ガールマン慕情
「わいは手加減せえへんで」
ミキが大川の小高い土手の径をずんずんと歩きながら、川向こうに見える山の連なりに坊主頭を向けて言うのを、六郎はななめうしろを歩きながら見ていた。今朝方まで降っていた大雨が土の径のあちこちにぬかるみや水たまりを残していた。
風のない春先午後の太陽が、ミキの後頭部を照らし、ぼてっとした肉厚な地肌を映し出していた。中学生にしては大きな体に、張りついたようなグレーのTシャツの両脇は、すでに汗の分だけ丸く色を濃くしていた。
(頼りになるような、ならんような・・・)
そう思いながら六郎はふと、横に並んで力なげに歩くラッコを見下ろした。
小学校時代は六郎のほうが少し大きいくらいだったけれど、中学校に上がった頃から身長差が出始めた。小学校卒業時のスナップ写真では、頭を寄せ合って肩を組んでいたが、今では頭一つ分六郎のほうが高くなっていた。
そのラッコが頭二つ分ほど肩を落とし、不安げに地面を見つめてとぼとぼと歩いていた。いつもははっきりしている二重がぼやけてしまうほどまぶたが腫れぼったくなっていた。
「なあラッコぉ」
とミキが歩調を緩めずに振り向いた。
「電話の感じやと、むこうは仲間をつれてきそうやったか?」
「・・・わからん。ただ大川橋の下に来てくれ、て言うただけやから」
ラッコは顔も上げずにか細い声で答えた。
「ふん。偉そうに、橋の下に来いてか。まあ一人でも十人でも、わいはどっちゃでもええけど」
ミキは首をコキコキ鳴らすように頭を振ると、土手から径にぴょんとはみ出た目の前の雑草を、派手な体勢で蹴りあげた。と、蹴った勢いが余って巨体がクルッと回転し、土手の斜面の方に転げ落ちそうになるのを、腕をぐるぐる回してなんとかこらえた。そして何事もなかったように歩き続けた。
「けんかしにいくんちゃうで、ミキ」
六郎はミキの大きな背中に向かって言った。
「そら、わいらはそう思ってても、むこうはそう思ってないかもしれへんやんか。ラッコをズタボロにしたろと、今ごろ橋の下で仲間と一緒に待っとるかもしれへんで」
ズタボロ、と聞いてラッコはピタリと立ちどまった。六郎とミキもとまった。ラッコの顔は青ざめ、足が少し震えている。
「心配せんでも、そんなんならへんて。」
と六郎が力づけるように言うと、ラッコは細くて小さな体に乗った小さな頭をどっちつかずにコクリとさせた。
「相手はなんの用事かは特に言わんかったんやろ?」
「・・・特にはなんも。『沢田あつ子、知っとおよなあ』言うて」
「知っとったらなんや言うんや、あかんのか、関係ないやろがいっ」
と、ミキは誰に向かってでもなく大声で言った。
「だいたい、ラッコは沢田といっしょに歩いてただけやんなあ。同しクラスで、塾が同しで、帰る方向が同しやったら、いっしょに歩くこともあるやないか。なにがあかんの?なあ」
六郎の励ましのような問いかけに、ラッコはわずかに頭を左右に振った。
「その黒井いうやつ、沢田と付きおうてん?」
とミキが聞いた。
「わからん」
「自分が付きおうとる女か、ねろうとる女が、知らん男と仲よう歩いとった、その女はわしの女や、お前なにしてくれとん、ええ度胸やないけ、まあ、そんなとこやろ。なんにしても嫉妬やな。六郎、やっぱ黒井は話だけで済まそうとはしとらんぜ」
「そうやろか?」
「そうや、間違いない。考えてみ、ラッコに話だけ聞きたいんやったら、そん時の電話で済んだはずやんか。それを呼び出しとんのやから、仮に手ェ出してこんとしても、金持ってこいとか脅してくるつもりや」
そう言ってミキは両の拳を握ると、戦うような、ないような構えをして、右腕を振り上げてぐるんと回し、下からすくい上げる動きをした。ブルッと体中の肉が揺れた。
「それなに?」
「ボディブロウや。知らんのけ?」
「ボディブロウて、そんなに右足を後に引くん?」
「そうや。効くんやでえ、これ一発で決まりや」
と得意そうに言うと、ミキはもう一度同じ動作をしてみせた。
どう見ても六郎には、ボーリングかソフトボールの球を投げているようにしか見えなかった。
それはともかく、ミキの言うこともないことはないかあ、と六郎は思った。
少し前に似たような話を高校生の兄の貴志から聞いたことがあった。数人の生徒が一人の同級生から長期に渡って金を脅し取り続け、要求額がエスカレートしたことで事が発覚したというものだった。そうなったいきさつについて貴志は詳しく話さなかったが、もともとの原因は一人の女子高生をめぐることだったらしい。
けれども、それはもっと大人の、高校生同士の話で、兄の貴志も別の高校に通う友人から聞いたということだったので、尚のこと中学生の自分にはよくわからなく、縁のないようなことと思っていた。
今週の月曜日のことだった。六郎は、朝の登校時から、ラッコの様子がいつもと違うことに気づいていた。
六郎とラッコは、小学校の五年生の時から今の中学の二年生になるまで、たまたま同じクラスが続いていて、ミキを交えてずっと仲が良かった。家は離れていたけれど、互いの家を行き来したり、近くの公園や川辺でよく遊んだりもした。ラッコは玉網でカエルを捕まえるのが得意だった。
