23.家族 sideクロード
エミリアの部屋に入った瞬間、私は足を止めた。しん、と静まり返った空気が部屋を満たしている。
ふと、部屋の中を見渡す。
古びたソファ。いつもなら、そこにエミリアが座っているはずだった。静かに本を読んでいたり、窓の外を眺めていたり――けれど、今日はその姿がない。
昨日の話の続きをしようと、私はここを訪ねてきたのに、エミリアはおらず、代わりに、机の上に一通の手紙が置かれていた。
私はゆっくりと手紙を手に取り、封を開いた。
そのときだった。
「クロード、それは何?」
ドアの外から声がした。振り向くと、フルールが部屋に入ってきていた。彼女は私の手元をじっと見つめている。
「……エミリアからの手紙だ」
そう答えると、フルールは興味深そうに顔を近づけた。
「お姉さま?」
手紙を覗き込み、ふっと笑う。
「見せて……あら、ふーん。『探さないでください』か。なんだか、ありきたりね」
さらりと目を通すと、軽く肩をすくめた。
「どこに行ったんだろうか……やっぱり……邸を出るくらい、ショックが大きかったんだ……」
思わず呟く。フルールは、そんな私の言葉を軽く流すように言った。
「探さないでくださいって書いてあるんだから、探さなくていいんじゃないかしら?」
あっさりとした口調だった。
「きっと、幸せな私たちを見ていられなかったのよ。ね、そっとしておいてあげましょう」
その言葉は、私の胸に引っかかるものを残した。本当にエミリアは、そんな気持ちでこの手紙を書いたのだろうか。
「……でも。お金も持っていないだろうし……体も弱いのに」
私は手紙を握りしめた。言葉が自然と続く。
「それに、王都に頼れる人なんていないはずだ」
エミリアの姿が頭に浮かぶ。慣れない街で、一人きりでいる彼女。寒い夜道を歩いているかもしれない。そんな想像をすると、胸が締めつけられた。
「そうね。お姉さま、友達もいないし。でも、どうにもならなくなったら帰ってくるわよ。きっと」
フルールは軽く頷いて、さらりと言う。そしてぱっと表情を明るくした。
「それより――」
私の腕に軽く触れる。
「私たちのこれからのことを、お母様に相談しましょう? きっと喜んでくださるわ」
その明るい声は、部屋の静けさを押しのけるようだった。けれど、その明るさが、なぜか私の心に影を落とした。
◇
生まれたときから体が弱かった私は、広い屋敷の中ですら自由に歩き回ることはできなかった。
ましてや外に出ることなど、許されるはずもなかった。
一日のほとんどをベッドの中で過ごし、窓から見える空や庭の木々を眺めるだけ。外の世界は、私にとって遠い夢のような存在だった。見ることも、触れることもできない世界。
父も使用人も優しかった。
けれど私を産んで肥立ちが悪く亡くなった母のことを、時折どうしようもなく恋しく思うことがあった。
母を知らないという事実は、心のどこかにぽっかりと穴を開けているようだった。
そんな私の世界が変わったのは、五歳の頃。父が一人の女の子を連れてきた。
「友人の娘だ」
そう言って紹介された少女は、私の前に立ち、可愛らしく微笑んだ。
「エミリア・ヴァルデンですわ」
にこりと笑うその姿は、とても愛らしくて、その瞬間、私の世界は一気に色を帯びた気がした。
エミリアは、外の世界の話をたくさんしてくれた。
街の賑わい。花が咲き誇る庭園。馬車の行き交う大通り。季節ごとに変わる空の色。外の世界を知らない私にとって、それはまるで魔法のように魅力的だった。
エミリアの語る風景や出来事は、どれも新鮮で、夢のようだった。
――ああ。
私も、本当は外に出て遊んでみたい。そんな思いが胸に浮かんだときだった。
じっと私を見つめていたエミリアが、そっと私の手を握った。その瞳には、真剣な光が宿っていた。
何かを祈るようにエミリアが目をつむったとき、私の体に変化が起きた。
ずっと苦しんできたあの重いだるさや割れるような頭痛も、嘘のように、すっと消えたのだ。
体が、軽い。初めて感じる軽さだった。
けれど元気だったはずのエミリアが、突然その場に崩れ落ちた。
「エミリア!」
大人たちが慌てて部屋に駆け込んできた。
私は何が起きたのか分からないまま、ただその様子を見ていることしかできなかった。
エミリアは、そのまま運び出されていった。
それから数日後。
私は、エミリアが私の婚約者になったことを知らされた。
「これで、クロードも良くなる……」
父がぽつりと呟いた言葉。その意味は、よく分からなかったが、これでまたエミリアと会えるのだと思うと、私は嬉しかった。
十歳になった頃。
エミリアの両親が亡くなり、彼女はこの屋敷で暮らすことになった。
その頃から、私は強く思うようになった。
――エミリアを守りたい。
私の体調が悪くなる日もあった。けれど、エミリアがそばにいてくれると、不思議と心が落ち着いた。体調も、少しずつ良くなっていった。
その代わりのようにエミリアの体調は、だんだん悪くなっていった。
「今度は私が守る番だ」
そう心に誓い、私は彼女を励まし続けた。エミリアの体調不良の原因は分からなかった。医者はこう言った。
両親を失い、大好きだった義兄とも離れ離れになった。
その心の傷が、体の不調として現れているのだろう、と。
きっとそうなのだと思った。
そうでなければ、説明がつかなかったから。
父は領地に行くことが多くなり、屋敷にいる時間は減っていった。私とエミリアは、互いに支え合って暮らしていた。
穏やかな日々だった。
◇
私はもう一度、手紙を見つめた。
短い言葉で、たった一行。
――探さないでください。
今になって、じわじわと不安が広がっていく。その文字が、やけに重く感じられた。……エミリアは、いったいどこへ行ってしまったのだろう。




