13.翻訳
「エミリア姉ちゃん。一緒に芋の皮むこうぜ」
マリーさんのお宅にお世話になって、もう一週間が過ぎた。
その間にマリーさんがあちこちに掛け合ってくれて、私が持っていた万年筆が売れた。おかげで、少しだけお金もできた。
「なんだよ、ちっとも上手くならないな。そんなじゃ嫁にいけないぞ。痛てっ……!」
「またあんたは、エミリアに余計なことを言って」
コリー君の頭を、マリーさんが軽くはたく。家族の賑やかなやり取りが、耳に心地よかった。
「そうだぞ。そんなことを言う男は、もてないぞ」
アリーちゃんを抱き上げたお父さんのベンさんがそう言うと、コリー君は、ぶすっと頬を膨らませる。
その様子に、思わず笑みがこぼれた。
闇魔法は、どうやらうまくいったらしい。ベンさんは今、まじめに仕事に取り組んでいる。
以前のような苦悩の影は消え、顔には穏やかな笑顔が戻っていた。
ギャンブルの誘いにも乗らず、あの場所にも近づかない――そんなマリーさんとの約束も、きちんと守っている。
とはいえ、完全に消えたわけではないのかもしれない。
何かのきっかけで、またギャンブルに手を出してしまう可能性もある。クロード様の靄が、一年に一度、復活するように……。
「それにしても、よかったです。他の記憶が消えたわけではないようで」
私がそう言うと、マリーさんが肩をすくめて笑った。
「いいんだよ。もし消えてたとしても。この人、勉強もできないし、人生に関わるような大事な用事もないからさ。ははは」
「……ひでぇな」
ベンさんは苦笑しながら頭をかく。
「まあ、お前たちの誕生日と、結婚記念日をちゃんと覚えていたのはよかったがな」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がふっと温かくなった。
彼はきっと大切な人たちのことだけは、忘れたくなかったのだ。
「な、なんだよベン。泣かせるようなこと言うんじゃないよ」
マリーさんは、少し照れくさそうに顔を背ける。私はその光景を、そっと微笑みながら見つめていた。
◇
「マリーさん。ベンさんも落ち着いたようですので、私、明日旅立ちます」
夕食のあと、意を決してそう告げた。その瞬間、部屋の空気が少しだけ重くなる。
本当は、ずっとここにいたい。けれど、それは叶わない。
「エミリア姉ちゃん、ずっといてもいいのに……」
泣きそうな顔をした子どもたちが、私の袖をぎゅっと掴む。その小さな手の上に、マリーさんがそっと手を重ねた。
「エミリアはね、兄ちゃんに会いに行くんだって。お前たちみたいに、仲のいい兄妹なんだろうよ。明るく見送ってやりな」
優しく言い聞かせながら、マリーさんは夫のベンさんと目を合わせ、静かにうなずき合う。
「エミリア。少ないが、これをもらってくれないか。路銀に使ってほしい」
ベンさんが差し出した袋は、思ったより重かった。中には、決して少なくないお金が入っているようだった。
「そ、そんな……いただけません」
慌てて返そうとする。けれどマリーさんはその手をそっと押さえ、真剣な表情で言った。
「いいから、もらってくれないかい。なに、この金だって、ベンがあのままだったら消えていた金なんだ。 遠慮はいらないよ。エミリアに使ってほしいんだ」
「マリーさん……ベンさん……」
胸がいっぱいになり、涙が溢れそうになる。それでも必死にこらえながら、私はその袋を受け取った。
「エミリアには感謝してもしきれない。またこの町に戻ってきたときには、ぜひ会いに来てくれ。 そのときには、決して元に戻っていない姿を見せると約束する」
ベンさんはそう言って、にかっと笑った。
久しぶりに笑った日々だった。人の温かさに触れた時間でもあった。
そして、自分がどれだけ狭い世界にとらわれていたのかを知ることができた。
◇
泣きじゃくる兄妹と、笑顔のマリーさん夫婦に見送られながら、私は隣国行きの乗合馬車に乗り込んだ。
もらったお金を合わせて数えてみる。
うん……。食事や宿を節約すれば、なんとか領地まで辿り着けそうだ。
馬車の中は静かだった。
車輪のきしむ音と、窓の外を吹き抜ける風の音だけが聞こえる。けれど、その静けさを破るように、隣に座っている商人風の男が、紙を見ながらぶつぶつと呟いている声が耳に入った。
「あー、分からん。品物のことだとは思うんだが……なんて書いてあるんだ? 取り引きは一年後……いや違う。振り込みが一年後? いや、そんなわけないな……ああ、どうしよう」
困り果てた様子で紙を睨みつけている。ふと、その紙に目が向いた。
書かれている文字が視界に入った瞬間、気がつけば、私は口を開いていた。
「契約更新は……一年後、ですね」
突然の声に驚いたのか、頭を抱え込んでいた商人が、ばっと顔を上げる。
「あ、すみません。覗き込んだわけではなくて、その……目に入ってしまって……」
ああ、やってしまったわ……。慌てて謝ると、商人はしばらくぽかんとしたあと、急に身を乗り出した。
「あー、いいんだいいんだ! どうせランシェル語なんて、誰も読めないと思って広げていただけだからな。……いや、待て。それよりも――読めるのかい!?」
驚きと期待が入り混じった声だった。
「ええ……語学は、好きなものですから」
体が弱く、学院に通えなかった頃。本を読むことだけが、私の楽しみだった。
あの固いベッドではろくに眠ることもできなかったし、継母も本には興味がなかったから、伯爵家の蔵書を取り上げられることもなかった。
いつか行ってみたい国。
その土地を旅する自分を想像するのが楽しくて、その国の言葉を覚えるのもまた楽しかった。
ランシェル語も、その一つだ。
「ああ、神はまだ私を見捨てていなかった!」
商人は大げさに天を仰いだあと、ぐっと身を乗り出してきた。
「お嬢さん、お願いだ! この取り引きを失敗するわけにはいかないんだ。だが、不利な契約を結ぶわけにもいかない。礼はする。翻訳してくれないか!」
私は少し考えた。けれど、馬車の中ですることもないし……。
「そうですね。お役に立てるのでしたら、頑張ります」
そう言うと、商人は心底ほっとしたように肩の力を抜いた。馬車が揺れる中、私は商人のホレスさんと一緒に書類を読み進めていった。
馬車酔いをするかと思ったけれど、そんなこともなく気がつけば時間はあっという間に過ぎ、夕方にはホレスさんの商会がある町へと到着していた。




