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受験生につき青春禁止!!

作者: ガルド



 ◆◇◆◇◆◇◆



 風間 鷹志さまへ



 とりあえずペンを取ったはいいが、改めて手紙を書くとなると緊張するものだな。もう、この出だしの一行を書くだけで何枚もの紙を無駄にしてしまった。

 最初は、もう少し丁寧な言葉で書こうと思っていた。私の言葉遣いは男子みたいなところがあるし、もう少し可愛く書けないものかと、これでも色々と試行錯誤はしてみたんだ。

 だけど、やっぱり私は私らしい言葉で想いを伝えるのがいいと思いなおした。だから、普段通りの言葉で、普段通りお前に語りかけるようにこの手紙を書いていこうと思う。

 想い、なんて書くのは少し恥ずかしいものがあるな。今も、これから書こうとしていることを思うと手が震えるし、顔はたぶん真っ赤なんじゃないかと思う。だけど、意地っ張りな私はお前と顔を合わせてしまったら素直になれないんじゃないかと思う。これでも、かなり努力してアピールはしているつもりなんだが、お前はちっとも気が付いてくれないし……。いや、それを今ここで言うのは控えよう。


 本題に入る前に、この手紙を書くきっかけになったことについて書いておこうと思う。突然こんなものを貰ったお前はさぞ戸惑っているだろうしな。

 さて、どこから話したものだろうか。きっかけ、とは言っても様々なことがあるし、その全部を書くわけにもいかない。

 ただ、間違いなく言えることは、水野蒼子、あの子のことを抜きにこの手紙を書くことはなかった。それだけは間違いがない。

 こんなことをこの手紙に書くことが正しいのか、あるいは間違っているのかは分からないが、それでもお前には知っていてもらいたいので、ここにその経緯を書いておこうと思う。

 実は昨晩、蒼子と喧嘩をした。原因は複雑で、簡単に説明できることではないのだが、一言で言ってしまえば私があることについてズルをしたのだ。そのズルとは、『青春禁止条約』のことだ。

 たぶんお前は、私がなにを言っているのか分からないと思う。分かるように伝えられないことを歯がゆく思うが、どうかそのまま耳を傾けて欲しい。


 私は『青春禁止条約』を設ける上で、お前に恋愛の禁止を強いた。素直に告白する。他の条文はともかく、恋愛の禁止だけは私のエゴだった。私は、お前の気持ちが蒼子に向いているのではないかと思っていた。いや、今をもって思っている。

 だけど、私は今の幼なじみという関係さえもなくなってしまうことが耐えられなくて、自分が好きであることを告白できずにいた。その間にもお前と蒼子はどんどん仲良くなっていくように見えた。

 私は蒼子に嫉妬した。可愛くて、素直で、頭もいい彼女に、ずっとずっと嫉妬していた。もちろん彼女のことは大好きだった。だけど、それでもあの子を私が好いているという気持ち以上に、私はあなたをあの子に取られたくなかった。自分の醜い感情は自覚していたけれど、それを止めることは出来なかった。


 蒼子とお前が出会う前に告白しておけばよかった。そう何度も後悔した。お前に告白をして、晴れて付き合えるようになったところで目が覚める夢を、何度も見た。だけど、現実の私は蒼子が現れる前だってあなたに振られるのが怖くて告白なんてできなかった。


 そんなある日、私はお前の家庭教師になるチャンスを得た。お前も知っての通り、お前のお母様に頼まれてのことだった。

 私はすぐにそれを利用することにした。恋愛ごとの禁止は受験には付き物で、これで少なくとも大学が決まるまでは蒼子とお前の仲が進展することはない。そんなことを考えていた。

 だけど、そんなことは全くなかった。むしろ、恋愛を禁止した途端に私のいないところで二人でなにやら親密そうに話しているところを多く見かけるようになった。

 そしてついに、怖れていたことが起こった。蒼子が、私に恋愛禁止を撤回するように求めてきたのだ。当然私はつっぱねたが、蒼子には私の醜い魂胆が見抜かれているようだった。

 もう、これ以上誤魔化すことはできなかった。私は、恋愛禁止を撤回することにした。私がなにを考え、なにを思ってきたかもぶちまけた。蒼子も、彼女の気持ちを素直に私にぶつけてくれた。それは彼女なりの誠実さだったんじゃないかと思う。

 でも、私と彼女の仲はもう決定的だった。

 私は昨日、親友と片想いの幼なじみを同時に失った。


 ただ、そう思うとなんだかいっそ清々しい気もした。

 私は他の人からは真面目で真っ直ぐな人だなんてよく言われるが、本当の私は不誠実でとても弱い人間なのだ。そんな自分をこれ以上偽らなくて済む。それが、この手紙を書くことにしたきっかけ。


 鷹志は、こんな私の告白を聞いてどう思のかな。

 嫌ってくれていい。軽蔑してくれていい。私に、あなたのことを指図する権利なんて、最初からなかったのだ。

 ただ、最後にひとつだけ。これだけは知っていて欲しいことがあります。


 ずっとずっと、大好きでした。たぶん、これからもずっと大好きです。長い時間一緒にいたけど、これからもずっと一緒にいたいと、そう願っていました。もうそれは叶わないけれど、私が一方的に想っていることだけは許してほしいです。

 蒼子のこと、大切にしてあげてください。嫉妬はたくさんしましたが、私が彼女を大切に思っているのは本当です。それだけはあなたには信じてもらいたい。


 さて、それじゃあそろそろ手紙もお終いにしようと思う。

 今日の朝、ファミレス奢ってくれてありがとう。パフェとってもおいしかった。

 これを書いてるのは蒼子の泊まりに来た次の日だけど、この手紙は月曜日の放課後、鷹志の部屋へ行って渡そうと思う。いつも鷹志のことをヘタレなんて罵ってたくせに、自分は少しでも終わりを先に延ばそうなんて女ながらに女々しいよな。

 ごめんなさい。これまでありがとう。



 日野茜より






 ◆◇◆◇◆◇◆






 ◆◇◆◇◆◇◆






 ◆◇◆◇◆◇◆






 昼休みを告げるチャイムが鳴ると、今日もまた茜は勢いよく席を立った。

「鷹志、勉強するぞ!」

 俺の前の席に座る茜が立ち上がり振り向くと、俺の視界は彼女でいっぱいになった。

 女子にしては高い身長とすらっと伸びた長い足。本人曰く毎朝鏡の前で格闘しているという髪の毛は、背中の半ばまで綺麗にまっすぐと伸びている。振り向いた顔には、まるで怠け者の生徒を指導する熱血先生のように生真面目につり上がっていた。

 まったく、自分のことでもないのに本当にご苦労なことだ。

 俺はそんなことを他人事のように思った。

「待て待て。その前に飯にしようぜ。午後の授業、飯抜きで受けるつもりか?」

「そうですよ、茜ちゃん。食べないのは体にもお肌にもよくないです」

 背後から水野の声が聞こえた。

 振り向くと、そこには小柄な体に小さな顔、そして体躯のわりには大きな胸の女子が、お弁当を両手に持ってこちらへ歩いてきていた。歩くと彼女の性格を表すようなふわふわとしたセミロングの髪が揺れている。

 夏休み前、彼女が転校してきた時は隣だった席も、夏休み明けの席替えですっかり遠くへ離れてしまった。

 そんなわけで、席の離れてしまった水野はお弁当だけを持ってこちらの席へやってきたわけである。

「なんだよ、蒼子まで。そんなことは分かってるぞ」

 茜は腕を組んでふんっとばかりに顔を背けた。

 水野はそれを見て困ったように眉じりを下げてこちらを伺ってきた。

 俺は苦笑して、任せろとばかりに頷いた。

「悪い悪い。ほら、今日も作ってきたぞ。お前の弁当」

「あ、うん。ありがとう」

 茜は唐突に渡された弁当を受け取るととっさにお礼を言った。本当に、そういった面に関しては律儀な奴だ。思わず笑いが漏れる。

「でも、今更だが本当に毎日任せちゃってていいのか?」

「いーの、いーの。料理すんのは好きなんだって言ってるだろ。それに、交換条件、なんだろ?」

「うん、まあ、そうなんだけど」

「だったらきちんと受けとっとけって、な?」

 そう言って茜の腕にぐっと弁当を押し込んだ。

 するとそれを見たクラスメイトがはやし立てた。

「なんだぁ、日野は今日もまた風間の愛妻弁当かぁ? お熱いねー、ひゅーひゅー」

「な、これは……、ちがっ……」

 この手のからかいなど今に始まったことでもないというのに茜はテンパって赤くなっている。だからみんな面白がって止めないのだ。

「なんだてめぇ、お前も俺の愛妻弁当が喰いてえのか? 俺の愛情たっぷりだぞこの野郎!」

 ちなみに、「愛妻」弁当とは言っても風間は俺の名字である。一年の頃、家庭科の調理実習を張り切ってしまったばっかりに、俺の似合わない趣味は友人間でも有名だったりする。

 はやし立ててきたクラスメイトは俺の愛情たっぷり、という言葉に「げー」という言葉を漏らし、足早に逃げていった。

「さて、そんじゃいつもの場所へ移動しますか。今日もよろしくお願いしますね、先生方」

 俺はそう言って茜と水野の方へ振り返った。






 ◆◇◆◇◆◇◆






 俺、風間鷹志と日野茜は幼なじみである。

 どれくらいの馴染みかと言えば、それはもう公園デビューの時からである。俺が住んでいる家は高層マンションの六階なのだが、なんと茜の家はその真上だった。そんな、ある意味ひとつ同じ屋根の下に生まれた俺たちが使う近所の公園は同じであり、一歳児の頃にはすでに二人して遊んでいたという。

 そんなわけで、家が近いので小学校も中学校も同じ。でもって頭の出来は全然違うのだが、なんの因果か高校まで同じ、近場で文武両道を掲げている私立梅ノ島高校に通っている。彼女の学力を持ってすればもっと上の学校に行けたのだが、彼女はここの高校のバスケ部の顧問にスカウトされていたらしい。

「まあ、鷹志のこともまだまだ心配だしな」

 入学式の日、もっと上の学校に行けたのではと言った俺に、彼女は快活にそう言った。なんというか、ご迷惑をおかけし続けております。

 そんな感じで始まった高校生活だったが、これまでの小、中学校に負けず劣らず彼女の活躍は目覚ましいものがあった。

 まず、勉強はトップ十を落としたことはなかった。生来の生真面目さを高校に入ってからも十分に発揮、どころか、さらなる磨きをかけた彼女は、予習復習を欠かしたことはなく、塾も行かず、むしろ部活漬けの生活を送りながらもテストでは毎度恐ろしい点数を叩きだし続けた。

 そして部活では一年でレギュラーを張り、持ち前の姉御肌で同学年のまとめ役を続けること二年。先輩たちが引退するころには部のキャプテンにまでなっていた。そして今年六月、彼女たちのチームは大会の準優勝という結果を持って三年生の引退が決まった。その日、会場では部員で唯一泣いていなかった茜は、帰りに寄った俺の部屋でひとり泣き続けた。

「お前、日野さんとはどういう関係なんだよ」

 これはクラス替えをすると必ず初日に聞かれる質問だった。

「なにって、ただの幼なじみだぞ」

「ただの幼なじみが、高校生にもなってあんなに仲良くするかっ!」

「あてっ。こら、殴るんじゃねーよ! あれだよ、あいつの親、帰りが遅いから昔からたまに俺んちに晩飯食いに来るんだよ。だから兄弟みたいなもんなの」

「なにそれ超羨ましい!」

「餌づけか、餌づけなのか? 料理の出来る男はモテるのか!?」

「地獄に堕ちろ!」

 こんな感じで茜の話をしているといつも人が集まってきた。だから、茜のお陰で俺の周りにはいつも人が絶えなかった。

「なあ。それで実際のところ、お前ら付き合ってないの?」

 これまたよくされた質問である。

 俺はこの質問をされると、いつも心臓が爆発したんじゃないかという気持ちになる。だけど、そんなことはおくびにも出さず必ずこう返すのだ。

「実際もなにも、ただの幼なじみだぞ」

 冷や汗を流しながら、さもなんでもないように返す。そうすると、大抵の奴はほっとしたような顔をして去っていくのである。

 ただの幼なじみ。

 それが、俺と茜を示す正しい関係だった。

 だけど俺は最近疑問に思うようになってきた。

 ――いったい、ただ幼なじみとはどんな関係なんだろうか。






 そんなただの幼なじみである俺が茜のことを先生呼ばわりするには、マリアナ海溝よりも深い事情があった。それは今からおよそ三カ月前のことである。

 茜がバスケットでのスポーツ推薦で大学入学が決まった、もうすぐ夏になろうかというその日――。

 茜は俺の部屋へいつものパンツルックで現れると、いきなり一枚の紙を差し出した。彼女がいきなり俺の部屋へやってくることは別段珍しいことではないので、俺は特になにも言わずに差し出された紙を受け取った。