中学に上がって、試験前になると、体育以外は成績優秀なラッコに六郎は数学などわからないところを教えてもらったりしていた。
『ラッコ』というのは、小学校時代に唐崎広大という名前からつけられた呼び名で、同級生の男女から親しみを込めて呼ばれていた。普段のラッコは口数は少ないが、高くて透きとおるような歌声を持っていて、常に笑顔を絶やさないでいることが皆に親しまれている理由だった。
ラッコは苦手な体育の授業でも一所懸命に細くて小さな体を動かした。大きな目と浅黒い肌とやや横に広がった鼻は、フィリピン人の母親にそっくりだった。透きとおるような声で歌うことができ、厳しい評価をする音楽教師に褒められるほど上手に歌えるのは、『ママに教えてもらったから』と小学生の時、ラッコが言っていた。六郎はとてもびっくりした。母親のことを『ママ』と呼ぶ同級生を初めて見たからだった。
その日、特に話しかけずに六時限目までそれとなく様子をうかがっていて、なにかあったんやな、と六郎は確信を持った。
担任教師も気づいたようで、帰りの会が終わってから、教室の隅のほうでラッコになにか話かけていたが、ラッコは引きつった笑顔で頭を横に振っていた。作り笑顔であるのは明らかだった。
話しかけてみようか、と六郎は迷ったが、ラッコが誰にも話しかけられたくないような素振りに見えたし、家で『ママ』に怒られただけかもしれないし、明日もう一日様子を見てからにしようと話しかけなかった。
次の日、ラッコは昨日よりも沈んで見えた。よっぽど『ママ』にきつく叱られたのだろうか、と六郎は訝った。あの『ママ』が、二日たっても落ち込み続けてしまうほど息子を怒鳴り散らす姿が想像できなかった。自分の母親よりも若く、ラッコと二人で住む団地にいつ遊びに行っても、
「いらっしゃあい」
と、ぱっと明るい笑顔で出迎えてくれ、冷えた麦茶と黒棒やかりんとうの袋をガラステーブルに置く姿しか思い出せなかった。
ややうつむき加減でいるラッコは、廊下側の前から二番目の席に座ったまま、昼までずっとほぼ同じ姿勢でいた。元々自分から進んでしゃべったり騒いだりするほうではないので、近くの席の生徒たちも特に気にかけてはいないようだった。
どんな表情でいるのか、ラッコの正面に回り込めばわかるけれど、六郎はそうすることになんだか気が引けた。
「ラッコのやつ、今日も給食半分残しよったな」
昼休みが終わりかけの頃、教室の陽の当たっている窓辺でぼんやりとラッコを眺めていた六郎のそばにミキが来た。
「半分も?・・・そうかぁ」
やっぱりミキも気づいとったか、と思いミキを見ると、ミキは口をもごもごさせている。
「ミキ、なに食うとる?」
「パンや」
「パンて給食のか?」
「ほかにないやろ」
「あれ?食器、一番に片づけてなかったか?」
「そや、今日も一番やで」
「パンだけ食わへんかったん?」
「食うたよ」
「少し残しとったん?あとで食おう思て?」
「そんなややこしいことせーへんよ。全部食うたがな」
「ほな、いま食うとるのは?」
「ラッコのや」
「なんて?」
「ラッコのやて。いらん言うけん、もろた」
六郎は大柄なミキの丸くて白い顔を見た。頬に押されてか両目とも半円になっている。
なにか言いたげな表情でいる六郎を見て、ミキは慌てて口の中の物を飲み込んでから、
「取ったんちゃうで。ラッコ、なんか昨日っからおとなしくしとるけん、見たら給食もほとんど手ェつけとらんで、『食わんの?』聞いたら『いらん』言うけん、『パンもろうてええか?』聞いて『ええよ』言うからもろうたんじゃ」
と言った。
そういえば、みんなが食器を片づけだして教室がわさわさしていたとき、ラッコの机の前でミキがしゃがんでなにか話していたのを六郎は思いだした。ミキがラッコの様子を気にかけて話しかけたのかと思ったがそれだけではなかったようだ。
「ほいじゃ、そのパンをミキが食うたけん、ラッコの給食が半分になったわけや」
「まぁそうとも言えるかの」
つまりは、ラッコは給食にほとんど手をつけずに残したということだった。
六郎はなんだか釈然としない気持ちで、まだ少し動いているミキの口を見た。たしかに普段からミキはよく食べる。大きな体はその結果であろうし、まだまだ大きくなりそうだ。ただ、ミキもラッコを心配しているのだろうけれど、ミキの場合、心配であることが食欲にまったく作用しないらしい。そのことに六郎はいまひとつ合点がいかなかった。
「あんたたち」
近くで声がして、六郎とミキが振り向くと、千愛が立っていた。
「あんたたち、ラッコが変なん気づいてんやろ?」
六郎とミキは顔を見合わせた。また面倒なのが口を出してきた、と互いに思っていることがわかった。
「なんでか理由は聞いたん?」
千愛はまなじりが上がった黒目を六郎に向けた。
「まだ聞いとらんけど・・・」
「聞くつもりではあるんやね?」
「まあ・・・」
「それやったら早く聞かんとっ」
少し甲高くてよく通る千愛の声に六郎もミキも一瞬で気圧された。教室にいた何人かの生徒が窓辺にいる三人の方を見た。
六郎は千愛が苦手だった。
