9.降り出した雨
今は、何も聞かなかった。何も見なかった。そういうことにしよう。そう自分に言い聞かせながら、私はそっとその場を立ち去ろうとした。
だが、立ち上がった瞬間。
体がふらつき、足元が揺れる。
慌てて体勢を立て直そうとしたが、その拍子に足元の小枝を踏んでしまった。
――パキッ。
乾いた音が、夜の静寂を鋭く切り裂く。
「……え? エミリア?」
その音は、二人の耳にも届いてしまった。クロード様の驚いた声が聞こえる。フルールも振り返った。
その表情は動揺しているようだったが――口元には、わずかに弧が描かれていた。
私は、何を言えばいいのかわからず、ただ二人を見つめることしかできなかった。
「お姉さま……」
「もしかして……聞いていたのかい」
クロード様が私の方へ歩み寄る。その顔には、複雑な感情が浮かんでいた。私は、わずかに視線を落としながら答える。
「……ええ」
短い沈黙が落ちた。クロード様はしばらく黙ったまま立っていたが、やがて重い口を開いた。
「聞いていた……のか」
小さく息を吐く。
「すまない、エミリア。私はもう、自分の気持ちに嘘はつけない」
その声は、どこか諦めたようだった。彼はまっすぐ私を見る。
「君に情はある。だが……共に笑い、共に人生を歩むとなったとき、私の心はフルールを求めている。父には、私から伝える。本当にすまない」
クロード様は、はっきりと言った。
「婚約は……なくなることになるだろう。気持ちの整理をしてくれ」
その言葉を聞いても、私は何も言えなかった。クロード様の瞳に映る決意を見てしまったから。もう、何を言っても変わらないのだと理解してしまった。
「お姉様……ごめんなさい」
今度はフルールが口を開いた。その声は優しげだった。けれど、どこか甘く響いている。
「でもね、お姉さまがよければ……ずっとこの家にいてくれていいの!」
私はゆっくりと顔を上げる。フルールは明るい笑顔を浮かべていた。
「ほら、お姉さまは学院にはあまり行っていないけれど、とても優秀でしょう?」
そして、楽しそうに言葉を続ける。
「一緒にこの家を盛り立ててくださればいいのよ。例えば……侍女として、とか」
その提案を聞いた瞬間、胸の奥が、さらに強く締め付けられた。クロード様が結婚したら傍にはいられない。そう言っていたフルールが。今は、私を、この家に留めようとしている。最初から私の居場所など、そこにしかないのだと決めつけるように。
それが、私にとってどれほどの苦痛であるかを知っていて言っているのか、知らずに言っているのか。
……いいえ。きっと、知っているのでしょうね。
「ああ、それがいい! 父も君のことを心配しているし」
クロード様は、どこか安堵したように言葉を続けた。
「君を愛することはできないが、病弱だった小さい頃の私を励ましてくれた君を見守っていきたい気持ちはあるんだ」
そして、少し困ったように笑う。
「今では君の方が病弱になってしまったから……ああ、そうだ! 伯爵家の領地で療養するのもいいかもしれない。自然豊かだし、父もいるし……それも合わせて父に話そう」
彼の言葉はきっと、私を傷つけないようにという気遣いから出たものなのだろう。
けれど、その優しさが、痛烈な苦しみとして胸に響いた。私の体調を気遣うその言葉が、私の心にどれほど重いものを背負わせるのか。
あなたは、気付いていないのでしょうね。
――あなたが元気でいられるのは、私の力あってこそなのに。
「お姉さまは体が弱いから、クロードと出かけたりダンスしたりできないでしょう? 共通の友達だって……だから、分かって」
フルールが柔らかな声で言う。そして、クロード様を見上げて微笑んだ。
「私、必ずクロードを幸せにするわ」
「フルール……」
クロード様が愛しそうに彼女の名前を呼ぶ。その声は、あまりにも優しかった。
……もう。二人の未来には、幸せしか見えていない。それ以上、この光景を見ていることができなかった。
「ええ、大丈夫よ。二人とも。二人の未来を祝福するわ」
私はゆっくりと口を開く。自分でも驚くほど、穏やかな声だった。
「でも……急なことだったから、少し一人になりたいの」
「そうか! 分かってくれてよかったよ」
クロード様は安心したように笑った。
「そうだね。混乱するのは当然だ。明日また話し合おう」
「そうね」
フルールも頷く。
「お姉さま、また明日。おやすみなさい」
クロード様はフルールを抱き寄せるようにして、邸の方へ歩き出した。寄り添う二人の背中が、ゆっくりと遠ざかっていく。
私はその後ろ姿を見送りながら、胸の奥で渦巻く感情と向き合っていた。
ふと、ぽつり、と。冷たいものが頬に落ちた。
見上げると、いつの間にか空は厚い雲に覆われていた。
先ほどまでの穏やかな夜が嘘のように、空から冷たい雨が降り始めていた。雨粒が頬を濡らす。その冷たさが、現実を突きつけてくる。
私はその場に立ち尽くしたまま、夜空を見上げた。
どこまでも続く暗い雲。まるで、未来そのものが、見えなくなってしまったかのようだった。
雨は、あの日を、両親が亡くなった日を思い出すから。
消えてしまえばいいと、願うことが多い。
けれど今日は、この雨に当たっていたいわ。
来月には、クロード様の誕生日がある。伯爵様も帰ってくるわね。……そうなれば、きっとまた始まる。このままここにいたら――靄を消すために、また私の身を削ることになる。
胸を焼くような痛み。
呼吸すら苦しくなるあの感覚。
……嫌ね。もう、あんなふうに苦しむのは。
「……ふふ」
小さく笑いが漏れた。
「ふふふ……」
雨音の中で、自分の笑い声だけが妙に響く。
会いたい人には会えず。
行きたいところへは行けず。
食べたいものも、好きなだけ食べられない。
大事なものは、いつだって、私の元から消えていく。
家族、時間、未来も。そして今は、婚約者。
……繰り返される毎日。
同じように息をして、同じように苦しんで、同じように何かを失う。
「……ああ。笑っちゃうわ……」
こんな人生。最初から終わりが決まっているみたい。
私はゆっくりと目を閉じた。雨が髪を濡らし、頬を伝って落ちていく。