 わざわざパソコンで作ってきたらしい書類然とした紙には、一番上にでかでかと聞き慣れない言葉が印刷されていた。

「青春、禁止条約?」

「そう、『青春禁止条約』」

「なに? これ」

「作ってきたんだ」

「そりゃ、御苦労さま」

「じゃ、今日から鷹志はこれを守るように」

「いや、なんでだよっ」

 俺は思わずつっこんだ。

「今日、私の合格が決まった」

 なぜか部屋の主である俺の正当な疑問は無視されたらしい。

「知っとる。おめでとさん」

「というわけで、今日から私はお前の家庭教師だ」

「よし、落ち着くんだ。ひとつ前の台詞からその台詞は『というわけで』では繋がらないからな?」

「さあ、勉強するぞ。鷹志」

「お前さっきから俺の言葉まったく聞いてないだろ!?」

「む、失礼な。ちゃんと聞いているぞ」

「ああ、ソウデスカ」

 都合のいい耳でうらやましい限りです。

「で、なんだよ、突然。端折らずに最初から全部説明してくれ」

「説明もなにも、言葉の通りだ。今日から私はお前の家庭教師をやることになった」

「なんで」

「お前のお母様に前から頼まれていたからな。私は今日付けで大学受験が終わって暇になったので、以前からの約束を果たすことになった」

「以前からの約束?」

「ああ、お母様と約束してな。ここに契約書もある」

 そういって茜はどこからともなく一枚の紙を取り出した。

 なになに、私こと風間秋子は息子風間鷹志の家庭教師を日野茜に依頼するものである。その報酬として、日野茜は風間鷹志にどんな命令でもひとつ言うことを聞かせることを風間秋子の名において保証する、と。

「クソババアー!!」

 俺は力の限り叫んだ。

 だがうちのアホ親は共働きで、母親であってもこの時間には家にはいなかった。

「というわけで、私もお母様を見習って契約書を作ってきたんだ」

 茜はそういってない胸をそらした。身長も女子にしては高いことも手伝って、よく言えばスレンダー。悪く言えば貧相な体だった。

「おい鷹志。お前今もの凄く失礼なことを考えただろう」

「…………」

 心を読むな。いくら幼なじみとは言えプライバシーの侵害は許さないぞ。

「いや、そんなことはともかく。俺は認めてないぞ、そんなこと」

「ああ、それなら大丈夫だ」

「いや、なにが大丈夫なんだよ。なにも大丈夫じゃねーよ」

「お前にひとつ言うことを聞かせる権利を今ここで使う」

「え、決断早くない!?」

 いくらそんなジョークみたいな約束だからって、安く使いすぎだろ。俺に言うことを聞かせるのなんてその程度だ、とでもいうような高度な嫌がらせなのか?

「お母様に言われる前から私もお前の学習意欲のなさはまずいと思っていた。だからこれはいい機会なんだ」

「いや、幼なじみの学習意欲の管理とかお前の管轄じゃねーだろ……」

「うーん、そうか?」

 ちなみに、茜の学力は相当なものだ。うちの高校は文武両道を謳っているだけあり、勉強面もトップ層に関しては決して低くない。ただし、下層との格差は激しい。文武両道を謳う高校の抱える社会の闇である。

 そして茜の入る大学も、彼女の入試方法こそスポーツ推薦だが偏差値自体は高く、俺なんかでは天地がひっくり返っても入学など不可能なレベルだ。

「だいたいなぁ、茜。お前には前から言ってるように、俺は大学に行く気はないんだよ」

 せめて大学くらいは、とうるさいのはうちの両親の方で、俺自身はもう高校が終われば就職すればいいと思っているのだ。

「だからといって、その就職先をどうするかなんてことも決めてないんだろ?」

 茜はため息混じりに呆れた顔で言った。

「まあ、確かに具体的にどうするってことが決定してるわけじゃないけどよ。とりあえず、今のところは料理が出来る場所ならどこでもいい、ってことくらいで」

「でも学校への書類では進学希望、ってことになってるんじゃないのか」

「あんなもん、うちの親が勝手に出しただけじゃねーか」

「それにしたって、まずいだろう。就職するにしたって具体的になにがしたいと決まってるわけでもない。進学にしたって志望校はひとつも挙がってない。このままだと今流行りのニートになってしまうぞ」

「そりゃそうなんだが……」

 だが、親父とその話をするといつも堂々巡りになってしまい、正直今すぐ具体的な案を出すということにはなれそうにない。俺だって早く話を具体的にしなくちゃとは思うのだ。だけど、俺はこれ以上親父と喧嘩を続けることに疲れていた。

「それに……」

 そんなことを考えていると、茜がなにやら思い詰めたような顔をしてうつむいていた。らしくもなく、声も少しうわずっているような気がした。

「それに、鷹志は本当に就職でいいのか?」

「え?」

 普通に聞かれていたら即答したであろう茜の問いかけに、俺はすぐには答えられなかった。

「それは、どういう意味だよ」

「どういうも、そのまんまの意味だ。こう言ってしまっては親に失礼かもしれないけど、目的もなく大学に行くなんて普通だろ? 就職なんてしたら、簡単には辞められないし、学生みたいに遊んでいられないじゃないか。それに……、それに……」

 しばらく待ってみたが、茜はそこで完全に黙ってしまった。

 それに、なんだったのだろうか。

 俺にはまったく見当がつなかなかった。

 だけど、彼女が俺のことを本当に心配してくれて言ってくれた言葉だということだけは分かった。実際のところ、俺はそれだけで死ぬほど嬉しかった。ニヤニヤ笑いだして、小躍りしたいくらいだった。そんな内心は表に出さないように歯を食いしばって全力で表情筋を固めたが。

「分かった。やるよ」

「え?」

「やる。お願いするよ、家庭教師。正直、今だってぜんぜん大学とか行く気しないけど、勉強しといて困ることはねーからな」

「本当か!?」

「ああ、本当だ」

「ありがとう!」

 茜は感極まってぎゅっと俺の手を両手で握りしめた。

「こ、こら。なんで勉強を教えるほうのお前がお礼を言ってんだよ。ほら、高校生にもなって恥ずかしい奴だな。手を離せ!」

 俺は頭に血が上るのを恨めしく思いながら叫んだ。ああ、やばいな。茜から見たら、俺、もしかして真っ赤なんじゃないだろうか。

 不思議な奴だ。他人からかわかられるのは死ぬほど恥ずかしがるくせに、自分からのスキンシップは平気なのだから。俺の心臓の身にもなってほしい。

「ふふ、そんなに恥ずかしがることはないだろ? 小学生のころなんて、毎日こうやって手を繋いで学校から帰ってたじゃないか」

「いつの話だ! そんなもん低学年のころだろーが!」

「ああ、あのころの可愛い鷹志はいったいどこへいってしまったんだろうな」

「アホ、男がこの歳まで可愛かったら問題だろーが!」

「ふふ、確かにその通りだな」

 茜はそういってようやく手を離した。

「あと、そうだな。タダで見てもらうわけにもいかないから、お前これから三食俺が作った飯を食え」

「え?」

「お前んちのかーちゃん帰ってくんのいつも十二時すぎてからだろ。最近お前うちの飯食いに来ないし、どうせ三食全部コンビニ弁当だろ」

 ちなみに、このわりとなんでもこなせる幼なじみの唯一の弱点は料理だったりする。

「ボランティアさせるわけにもいかないからな。それくらいやらせろ」

 茜はしばらくきょとんとした顔をしていたが、しばらくして、

「うん。ありがとな、鷹志」

 満面の笑みでそう答えた。






 これ、私が勉強見る上でのルールだからきちんと読んでおけよな。

 茜はそう言って『青春禁止条約』と書かれた紙を俺の腕に押し込むと、すぐ近くにある自分の家へと帰っていった。

 茜が帰ったあと、自分のベッドに寝っころがりながらその文面を改めて眺めてみた。

 一、週三回以上のバイトの禁止。

 一、一日一時間以上の娯楽活動の禁止。

 一、放課後事情のない寄り道の禁止。

 一、休み時間にも絶えず参考書を開くこと。

 一、夜二十四時以降の活動禁止。

 などなど。茜なりに受験生に必要だと思われる心構え的なものが、いちいちそれっぽい文面でまとめられていた。

 相変わらず生真面目すぎる。それに地味にバイトの回数を制限されてるのも厳しい。とは言え、店長も俺の進学賛成派だったとこを考えると、茜の奴が変な手回しをしているのでは、そんな嫌な予感がした。

 はぁ、と思わずため息が漏れた。

 だがまあ、よく考えればこれからは時間さえあればマンツーマンで茜と一緒にいられることを考えれば、そんなに悪い条件でもないのかもしれない。そんな気がしてきた。

 そう、『青春禁止条約』最後の項目を見るその時までは。

 『青春禁止条約』、その最後の一項目にはこう記されていた。


 一、受験生の恋愛の一切を禁止する。


「はい…………?」

 俺はその文面を読んだ体勢のまま、しばらく石化した。

 奇しくも、その日は水野との相談の末、俺がとある決意した日でもあった。






 ◆◇◆◇◆◇◆






 水野蒼子は転校生である。

 彼女が転校してきたのはちょうど、俺と茜が同じクラスになった三年生の始業式の日だった。その日は、とある理由から忘れられない日となった。

 三年生最初のホームルーム、そこで自己紹介をする彼女の第一印象はなんだか可愛い子だな、というものだった。

「初めまして。水野蒼子です。よろしくお願いします」

 簡素だったが、ゆっくりはっきりそう言うとにっこりと笑った。ふわふわした雰囲気があるにも関わらず、おっとりとした感じはしない、むしろしっかりとした挨拶だった。

 席は風間の隣だ。

 担任が俺のことを指さして言うと、彼女はうなずいて俺の隣へやってきた。

「水野蒼子です」

「風間鷹志だ」

「よろしくです」

「こちらこそ」

 彼女が微笑みに合わせて、こちらも笑って返した。

 そんなやり取りのあと、すぐにホームルームが始まった。

 そして、ホームルームが終了し担任が教室から出ていくと、すぐさま水野の周りには人だかりが出来た。クラスの女子、その半数はあろうかという人の波だった。俺は逃げ遅れたためにその輪の中へ取り残された。

 一瞬にして、輪の中に混ざりたいのだがその勇気がない一部の男子から殺気だった視線が飛ぶ。いやまて、女子の集団に囲まれるなんて居心地最悪だぞ。代わりたい奴がいるのなら今すぐ代わってやる!

 そんな俺の心情など知るわけもない女子どもは、まるで俺のことなど目にも入らないかのようにかしましく騒ぎ始めた。

 こうなってはもう小さくなっているしかない。俺は居心地の悪さを感じつつも、石のように固まって嵐が過ぎ去るのを待つことにした。

 どこから来たの? お家どこ? 前の学校は? どうして転校してきたの? 部活はなにやってたの?