牧野千愛は六郎と同じ町内に住んでいて、両親が営むうどん屋の次女だった。幼稚園に通う頃から知っていて、一緒に遊んだりすることもあった。当時からこの調子で、言いたいことがあると、顔を突き出すようにして声高にしゃべった。
千愛は幼少期の頃から体を動かすことが好きで、大川の土手を駆け上ったり、自在に手足を伸ばして柿の木をよじ登ったりと、男の子たちに混じって遊ぶような女の子だった。時には先頭に立って、彼らを従えて遊ぶこともあった。
六郎が黙っていると、
「ロクロー、あんたラッコの友だちちゃうん?」
と、千愛は少し足を広げて、ずいっと六郎に半歩近づいた。
(出よった、千愛立ちや)
六郎は自分の体がのけぞりそうになるのを感じた。
〝千愛立ち〟というのは、千愛が部活で入っているバレーボール部で、以前、一年生ながら試合に出場した時の出来事がきっかけで言われだしたことだった。
バレーボールの県大会の準々決勝の試合で、それまで大差をつけられていたが、途中出場したアタッカーの千愛がつぎつぎとスパイクを決めて同点にし、ついには逆転のスパイクを叩きこんだ。盛り上がる試合会場、あちこちで飛び交う耳をつんざくような悲鳴や声援、そんな中、千愛は、ずいっとコートネットにギリギリまで近づいて、肩で息をしながら、どうやと言わんばかりに、強豪で名高い相手チームの選手たちをねめ回した。どよめく観客。唖然とする相手陣営。
千愛のその姿が、結果勝利した試合後に、
「あんときの千愛、仁王さまみたいやったで」
と学校で噂になったことから〝千愛立ち〟が生まれた。
このことがあり、派手な顔立ちもあって、目立つ千愛を気に入らない生徒たちが上級生にもいたけれど、バレー部の先輩たちが気をつけて千愛を陰に陽にガードした。
今年、二年生になってからは、一年生の女子の間で、千愛の信奉者まで出てきて、彼女たちは自らを〝千愛ガール〟と呼んだ。
そして今、千愛は自分の名がついた立ち姿のまま動かない。視線も外さないで背丈が同じくらいの六郎を見ている。部活以外では結わえていない長い黒髪が、整った小さな顔を際立たせていた。
「どうなん?」
「友だちやけど・・・」
「それやったら早う声かけてあげんと。こういう時こそやん。テストんとき教わってるんやろ?」
「ぜ、全部ちゃうで」
「わからんとこ、教わってんやろっ」
「・・・」
「ミキ、あんたもやで」
能面のような顔をして、すーっとその場を離れようとしていたミキの巨体がピタリと立ち止まった。
「わ、わいは勉強教わってへんで」
「そうやね。ミキは頭ええもんな。でも、パンもらっとったやん」
「いらん言うけん」
「今日だけちゃうやん、前もラッコから牛乳もらっとったの見とんよ」
「あれは・・・」
ミキは言葉に詰まった。あのときはもらうのにこれといった正当な理由がなかったのにもらったからだった。ただ単に牛乳がもっと飲みたくて、周りを見回すと、ラッコの牛乳パックの口がまだ開いてないのが見えた。ミキは、ラッコはいつも牛乳を一番最後に飲んでいたという確かな記憶を打ち払いながら、ラッコの机の前にしゃがみ込んで、牛乳飲まんの?飲まんのけ?としきりに聞いた。
始めはきょとんとしていたラッコが、
「飲んでええよ」
と優しく笑って牛乳を渡してくれたのだった。
ミキは、六郎が呆れた顔で自分を見ているのを気づかぬふりをしながら、千愛に対して、そんなことあったやろか?、と記憶をたどるような顔つきをして見せた。
「あんたたち、なにもせんかったら、もう一生口聞かへんからな。ええなっ」
と最終通告のように言って、千愛は自分の席に戻っていった。
棒立ちのまま、千愛が座るまでを見ていた六郎とミキは、
(ぜひ、そうしてくれ)
(仮に生まれ変わってまた出会っても、そうしてくれ)
とそれぞれ思った。
それはともかく、と二人はラッコを見た。
ラッコは昨日よりもさらに小さくなって見えた。
三人が山に向かって川沿いの土手の径を歩き続けていると、前方の、大川が緩く右にカーブした先に橋が見えた。それがラッコが呼び出された橋だった。そのあたりの川幅がやや狭くなっているからか、橋はさほど大きく見えなかった。六郎とミキも何度か通ったことがあったが、車同士がギリギリすれ違えるくらいの道幅で、それが原因なのか、車もあまり通らないような、サビが目立った古びた橋だった。
(いよいよやな)
と、六郎は胸のあたりが重くなるような感じがした。
山の方を向いて大川の左側、街寄りの方の橋の下のところに、土曜日の三時に来るよう、黒井と名乗る男からラッコは電話で言われたという。男の声は大人のそれではなく、無理して凄みをきかせているようで、自分と同じくらいか一つ二つ上くらいに聞こえた、とラッコは言った。二つ上なら高校一年生やな、と六郎は思った。
「わいには高校生相手くらいがちょうどええ」
と、ミキはTシャツの短い袖を肩までまくりながら、
「ええかラッコ、ラッコはなんもせんでええ。わいと六郎でそいつらをノしちゃるけん」
と鼻の穴を拡げて息巻いた。
(なにが、ノしちゃるけん、や。おのれはけんかに勝ったことないやんか。ちゅうか、ド突き合いのけんかなんかしたこともないやん。なんで、けんかのことになると、そんなに自信まんまんになれるんや?)
