10.強く願ったら
雨はやむことなく降り続け、心を打ち続けていた。冷たい雨滴に打たれながら、私は一番やりたいことを考えた。
「……侯爵家に、あの頃に帰りたいわ」
幼い頃。両親と過ごした侯爵家の邸での日々は、私にとって宝物だった。
けれど、その邸はもうない。管理が難しいという理由で、すでに売ってしまっている。
もう、あの家に戻ることはできない。
「……そうだ」
ふと、一つの考えが浮かんだ。
「侯爵家の領地に行こう」
両親との思い出が詰まった土地。決して豊かな場所ではないけれど、野山を駆け回ったあの日々。
幼い頃の私は、いつかあの領地で暮らすことを夢見ていた。今、そこを治めているのは――ヴィルお兄様。
領地にいるヴィルお兄様なら、私の願いを聞き入れてくれるだろうか。
優しくて、美しいヴィルお兄様。思い出の中の兄は、いつだって温かかった。
幼い頃、兄は水魔法で小さな虹を見せてくれた。陽の光を受けて、空中に浮かぶ七色の光。私はそれを見て、何度も歓声を上げたものだ。それから、土魔法で小さな土人形を作ってくれたこともある。
ぎこちなく歩く土人形。
その可愛らしい動きが楽しくて、夢中になって遊んだ。侯爵家の領地は、あまり豊かではない。だからこそ兄は、魔法学院で水魔法と土魔法を極めたと聞いた。
土壌を潤し、土地を豊かにするために。
その腕前は、隣国の魔法省から声がかかるほどだと。
『亡くなった両親とリアの大切な領地だ。私に任せて』
そう書かれた手紙をもらったのは、何年前だっただろう。きっと今も、領地を良くするために努力しているのだろう。お忙しいのだわ。
……でも。ヴィルお兄様がどれほど忙しくても。何年も手紙を書いてこないのは、なぜなのだろう。
私の誕生日も忘れてしまい。
会いに来てくれないほどに、本当に、それほど忙しいのだろうか。
もし、それが忙しさではなく。私のことを忘れてしまったからだったとしたら?
あるいは。侯爵家を継いだ彼が、もう私の機嫌を取る必要はない、と考えているのだとしたら?
私はそっと目を閉じた。クロード様だって、変わってしまったのだもの。遠く離れたヴィルお兄様が、変わってしまっていても、不思議ではないわ。最後にもらったプレゼントのネックレスを、私はぎゅっと握りしめた。
冷たい金属の感触が、指先に伝わる。
『これは、リアを守ってくれるように願いを込めたものだから。ずっと身に付けていてね』
あの時のヴィルお兄様の声が、今でも耳に残っている。だから私は、ずっと身に付けていた。決して、クロード様の継母に奪われてはいけないと。
眠る時でさえ外さずにいた。それだけが私を守ってくれるもののように感じたから。
◇
年に数度しか戻ってこない伯爵様は、私を大切にしてくださっていた。少なくとも、そう見えていた。けれど、遠回しに言い過ぎたのか。それとも、気付いていないふりをしているのか。私の現状は、何一つ改善されていない。
そもそも、伯爵様が私を大切にしてくださるのは。……クロード様のため。ただ、それだけ。私の体にこれほど負担がかかっているのに、魔法を使うことを止めさせることもない。
私が何をしているのか。あの靄のことも。クロード様に伝える気もない。
……どうしてなのかしら。もし伝えてくれていたら。クロード様の気持ちだって、少しは違っていたかもしれないのに。
その時、ふと。胸の奥に、ひとつの考えが浮かんだ。
……ああ。そうだわ。どうして今まで気付かなかったのかしら。伯爵様もまた、私を苦しめている一人に過ぎないのだと。
伯爵様に、私のことを頼まれているはずなのに。ぞんざいに扱う継母。その継母の指示に忠実な使用人たち。クロード様との仲を深めながら、王女たちと共に私を蔑むフルール。
学院でも同じ。
何かと私に絡んでくる王女と公爵令息。あの二人が私に関わってくるのは、クロード様とフルールを応援しているからだけではないだろう。
……そういえば。あの二人は、魔法を使えなかったはず。
闇魔法とはいえ。希少な魔法を使える私が気に入らなかったのかもしれない。他の生徒たちも。王女たちが私を疎んでいることを知っている。
魔法の誤った噂にも流されて。私を遠巻きに見ている。恐怖、侮り、拒絶、蔑視。そんな視線ばかりを向けて。
そして、クロード様は。
……ああ。あの方は、良くも悪くも昔から優しかった。色々な人の想いを推し量り、何も言えない優しいクロード様。私の扱いを知りながら、気遣いの言葉だけをかけてくださる優しいクロード様。フルールと想いを交わしても、それでも私を見捨てず伯爵家に置こうとする優しいクロード様。
私は静かに目を閉じた。……でも、その優しさは。一度だって私を救ってはくれなかった。自分の狭い世界を、私は静かに見渡した。その中にいる人々を、一人ずつ思い浮かべる。
伯爵様。継母。使用人たち。王女。公爵令息。フルール。
そして――クロード様。
胸の奥で、何かが静かに崩れていく。
「……誰も彼も。もう、いらないわ」
私は小さく呟いた。その言葉は、思っていたよりもずっと軽かった。長い間握りしめていたものを、ようやく手放したかのように。
……でも。まだ一人だけ、残っている。
ヴィルお兄様。
もし、ヴィルお兄様が、私を疎んでいたら、記憶の中の優しいヴィルお兄様と、違っていたら、その時、私はきっと、今度こそ、強く願うだろう。
消えてしまいたい、と。
今よりもずっと強く。もっと強く。本当に、その願いが叶うほど強く願えたなら。
私はゆっくりと空を見上げた。黒い雲が、夜空を覆っている。
「……そうね。この世から――この世を消すのも、いいかもしれないわ」
小さく、笑う。その言葉は、雨音の中に溶けていった。