 他にも、もっと色々な質問が俺の頭の上を通過していった。ちらりと横をうかがえば、水野は矢継ぎ早にされる質問の嵐を顔色ひとつ変えずにひとつずつ丁寧に答えていた。男子勢はそのやり取りを聞き逃すまいと更に一回り大きな円を作って周囲を囲っていた。

 そんな時、みんなの間から自分の席に座ってこちらうかがっていた茜と目があった。俺は茜に視線で助けを求めたが、茜は自分の席に座って手をひらひらと振るだけだった。それだけでは飽きたらず、なにがおかしいのかしまいにはくすくすと笑いだしていた。なんなんだってんだ、まったく。

 次の時間からは授業終了のチャイムが鳴ると同時に席を待避した。案の定、俺が席を抜け出した一瞬後には水野はすっかり女子勢に囲まれていた。

「可愛い子だな」

 茜が言った。

「そうだな」

「バスケとか、興味あるかな?」

「いやぁ、あれは体育会系じゃないだろ。足とか超細いじゃん」

「……スケベ」

「なんでだよ!」

「目がやらしかったぞ」

「適当なことを言うな!」

「足フェチのくせに」

「…………」

 俺は黙秘権を公使した。

 その時、女子勢の隙間から今度は水野の姿が見えた。どうやらこちらを見ていたようで、目があった。水野はにこっと笑うとひらひらと手を振ってきた。

 俺もそれに合わせるようにして軽く振り返した。

「む」

「どうした? 茜」

「いや、なんでもないぞ」

 そんなことを、なんでもありそうな顔で茜は言った。






 その後の休み時間も同じように過ぎていった。私立ということもあって、始業式の日でありながらも六時間目まである憂鬱な時間割も、転校生というビッグイベントの前には霞んでしまうのか、クラスは帰りのホームルームが終わるまでどこか浮ついた雰囲気が漂っていた。

 だが、予想外の出来事があったとはいえ、俺としてはこれまでとなにひとつ変わらない一日……に、なるはずだった。放課後の、とある出来事が起こる前は。






 うちの高校は帰りのホームルーム終了後に毎日班清掃が行われる。班は座席の近い六人ひとつに分けられ、毎週担当の変わる清掃場所を掃除する。そして、掃除が終わると担任に報告し、確認が済むと帰ってよいことになる。

 高校、しかも私立にもなると校舎の掃除は清掃業者などに任せることが多いらしいのだが、うちの高校は校長が掃除も教育の一環だと考えているとかいないとか。

 俺の所属している班が今学期始めに担当することになった場所は教室の掃除だった。俺たちの班はそれなりに真面目に、それなりに適当にさっさと掃除を済ませ、あとはゴミを集積所へ運ぶだけとなっていた。

 誰が運ぶかという話になった時、場所を知りたいから、という理由で水野は自ら立候補した。その時、なぜか隣の席のよしみとかよく分からない理由で俺が付き添いに指名された。

 俺と水野は共にゴミ箱を抱えて集積所へ向かった。道中、どうやら水野は料理を結構するらしく、そのことで盛り上がった。

 そして、ことは帰り道に起こった。

「ところでなんですが」

「どうかしたか?」

「はい。実は風間くんにお聞きしたいことがありまして」

 俺たちは中庭を歩いていたのだが、水野はその端で足を止めた。俺も、それに合わせて足を止めた。

「ああ、だから女子じゃなくてわざわざ俺だったのか」

 なんとなく、合点がいった。そうだよな、普通ああいう時は同性を指名するもんな。そんなことを考えつつ、

「でも、俺に聞きたいことって? てか俺じゃなきゃ駄目なのか?」

「はい。風間くんでないと駄目です」

「ふーん、なに?」

 俺は何気なく聞いた。

「日野さんと、付き合ってるんです?」

 心臓が口から飛び出るかと思った。

 だが、俺は動揺を悟らせないよう全力で理性を働かせた。

「いや、付き合ってないよ」

「そうなんです?」

「仲いいのは認めるよ。幼なじみなんだ、俺たち」

「へぇ、幼なじみなんですか! なんか凄いですね」

「まあ、高校まで一緒で仲がいいのは相当珍しいらしいな」

「それも同性ならともかく異性じゃないですか。本当に付き合ってないんです?」

「いや、ただの幼なじみだよ。みんなそう言うんだけどな、あいつは同じ釜の飯食って育った兄弟みたいなものなんだよ」

「そうなんですか! じゃあ片思いなんですね!」

「ぶはっ!?」

 俺は思わず吹き出した。

「ほら図星です。いえ、最初から知っていましたが」

「な、なななな」

「そんなに動揺しないでください。ご本人に言ったりしません」

「…………」

 もはや、言葉もなかった。

「ただ、わたし引っ越してきたばかりなのでこの町のこととかまだ知らないんです。今日この後、町の案内頼んでもいいですよね?」

 前後のやり取りを聞いていなかった人間が見たならば、思わず惚れてしまいそうな、一部の隙もない完璧な笑顔を見せながら、水野はそう言った。

 十数分後、校門で待っていた茜の元へ水野を連れてやってきた。この日は、久しぶりに茜の部活が休みで一緒に本屋へ寄る約束をしていたのだった。

 水野に町案内を頼まれた旨を、脅しのくだりだけ省いて説明すると、茜は笑顔で自分も一緒に行くと言い出した。もちろん彼女ならそう言うと思っていたが、俺との先約があると断ってくれればいいのに、なんて。そんな勝手なことを思ったりした。

 その後、水野は自分でプレイはしないものの、バスケットの観戦が趣味だということが発覚し、茜と水野は外国のプロバスケットチームの話で盛り上がりまくっていた。俺は完全に蚊帳の外だった。






 ◆◇◆◇◆◇◆






 そして、気がつけばあの始業式の日から五ヶ月が経過していた。すっかり茜と仲良くなった水野はその後女子バスケットボール部のマネージャーに収まり、付き合いこそそんなに長くないものの端から見れば親友と言っても差し支えないほどの関係になっていた。

 二人の趣味はことごとく被っており、バスケット以外でもラグビー、アメフト、総合格闘技と、バスケはともかくこれまでは誰もついてこれなかった茜の話に水野は見事に付いていった。二人の趣味の節操のなさを指摘すると、二人とも声を揃えて「全部そっくりじゃないか」と憤慨した。訳が分からん。

 ある時、俺は茜に水野との関係を訪ねてみたことがあった。茜はこれまで、その性格や実力もあって多くの人間に慕われてきたが、その関係は慕うもの、慕われるものといったもので、あまり同じ目線で仲のいい友達というのは多くなかったように思ったからだ。すると彼女は、

「親友? それはちょっと違うな。気の置けないライバル、かな」

 と答えた。ライバル、というのがいったいなにを指しているのかは分からなかったが、彼女自身が自ら友達を指して気の置けない仲である、と言ったのは初めてである気がした。






 教室はうるさい、そう言いだしたのは茜だった。

 昼休みすら休むことを許してくれない鬼教官のお言葉だった。

 まあうるさいというのも本当だろうが、本当のところは生徒である俺の気が散りまくっていたのが茜には気になったのだろう。

 高校三年生のクラスというのは受験が近くなればなるほどぴりぴりした空気が流れるものらしいが、うちの高校は推薦入試に力を入れており、クラスの半数以上がすでに進学先を決めていた。いや、それ以上に脳天気で空気を読まないやつが多い、というのもあるかもしれないが。

 そんな環境では茜先生がお怒りになるのに三日はかからなかった。ボランティアみたいな仕事なのに本当に生真面目なんだから。

 そんなわけで、夏休みが明けて三週間、俺たちはすっかりこの空き教室へやってくることが習慣付いていた。

「あー、やべ。ここの解き方わかんねーわ」

「はい、どこです?」

 自分で作ってきた弁当をものの五分で片づけて広げた数学のテキストだったが、いきなり分からない問題に当たった。

 俺は解き方の分からない問題を指さして首をすくめた。水野は首のすくめ方がおかしかったのか、くすくす笑いながらテキストをのぞきこんだ。

 基本的には茜が俺の先生なのだが、昼休みは夏休み以前から水野を含めた三人で昼飯を取ることが多かったため、ここ三週間は昼休みに限っては水野にも俺の臨時講師をお願いしていた。お願いしたのはなぜか生徒である俺ではなく先生である茜だったが。

「わりーな。水野は関係ないのに」

「いいえ。友達のお役に立てて嬉しいです」

 水野はそう言ってにっこりと笑った。

「うわ、笑顔まぶしっ。お前は本当に可愛いなぁ」

「いいんですかー? そんなこと言って。茜ちゃんに言いつけちゃいますよ?」

 ちなみに、俺の専属教師である茜大先生は推薦に関してなんとかかんとかだとかで、こっちに移動してすぐに職員室へお呼びがかかった。

「いやー、茜に言いつけようが言いつけまいがお前の可愛さは変わらんよ、うん。頭とか撫でたい」

「触ったら本当に言いつけますね」

 満面の水野スマイル。ううーん、今日も輝いてますねー。後光とか見えそう。黒い後光とか。

「そんなこと言って。本当は茜ちゃんにベタ惚れのくせに」

 水野が、ほんの少し口をとがらせるように言った。

「…………」

「…………」

 両者沈黙。

「鷹志くん、めそめそ泣いてもだめです」

 いや、泣いてない! 泣いてないからな!?

「そんなんだから転校初日でわたしにバレちゃうんです」

「いや、さすがにそれは俺のせいじゃないと思います」

 その洞察眼もさることながら、知り合ったその日にいきなりあんなにえぐり込むようなつっこみを入れてくる心意気がマジで意味分かりません。

 基本的に、俺と茜がどうやって育ったのかを説明すれば男子も女子もそれなりに納得してくれていた。だから、あそこまでつっこまれたことは初めてだった。よく考えれば、もっと上手いはぐらかし方なんていくらでもあっただろうに。そんなことを水野へ言うと、

「はぐらかすもなにも、みんな鷹志くんが茜ちゃんのことが好きなのは知っていますよ?」

「は?」

「いえ、みんなというのは大げさだったかもしれません。男子のことは詳しくは分からないので。でも例の質問に答えたとき、女子はみんなそれなりにがっかりして帰っていきませんでした?」

「そんなの意識して見てなかったから……」

 ただ、そう言われてみればそうだったような気がしないでもない。

「たぶん、うちのクラスの女子の間では、鷹志くんの茜ちゃんラブは周知の事実だと思いますよ」

「なっ!?」

「安心してください。わたしはそのことについて一言も漏らしていません」

 水野は全く安心できない笑みを浮かべた。

「お前、楽しそうだな」

「いいぇ、そんなことは全然ないですよ。本当です」

 そんなことを言って、水野の方が俺の頭を撫でた。

「知らぬは本人たちばかり、です」

 そんなことを、珍しく笑みを崩して言った。その様子がどこか疲れているようにも見えて、俺はしばらくされるがままにさせた。

「そういえばさ、すげー今更なんだけど、なんで俺にいきなりあんなこと聞いたの?」

「一日隣に座っていたら、すぐに分かりました」

 急ににこにこしながら言うな、そんな恐ろしいこと。

「いや、そうじゃなくてさ。町案内とか校舎案内とか、別に俺なんかじゃなくても良かっただろ?」

 ちなみに、水野はあの後もなにかと理由をつけてはパシリとはいかないまでも様々な雑用を全部押しつけてきた。別に俺としては大した内容でもないので気にしていなかったのだが、よく考えてみればそういうのは同性のクラスメイトにお願いするのが一般的なのではないだろうか。

「ああ、そっちですか」

 水野は一瞬きょとんとした顔をしてから、

「鷹志くんがタイプだったからです」

「……は?」

 見れば対面にはいつもの水野スマイル。

 再び両者沈黙。

 今度は先に口を開いたのは俺のほうだった。

「冗談、だよな?」

「当然です。いつもやられてる仕返しです」

 うん。なるほど。

 これは冗談だと分かっていても心臓に悪い。

「いつもすみませんでした」

 俺は深々と頭を下げた。

「分かればよろしいのです」

 水野も、少し冗談めかして答えた。

「本当は誰でも良かったですし、それこそ普通に女の子に頼んでも良かったのですが、女の勘が面白そうだと告げていました」

 女の勘、いろんな意味でおそるべし。あと水野蒼子おそるべし。

「まあ、でも。俺としても水野が知っててくれて助かってるよ」

「こうして本人がいないところで相談できるから、です?」

「ああ」

「これは前も言いましたが、そんなに好きならなんで告白しないんですか?」

「それができたら苦労しねーって」

「でも、告白すると決めたじゃないですか。もうあれから何ヶ月経ちましたっけ?」

「……三ヶ月です」

 そうなのだ、俺は水野に色々と相談に乗ってもらった結果、ついに茜に告白することに決めたのだ。決めたのだが……

「鷹志くんはチキン野郎ですね」

 にこにこ顔で言わないでください。怖いです。

「でもさ、仕方ないだろ。そりゃ俺がチキンなのは認めるけどさ、だけど決心した直後にこりゃないぜ」

 俺はそう言っていつも持ち歩いているよう茜に厳命された一枚の紙を取り出した。

 そこには大きく『青春禁止条約』と書かれており、その下にはいくつかの項目に分かれてたくさんの禁止項目が書かれていた。

 その最終項目。


 一、受験生の恋愛の一切を禁止する。


 正直、告白を決意したその日にこれはきつかった。本人にその意図はないだろうが、事実上俺は茜から「告白してこないで」宣言を受けた、要するに振られたのである。

「まあでも正論ですよね。だって鷹志くん、告白するのはいいですけど振られたらどうするんです? 受験生ですよ。そのままテンションごと大学も落ちちゃいますよ」

「それに関しては前も言ったけどさ、俺、あんまり大学に興味ないんだよな。漠然としか考えてないけど、もう就職しちゃってもいいんじゃないかなーって」

「料理人、です?」

「そうそう」

 正直、大学に行くことには全くといっていいほど興味がない。ただ親がうるさいから、ただなんとなく受験勉強をしているだけだ。茜には悪いが、だから彼女の家庭教師学習にもいまいち身が入らない。そもそも、その家庭教師だってうちの親が勝手に彼女に頼んだのだ。

