8.月明かりの中で
ふと窓の外を見ると、いつの間にかすっかり日が暮れていた。外は真っ暗で、空には月が静かに浮かんでいる。
時間の流れがこんなにも早かったことに驚き、私は小さくため息をついた。
どうやら、自分の思考に没頭しているうちに、夜が静かに訪れていたらしい。喉の渇きを覚え、私は立ち上がった。専属のメイドもいないため、仕方なく自分で水を取りに行くことにする。
部屋を出て、静まり返った廊下を歩きながら調理場へ向かった。
その途中だった。
廊下を進むうちに、微かに話し声が聞こえてきた。
――誰かが話している。こんな時間に?
不思議に思い、私は足を止める。
「……だから……なのです」
「ああ……しかし……私は……と思っている」
断片的な声が、夜の静寂の中にかすかに響いていた。
声は庭の方から聞こえてくる。私はそのまま静かに歩き、そっと庭へ出た。月明かりが、庭を淡く照らしている。銀色の光が花々の上に落ち、夜露に濡れた葉が静かに輝いていた。
その美しい庭の片隅で――二つの影が寄り添っているのが見えた。月明かりの下で、抱き合う二人の姿。胸が詰まり、息が止まりそうになる。私はその影が誰なのかを、すぐに理解してしまった。
クロード様とフルール。
ああ……やっぱり。その光景を見つめながら、心がきつく締め付けられる。
フルールの柔らかな笑顔。
それを見つめるクロード様の優しい瞳。
二人は互いを、大切に想い合っている。そう認めざるを得なかった。月明かりの下で寄り添うその姿は、最初から正しい形ように自然で。
そこに私の居場所など、どこにもないのだと、静かに突きつけられているようだった。
「クロード……私は、もうこれ以上隠しきれないわ」
フルールの声は震えていた。
「わかっている。フルール。しかし……エミリアとの婚姻は父が強く望んでいるんだ」
クロード様の声は低く、どこか押し殺したようだった。悩みと苦しみが交錯しているのが伝わってくる。
その言葉を聞いた瞬間、何かが音を立てて崩れ落ちた気がした。どうしていいのか分からず、私は庭の隅にある木陰へと身を寄せる。
「クロードは? ひどいわ。クロードは私の気持ちを知っているくせに」
フルールはそう言って、クロード様の胸に顔を埋めた。彼女の細い肩が震えているのが、月明かりの中でもはっきりと見える。
「もちろん、大切に思っている!」
クロード様は慌てたように言葉を重ねた。
「その……妹としてではなく……」
「……クロード……」
フルールが顔を上げる。二人の距離が、わずかに離れた。クロード様はゆっくりと彼女の肩に手を置く。
「だが……父に、エミリアを大切にしろと言われている。小さい頃から一緒にいたんだ。情もある……すまない」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじくりと痛んだ。
――情。
それが、私とクロード様の関係なのだ。フルールは唇を噛みしめ、悔しそうな、悲しそうな表情で声を絞り出した。
「……来月は、クロードの誕生日。十八歳、成人だわ」
静かな夜の庭に、その声だけが落ちていく。
「あと三か月で卒業したら、お姉さまと婚姻してしまう……私は……どんな気持ちで、一緒にいればいいの?」
クロード様は何も答えなかった。二人の間に、重い沈黙が落ちる。月明かりだけが静かに庭を照らし、風に揺れる花の音が、かすかに耳に届く。
その沈黙の中で私はただ、木陰に身を潜めたまま立ち尽くしていた。声も出せないまま。胸の奥が、静かに、ゆっくりと冷えていくのを感じながら。
「結婚しても、エミリアは病弱だからね。パートナーが必要な夜会にはフルールと一緒に行くよ。今まで通り出かけるのも、共に過ごす時間も、何も変わらない」
クロード様はそう言った。それが当然のことのように。
「婚約者と妻は違うわ」
フルールは小さく首を振った。
「……いいえ、ごめんなさい、クロード。困らせたかったわけじゃないの。愛してる。それを知ってほしかっただけなの」
その声はやさしく、そしてどこか諦めを含んでいた。
「ふふ、大丈夫よ。あなたが結婚したら、私は……誰でもいいから、すぐに結婚するわ。クロードの子供と、私の子供を結婚させるのも素敵ね。私の恋が叶わないのだから……子供に託したいわ」
その言葉を聞いた瞬間、クロード様は打ちのめされたような顔をした。
「フルールが……結婚……? 子ども……?」
その意味を理解するまで、少し時間がかかったようだった。フルールが他の誰かと結婚する。他の誰かの子を産む。
きっと今、彼はそれを想像しているのだろう。
「ふふ、クロードったら。結婚したあなたの傍に、いつまでもいられるわけないでしょう?」
フルールは優しく微笑む。その笑顔は、あまりにも哀しかった。
ああ。そんな顔を見せられたら。クロード様は、もう駄目ね。次の瞬間。クロード様はフルールを引き寄せ、強く抱きしめた。
「嫌だ……嫌だ!!」
その声は、ほとんど叫びだった。
「フルール、私も愛しているんだ。フルールが傍からいなくなるなんて、考えてもみなかった……」
彼の腕が、さらに強く彼女を抱きしめる。
「耐えられそうにない……フルール……」
その言葉は、心の底からのものだった。クロード様は、ようやく自分の気持ちに正直になったのだろう。彼女を失うことが、どれほどの痛みなのか。そして、その痛みに、耐えられないことを。
「本当? 本当に? クロード……」
フルールの瞳には、喜びと希望が溢れていた。夜空には月が輝き、庭には花の香りが漂う。月明かりに照らされた庭で、二人の影が重なり合う。
時が止まったかのようだった。想いを確かめ合い、微笑み合う二人。まるで、恋物語の一場面のよう。私は木陰に立ったまま、その光景を見つめていた。
私は……?
今、胸に広がっているこの痛みは、彼を失うことからくるものなのかしら。それともすべてが、無意味に変わってしまうことが怖いのかしら。
どちらにしても、この痛みに、耐えられる自信はなかった。月明かりの下で愛を誓う二人。
私の犠牲の上に成り立つ愛は、……ああ。なんて醜いのかしら。




