36.被害者は誰 sideフルール
sideフルール
今頃は、婚約発表に向けて準備を進めているはずだったのに。
鏡の前で侍女たちに囲まれ、宝石を選び、ドレスの裾を整えられる美しい私。
婚約式では、人々の視線を浴びながら、クロードと腕を組んで歩く。誰よりも輝く婚約者として。
……そうなるはずだったのに。
それなのに、どうして私は今、こんな馬車に揺られているの?
舗装の悪い道を進むたび、車体ががたんと揺れる。
フルール・コルホネン。
ずっと、そう名乗って生きてきた。伯爵家の娘じゃないなんて、そんなはずない。
だって、お母様が言ったのよ。「あなたは伯爵家の娘になるのよ」って。
だから私は信じていた。疑う理由なんて、一度もなかった。
学院でも当然のように、フルール・コルホネンと名乗っていたわ。誰も止めなかったし、先生たちだって、何も言わなかった。……まあ、時々。ほんの一瞬だけ、怪訝そうな顔をする先生もいた気がするけれど。
でも、それだけよ。
事情を察して複雑な家庭事情なのだろう、とあえて触れなかったのかもしれないけど、そんなの私の知ったことではないわ。
フルール・ラルティエですって? 母の実家の、あの男爵家の姓なんて……冗談でしょう?
そんな姓、私のものじゃない。
どう考えても悪いのは、お父様じゃない。放っておくのだもの。雇い主として、失格でしょう。
お父様、いいえ。もう、そう呼んではいけないのかもしれない。お父様じゃなく、コルホネン伯爵。
……確かに思い返してみれば、父らしいことなんて何もしてくれなかったけれど。それでも――今さらそんなことを言われても、あまりにも理不尽だわ。
私は、被害者よ。
お母様だって教えてくれなかったじゃない。もし一言でも言われていたなら、もっと上手く振る舞えたはずなのに誰にも言われなければ、気づくはずがないでしょう?
それなのに今さら、すべてを知らされて、この先どうすればいいのかなんて分かるはずがないじゃない。
友達にだって、なんて言えばいいの?
もし知られたら……きっと陰で笑われるわ。「伯爵令嬢のつもりで振る舞っていた男爵令嬢」って。
そんな噂、学院中に広まってしまう。男爵令嬢の身分では、王女様と気軽にお話しすることだって難しくなる。
今まで仲良くしていた子たちだって、きっと私を見下すに決まっているわ。
――そんなの、耐えられない。
……こうなったら。早くクロードと婚約しないと。いいえ婚約じゃ足りない。さっさと結婚してコルホネンにならないと。
そうよ。クロードと結婚さえすれば、すべて元通りになるはず。
そうすれば、コルホネン伯爵だって今度こそ本当に父になるのだから。
そうなれば、誰も私を笑えない。誰も。
◇
長時間の馬車の移動は、思っていた以上に辛かった。
屋敷にあのまま残っていても、きっと針の筵だったに違いない。そう思ってクロードについてきたけれど、とにかく辛い。
揺れる座席に体を預けながら、私はそっと隣を見る。
クロードは腕を組み、ずっと黙ったまま何かを考え込んでいる。さっきから、ほとんど口を利いてくれない。
何度か話しかけてみても、返ってくるのは短い返事ばかり。そしてまた、すぐ沈黙してしまう。
……家族じゃないと分かって傷ついている私に、もう少し寄り添ってくれてもいいのに。
ああ、もう! なんでこんなにも、思い通りにならないのかしら!
苛立ちを飲み込むように、ぎゅっと膝の上で手を握る。
ふと、屋敷に残ったお母様が気になった。お母さまは、今頃どうしているのかしら。きっと、必死にコルホネン伯爵に弁明しているはずよね。
上手に言いくるめてほしいものだわ。
私が、少しでも有利な立場に戻れるように。
それくらいして当然でしょう? 私をだましていたんだから。
肝心のお姉さまの手掛かりは、まだ何一つつかめていない。
生きていないと困るのに、ああ、本当に厄介な人。誕生日までに見つけないといけないって、クロードの父は言っていたわ。確かにクロードは誕生日の頃になると体調を崩すことが多かった。
これまでは、誕生日ではしゃぎ過ぎて疲れたからだと思っていたのよ。クロードが体調を崩すのは毎年のことだったし。
それなのに、黒い靄? 一体何なのかしら。不気味だわ。
……まさか。
あの女は、誕生日が、もうすぐなのを知っていて家を出たの? 婚約が無くなりそうだからって、そんな復讐をする? ……なんて恐ろしい女なの!
「フルール、次の街に着いたら、手分けしてエミリアの手掛かりを探そう」
クロードの声が、現実へと引き戻した。私は顔を上げる。そうよ。クロードのことは、私が守らなくちゃ。
このままだと命に関わるなんて、かわいそうだわ。
……それに。そんなことになったら私の未来も、めちゃくちゃよ!
私たちは愛し合う二人。
彼と私には、共に歩む未来が約束されているはずだった。
そう思っていたのに――もう!
あの女、エミリアのせいで、すべてが狂ったわ!