「なら告白、すればいいじゃないですか。男なんですから、がつんと。言ってやればいいじゃないですか」

「……それが出来てれば苦労しないぜ」

「チキンですね」

 水野が少しだけ笑顔を崩してじろりと睨みつけてきた。

 うう、反論できない。

 だが、正直彼女が家庭教師をやるとなった際に渡されたルールを破ってまで彼女に告白して、彼女がそれを受け入れるとは思えなかった。

 とは言ったものの、小・中・高と続いた腐れ縁もこれ以上は続かない。茜がスポーツ推薦を決めた大学は俺なんかでは天地がひっくり返っても行けそうにない学校なのだ。あと半年もすれば、俺と茜を繋いでいた腐れ縁はついに切れてしまう。俺には、それが怖かった。

 ああ、そうだとも。

 水野に言われなくたって知ってるさ。

 俺は日野茜にベタ惚れしてる。

 好きだ。愛してる。彼女にしたい。ずっと一緒にいたい。これまで、ずっと一緒だったのだ。これから別々の道を歩むなんて、俺には想像すらできない。

 だけど。だからこそ。

 今の現状では告白はできない。

 彼女が俺をどう思ってるかは分からないが、あの生真面目な幼なじみがルールを破ってまでした告白を受け入れてくれるとは到底思えなかった。

 前を見ると、いつのまにか水野が楽しそうに節をつけて「チキン、チキン♪」と繰り返していた。

「やめんか」

 俺は水野の頭上にチョップを喰らわせた。

「あてっ、なにをするんですか。鷹志くん」

 俺はさすがに文句を言ってやろうと勇んで口を開きかけた。

「ほう、蒼子とじゃれ合っているとはずいぶんと余裕なんだな、鷹志。当然、言っておいた場所くらいは終わってるんだよな?」

 そんなとき、俺の背後から凛とした聞き覚えのある女の声が聞こえてきた。

「あ、茜ちゃん。おかえりなさいです」

 水野は満面の笑みで迎え入れた。

 俺の首が、錆びたブリキのおもちゃみたいな音をたてて背後を振り返った。ような気がした。


 数秒後。


「ぎゃーーーー!! 痛い、痛いよ? ほっぺ、ほっぺはそれ以上そっちには伸びな、あ! やめて!! 人間のほっぺはそれ以上伸びない、あーーーーー!!」

 俺の悲鳴が空き教室いっぱいに響きわたった。






 ◆◇◆◇◆◇◆






 翌日の朝。

 俺たちはいつものように茜の席の周りで担任が来るまでの時間をつぶしていた。

「それで、結局のところ鷹志くんの出来ないところって暗記が必要な場所だと思うんです」

 話題は相変わらず俺の勉強について。しかも、基本的に俺は聞くだけで話は二人が勝手に詰めていく。なんだか、とても申し訳ないような、でももう放ってほしいような、そんな気分だった。

「確かに。鷹志は元の成績からして暗記科目は点数が悪いな」

「そうなんですよ。暗記に関してはどうしても個人差出ちゃいますし、苦手ならなおのこと反復するしかないじゃないですか」

「ううーん、次の中間で鷹志の成績を五十位以内に持っていくのは難しい、か」

「五十位以内!?」

 なにやら恐ろしい用語が出てきたので、俺は思わず口を挟んでしまった。

「なんだ、どうしたんだ鷹志」

「いやいやいやいやいや。なんだ、じゃないでしょ茜先生。五十位なんて無理だって! いったい今の俺が何位だか知ってんの?」

 ちなみに、学年でトップ五十位以内は成績が出る日に成績表に先だって掲示板に名前と点数が張り出される。そのため、その中に名前が残るよう、乗るようにと努力の目処にする者も多い。

「なんだ、そんなこと。お前の成績くらい知ってるぞ。三百十九位だ」

「ぎゃーーーーー!?」

「鷹志くん、そんなに悪かったんですね……」

 同情の目が痛いです。

「普段の勉強もしていない、テスト勉強もしないのだから当然だ。逆に言えば、真面目に取り組めばそれだけ上がる余地があるということだろう?」

「うわー、なにその清々しいまでのポジティブ思考」

 なんでお前の方が俺よりも俺のポテンシャル信用してんだよ。

 だいたい、学力差の激しいうちの学校でトップ層に喰らいつく、というのはぱっと見の数字以上に厳しいものがある。

 うちの学校の一学年の人数はおよそ三百と五十前後。A〜Jまでの総勢十クラスの中には体育クラスという部活だけ熱心にやっていればある程度成績の悪さは見逃してもらえるクラスもあれば、特別進学クラスといったような、人数こそ少ないものの、勉強しかしていないような連中も入っている。

 そいつら、さらに言えば茜や水野のいる中に混じって上から五十人。正直、まったく入れる気がしなかった。

「なんだ、鷹志。やる前から怖じ気付いたのか?」

「いやぁ、個人的にはそういう問題ですらないというか」

「まあ、確かに今からその順位に入るのはなかなか厳しいですよねぇ」

 ほら見ろ、水野でさえ苦笑いしてるじゃねーか。

「うーん、そうだな。じゃああれだ、五十位以内に鷹志が入れたら、私がなんでも言うことをひとつ聞いてやろう!」

「いや、そういう問題でもないというか」

 というか、なにその成績上がったらお小遣いあげてあげましょう! みたいな作戦。

「まあ、もう少し現実的な目標を立て直した方がいいんじゃないですかね? 壁は高すぎるとそもそも越えようとする気力すらなくなってしまうといいますし」

「そうそう」

 俺は水野の意見に同意した。若干情けないような気もしたが、出来ないもんはできないのである。

「ううーん、そういうなら目標の立て方はもう少し考えてみるか。鷹志、こっちは私の方でもう一度考え直すから、お前はそれよりも早く志望校を決めろよ」

「げ」

 そうだった。前々から決めろ決めろとうるさかったのだが、そういえばすっかり忘れていた。

 とはいえ、志望校、か。大学へ行く気もないのに、志望校もクソもないのだが。

「先生来たぞー」

 そんな時、廊下側のクラスメイトが言った。

 その一声で俺たちは自分の席へ戻るため解散した。

 志望校、か。まあ、後で決めればいいか。

 俺はひとまずそう結論付けた。






 ◆◇◆◇◆◇◆






 さらに翌日。

 何故か、今日は放課後も水野が勉強に付き合ってくれるということになった。

 これまでは放課後になると俺たちは水野と分かれ、茜は俺のうちへ来て勉強の続きをしていたのだが、今日はそこに水野も加わるのだという。

 もともと茜にでさえここまでしてもらう理由はないのだし、それに加えて水野まで付き合わせるわけにはいかないと断ったのだが、水野は「ついでだから」といって笑った。

 以下、そのときのやり取りである。

「ついで、って?」

「うん。わたしね、今日茜ちゃんの家にお泊まりに行くんです」

「へ? そうなの?」

「ああ。まあ、急に決まったことなんだけどな」と、これは茜である。

「鷹志くんのお勉強があるの知ってたのに無理矢理頼んだんです。だから、ついでというよりも無理を聞いてもらった変わりにお手伝いです」

 コンビニの買い出しでも、なんでもやりますよ。水野はそんなことを言って笑った。

「それにしてもまた急だな。こういうことはよくあるのか?」と、俺。

「いや、蒼子がうちに来るのは初めてだ」

「そうなのか」

「本当は、こんなことになる前に呼べればよかったんだけどな……」

 茜は消えるような声でそう言った。

「こんなこと?」

「なんでもないんですよ、鷹志くん。ちょっとした野暮用です」

 水野はそう言ったが、まったくなんでもなさそうではなかった。ただ、二人の雰囲気がこれ以上聞くな、と言っていたので俺はこれ以上つっこむのをやめた。

「そっか。じゃあなんでもなくなったら、その時はちゃんと俺にも言ってくれよ。俺だけハブはごめんだからな」

「分かりました」

「ああ、分かってる」

 二人は力強くうなずいた。

「じゃあ、そうと決まれば買い物からだな」

 俺はそう言ってスーパーのある方向へ歩きだした。

「買い物、です?」

「俺の授業料の払い方は料理で、って決まってるからな。凝ったものは作れないけど、初めてのお客様もいることだし、それなりに豪華にしなくちゃな」

 俺は暗い雰囲気がなくなるよう、ことさら明るく言った。






「茜、三人分の小皿出しといて」

「分かった」

 俺が言うと、茜は素早く動いた。

「あ、鷹志。今ドレッシング切れてるぞ」

「大丈夫。ちゃんと自分で作る」

「そっか。あ、そのコップ取ってくれ」

「あいよ」

「なんだか、お二人にだけ仕事させてしまって申し訳ないです」

 買い物を素早く済ませたのち、俺の家で三人で勉強していたのだが、うちの母親が帰ってきたので俺たちは今度は茜の家へ移ることになった。

 時計を見ればもうすぐ九時になろうとしていた。ここまで遅くなる予定ではなかったのだが、今日は思いのほか勉強がはかどったのでだいぶ遅くなってしまった。俺は急いで授業料でもある夕飯を作ることにした。

 勝手知ったる日野家の台所である。俺は買ってきた材料でハンバーグを作ることにした。せっかくなのだし、もう少し手の込んだものを作りたかったのだが、時間も時間だし仕方がない。茜は俺が指示するまでもなく、てきぱきと三人分の食器を用意していた。

 俺はそれらの支度は茜に任せ、作る方に専念することにした。

 食事はいい。食事は嫌なことを忘れされてくれる。上手い飯を食えば人はそれだけで幸せになれる。

 ボールの中で挽肉をこねながら、俺はそんなことを考えた。

 ひとりで食べる食事も悪くない。作ってくれた人に感謝しながらお行儀よく食べてもいいし、別のことをしながらお行儀悪く食べてもいい。誰にも邪魔されず、誰にはばかることもない。なんだか、自分の部屋の中でふける趣味の時間に似ている気がする。

 でもやっぱり、食事は二人以上でしたほうが俺は好きだった。おいしいものがあればその感覚を共有し、まずくても悪口を言い合ってまずいことさえ楽しみに変えることができる。

 食事中に交わされる会話もいい。食事中にされる会話に深刻なものはない。でも、深くもないけど上辺だけの浅い会話もない。脳天気だけど、それなりに暖かい。それが食事中に交わされる会話だと俺は思っている。

 だから、そうした会話が自然と耳に入ってくるレストランというのは俺にとって最高の職場だった。その上大好きな食事を他の人に提供できる、というのも最高だ。会計の時に、おいしかったです、なんて言われた日には小躍りしたくなる。

 そんな俺だったから、進学することなんてのは全く魅力を感じていなかった。俺はこのまま今の店長の元で修行できれば文句なんてまったくない。

 だけど、うちの親も、幼なじみも、店長でさえも、みんながみんな口を揃えて進学しろ進学しろとうるさい。みんな俺を子供扱いする。いつかやっておけばよかったと思う日が来る、今は黙って言うこと聞きなさい。余計なお世話だ。俺は十分考えた上で言ってるんだ。少しは俺の言うことだって聞けよ。

 俺、なんかおかしなこと言ってるか?

