守るべきかも忘れない。
「お嬢様は世の誰よりも立派な騎士です。私が一番それを知っております」
従者の一言に、彼女は安堵したように笑った。
「安心いたしました。でしたら、もう少しだけ胸を張って歩けますわ」
灰野を渡る風がふたりの外套を後ろへなびかせた。王家の傍流を名乗る遍歴騎士と、その従者たる壮年のロバ族。世が見ればありふれぬ主従の旅に過ぎないだろう。けれどオセルにとってそれは、ひとつの嘘を抱えて歩く巡礼だった。彼女の中で壊れた名前を抱き、保つための。
この先もクーニュは知らないままだろう。自分が何者で、どこからきたのか。継承戦争が奪ったのは家族だけではなく、彼女自身の名でもあったことを。だが知らぬままでも、彼女は弱き者へ手を差し伸べ、泣く子の前で膝をつき、飢えた村に最後の干し肉を置いていく。生まれで騎士になれぬ者がいるとしても、行いで騎士になれる者はいる。オセルはそれを彼女から教わった。
だから彼は、記憶を手放さない。すべてを覚えている者として彼女の忘却を支え続ける。たとえそれが真実に背くことでも、彼女の心が生きるための王道なら獣の背に荷として負ってゆける。
日が落ちる頃、道はまた次の村へと続いていた。クーニュは前を向いたままで言う。
「夜は冷えそうですね。今夜は火の番を交代しましょう」
「私が起きています」
「だめよ。あなたは昨日もそう言ったもの」
「私は頑丈ですので」
「もちろん知っています。でも、頑丈だから大事にしなくていいわけではないでしょう」
その言葉にオセルは小さく唇を持ち上げた。おそらくはこの先も、彼女にだけは勝てないのだろう。
「……では半刻だけ、お願いいたします」
「ええ。半刻だけ、引き受けますわ」
主従の約束は、恋の告白より慎ましい形で結ばれるのだった。
並んで歩く影が細長く重なった。オセルはその重なりを見つめ、胸の内でそっと誓う。
あなたが高貴なる遍歴騎士を名乗る限り、私はその従者であり続ける。あなたがただひとりの女として誰かを愛する日がきても、たとえその相手が私でなくとも、なおあなたの影に寄り添い剣を取り続けるだろう。
――けれど、もし許されるなら。
星の未だ出ぬ薄明の街道で、彼は記憶の底に願いを置いた。
どうか旅が終わるその日まで、あなたの手が私を必要としてくれますように。そして終わりの先でも、あなたが知らないまま守られた真実ごと、あなたの歩いた道が、あなた自身を裏切りませんように。
灰野の向こうで、最初の灯りがひとつ点される。クーニュがあそこねと指を差した。オセルは頷き、彼女の半歩後ろへ従う。主従の距離。けれど決して遠くはない距離。
そうしてふたりはまた夜へ入っていった。嘘に守られた騎士と、真実を背負う獣として。