六郎は呆れた思いでガタイのいいミキを見た。確かに体は大きい。けれども、色が白く、筋肉が張っているわけではなく、見るからにぷよぷよしていた。
幼なじみの六郎が知る限り、ミキは生まれてこのかた、およそ殴り合いのけんかというものを一度たりともしたことがなかった。というより、怒ったらドつく、ドつかれたらドつき返す、という本能のようなものが、元からミキにはないようだった。せいぜい泣いてわめき散らすくらいだった。
ミキは遠藤美樹という名だった。
ミキには女姉妹がいた。十歳離れた、いつも穏やかな双子の姉二人と、赤ちゃんだったミキをお人形遊びをするように世話をしていた四つ上の姉と、幼少の頃から「にいたん、にいたん」とミキにまとわりついていた二つ下の妹。そんな中でミキはすくすくと育った。けれども、育ったのは体だけで、争うという芽が伸びることはなかった。
四つ上の楓という名の姉とは、幼稚園児の頃に時折けんからしいこともしたけれど、たいてい、
「メやでっ」
と楓に言われたミキが、口をいっぱいに開けて大泣きし、最後は楓に母親のように抱きしめられて終わり、というものだった。
にもかかわらず、今度のことに限らず、ミキとは小学生時代からほぼ毎日いっしょにいるが、いざけんかの話になると、相手かまわず、なにで覚えたか、威勢のいいことを言ったり、ゴング前のボクサーのように首や手足をほぐす動作をしてみせるのを、六郎は不思議な気持ちで見ていた。なんせ、けんか百戦錬磨風なのはその場の言動だけで、一戦もしたことがないのだ。だから、あふれ出る自信の根拠がわからなかった。
それとも、実際にけんかが始まったら相手が、
「メやでっ」
と言ってかわいくにらんだあと、
「そんなんしたら、あかんで」
と優しく抱きしめてくれるとでも思っているんやろか、だとしたら、ミキは底抜けのアホや、とも思ったりした。
ただ、これまで実際にけんかが起こったことは一度たりともなかった。そうなりそうな場面になっても運良く、みな、ミキの体の大きさとはったりにひるんだからだった。それがまたミキを増長させた。
(ぼくは知っとる。ミキは戦力にならん。見かけ倒しや。それが通用するんはせいぜい始めの一分くらいや)
六郎は心臓の鼓動が急速に早まるのを感じた。ミキが頼りにならなければ、あとは自分がやるしかないのだ。当のラッコはミキ以上にいつも争いごとから遠いところにいたので、一緒にやろうや、というわけにはいかなかった。
けれども、六郎もけんかはからっきしダメだった。ミキと同じで、けんかをしてだれかを叩いたという経験が一度もなかった。叩かれたこともなかった。けんかと呼べるとしたら、小学五年生のときのドッジボール大会で、試合中に味方なのにもかかわらず、ふざけて六郎の背中にボールをぶつけて笑っていた同級生につかみかかったくらいだった。
六郎はミキと違って、体もさほど大きくなく、根拠のない自信もなく、はったりも持ち合わせていなかった。そしてミキと同じように運が良かったのか、ドッジボール大会の時以外、これまでけんかになる場面に出くわしたことがなかった。
六郎の兄の貴志も、ミキの姉たちと同じく、三つ下の弟をとてもかわいがった。
六郎がまだ小学校に上がる前、共働きの両親が家にいない間、六郎がぐずって半ベソをかいたりすると、貴志はやっていた宿題をやめて、弟の遊び相手をしてなだめた。友だちと遠くまで遊びに出かけない限り、貴志は弟を連れ出して一緒に遊んだ。それは貴志が中学校に入るまで続いた。
これまで兄弟げんからしいことはほとんどなかった。だから、めったに怒ったりすることがない貴志が真顔で、ええか、ロク、と諭すように話し出すとき、六郎は素直に聞けた。そして言われたことは今でも守っていた。
だから、もしこれからけんかになったら、六郎にとってもミキにとっても初げんかになる。
だんだんと山が迫ってきて、橋に近づいてきた。小さく見えていた橋が、改めて見ると、以前通った時の記憶と違って意外に大きかったことが、三人の歩くスピードを心持ちゆるめた。さっきまで意気込んで先頭を歩いていたミキは、だんだんと年寄りの散歩のように、ゆっくりとした足どりになった。
幅が狭くなった分、身近になった大川の流れは下流よりも早く、深く見えた。昨日までの雨が川を濁らせていた。このあたりまで来ると、土手の草は伸びっぱなしで、下流では野球やサッカーができるほど広かった河川敷が、尻つぼみのように狭くなっていて、誰もいなかった。
土手の左側は下流と同じく住宅街で、屋根が一面に見渡せた。ところどころにマンションや団地が建っていた。反対に、橋を渡った向こう側は、家がまばらで、ほとんどが農家のようで、多くの家々を畑が囲んでいた。