 俺は力いっぱい固めた挽肉をボールの底へ叩きつけた。






 三十分後、俺はせめてもとばかりにハンバーグを乗せた皿を野菜やらドレッシングやらで見栄えするように盛りつけて、二人の前に出した。

「わ、すごいです。まるでレストランで出てくるお料理みたいです!」

「当然だ、鷹志はれっきとしたレストランで働いてるんだからな」

「個人経営の小さな店だけどな。……って、なんで茜が威張ってんだよ」

 そんなやりとりをしつつ、俺たち三人は席に着いた。

 いただきます、となんとなく三人で揃えて挨拶すると、俺たちは遅めの夕食を開始した。

 それからしばらくは何気ない会話が続いた。

 水野はよっぽど感心したのか、しきりに俺の料理を褒めてくれた。

 そう言えば、俺が料理することは知っていても、三年になってから転校してきた水野は俺が料理するのを見るのは初めてだった。

 おかしかったのは、いつも食べなれているはずの茜まで顔を赤らめてまで褒めちぎりだしたことだった。そんなに力んでなにを対抗しているんだか。

 そして、話題はバイトしている料理店のことになった。

「そういえば、鷹志くんは就職でもいいなんてこと言ってましたけど、それはつまりバイトしているレストランで、ってことですか?」

「ああ、まあ俺はそう言ってるんだけど……」

「なにか、問題があるんですか?」

「うちの親はともかくとしても、店長がね……。あのヒゲ、高卒じゃ雇ってやらん、とか言ってやがんの。てめえは中卒のくせしやがって」

「ああ、だから就職先もないんですね」

「就職先もなにも、鷹志は大学に行くんだろ。そのために勉強してるんだから」

 と、そこでそれまで黙っていた茜が堅い口調で割り込んできた。

「いや、それに関しては前にも言っただろ。まだ決めてないんだって」

「だがな、鷹志。今はもう夏はとっくに明けて、もう中間も目の前なんだぞ。悩むのがいけないとは言わないが、もうなにかしらの決断をしなければいけない時期なんだ」

「そんなことは、分かってるさ」

「いいや、分かってない。昔から言ってるがな、物事の決断を先送りに先送りにするのはお前の悪い癖だぞ」

 俺と茜は水野を挟んで睨みあった。

「なんだよ茜、今日はずいぶんと絡むな」

「鷹志に聞きわけがないからだ。お前、今日が何月何日か分かってるのか? 夏休み前のあの日とはもう状況も違うんだぞ」

 そんなこと、茜に言われなくても分かっている。

 実際、バイトのある日は毎日店長に俺を雇って欲しいと頼み込んでいた。

 だが、あの親父は低学歴で苦労した自分の話を持ち出しては俺に進学を勧めた。 大学へ行って、卒業して、それでもまだうちで働きたいというのなら、そのとき改めて考えてやる。そんなこと言った。

「ガキじゃねーんだ。お前に言われなくたって分かってる」

「いいや、分かってないな」

 少し、イラっとした。

 茜が俺を心配してくれてるからこそ、わざわざ言ってくれてることは理解できる。

 だが、俺がなにを考え、その考えの元なにを行ってきたのか、その全てを茜が理解しているとは思えなかった。

 いつもそうだ。茜は必要以上に俺のことをガキ扱いしようとする。俺にはそれが我慢ならなかった。

「お前に俺のなにが分かるってんだよ」

「分かるさ。優柔不断男め」

 その瞬間、俺の中でなにかがカっと爆発した。

「言いやがったなこの野郎!」

「何度でも言ってやる。この優柔不断男が」

「それを言うならな、お前だってそのなんでも自分の決めた通りに事を通そうとする頑固なところは最悪だッ。この猪突猛進女!」

「なんだって?」

「何度だって言ってやる。なにが『青春禁止条約』だ、アホか! いちいち全部守ってるこっちの身にもなれってんだ」

「受験生ならやって当たり前のことだ。なにがおかしい」

「勝手に決めんな。まだ受験するなんて決めてねぇ!」

「なんだと優柔不断!」

「やんのか頑固!」

「まあまあ、二人とも落ち着いてください」

 茜と超至近距離でメンチを切りあっていると、予期せぬほうから声がかかった。声のした方を振り向くと、いつも通りの優しい笑顔のままの水野がいた。

 水野は俺たちの間に無理矢理割ってはいると、俺の肩を少し強めに叩いた。気がつかないうちに半立ちになっていた。座れ、ということらしい。

 水野はそのまま茜の横に立つと、いつも自分の頭よりもずっと高いところにある茜の頭を小さい子にするようにいい子いい子と撫でていた。

 茜はそれで完全に毒気を抜かれてしまったようで、彼女の表情から怒りはすっかり引いていた。ただし、俺と目が合うと本当に子どものようにふんっとばかりにそっぽを向いた。

「ただ茜ちゃん? 鷹志くんだってもう高校生なんですから、あんな風に何でもかんでも他の人から強制されちゃったら、やりづらいんじゃないですか?」

 水野がそう言った瞬間、茜はびくっと肩を震わせた。そして少し睨むような、あるいは怯えたような表情で水野のことを見上げた。

「それは、あの取り決めを白紙にしろ、ってことか?」

「いえ、わたしからは、そこまでは言えないですけど」

 水野は笑顔を崩さずに困った顔をする、という器用なことをしてみせた。すると茜は、

「そんな言い方、ずるいよ……」

「え?」

 聞こえるか聞こえないかといったような小さな声で、ぼそりと言った。そして、

「取り決めは変えないぞ。あれくらいの約束、守れて当然だ」

 水野ではなく、俺に向かって言い放った。

 俺はその有無を言わせぬ迫力に、思わずうなずいてしまった。

 なんだってんだよ、いったい。訳が分からなかった。

「男なら、一度した約束を破ったりしないよな?」

 だけど、知ってた。こいつが人一倍約束とかそういうことにうるさいことも、死ぬほど融通の効かない頑固者だってことも。そうさ、知ってた。何年幼なじみやってると思ってるんだ。

 ――何年、片思いやってると思ってるんだ。






 ◆◇◆◇◆◇◆






 優柔不断男。茜は言った。

 チキン野郎。水野は言った。

 知ってるんだ。そんなこと。

 俺は、いつだって大事なことを決めるのが遅い。決めるのが遅いから、現にこうして好きな女の子に告白すらさせてもらえずに苦しむことになる。チャンスなんて、いくらでもあったはずなのに。

 茜のことをただの幼なじみではなく、ひとりの女の子と認識したのはいつの頃だったろうか。高校に入学してから? あるいは中学のころだろうか。それとも、小学校の頃にはもう意識していたのだろうか?

 自分のことなのに、いや自分のことだから、分からない。彼女のことが好きだと、自分の気持ちに気づいた今では、いつから好きだったのかなんてことを思い出すこともできない。

 あるいは気がついていなかっただけで、もしかしたら出会ったその日から恋をしていたのかもしれない。いつだって優柔不断な俺の前に立って、確固たる意思を貫いてしまうかっこいい奴だった。その頑固さのせいで泣きを見ることも、損をすることも多かったが、それさえも彼女の持つ美しさだった。

 思い返せば思い返しただけ、告白のタイミングはあった。でも俺は今のぬるま湯のような、快適な幼なじみという関係が崩れるのを怖れた。

 だから、俺は決断を最後まで伸ばし続けた。だからこれは彼女のせいではなく、自らが招いた罰なのだ。

 彼女と別の道を歩まねばらなない日が来ることを、想像すらしていなかった自分の。いや、想像することから逃げていた自分への、罰なのだと思った。

 だけど、これ以上引き延ばすことはできない。

 高校を卒業してしまえば、そこからはもう別々の道を歩まねばならないのだ。思えば、これまでの縁こそが奇跡だったのだ。幼なじみという奇妙な縁しかない自分たちは、今ここでなにかことを起こさねばもう繋がってはいられない。

 だから、俺は高校を卒業する前に告白しなければならない。なにより、これ以上決断を先延ばしにしてはいけない。決めたのだ、告白すると。たとえ自分が傷つく結果に終わろうとも、彼女とこの先も一緒にいられる未来に賭けると決めたのだ。

 だから――。






 ◆◇◆◇◆◇◆






 目覚ましの音で目が覚めた。

 なにやら頭が重い。昨晩は寝付きが悪かった。

 俺は小さく頭を振ると、洗面台で顔を洗うためにベッドを立った。

 ちなみに、喧嘩の翌日俺は茜に直接会って話がしたい、とメールを出した。そして土曜だったために駅まで水野を送っていた茜と合流した。笑えることに、謝罪は完璧に同時だった。台詞も一緒で、「昨日はごめんなさい」という言葉が完全にハモった。

 その後、なぜか男である俺にはペナルティがついて、朝食をファミレスでおごらされた。まあ、これくらいは安いもんだ。喧嘩したとしても、こうしてすぐに謝って元の鞘に収まれる、というのは幼なじみという不思議な関係のなせるわざだと思う。

 そして、お泊り会のあった金曜日から明けて翌週の月曜日。

 俺は登校している生徒などひとりも見当たらない、雀の鳴く通学路を歩いていた。

 理由は単純で、俺は昨夜のうちに水野から呼び出しメールを受けていた。俺が相談ごとのために彼女を呼び出すことはあっても、彼女から呼び出されることはあまりなかったので珍しいことではある。

 色んな理由から重い身体を引きずるようにして教室へ入ると、そこにはすでに水野の姿があった。

「おはようございます。なんか体調が悪そうですね。大丈夫ですか?」

「ああ、なんか昨晩メール出したあとまたベッドの中で無限ループしてて寝不足……」

「でも、仲直りはできたんですよね?」

「まあな」

 俺はそう言って、まだ主が不在な水野の後ろの席に腰を下ろした。水野はそれに合わせてこちらを向く。

「ただ、あの場で喧嘩したことをお互いに謝っただけで、俺の問題はなにひとつ解決してないんだよなぁ」

「情けない声です」

 水野はそう言って嬉しそうにくすくすと笑った。

「くっそー、なにがおかしいんだよ……」

 なにが面白いのか、水野はその俺の非難の言葉にもまた笑った。

「まあでも、そうやっていつでもニコニコしてるのってお前のいいところだよな」

「え?」

「抱擁力があるというか、余裕があるというか。茜なんかはいつも余裕がなさそうでいけないよな。それに、人間笑ってる顔が一番魅力的だし」

「…………」

「ん? どうしたんだよ、急に黙り込んで」

「うるさいです。鷹志くんはバカです。アホです。おたんこなすです。セクハラで訴えます」

「今の俺の発言のどこにセクハラがあったんだよ!」

 見ればなぜか水野はうつむきながら上目遣いに俺を睨んでいた。まてまて。今の発言のどこに顔を真っ赤にするほど怒り出す要素があったんだ。

「いいえ、セクハラです。セクハラで訴えます」

「分かった。落ち着け、俺が悪かった。だからセクハラで訴えるのだけは止めてくれ」

「鷹志くん、弱すぎです……」

 最低です、と水野はその後に続けた。そして、

「でも、茜ちゃんは余裕がないから、鷹志くんは放っておけないんです?」

 一瞬、なんのことを言われたのか分からなかった。だが、すぐに思い至る。

「いや、それは関係ねーよ。俺があいつを好きだから、俺はあいつを放っておかないんだ」

 もしかしたら、最初はそうだったのかもしれない。だけど、そんな思い出せない過去のことは関係ない。放っておけるとかおけないとか、そういうのは関係ない。俺はあいつのことが好きだから。ただ、それだけのことだ。

「そう、ですか」

 水野はそう言って、しばらく黙ってしまった。

 そしてしばらくしてから、

「実は今日朝早くからお呼びしたのは、お伝えてしておきたいことありまして」

「ああ、なんだ?」

「先週の金曜、鷹志くんと茜ちゃんが喧嘩した日ですが」

 水野は言葉を区切ると、居住まいを正した。

「あの日、わたしも茜ちゃんと喧嘩しました」

「はあ、…………って、ええええええっ!!」

 茜はともかく、水野が人と喧嘩するところなんてイメージできない。いや、そんなことよりも、全然タイプが違うにも関わらず、出会ったその日から意気投合していた二人が喧嘩しているところなど、誰が想像できようか。

「まあ喧嘩といっても鷹志くんと茜ちゃんのときみたいに声を荒らげたりしたわけでも、つかみ合ったわけでもないので安心してください」

「あ、当たり前だ。そんなこと心配してねーよ」

 というか、わざわざ説明するあたり、もしかしたらそんなことにもなり得たのか?

