38.無力な2人 sideヴィルフリード
「セバス、この婚約解消に向けての書類一式とコルホネン伯爵への私信を早馬で届けるよう手配してくれ」
全ての手続きを迅速に進めなければならない。リアの将来を守るために。
「分かりました。最速で届けるように念を押します」
セバスは短く答え、すぐに動き出した。リアがこの侯爵領に来てから、彼女の心身は少しずつ癒やされてきている。
頬に色が戻り、表情にも柔らかさが増してきた。その変化を見るたびに、安堵と喜びが広がるのを感じる。
しかし、リアは時折、鏡の前で立ち止まる。そして、自分の姿を見つめては、悲しげな表情を浮かべるのだ。痩せ細った体を、どこか恥じるように。
リアは、どんな姿であろうとも、愛しい。
痩せていようが、太っていようが、リアである限り、無条件に可愛らしいのだ。
だが、その悲しげな姿を見るたびに、胸の奥がきしむ。同時に、あの家への怒りが、静かに積み重なっていく。
「ヴィルフリード様。コルホネン伯爵家を見張らせていた者から、急ぎの連絡が来ました」
扉がノックされ、セバスが再び部屋に入ってきた。
「どんな連絡だい?」
「例のあの2人が、こちらに向かっているそうです」
「……へえ」
ずうずうしいな、いや、命知らずか。
「どういたしますか?」
「もちろん、リアに会わせる気はないが、私、自ら現実を突きつけてやるのも面白い」
甘い考えに囚われている男に、直接、絶望を味わわせてやるのも悪くない。
「屋敷に着いたら、知らせてくれ。私が行こう」
◇
数日後、その二人は侯爵家の門前に現れた。私は知らせを受け、そこで待っていた。
「クロードか? 久しぶりだな」
視線を向けると、彼の隣に女が立っている。
――これが、例の女か。リアとは比べものにならない。どうしてこんな女に心を奪われたのか、理解に苦しむ。
「ヴァルデン侯爵、ご無沙汰しております」
クロードが深く頭を下げる。
「何をしに来た」
「お姉さまに、エミリア様に会わせてください! お願いしたいことがあるのです!」
女が、いきなり声を張り上げた。人の話に割り込むなど……本当に令嬢か? 私は眉をひそめる。
「お前は誰の許可を得て、私に話しかけている。男爵令嬢風情が失礼な」
「……男爵令嬢……? え? なぜ伯爵令嬢じゃないって知ってるの……」
声を詰まらせているが、見知らぬ女に答えてやる義理はない。
私は軽く息を吐いた。門前で騒がれれば、リアの耳に入るかもしれない。
「このままエミリアに会わせる気はない。場所を移そう」
セバスが静かに案内する。屋敷の近くに借りてあるタウンハウスへと移動した。
部屋に入ると、私は椅子に腰掛け二人を見据えた。
「……それで、何をしに来た、クロード」
クロードは一瞬迷ったあと、言葉を絞り出した。
「父から……エミリアが今までしてくれていたことを聞きました」
顔色は青い。
「その……黒い靄のことも。私は、このままだと幼い頃のように体が弱くなり、命を失ってしまう。エミリアと話がしたいんです! 私は知らないことが多すぎた。私とエミリアに今必要なのは、会話なのです」
……何を言っているんだ、この男は。会話? そんな時期は、とっくに過ぎているだろう。
「このままだとクロードは苦しんで死んでしまいます!」
また、女が叫んだ。クロードの手を握ったまま、こちらを睨む。
「人の命を見捨てるんですか!? 会わせてください、お姉さまに!」
内心で苛立ちが込み上げる。私は何を見せられているんだ?
「……もう一度言おう。私はお前に名を名乗っていない。そして、お前から名を聞くつもりもない。つまり、お前は、私に話しかけられない。理解したか?」
女の顔がこわばる。
「男爵令嬢が、侯爵家の令嬢に向かって『お姉さま』だと? ふざけるのもいい加減にしろ」
なんて常識のない女だ。私はクロードへ視線を戻した。
「なあ、クロード。まず、現侯爵である私に詫びるべきではないのか? リアがいながら、その女と不貞を働き、心を奪われリアを傷つけたと」
空気が凍りつく。
「はっ。不貞相手を伴ってリアに会いに来ただと? 頭が沸いているのか?」
クロードはうなだれ、隣の女は顔を真っ赤にして震えている。
「お前の父も哀れだな。リアの父である前侯爵に土下座までして、お前を婚約者にしてもらったのにな」
「父上が……土下座?」
クロードが顔を上げた。
「そうだ、お前のためにだ。だがその息子は、土下座どころか、頭すら下げない」
一瞬、沈黙が落ちる。
「ああ、土下座しろと言っているわけじゃないぞ。してもらっても迷惑だ」
クロードの拳が震えているのが見えた。
「コルホネン伯爵も愚かだ。私とリアが会わないように手を回し、リアを囲い、お前に縛りつけていたのに。息子が愚かすぎて、すべて無駄骨だったな」
「エミリアとは疎遠だったんじゃ……なぜそんなに詳しいんだ……」
クロードの声が震える。驚きと、恐怖が混ざっていた。
「貴族にとって、情報は命だ。その女が義妹ではないことも、お前が義母だと慕っている女が侍女長であることも、すべて知っている」
そして付け加えた。
「その侍女長が首になり、実家に帰ったこともな。莫大な賠償金の請求と共に。まあ、その金もリアの慰謝料の一部になるのだろうが」
「お母様が……実家に帰った!?」
女の悲鳴に似た声が響いた。……耳障りだ。
「すでに、クロードとエミリアの婚約解消の手続きは進んでいる。いいのか? 私はリアに会わせる気など毛頭ない。ここに居座っても無駄だぞ」
扉の方を指す。
「さっさと帰れ。もう一介の令息が何かできる状態じゃない。これからは当主同士の話だ。ほら、隣の女も母親のことが心配そうだしな」
二人は青ざめた顔で立ち上がった。力なく、その姿は、あまりにも無力だった。もはやどんな言葉も意味がないことを理解したかのように。
リアに謝罪させる気などない。視界に入れさせるつもりもない。
お前たちの人生と、私たちの人生は、もう二度と交わらない。罪の重さを自覚して、死ぬまでその重みと共に生きるんだな。
心の中でそう呟きながら、私は彼らの背中を冷たく見送った。