「待って」
ラッコの声がして、六郎とミキが振り返ると、五メートルくらい離れたところでラッコが立ち止まっている。
「どしたん?」
六郎が声をかけた。
「・・・ぼく、一人で行ってくる」
六郎とミキは顔を見合わせた。
「一人でって、いけるかぁ?向こうは大人数で待ってるかもしれんのやぞ」
「そうやで。ここまで来てうちらに気ィ遣うことないんやで」
「うん。でも、一人でいってくる」
ラッコはフィリピン人の母親似の大きな目を六郎とミキに向けた。怖くて尻込みしそうになるのを、必死に奮い立たせようとしているような目だった。苦手な体育の授業で時々見せる目だった。
「大勢でぼくを待ってるかもしれんけど、電話の人が一人で待ってるかもしれんし」
「それはさっき、わいと六郎が話してたやろ?相手のやつが話を聞きたいだけなら電話で済んだのにやな、場所と時間を指定して、そこに来い、なんて言うのはおかしいやろって」
「そうかもしれんけど、それは、推測やし・・・」
ラッコは上目遣いで口ごもるように言ってから、下を向いた。
「わいらは別にええで。わいらが行って無駄な血ィが流れんですむんなら、それにこしたこたぁないけん。」
と、いくらかホッとしたような、でもそれを隠すための不服そうな顔をしてミキは言った。
「だから向こうにとっちゃ好都合の話や。ほいでもラッコがどうなるかはわからん。の、六郎?」
六郎は困った。
血がどうたら言うミキの話が大袈裟なのはわかる。それでも可能性がゼロだとは言い切れない。無事ですむかすまないかわからないところに、ラッコがそうしたいからといって、好きにしたらええやんと行かせていいものか。
ミキがまだ自分にむかってなにか言うのを、六郎はうんうんと聞き流しながら、どうしたもんかと考えたけれど、なにも思い浮かばなかった。代わりに千愛の顔が浮かんだ。
もし、ラッコが一人で橋の下に行って、立ち上がれないほどひどい目にあわされたら千愛はなんと言うだろうか。なんのために二人が付いていったんや、と〝千愛立ち〟のまま、烈火のごとく怒るのは間違いないだろう。長い黒髪を逆立てて、ラッコ以上にひどい目にあわされるかもしれない。幼稚園、小学校と、怒った時の千愛が頭から相手に突進していくのを何度も見てきた。相手が年上でも大人でも関係なかった。さすがに大人の男性には通用しなかったけれど、突き飛ばされて泣いていた上級生の男の子もいた。
六郎が考えあぐねていると、
「おぉーい、おぉーい」
と、下流のほうから声がした。
三人が声のするほうを見ると、ミキが、
「お、ゴミャアやないか」
と言った。
ゴミャアと呼ばれた男の子は、遠目でもわかるほど年季の入った自転車のペダルを懸命にこいで、土手の径を走ってきた。自転車はカーシャ、カーシャ、とひとこぎするごとに音を立てている。
三人が見ていると、ゴミャアは手を振った。その手は半透明のビニール袋を握っていた。すると、一瞬片手運転になったことでハンドル操作がゆるくなったためか、前のタイヤが大きめの土の隆起を乗り越えられず、バランスを崩した自転車は土手の斜面をガチャガチャンと横すべりで落ちていった。見ていた三人は、
「あっ」
と同時に声をあげたが、三十メートル以上は離れているのでどうすることもできず、口を開けたまま行く末を見守っていると、 ゴミャアと自転車はあと数十センチで川というところで止まった。
三人が土手の斜面を滑るように降りて駆けよると、自転車のそばで倒れていたゴミャアは、頭をもたげて三人を見、照れくさそうに笑った。
「いけるか、ゴミャア?」
と六郎とラッコがゴミャアが立ち上がるのを手伝って、パンパンと服についた土や草を払った。ミキは自転車を持ちあげてスタンドを立てた。
「ゴミャア、どしたあ?なんしに来たん?」
六郎は背中をはたきながら聞いた。
「これや」
とゴミャアは半透明のビニール袋を突き出した。転がっても離さなかった袋の口は一本で結ばれていた。中になにか入っているようだった。
「なんそれ?」
「せんべ。チーアがロクローたちに持ってってって」
「千愛が?」
千愛のことをいまさっき思い浮かべたばかりだっただけに、六郎はドキリとした。千愛には昨日の放課後、今日のことをあらまし伝えてあった。
「うん。一人一枚ずつ食べやぁって四枚くれた。今こけたせいで、ぜんぶ割れてもうたけど」
と言ってゴミャアは鼻をすすりあげた。