「そんなことより、ちゃんと仲直りしたんだろうな。経験者の立場から言わせてもらうが、仲のいい間柄ほど喧嘩がこじれると収拾がつかなくなるぞ」

 そして、喧嘩はした日から時間が経てば経つほどこじれる。思えば、一日経ってお互い頭が冷えたらすぐ謝る、というのは俺ら幼なじみの間では苦い経験による処世術なのだろう。

 だが、水野の答えは俺の予想や希望を大きく外したものだった。

「いいえ。というか、仲直りなんてできません。これで、わたしと茜ちゃんの仲はおしまいです」

 水野は、そんなことすらうっすらと笑みをたたえながら言ってのけた。

「……っ!」

 俺は思わず立ち上がっていた。いや、これでなにも問題はない。そのまま、通学路を遡って茜を探すのだ。なにがあったかなんて知らないし、興味もないが二人を引きずってでも仲直りの場を設けるべきだ。

 友だち同士の縁が、たった一回の喧嘩で切れてしまうなんてありえない。絶対にありえない。人との縁なんてものは、そんな簡単に切れたりしないのだ。ともかく、茜を探さなければ。

 そう思って一歩踏み出した俺の腕を、水野が驚くほど強い力で引き戻した。俺はあまりのもどかしさに思わず大声を出してしまった。

「なんだよ!」

「ダメなんです。茜ちゃんほどじゃありませんが、わたしだってここ半年は鷹志くんの側にいたんです。鷹志くんがなにを考えているかくらい分かります」

「ダメなんてことがあるか! 人との仲ってのはな、そんな簡単なもんじゃねーんだよ。切っても切れない縁ってのはちゃんとあるんだ」

「違います。切っても切れない縁なんてありません」

 水野の、思いがけない強い言葉に俺はぐっと息を飲んだ。

「切れない縁なんてありません。結び目が腐るほどに強く繋がれた縁は、絶対に結び直した後が数え切れないほどあるんです」

「……水野」

「鷹志くんは茜ちゃんとの関係を腐れ縁なんて言ったりすることがありますが、それは二人が切れないように縁を結び続けた証なんです。わたしは、その努力を放棄したんです。縁なんて切れやすいもの、自分から切ったらもう一生くっつきません」

 水野はかなしそうに笑った。彼女の強さを思わせるその笑顔は確かに魅力的だったが、こんなときくらい泣けばいいのに。そんなことを思った。

 半年の間二人を近くで見ていた俺には分かる。二人は短い付き合いだったかもしれないが、親友といっても差し支えないほどに確かに仲のいい友だち同士だった。

 だから分からない。あれほど仲のいい二人がなぜそこまでの喧嘩をしなければならないのだろうか。だから俺は、その疑問を彼女にそのままぶつけた。

 俺の言葉に、水野はやはり笑った。その笑いは、いったいどんな種類の笑みだったのだろうか。

「やっぱり、鷹志くんは最悪です。最悪の男の子です」

「なんだよ、それ」

「そのまんまの意味です。だから喧嘩の理由は教えてあげません。でも、大事なことなので結果だけは教えてあげます」

「結果?」

 喧嘩に結果もなにもあるのだろうか。そんなことを考えた俺の耳に、水野の言葉が飛び込んできた。

「『青春禁止条約』から、恋愛の禁止だけ削除させました」

「な……」

「このあとどうするかは、鷹志くんの自由です」

 なんだよそれ。

 いったい、なにがあったらそんなことになるんだよ。






 ◆◇◆◇◆◇◆






 放課後、茜はなにごともなかったかのように俺の部屋へ現れた。

 朝、水野から例の話を聞いてからまだ十時間も経っていないのに、あれからもう何日も経過したような気分だった。

 茜と水野に関してはそれと意識していなくても変化は明白だった。二人は朝登校してくれば一番に挨拶を交わしていたにも関わらず、今日学校で二人は視線すら交わしていなかった。二人の友だちはもちろんのこと、おそらく教室にいた人間のほとんどが二人の間になにかがあったことに気がついたのではないだろうか。

 しかも、二人ともが互いに視線すら交わさないといったことを除けば、二人はあまりにも普段通りの生活をこなしていた。そのことが一層状況の異常さを物語っているようだった。

 俺はすぐにでも茜を問いただしたかったが、人目、さらに言えば水野の目がある学校ではそのことを話題にしづらかった。昼休みはお互いに言うべきことがあるにも関わらずそれらを一切口にせず表面上は普段通りに勉強をする、といった微妙な空気のもとで過ごした。

 そうして学校も終わり、茜の部屋へ行くべきか悩んでいると、まるでなにごともなかったかのように彼女の方から現れたのだった。

 すでに我慢の限界を超えていた俺は、茜が部屋に入ってくると開口一番言った。

「おい、茜。どういうことだ」

「なんのことだ」

 茜はぶすっとした声で答えた。

「しらばっくれんなよ。誰がどう見たってお前と水野のことに決まってんだろ」

 そう言うと、茜は表情を変えずに押し黙った。

 俺たちの間に気まずい沈黙が流れた。だが、俺はまっすぐに茜の目を見つめた。茜も目を逸らさなかった。

 次に口を開いたのは茜のほうだった。

「これは蒼子と私の問題だ。鷹志が口を挟むことじゃない」

「そうは行くか。俺は共通の友だちとして、十分関係があるだろうが」

 俺がそう言うと、茜ははぁ、と深いため息をついた。そのジェスチャーがまるで呆れて物も言えない、と言っているようで無性に腹が立った。

「鷹志、お前は前からバカだバカだと思っていたが、どうやら大バカ者の間違いだったみたいだな」

「なんだと」

「落ち着け。……ああ、そうだよ。お前は関係がある。だからこそ、これ以上私に言わせるなよ」

 茜はなにやら疲れたように言った。その空気に毒気を抜かれ、俺の口からは思わずつぶやきが漏れた。

「なんだよ……それ」

 なんで、こんなことになってしまったのだろうか。

 つい数日前まではそれなりに不満はあっても、みんながそれなりに楽しくやっていたじゃないか。なにがいけなかったんだろうか。この噛み合わない歯車は、いつから狂いだしてしまったのだろうか。

「蒼子から話は聞いてるんだろ?」

「話?」

「あの子の言うとおり、恋愛の禁止なんて私が取り締まる権利はなかったんだ」

 こんなときに、そんな話か。

 俺は暗い気持ちでそんなことを思った。

 確かに俺はその禁止が解けることを望んでいた。茜のことが好きだったから。高校を卒業しても、茜と一緒にいたかったから。だからその禁止は長く俺を困らせてきた。水野にも、たくさん相談したし愚痴も聞いてもらった。

 だけど、だからといってこんな結末を望んだわけではない。三人の空間を壊してまで、俺は茜への告白を望んでいたわけではないのだ。

 水野だってそれは分かっているはずだ。彼女だって俺たちの仲が終わってしまうことなんて望んでなかった。水野は、いったいなにを思ってこんなことをしたのだろうか。

 分からない。けど、分からないなら話し合うべきだ。なぜなら俺たちは友だちなのだから。

「私がズルをしたんだ。だから、あの子に嫌われて当然だ」

 そんなとき、茜がおかしなことを言った。

「嫌われるだって? そんなわけあるか。水野がお前のことを嫌ったのだったら、あんな表情するか!」

 それを言うなら、水野のほうがこれ以上茜から嫌われるのを怖れるような顔をして話をしていたはずだ。

「あんな表情、か。やっぱり鷹志は蒼子のことについては詳しいな」

「やっぱり? やっぱりってなんだよ」

 いや、今はそんなことはどうでもいい。

 そうだ、お互いに誤解があるのならば、話は早い。その誤解を解きさえすれば、まだやり直せるかもしれないのだ。

「茜、まだ間に合う。お互い誤解があるなら話せば分かるはずだ。こんな、喧嘩したからはいさようならなんておかしいだろ?」

「いや、誤解はない。分かっていないのは鷹志、お前のほうなんだ」

「ああ、くそっ! 相変わらずアホみたいに頑固だな! いいからたまには俺の言うこと聞けっつんだよ!」

「怒鳴るな! 落ち着け。……いいから、落ち着いて聞いてくれ。私だって蒼子と喧嘩別れなんてしたくない。だけど、私にも譲れないものがあるんだ。その譲れないものといった点において、私と蒼子の間に誤解はない」

「なんなんだよ、その譲れないものって……。それは、友だちの仲が壊れても守らなきゃいけないほどに、大切なものなのか?」

「……っ」

 俺の言葉に、茜はひどく傷ついたような顔をした。その顔を見た瞬間、胸にはどっと後悔の念が押し寄せてきた。だが、それでも言わなければならないことだったはずだ。

 譲れないもの、と茜が言うくらいなのだから、それはきっとよほどのものなのだろう。だけど、大切な友だちとを失ってまで守らなければならないものなんて、そんなものはないはずだ。

 だから、ここまで言えば茜は折れてくれる。折れてくれさえすれば、まだ間に合う。そう思っていた。

 だが、

「ああ、私にとってそれは、私たち三人の友情にも代えられない。それくらい、『譲れないもの』だ」

「なっ……」

 目の前がまっくらになる気分とはこういうことか、と思った。正直、茜がそこまで強情を張るとは少しも思っていなかった。

 もう、俺には彼女を説得する手だてが残っていなかった。

 茜が三人の仲を大事に思っていなかったとは思えない。それに代えることのできないほど、彼女が大事にしているものに心当たりがない、ということもショックだった。

 だからそれは、本当に思わず口から漏れた言葉だった。

「そこまで茜が『譲れないもの』って、いったいなんなんだよ……」

「……っ」

 また、さっきの顔だった。

 俺の今の言葉が、彼女を傷つけている?

 分からない。それがなにを指しているのかが全く分からなかった。それさえ分かれば、もしかしたら二人の仲を取り持つこともできるかもしれないのに。

 だんだんと、分からない自分にも腹が立ってきた。

 惚れた女がそこまで大切にしているものすらも分からないなんて、間抜けにもほどがある。そんな俺には、最初から彼女に告白する権利なんてなかったのかもしれない。

 こうなったら、なにがなんでも茜の『譲れないもの』を探り出して茜と蒼子の仲を取り持ってやる。

 そのためだったら、どんなことだってやってやる。

 俺には茜と蒼子、この二人に代わるものなんてありはしないのだから。

「おい、茜」

「なんだよ」

「今から俺はバカなことを言うぞ」

「…………は?」

「俺と勝負しろ」






 ◆◇◆◇◆◇◆






 俺が言い出した勝負とは、あと三週間もすれば開始される中間テストで、俺が学年五十位を自力で取れれば『譲れないもの』がなんであるかを包み隠さず話せ、という無茶苦茶もいいところの要求だった。

 だが、俺は茜の性格をよく知っている。

 こんな、よく考えれば勝負ですらないような訳のなからないものにイエスと言うわけがない。だから、俺は彼女に返事する暇さえ与えずに無理矢理家から追い出した。イエスとも言わなければ、はっきりと彼女の意思でノーと言わせる前に。

 同時に、茜なら分かるはずだ。この五十位以内というのが、彼女自身が以前言い出したハードルであることを。また、自慢じゃないが俺がこのハードルを越えることがどんなに困難であるかを。

 重要なのは、彼女に俺の努力を見える形で伝えることだ。努力なんてものは他人に見せるものではない。だけど、今はみっともなくてもやるしかない。とにかく、彼女に普通でない決意を見せる必要がある。そうすれば、変に生真面目な彼女はたとえ一方的な約束であっても罪悪感を覚えて口を割るかもしれない。

 もちろん、割らないかもしれない。というか、割らない気がする。こんなバカバカしい作戦で、彼女があそこまで口にすることを拒んだ秘密を聞き出そうなんて、さすがの俺でもバカだと思う。

 だが、バカでもいい。みっともなくてもいい。俺はまた三人で過ごせる時間が作れるのなら、なんだってする。これがダメならまた次を考えるだけだ。バカはバカなりの戦い方があることを、あの頑固者に思い知らせてやる必要がある。

 そんなわけで、今度は俺が茜を避け続ける日々が始まった。気がつけば、毎日一緒にいた三人は完全にバラバラになってしまった。






 ◆◇◆◇◆◇◆






 俺は茜に勝負を叩きつけた翌日。

 放課後に水野と会った。場所は学校の近くにあるファミレスで、お互い一度帰ってから出向いた。

「いいんですか? こんなところ、茜ちゃんに見られたら誤解されちゃいますよ」

 こんな状況でも水野の軽口は健在で、それにはいくらか俺も救われた。学校で見た茜のほうは見るからに覇気がなく、自分から避けておいてなんだが見ていて心苦しかった。

 だが、甘えは許されない。今が俺の招いたことならば、俺が自分で収集つけなければ。

 俺は自分が茜に持ちかけた勝負のことを水野にも伝えた。

「あらあら、そんなことになっちゃってたんですねぇ。茜ちゃんも災難です」

「災難?」

「いえ、こちらの話です。でも、そうですね。鷹志くんが五十位以内、というのは、こういってはなんですけど思い切りましたよね」

「まあ、……そうだな」

「しかも茜ちゃんのサポートもなし。ちゃんと勝算はあるんですか?」

「勝算はない」

「ずいぶんとはっきりと言っちゃうんですね」

「でも、やると言ったからにはやるよ」

「ふふ、わたし、鷹志くんのそういうところは好きです」

 ドキッとした。

 俺はその言葉になにか言葉を返すことができず、しばらく沈黙が続いた。

「分かりました。正直、茜ちゃんの言うとおりわたしたちの間に誤解はないんですが、鷹志くんが本当に五十位以内に入るのであれば、わたしの方からも茜ちゃんと仲直りできるようにがんばってみようと思います」

