12.約束
全員の視線が、私に集まる。
急に部屋が静かになり、どっと緊張が押し寄せる。それでも、私は息を一つ飲み込み、なんとか言葉を続けようとした。
「……誰だお前」
先に口を開いたのは、この家の主人であろう男だった。床に手をついたまま顔を上げ、じっとこちらを睨んでいる。
その目には苛立ちがにじみ、表情も険しい。突然現れた見知らぬ娘に口を出されて、面白いはずがない。
心臓が一瞬、どくりと大きく鳴った。
「私の客だよ! ああ、すまないね。変なところを見せちまって」
すぐにマリーさんが間に入った。私をかばうように一歩前に出て、申し訳なさそうに頭をかく。その声には、先ほどまでの優しさがにじんでいて、少しだけ張り詰めていた空気が緩んだ。
そのときだった。
「……なあ、父ちゃんのこと何とかできるのか?」
コリー君が、おそるおそる口を開いた。
部屋の隅から、まっすぐ私を見ている。小さな手をぎゅっと握りしめていた。その瞳には、願いと希望があった。
――父親を、助けたい。
その思いが、はっきりと伝わってくる。
私はその瞳を見つめ返した。そして、ゆっくりと頷く。迷いは、もう消えていた。
「私、魔法が使えるの。何の魔法かは詳しく言えないけど。……マリーさん、その、旦那さんが、勝った時の喜びや興奮を忘れることができれば、恐らくギャンブルから離れられるかもしれません」
私は慎重に言葉を選びながら話し始めた。
この家の人たちは、まだ私のことをほとんど知らない。突然こんな話をしても、信じてもらえるかどうか分からなかった。
ギャンブルへの依存を断ち切ることは、たぶんできる。
「そんなことができるのかい?」
マリーさんの目が大きく見開かれる。驚きと、わずかな期待がその表情に浮かんでいた。
希望と不安が入り混じった視線が、まっすぐ私に向けられる。彼女にとって、この話は救いでもあり、同時に得体の知れないものでもあるのだろう。
「でも……その魔法は、記憶に触れるものなんです」
指先がわずかに震えているのに気づく。それを悟られないよう、ぎゅっと手を握りしめた。
記憶を消す――それが、どういうことなのか。
幼い頃の、楽しかった思い出。
家族と過ごした温かな時間。
笑い声や、優しい言葉や、何気ない日々。
思い出そうとしても、なぜか思い出せない。
ああ……そうなのだわ。私の記憶が薄れてたのは、私が、それを望んで少しずつ消していっていたから。
もう会えない人たちを思い出すたび、胸が締めつけられる。楽しい思い出であるほど、どうしても涙が止まらなくなる。
だから。
その苦しさに耐えられなくて、私は逃げた。思い出してしまう記憶を、ひとつ、またひとつと、魔法で消していったのだ。
記憶が曖昧なのは、時間のせいだと、大切なことを忘れてしまうのは、仕方のないことだと、そう思っていたけれど違った。
小さく苦笑がこぼれる。
馬鹿な私。そのことすら、忘れてしまっていたなんて。
「ええ、ただ一部とはいえ感情や記憶を消すので……その、大事なことを忘れてしまったり、数日寝込んだりする可能性はあります……あ! 日常生活には戻れますし、死ぬわけではありません」
私は慌てて付け加えた。
魔法の危険性をきちんと伝えるべきだと思ったが、言葉にするとやはり怖く聞こえてしまう。
部屋の中に、少しの沈黙が落ちた。
その静けさを破ったのは、マリーさんだった。
「やってくれないかい? 大事なことを忘れてしまったり、数日寝込んだりするくらいいいんだよ。例え、上手くいかなくて、この人が死んだとしても、責めはしないよ。馬鹿は死ななきゃ治らないって言うしね」
「何言ってんだお前!」
旦那さんがすぐに声を荒げた。
「いいから! 死ぬ気でやってみな。上手くいってもいかなくても、あんたを見捨てたりはしないさ」
マリーさんはまっすぐ夫を見据えて言い放つ。声には強い力がこもっていた。
目には涙が浮かんでいる。
夫を救いたい――その思いが、はっきりと伝わってくる。その言葉を聞いたベンさんは、しばらく黙っていたが、やがてゆっくりと頭を下げた。
「……頼む。俺を何とかしてくれ。頼む」
深々と頭を下げる姿には、先ほどまでの荒々しさはもうなかった。
「それでは、寝込んでもいいようにベットに横たわってください」
私がそう言うと、ベンさんは少し顔をしかめた。
「……やっぱり、寝込むのか」
不安そうな声が漏れる。すると、コリー君がすぐに言った。
「なんだよ、父ちゃん男だろ! 頑張れよ!」
「おとこだろ、がんばれよ」
アリーちゃんも、同じように声をかける。その言葉に、ベンさんは思わず小さく笑った。
「はは……すまない。そうだな」
かすかな笑みだったが、さっきまでよりずっと柔らかい表情だった。
家族の言葉が、彼の背中を押しているのだと分かる。
ベンさんはベッドに横になる。私はそのそばに立った。
「では、いきます」
深く息を吸い込む。目を閉じると、さっきの光景が浮かんできた。温かいスープと子供たちの笑い声。そして、マリーさんの優しい声。
見知らぬ私を、当たり前のように家に入れてくれた人たち。
この家族の笑顔を守りたい。
この家族から、苦しみの原因を取り除きたい。
その思いを胸に、魔法を発動する。強く、ただ強く願った。
――どうか、消えて。
ギャンブルの興奮も、喜びも。この家族を壊すものを、すべて。
「うぅぅ……」
ベンさんが苦しそうにうめいた。
「父ちゃん! 大丈夫か」
コリー君が慌てて声を上げる。ベンさんの体が少しだけ揺れ、すぐに力が抜けたように横になったまま静かになる。
私は自分の体にも意識を向けた。
……大丈夫。少しふらつくけど立っていられる。魔法は、きちんと発動したはずだ。
私は祈るような気持ちで、ベンさんの様子を見守った。
やがて、ゆっくりと彼が目を開けた。
「終わりましたが……体調はどうですか?」
私は慎重に尋ねた。ほんのわずかな表情の変化も見逃さないように。ベンさんはしばらく天井を見つめ、それからゆっくりと体を起こす。
「すっきり、したような気がするが……よくわからない」
まだ戸惑っているようだったが、さっきまでの荒れた雰囲気はない。表情もどこか落ち着いている。
「そうですね、しばらく様子を見ましょう」
私は安心させるように微笑んだ。