ゴミャア、と呼ばれるこの男の子は五味明弘といって、六郎たちより一つ年下の中学一年生で、同じ町内に住む幼なじみだった。だから中学校で先輩後輩となったいまでも、六郎やミキを、ろっくん、ミッちゃん、ラッコをコウちゃんと昔からの呼び方で呼んでいた。ラッコよりも背が低く、小太りで、いつも髪の毛がボサボサでよく鼻をすすり上げていた。
ゴミャアは一人っ子だったこともあってか、外で遊ぶときは常に誰かを誘い出した。そして最後の一人になるまで帰らなかった。
ゴミャアの特にお気に入りは一つ年上の千愛だった。小学校に上がる前から、チーア、チーアとくっついて回り、千愛も、アキ、こっちおいで、とよくかわいがっていた。それはゴミャアが中学生になったいまも続いていた。だから、その見た目から、からかわれるタイプではあったけれど、それ以上にならなかったのは千愛の存在によるところが大きかった。誰も千愛を敵に回したくなかったのだ。
千愛に頼まれたとはいえ、ゴミャアがいきさつもよくわからないまま、煎餅を持って遠くまで自転車を走らせて六郎たちを追っかけてきたのも、そういう二人の関係性があったからだった。
四人は土手の斜面に座って、破って広げられたビニール袋にのっている煎餅をつまんではガリゴリ、バリバリと音を立てながら頬張った。暮れるにはまだ早い太陽が四人を照らした。
細かく割れた煎餅はすぐに残りカスだけになった。もう誰も手を出さない、と見てとったのか、ミキは煎餅の残りカスを、ビニールの両端を慎重につかんで真ん中に集め、丁寧に折りたたみ、ズボンの後ポケットにしまい込んだ。本人はさりげなくやっているつもりだったが、他の三人は一部始終をぼんやりと見ていた。
三人の視線を感じたミキは、
「こういうところにゴミを捨てたらあかんけんな」
と誰とも視線を合わせずに言ったけれども、変な雰囲気は変わらなかった。するとミキは動揺したように、
「い、いまのせんべ、なんかおかしぃないかっ」
と叫ぶように言った。
「なんもおかしぃことないよ。千愛がお気に入りのコリゴリ屋の醤油のせんべやろ?うまかったし。なぁラッコ?」
「うん、おいしかった。おやつにちょうどよかった」
「そうやんなぁ?ゴミャアが一所懸命届けてくれたんやし。それにミキが一番食うとるやないか」
「そういうことやなくて、わいが言うんは枚数のことや」
「枚数?」
「そお、枚数。ゴミャアがわざわざ持ってきてくれたことはうれしいけど、千愛が、一人一枚ずつで四枚くれたってゴミャアはさっき言うたやんか?ほいでも、ほんまに四枚分あったか?割れとったからわからんかったけど、あの量はどう見ても三枚がええとこや」
近くの家から幼い子どもの甲高い声が聞こえた。
「まぁ言われてみれば、そうやったかもなぁ・・・」
と六郎はゴミャアを見た。
ゴミャアは少し口をとがらせて、
「四枚もろうた。ほんまや」
と言った。
「四枚もろうたのは確かやろう。ゴミャア、ほいでも途中で一枚食うたやろ?」
「食うとらん」
「いんや、食うとる。だから数がばれんように前もってせんべを割っとったんや。こすいやっちゃで。だいたいビニール袋がおかしいやないかい。コリゴリ屋のビニールは昔っから透明や。それがなんでボケた透明のやつに変わってるん?」
「知らん。チーアがくれたまんまや」
「千愛がわざわざ別の袋に入れ替えるわけないやろ。コリゴリ屋はあのおっちゃんの母ちゃん、死んだばあちゃんの時から、せんべ五枚買うたら透明のビニール袋に入れてくれるんや。三枚まではそのまんま手渡しで、四枚になったら広告の紙で包むだけや。ゴミャアやって知っとるやろ」
「・・・」
「そやから、千愛はせんべを五枚買うて、一枚は自分で食うて残りをわいらにくれたんや。ビニール袋を変える必要ないやろ?」
「・・・」
「それに、ななめに滑り落ちたくらいで、あんなに細かくせんべが割れるわけないやろ。どや、ゴミャア、白状せい!」
「ほんまに食うとらんもん、知らん」
「ミキ、そうは言うけど、一枚はゴミャアの分なんやから、食うてもええやんか?」
「一枚はな。その一枚をゴミャアは途中で食うてもうたんやから、残りは食うたらあかんがな。食うてええのは、わいと六郎とラッコだけのはずや」
ゴミャアは口をとがらせたまま黙っている。
その様子を見て六郎は、ミキの言うことはおそらく当たっているな、と思ったけれど、
「まぁ、もうええやんか。せっかくここまでお使いしてくれたんやし、ぼくは今食べた分で十分や」
とゴミャアをかばった。ラッコもうなずいている。
「二人がええ言うんならええけどな」