「本当か!?」

「ええ、安心してください。茜ちゃんがどう行動するかは分かりませんが、わたしはわたしで最善を尽くします」

「ありがとう!」

「いいえ、それを言うのはわたしの方です。本当に、ありがとうございます」

 水野はそう言って、深々と頭を下げた。

「そうと決まれば、俺はすぐに帰って勉強することにするよ」

 俺がそう言うと、水野は俺の瞳をのぞき込むようにして言った。

「なにか、お手伝いできることはありますか?」

「いや、ない」

 思いもしない質問だったが、俺は即答した。

「これは、俺一人でがんばらなきゃいけないことがするんだ」

 そう言うと、水野は笑った。

「そう言うと思ってました」

 そして、

「失敗したら許しません。がんばってください」

「おう」

 俺はそう答えて、水野と別れた。






 ◆◇◆◇◆◇◆






 水野と別れた後。

 俺は家に帰るとまずバイト先に電話を入れた。テストが終わるまで、バイトを休ませてもらうためだ。勝手なお願いであることは十分承知していたが、なりふり構っている時間はなかった。

 だが、

「ああん? オメエもようやく親心ってやつが分かるようになったか!」

「はぁ?」

「おうおう。よく分かったぜ。勉強に専念するんだろ? 任せときな。お前の勉強が終わるまではきちっとこっちで回しとくからよ!」

「おい、ちょっと待……」

 プツン。ツーツーツー。

 三週間ばかり休ませてほしい、という無理なお願いはずいぶんと上機嫌に了承されてしまった。

 まあいい。言いたいことは色々あるが、今は店長の人の良さに甘えよう。俺はそう考えて教科書を開いた。






 正直、俺は自分がバカであることを知っている。そんな俺がどんな決意をしたところでいきなり頭を良くすることなんて不可能だ。

 では諦めるのか。これまではそれで良かった。成績なんかに興味はなく、進学にもこれっぽっちも興味はない。だが、今回ばかりはそういうわけにはいかなかった。では、どうするのか。

 俺は自室の勉強机からおもむろに社会の教科書を取り出すと、前回の試験が出た範囲から先をひたすらノートに書き写すことにした。






 深夜になった。

 手首が痛い。ノートはシャーペンの芯で真っ黒になっていた。だが、これを見て満足している場合ではない。

 教科書を見る。まだ、試験範囲だろうと思われる部分の半分も来ていなかった。思っていた以上に、教科書の文章をひたすら書き写していくという作業は骨が折れた。だが、なにもしないよりはマシだ。

 時計を見ると、もうすぐ夜中の一時になろうとしている。あと二時間だけがんばることにして、俺は再びシャーペンを握りなおした。






 翌日。学校。

 五時間目にあった社会の授業が少しだけ分かるようになっていて驚いた。どうやら、少なからず効果は出ているようだった。






 帰宅後。

 鞄を投げ捨てるようにして脱ぐと、制服のまま机に向かった。写すのはそれなりに意味があった。全ての教科に通用するかは分からないが、とりあえず意味がありそうなものは一通りやってみるのも悪くない。

 まだ社会も全部終わったわけではないが、社会が写し終わったら今度は理科でやってみよう。それで社会が完璧だとも思えないが、他の科目も一通り終わったらまた社会に戻ってくればいい。






 理科は社会に比べて写しづらかった。図解が多く、言葉だけではなにを言っているかがいまいち分からない。試しに雑な絵や図をノートにも書いてみた。読み返すと、思った以上に分かりやすい。これは社会の写しにも使えるような気がした。






 三日目。

 朝起きると食事だけ取って朝早く学校に行き、寝る。授業を受ける。休み時間は寝る。授業を受ける。この繰り返しが染み着いてきた。昼休みも食事を誘ってくれた男連中がいたが、断った。すまん、ちょっと眠みーんだわ。そう言うと、なにしてるか知らんがほどほどにしとけよ、と言ってくれた。なんだかよく分からないけど、ありがたさがこみ上げてきた。






 五日目。

 気が付くと机の上でうたた寝をしていた。こんなことでは駄目だ。居間に行き、水を一杯飲み顔を洗った。時間はまだ十時。まだまだ今日やれることは多い。






 八日目。

 最近、家で分からない部分をノートの端にまとめるクセがついてきた。社会や国語は覚えればいいだけの部分が多いからまだいい。だけど、英語や数学、あるいは理科の一部はどうしてもひとりでは分からない部分が出てくる。

 だが、茜や水野を頼ることはできない。あるいは他の友だちを頼っても良かったのかもしれないが、なんとなくそれも気が引けた。だから俺は家で分からなかった部分をまとめると、そのノートとペンを手に休み時間や放課後、担当の先生を追いかけ回した。






 十一日目。

 驚くべきことに、あれだけチンプンカンプンだった授業の内容が、少しだけ分かるようになっていた。もちろんこれまでのツケは大きく、少し真面目に勉強したくらいでは内容が全て分かるようにはならない。特に英語だ。基礎が出来ていないから、この教科は未だに「なぜ」そうなるのかが分からない。先生に質問しても、以前習ったことを前提に答えるのでやはり分からないままだ。

 だが、その英語にしたって試験範囲の英文、その訳、単語は繰り返し書きそのほとんどを暗記した。まだ十分だとは言えないが、それでも授業中に今なにをやっているのか、どこをやっているのかは見失わなくなった。

 そうなってみると、授業と言うのは思いの外つまらないものではないことが分かった。勉強にはつきものの「なぜ」に整然とした「だから」がくっついていく様は、黒板の上だけではなく頭の中で行われるてみると思っていた以上に気持ちのいいものだった。あれだけ聞いていて眠くなった暗号文や異国の言葉は、意味ある言葉として耳に入ってくればそれなりに面白いものだった。

 これは俺にとって、本当に驚くべきことだった。






 十五日目。

 試験開始まで一週間を切った。今回のテストは期末ではなく中間なので、行われる科目は国語数学英語理科社会の五科目。先生たちも試験範囲を繰り返し授業内で口にするようになり、教科によっては範囲が終わったので自主学習、テスト勉強をさせ始める先生も出てきた。ついに、大一番が目前に迫ったという感じだった。






 十八日目。

 時間がない。今日が終われば残すところあと三日。あと三日で俺になにが出来るのだろうか。俺は果たして、勝負になるだけの知識は身に付いてるのだろうか。

 分からない。不安に押しつぶされそうになりながらも、今の俺はひたすら英文と数式に向かい合うしかない。






 二十一日目。試験前日。

 やれること、やるべきことは全てやっただろうか。机に向かえば向かうほど、自分の分からないことが増えていくような気がして怖かった。

 だが、今やるべきは試験に万全の体調で望むことであって不安に押しつぶされて自棄になることではない。今日は簡単に全教科の教科書をさらって九時には寝ることにしよう。眠い頭でテストを受けるのは得策とはいい難いだろうから。全ては明日。俺は俺にできることをやろう。今はきっと、それは寝ることだ。






 ◆◇◆◇◆◇◆






 十月×日。中間テスト当日。

 俺は朝七時、いつもの通学路を歩いていた。体調は万全。俺は俺に言い聞かせる。俺は俺にできることをやろう。

 そして思う。

 テストが終わったら、大学のことについてもう少し調べてみよう。思えば俺はこれまで、大学について調べることもなく、勉強には興味がないからという理由で親の要求を突っぱねてきた。勉強をするということについて、改めてもう一度考えてみるのはいいかもしれない。だが、改めて調べた上で、それでも俺のやりたいことが料理だけだったとしたら、そのことをきちんと親父に伝えよう。きちんと調べ、きちんと考えて、それでも大学へ進学しないと結論づけたのであれば、きっと親父も分かってくれるはずだ。あるいは、親父にさえも文句を言わせるつもりはない。親父だけじゃない。母さんにも、店長にも、そして、茜にも。

 俺の意志を彼らに伝えよう。






 座席に着き時計を見る。

 針はもうすぐ九時を指そうとしている。

 出席番号順に並びなおした座席。空の机。筆記用具だけが乗った机の上。そして、表にはびっしりと問題が並んでいるはずの問題用紙。

 教壇の上では担任の数学教師がお決まりの注意事項を話していた。それを視界の端で捉えつつ、俺は魅入られたように時計の秒針を見つめていた。

 カチカチカチカチカチカチ。カチン。

 始業のチャイムが鳴った。

「はじめ」

 教室に、問題用紙が翻る音が一杯に響きわたった。






 ◆◇◆◇◆◇◆






 成績が発表される日。俺は一睡も出来なかった。

 うちの学校では、上位成績者は個別成績に先んじて張り出される。だから、成績にそれなりに覚えのある者はいつも成績が張り出される日は掲示板の前に人だかりを作る。

 そんなものに縁のない生活を送ってきた俺だったが、今回だけは別だった。俺が朝登校して掲示板の前へやってくると、すでに掲示板の前には人だかりが出来ていた。

 俺はその人混みをかき分けて、掲示板が見える位置を確保する。

 順位表最初の列に、俺はゆっくりと目を通した。トップ十位に自分の名前がないことなんて分かりきっていることなのに、心臓はすでに爆発寸前だった。どくんどくん、と鼓動をひとつ数えるごとに耳元へせり上がってきているんじゃないかという錯覚さえ覚えた。



 一位 佐藤 梨夫     498点

 二位 渡辺 奏      494点

 三位 井上 毅      489点

 四位 井口 流      480点

 四位 斎藤 理恵     480点

 六位 能登 穂波     476点

 七位 小清水 実     475点

 七位 鈴木 啓二     475点

 九位 小山 聡      473点



 一番左上に書かれている学年トップの名前は聞いたこともない名前だった。その下に二位の生徒の名前。やはり知らない。そうして視線を下げていくと、やがて、



 十位 水野 蒼子     470点



 水野の名前があった。

 思わず、ため息が漏れる。たぶん、感嘆のため息というやつだろう。これっぽっちもかなうなんて思ってはいなかったが、それでも、あれだけ死にものぐるいで勉強してもまだまだ彼女には到底たどり着かないのだ。そんな当たり前のことに初めて実感が伴う。これはちょっとした感動だった。

 ただ、茜の名前がそこになかったことは気になった。

 十一位からはまた新しい紙になっており、視線は再び上に戻った。



 十一位 佐々木 行馬   467点

 十二位 村上 哲     464点

 十二位 百目木 杏里   464点

 十二位 木之下 瑞穂   464点

 十五位 山口 司     460点

 十五位 堤 大樹     460点

 十五位 星 一成     460点

 十八位 加藤 空     458点

 十九位 飯島 明     457点

 二十位 林 正治     455点



「ふぅ」今度は緊張をほぐすために一息着いた。

 大丈夫。まだ焦らなくてもいい。あと三十人。その中に居さえすればいいのだから。



 二十一位 日野 茜    454点



 あった。

 トップ十こそ落としてしまっていたが、茜の名前はきちんとそこにあった。


 二十二位 丸山 誠一郎  453点

 二十二位 藤本 陸    453点

 二十四位 谷口 涼香   451点

 二十四位 高木 玲子   451点

 二十六位 増田 萌    448点

 二十六位 竹田 徹人   448点

 二十六位 大島 真央   448点

 二十九位 千葉 希一   445点

 二十九位 久保 明    445点



 その後も祈るような気持ちで視線をじょじょに降ろしていくが、風間鷹志の名前はない。少しずつ、不安が募り始める。自分の実力であれば、当然下に行けばいくほど可能性は上がる。だが、二十位後半にはランクインしている自分を夢想しなかったわけではない。あと、下に二十人。果たして俺の名前はあるのだろうか。

 心臓の音がうるさい。周囲の音が遠い。横に、三十代の順位の印刷された紙がある。視線をそちらへ移した。



 三十一位 徳永 悟    444点

 三十二位 内田 十五   442点

 三十二位 野田 香織   442点

 三十二位 野口 景香   442点

 三十五位 小島 彰吾   440点

 三十六位 新保 昴    440点

 三十七位 上野 薫    437点

 三十七位 石井 涼平   437点

 三十九位 栗田 霧人   434点

 四十 位 鈴木 大地   433点



 ない。名前はなかった。

 残り十人。残された椅子は、あとたったの十。

 俺は貪るように最後の一枚を見た。



 四十一位 菅原 拓    430点

 四十二位 新井 まどか  428点

 四十二位 増渕 美咲   428点

 四十四位 高田 澪    420点

 四十四位 藤島 潤一   420点

 四十六位 山口 遼河   417点

 四十七位 小菅 舞    413点

 四十八位 松井 百合花  410点

 四十八位 河野 俊    410点

 五十 位 村田 草児   408点



「…………」

 俺は、言葉もなくその場に崩れ落ちた。

 周りにいた連中は何事かと俺の周りから瞬時に距離を取った。そんな中に、水野の姿を見つけた。

 俺は立とうとしたが、腰が抜けて上手く立てなかった。

「はは、だっせ」

 俺は諦めてその場であぐらをかいた。

「悪いな、水野失敗しちまって」

 いや、謝って許されることではない。この結果ももう少しすればすぐにでも茜の知るところになるだろう。茜はどう思うのだろうか。ほっとするのだろうか。それとも、残念がるのだろうか。

 だが、そんなことは考えても仕方のないことだ。謝って許されないことである以上、結果を出すしかない。俺は次の作戦を考えなければ。

 だと言うのに、

「いいえ、そんなことはないです」

 水野は俺よりも高い位置から、そんなことを言った。彼女が俺を見下ろす顔は優しかった。

「やめろよ。慰めんなって。失敗したら許さないんだろ?」

「そうです。失敗したら許しません」

「だったら……」

「鷹志くんはまだ、もうひとがんばりしなくちゃいけません」

「……え?」

「なに、燃え尽きたヅラしているんです? まだもうひと仕事残ってます。ちゃんと見てください」

 水野はそう言って掲示板の一番右下、掲示されている順位のさらにその横を指した。そこには、プリントに入りきらなかった分の印刷が付け加えられていた。



 同五十位 風間 鷹志   408点



 それが目に飛び込んできた瞬間、俺は勢いよく立ち上がって掲示板に飛びついた。風間、鷹志。風間鷹志風間鷹志風間鷹志。

 この学年には風間という名字はひとりしかいないし、鷹志という名前もひとりしかいない。ということは、これは間違いでも勘違いでもなんでもなく……?

