5.婚約者の誕生日
クロード様の十一歳の誕生日。
伯爵家の広間には、大きなシャンデリアが輝いていた。天井から降り注ぐ光が、豪華に飾られた会場を明るく照らしている。
壁際には美しく飾られた花瓶が並び、色とりどりの花が咲いていた。今日の主役を祝っているかのようだった。
ディナーが始まると、使用人たちが静かに動き回り、料理を運んでくる。
スープ、魚料理、肉料理。 そして最後はデザートへと続くフルコース。
私たちはゆっくりと食事を楽しみ、穏やかな時間が流れていた。
会場の空気は温かく、クロード様の誕生日を祝う声があちこちから聞こえる。そして、いよいよ誕生日ケーキの時間が訪れた。ケーキの上に並べられたキャンドルに火が灯される。部屋の明かりが少し落とされると、小さな炎が揺れながら光を放った。
クロード様は目を閉じる。
静かに願い事をしてから、一息でキャンドルの火を吹き消した。
「「お誕生日おめでとう!」」
私と伯爵様は、声を合わせて祝福の言葉を贈った。
しかし、その瞬間だった。
「うわぁぁぁ!」
突然、クロード様が叫び声をあげた。体を折るようにして、苦しそうに顔を歪める。そのまま、椅子から崩れるように倒れた。
顔色はみるみる青ざめていく。苦痛に歪んだ表情が、はっきりと見えた。
そして、ほとんど消し去ったはずの黒い靄が、一気に濃く、大きくなった。クロード様の体の周りに、黒い影のように広がっていく。ついさっきまでの楽しさは、遠い出来事のようだった。
聞こえるのは、クロード様の荒い息遣い。そして、私自身の激しく鳴る心臓の音だけ。
私は思わず彼の手を握りしめた。そして必死に祈る。
「お願い、消えて……」
何かが、私の体の奥を駆け抜けたような感覚が走る。
けれど、靄は消えなかった。それどころか、さらに濃くなり、ゆっくりと形を変え始める。黒い影のようなものが広がり、私たちを包み込むように迫ってきた。
「クロード様!!」
私は思わず声を張り上げた。けれど、その声は広間に響くことなく、黒い靄の中へ吸い込まれるように消えていった。
私はクロード様の手を強く握る。
離してしまったら、どこか遠くへ連れていかれてしまうような気がした。必死に祈る。
お願い、消えて――
その思いを抱いたまま、私は意識を失った。
目を覚ましたとき、私はベッドの上にいた。視界に入ったのは、心配そうにこちらを見つめるクロード様の顔だった。
「1週間も眠ったままだったから……すごく心配したんだよ」
そう言うクロード様は、ほっとしたように微笑んでいる。
けれど、その背後には、まだ黒い靄が揺らめいていた。以前よりは薄くなっている。それでも、完全には消えていなかった。
◇
それから数年。
クロード様の誕生日になるたび、あの黒い靄は再び濃く、大きくなるようになった。
誕生日の夜、一気に膨れ上がった靄を、日常生活が送れる程度まで小さくする。それが、毎年繰り返されるようになった。
けれど、その代償は大きかった。
体は常に重く、力が入らない。気分も沈みやすく、理由もなく落ち込むことが増えた。ひどく眠いのに、眠りは浅い。食欲もなく、食事もほとんど喉を通らない。
栄養不足もあるのだろう。
体は年々痩せ細り、鏡を見ると、目の下には濃い隈がくっきりと浮かんでいた。
そしてもう一つ、変化があった。
私の闇魔法の扱いが上達してきたせいなのか、年齢を重ねるごとに、クロード様の周りの靄ははっきりした形を取るようになっていった。
最初はただの黒い塊のようだったものが、次第に輪郭を持ちはじめる。
そして今では、人の姿のように見えるようになっていた。まだ曖昧ではある。けれど、顔立ちのようなものまで分かる。そして、その影は、まるで私を見つめているかのようだった。
「この方は……」
言葉が自然にこぼれた。ああ、間違いない。ずっと、そんな気がしていた。あの影は、あの肖像画に似ている。
このことをクロード様に伝えるべきなのか。それとも、伯爵様に相談するべきなのか。
悩みは尽きなかった。
それでも私は意を決し、伯爵様のもとへ向かった。伯爵様は、私の話を最後まで黙って聞いていた。その瞳は暗く、何かを深く考え込んでいるようだった。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「わかった、少し調べてみる」
低く落ち着いた声だった。けれど、その言葉には、どこか不安を感じさせる響きがあった。
◇
昔のことを思い出していると、突然フルールの声が響いた。
「お姉様! 聞いていらっしゃらなかったの?」
私ははっとして顔を上げた。
「え? いつの間に部屋に来たの?」
驚いて振り返ると、そこにはフルールが立っていた。クロード様の瞳の色と同じ、鮮やかなグリーンのドレス。丁寧に髪を結い上げ、宝石も身に着けている。
すでに外出の準備を整えている姿だった。
フルールは少し眉をひそめ、軽くため息をつく。
「いやね、ちゃんとノックはしたわ。話しかけてもぼーっとしていたのはお姉さまよ! もう一度言うわ、お茶会よ。今日は王宮でお茶会がある日よ」
「あら、そうなの? 気を付けて行ってらっしゃい」
そう答えると、フルールは唖然としたように目を見開いた。
「何を言っているの? お姉様も行くのよ!」
どういうこと?
私が戸惑っていると、廊下の方から声がした。
「まだ準備ができていなかったのかい?」
クロード様だった。振り返ると、すでに身支度を整えた二人が並んで立っている。
……クロード様も行くのかしら?
「……ええ、聞いておりませんでしたから」
そう答えると、クロード様は少し驚いたようにフルールを見た。
「え? フルールが伝えたのではなかったのかい?」
「伝えたわ! 嫌だわ、お姉さま。ご自分が忘れたのを私のせいのように言うなんて」
フルールは不満そうに言い返す。
本当に、聞いていないのだけれど……。
「とにかく、準備をしておりませんでしたので、お二人でどうぞ」
私はそう言って断ろうとした。けれどフルールは、まったく引き下がる様子を見せない。
「別にそのままでいいじゃない。王女様を待たせるのも約束を破るのも失礼よ。さあ、早く立って」
約束などした覚えはないのだけれど……。結局、フルールに急かされるまま、私は立ち上がった。
部屋を出ようとしたとき、鏡の前を通り過ぎる。
そこに映った三人の姿が目に入った。華やかに着飾ったクロード様とフルール。そして、普段着のままの私。
このまま王宮へ行くの?
王女様が、失礼だと怒り出さないといいのだけれど……。