ミキは三人を見回し、ため息まじりに仕方ないという顔を作りながら、やや興奮してまくし立てたせいで額に吹き出た多量の汗を拭こうと、後ポケットに手を突っ込んで、ハンカチのつもりで取り出したビニールで汗をぬぐった。途端に、ミキの顔は煎餅の残りカスでまみれた。すぐに気づいたミキは、取り繕うすべもなく、ただつっ立っていた。汗が糊になってビニールがミキの顔をへばりつくように覆っている。半円の右目がわずかに見えている。あっけにとられた三人はミキを見つめた。
そのうち、呆然としながらも、ミキは手のひらにも付いた煎餅の残りカスを、パタパタと冴えない音を立てて払った。ビニールはまだミキの顔に張りついたまま動かない。ミキの巨体も動かない。四人の周りは、大川の流れ以外はすべての動きが止まったようだった。遠くでトラックらしきエンジン音がしている。やがて川風に揺れたビニールは、名残惜しそうにゆっくりとミキの顔からはがれていき、ヒラヒラヒラと地面に落ちた。
その場の静けさを打ち破るように、ラッコが大声で笑い転げた。顔をくしゃくしゃにして、腹を抱えて足をバタつかせた。
ラッコの高らかな笑い声は青空に響き渡った。六郎も両足の間に顔を伏せ、耳を真っ赤にしてクックックックッと体を揺らせている。ゴミャアは自分も笑っていいものかどうかわからずに、どっちつかずの表情を浮かべている。
仏頂面のミキは今度はちゃんとハンカチで、汗と煎餅の残りカスを顔から拭い取ると、まだ笑いが収まらないラッコと六郎を尻目に、
「こういうところにゴミを捨てたらあかんけんな」
と先ほどと同じことを独りごちて、地面に落ちたビニールを手に取り、今度は一瞬でクシュッと握り潰して後ポケットにねじ込んだ。
ひとしきり笑ったラッコは、顔中グチャグチャになった涙を手のひらや甲で拭いながら、
「ぼく、行ってくる」
と立ち上がり、誰も止める間もなく、ざざっと土手の斜面を駆け上っった。
「いけるかぁ?」
あわてて立ち上がった六郎が聞くと、ラッコは振り返って手を振り、そのまま橋に向かって行ってしまった。大笑いしたことでなにかが吹っ切れて、覚悟を決めたという感じだった。
「どおする?」
ラッコの背中を見送りながらミキが聞いてきたが、六郎は、
「少し、待ってみよ」
と言うほかなかった。
正直、怖かった。橋の下で誰が待っているのかわからないのだ。しかも一人でいるとは限らない。
二人が黙って歩いて行くラッコを見ていると、後から、
「・・・わい、行ってこようか?」
と、ゴミャアがおずおずと、振り向いた六郎とミキを交互に見ながら言った。
六郎とミキは顔は動かさず、横目で互いを見て、同じ思いであることを確認した。
ミキはひとつ咳払いをすると、
「ま、まぁ、決してわいらの本意ではないけど、ゴミャアがそう言うんなら、それを止める理由はないし、むしろ、いつまでも個人の自由を尊重する世の中であってほしい、という願いからも、ゴミャアの行動を讃えたいと思う。さっきは、せんべ一枚のことで、問い詰めるようなこと言ってすまんかったね」
と、初めは厳かに話しだしたものの、最後は猫なで声になった。
「でも、行って、どうするよ?」
と六郎が心配そうにゴミャアに聞いた。
「ほなけん、自転車を押していってな、向こうから見えるか見えんかいうところで止まって、様子を見て、もし人がようけおって、コウちゃんが叩かれとったりしとるのが見えたら、大声でミッちゃんとろっくんを呼ぶけん」
と言ってゴミャアは鼻をこすった。
最悪の場合、結局は自分たちも行くことになると知って、二人ともため息をつくとともに、がっくりと肩を落とした。けれども、一つとはいえ年下のゴミャアがそこまでやるというのに、自分たちは行かない、とは六郎もミキも言えなかった。
実は、ゴミャアのこの申し出は、ここに来る前に二丁目の児童公園のベンチで千愛から言われていたことだった。
「あの二人は、最後になって怖じ気づくかもしれん。そしたらアキ、なんでもいいけん思いついたことを言って、あんたがラッコから目を離さんようにするんやで」
黒のスエットを履いている千愛は、両膝を抱えながら言った。ピンクの線が入った白のスニーカーはまだ新しそうだった。
「なんでもいいって、なに?」
「なんでもいいは、なんでもいい、や」
「わからん」
「大事なんは、ラッコから目を離したらいかんっていうことや。でも、あの二人がびびって動けんかったら、他にはもうアキしかおらんやろ?ほなけん、あとあと考えれば変なことでも、とにかくなにか理由くっつけて自分が行くって言えば、行かんですむと思った二人は安心する。そういうことや、わかるやろ?」
ゴミャアはうなずいた。
「それで、見ててラッコが危ないと思ったら、ミキとロクローを呼ぶ。もし二人とも固まって動けんようやったら、大声だして人を呼ぶんや。こんなふうに」