 俺は顔を歪めた。そして意味不明の雄叫びを上げた。






 ◆◇◆◇◆◇◆






 俺は放課後になるのを待った。今日の帰りのホームルームで中間テストに関する成績表が出るからだ。

 そしてホームルーム。帰ってきた成績表を開く。間違いなく、俺の成績は学年五十位だった。その後、今すぐにでも飛び出したいのを我慢しながら担任が教室を出ていくのを待った。

 そして、

「茜、勝負は俺の勝ちだ」

 にわかに騒がしくなり始めた教室内で、俺は机に座ったままの茜の前に立ちはだかった。成績表は茜にも見えるようにして机の上に叩きつけた。

「勝負? なんのことを言っているのか分からないな」

 茜はその成績表をちらりと一瞥はしたものの、特別驚いた様子もなくそう言った。恐らく、事前に掲示板で俺の順位を知っていたのだろう。

「忘れたのなら思い出させてやる。俺が五十位以内を取ったらお前の『譲れないもの』を教えろという約束だ」

 『譲れないもの』に反応したのか、茜がぴくりと動いた。さらにはその視線が俺を外れ、俺の後ろを見た。確かそのあたりには水野の席があるはずだった。

「なんだ、そのことか。ふん、いつ、私がそのことを約束したんだ?」

「おっと、勝負を断らなかったくせに負けた途端にそれか?」

「……む」

 俺は存分に茜を挑発するような言い方をした。案の定、茜は不機嫌そうな顔をした。俺は畳みかけることにした。

「あの時はそれで俺が静かになるならそれでいいと思ったんだろ? どうせ俺には、学年五十位なんて無理だと思ったんだ。違うか?」

「違う。勝手に私の内心を想像して決めつけるんじゃない!」

 喰いついた。

 俺は内心でガッツポーズを決めた。

「じゃあなんだよ。その方が都合がよかったから黙ったんだろ。それを都合が悪くなった途端に駄々をこねるなんてフェアじゃない」

 実際、フェアじゃないのは俺の方だし、駄々をこねているのも俺の方だ。だが、そんなものは関係ない。ださくってもかっこわるくっても二人の仲を戻す。そう決めたのだ。

「しょうがないじゃないか! あの時はお前が私の話を聞かずに無理矢理外へ追い出したんだろう!」

「はあ? ならその後にでもあんなものは無しだと言いにくればよかったじゃないか。それをしなかったってことは、俺を黙らせるために勝負に乗ったってことだろ?」

 俺はことさら茜を挑発するような口調で言った。

「……ぐっ。そ、それは……」

 俺にあれ以上追求されるのが嫌だった、というのは本当だろう。だから生真面目すぎる彼女はそれ以上反論することができない。

「言えよ。お前は俺が負ける方に賭けた勝負に負けたんだよ」

「…………っ」

 茜は奥歯を噛んで、完全に黙ってしまった。その様子は傍目にも彼女の葛藤が分かるほどで、彼女の中でなにかとかにかがぶつかり合っていた。

 そんなにも、茜にとって『譲れないもの』は大切なのだろうか。水野と仲良くなれたことをあんなに喜んでいたじゃないか。三人で居る時間は楽しい、と言っていたのは嘘だったのか。

 嘘じゃないはずだ。

 嘘じゃなかったとすれば、そんな親友と離ればなれになる未来なんて悲しすぎる。だって俺は、茜と離ればなれになる未来なんて想像できない。同じように、茜と水野が離ればなれになる未来も、想像もしたくない。

 『譲れないもの』がなんであるかは分からないが、それが茜ひとりでは取り返せないものなら俺が無理矢理にでも取り戻す。たとえその結果茜を傷つけることになったとしても。嘘じゃなかったと信じているから、俺は俺のために茜を傷つける。

「くだらない」

「え?」

「茜がなにをそんなに迷っているのかは知らないけどな、そんなものはくだらないって言ってんだよ!」

 俺はまくしたてた。

「『譲れないもの』だかなんだか知らないけどな、親友ひとり犠牲にしなきゃ守れないものなんて、くだらねぇって言ってんだよ!」

「くだらなくなんかない!」

 茜が勢いよく立ち上がった。

 俺たちは間近でにらみ合った。

「じゃあ言ってみろよ。俺を納得させてみろよ。親友を犠牲にしなきゃ守れない『譲れないもの』ってなんだよ!」

「…………くっ」

 そして。

「……くっ。こ、この、この」

 ついに、茜が切れた。

「私がこの世で唯一『譲れないもの』はお前だ、バカーーーーーーーーーーーーーッ!!」

「………………は?」

「もー、イヤだ。あれだけ態度で示しても、あれだけ言っても分からないんだからな。そんなに鈍感なら直接言ってやる!」

 茜は思い切り机を叩くと、凛々しいアルトボイスを教室中に響かせた。

「私はお前のことが好きで、蒼子もお前のことが好き! だから私たちは最後の最後では相入れない。だからお前を巡って大喧嘩! 男巡って喧嘩とか醜いよね! もう終わりだよね、友達として! だから私たちは距離置くことにしたの! 分かる? 分かった? 納得したかこの鈍感やろう!?」

「……えっと、つまり?」

「うん、もうここまで来たら後戻りとかできねーや、もういいや! 好き。愛してる。彼氏にしたい。ずっと一緒にいたい! これまで、ずーーーっと一緒だったんだから。これから別々の道を歩むなんて、私には想像すらできない。だから、私の彼氏になりなさい! 以上!!」

 茜はそこまで言い終わると、クラスのみんなが固まっている中、ひとり悠然と廊下へ出ていった。

 俺はよく働かない頭でクラス全体を見回した。部活や用事があってすぐに教室を飛び出した者以外、ほとんどの者がまだ教室に残っていた。

 ああ、俺と茜が言い合い始めたからなんだと思って見てたんだろうなー。

 なんて、やっぱり働かない頭でそんなことを考えた。

 俺は次に後ろにいるだろう水野を振り返った。水野はやはり後ろにいた。

 俺を含めたクラス全体が魂を抜かれたような顔をしている中、水野だけは理性ある顔をしていた。

「やれやれ。まさか、わたしの気持ちまで大暴露されるとは思ってもみませんでした」

 そう言って、彼女は外人のように大げさなポーズで首をすくめた。

 次の瞬間、教室が蜂の巣をつついたような騒ぎになったのは言うまでもない。






 ◆◇◆◇◆◇◆






 ◆◇◆◇◆◇◆






 ◆◇◆◇◆◇◆






 茜の大暴露告白から五日。週は明けて今日は日曜日だ。

 あの日、あれから教室で起こった騒ぎに関しては、もう思い出したくもない。ひとことで言うならアビキョウカン。正直トラウマになりそうなレベルだった。

 そんな地獄の一週間を乗り切った今日、俺は朝っぱらから呼び出されていた。

 約束では駅に八時だったはずなのだが……。

 俺は腕時計で時間を確認した。八時三十四分。なぜか三十分前集合厳守を言い渡された俺は、すでに一時間近く待たされていた。

 もう、これはなにか一種のいじめなんじゃないかと思う。

 と、そんなことを考えながらなにげなく雑踏に視線を走らせていた俺は、視界の端に妙なものを捉えた。

 それは、街角に置いてある看板の後ろに隠れる、二人組の怪しい人間だった。

「おい」

「「…………」」

 すでに今の一声でばれてしまったのは明白なのに、二人は揃ってなかったことにしようとしていた。

「お前ら、いったいいつからそこに居た」

「いや違うんだ、鷹志。私はやめようと言ったんだが、蒼子がいい女はデートに男を待たせるものだとか訳の分からないことを言い出して!」

「ああ! 茜ちゃんだって、待たされた鷹志くんがどうやって待ってるのか興味しんしんだったくせにです!」

 そう言って出てきたのは私服姿の茜と水野だった。

 なぜか水野の方がいつも茜がしているようなパンツルックで、茜の方が水野がしてそうなイメージのあるスカート姿だった。というか、茜のスカートは制服以外では始めて見た気がする。

「な、なんだ……」

 茜が恥ずかしそうにスカートの裾を引っ張って言った。

「どうせ似合わない、とか思ってるんだろう。そうだ、私はどうせスカートなんて似合わないんだ! いいんだ! 分かってた!」

「茜」

「やめろ! 慰めの言葉なんて聞きたくない!」

「茜、いいから聞け」

 俺は茜の手を掴んだ。

「なっ!?」

「スカートも似合ってる」

 本音だった。茜のスカート姿はそれくらい似合っていた。

「あ、あああああああ……」

 茜はなにやら意味不明なことを言ってもじもじし始めた。やばい、超恥ずかしい。

「あー、あー、あー。嫌ですねぇ。わたしのことは無視ですか。無視していちゃついちゃうんですかこのカップルは」

「あ、いや。そういう訳では……」

「忘れないでくださいよ。今日は茜ちゃんが勝手しちゃったお詫びをする日なんですよ?」

「いや、俺に言われても」

「彼女の罪は彼氏のもの。彼氏の罪は彼氏のもの」

「いや、そんな訳の分からないジャイアニズム発揮されても」

「いいから。デートなんですからね、ちゃんとわたしの服も褒めてください」

「褒めてくださいって……」

 改めて水野のパンツルックを見る。なにやらおしゃれな帽子まで被っている。まあ、これはこれで、

「なんか新鮮でいいな」

「うーん、五十点」

「辛いな!」

「そこはさらっと可愛い、と言ってください」

 水野はそう言って俺の手をぎゅっと握った。

「あ、ちょっと。わ、私だって!」

 それを見た茜が反対側の手を握ってきた。

 あまりに完璧な両手に花状態で、もの凄く嬉しい状況なのかもしれないが、周囲の目線が痛すぎて素直に喜べない!

「わたし、鷹志くんのこと諦めませんから」

「私だって、鷹志のこと譲ったりしないんだから」

 まあ、でも。

 こうして二人の仲は相手のデート服をコーディネートするくらいには戻ったわけで、とりあえず。

 めでたしめでたし、なのかな?


「まてまてまて、お前ら引っ張るんじゃない。二つに裂ける。裂けちゃうよ? ああ、ダメ! それ以上はダメー! アーーーーーッ!!」


 めでたし、めでたし?




 END

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― 新着の感想 ―
[一言] どうも僕です。初めに、この批評には身内用語と主観が入り乱れていることを言っておくので、ご了承を。言わなくても分かると思いますが、個人的意見なので取捨選択は個人に任せます。 ラ研に投稿すると…
[一言] さて、ガルドさんの作品に批評を書くのは……何ヶ月ぶりでしょうかね。 物語自体の構成は、展開の方向性、物語の目標と向う先が直ぐに提示されていてよかったと思います。そこのところは本当に羨ま…
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