と言ってベンチで立ち上がると、千愛は長い黒髪をゆっくりと揺らせて、大きく息を吸い込み、
「だれかっ、だれか助けてえっ!」
と叫んだ。澄んだ、それでいて突き刺すような声が、児童公園の辺り一帯に響き渡った。
一斉にあちらこちらの家の窓が鋭い音を立てて開かれ、なにごとか、とそれぞれの家の住人が窓から顔を覗かせた。中には家から出てきた中年の女性もいた。
「な、こうなるやろ」
と、振り返った千愛はにっこりと微笑んだ。
叫び声が事件でもなんでもなく、公園にいる子どものいたずらみたいだったと知ると、住人たちは不愉快そうに、あるいは驚いた表情を浮かべたまま、それぞれの窓を閉めたり、家の中に戻ったりした。
「アホ!」
と千愛に向かって怒鳴る老人もいた。
千愛はまったく意に介さないように話し続けた。
「それでももし誰も出てこんかったら、ケーサツ!ケーサツや!って大声出すだけでもいいけん」
「そんなん言わなあかんの?」
「言うだけや」
「なんか、いややなあ」
「最悪のときだけや。お願いや、アキ。アキだけが頼りなんよ」
そう言って千愛は顔の前で手を合わせた。
「・・・わかった。やってみるけん」
とゴミャアは気乗りしないように言った。
「悪いなあ、こんなこと頼んで。それとアキ、向こうの連中には絶対見つからんようにな。きっとやで。無茶はせんといてな。もちろん、いまわたしが話したことは、ロクローたちには内緒やで」
千愛は透明なビニール袋をゴミャアに渡しながら、
「三人に追いついたら、みんなで食べて。数が合わんけど」
と言った。袋の中には煎餅が五枚入っていた。
六郎とミキが土手の斜面を登り切り、橋のほうを見ると、すでにラッコの姿は土手から消えていた。
六郎とミキは、土手の径を橋のたもとに向かって自転車を押して歩くゴミャアの背中を、敬意と祈りをこめた目で見ていた。古い自転車は、カシャー、カシャー、と音を出していた。その音に呼応するかのように、一羽のカラスがクアー、クアーと鳴きながら、大川を渡っていった。
敬意と祈り、というのは、体の小さい一つ年下のゴミャアが、自ら危地へ赴くことを自分たちに進言し、まさにいま実行していることに対して敬う思いと、そんな危ないところに自分たちが、どうか行くことなく済むように、という祈りを込めた必死の願いからきたものだった。六郎とミキは敬虔な信徒のように、それぞれの両手を胸の前でギュッと握り合わせていた。
橋まであと十メートルというところで、ゴミャアが立ち止まった。
(見えたんかッ?)
と、見守っていた六郎とミキの心臓も止まりそうだった。
ゴミャアは自転車のハンドルを握ったまま、頭を下げてしゃがむような格好をした。六郎とミキも膝を曲げて体勢を落とした。
しゃがんだままゴミャアは首を伸ばし、橋のたもとの下を伺っている。六郎とミキも首を伸ばしてみたけれど、見えるわけもなかった。
しばらくして、ゴミャアが右腕を勢いよく振り上げて、六郎とミキに見せるように、丸っこい右手をいっぱいに開いた。
「ん?なんなあれ?」
「なんやろな?」
二人とも、なんのことかと判じかねていたが、やがて、
「五人や!五人おるんや!」
と同時に声を出した。
「くっそぉ、五人かぁ。やっぱり大勢で来よって、卑怯なやつらやで」
「許せんな」
そう言いながらも二人の体はじりじりと後ずさりし始めた。
川向こうから軽トラックがやってきた。ボッボッボッボッと橋をゆっくりと渡り、渡りきる手前で一時停止した。運転手がちらっとゴミャアや六郎たちを見たようだったけれど、すぐに右折して土手を降りると市内方面に走り去っていった。
突然、ゴミャアが右手を強く振って、来い来いという手まねきをした。
「は、始まったか」
「み、みたいやな」
「ラッコ、殴られとんやろか?」
「そのために呼び出しとんやろ」
「どないするで?」
「行くしかないよな」
「いますぐ家に帰らないかん用事なかったか?」
「ないから来とるわけやから」
「なんか思い出さんか?宿題残ってなかったか?」
「来る前にラッコに手伝ってもらって終わっとる」
「情けないやっちゃなぁ。宿題くらい自分でやれや」
「ミキも聞いとったやんか」
「わいは少しじゃ」
ゴミャアの手まねきが激しくなった。
「行くか」
「そうやな」
そう言いながらも、二人の体は前には動かず、互いの肘あたりをつかみ、互いに相手を先に行かせようとした。
「行くしかないよな」
「そりゃそうや」
言葉は出てくるけれど、足が出なかった。
ゴミャアが更に激しく手まねきした。
もうあかん、と互いを強くつかみ合っている六郎とミキは同時に住宅街の方を向くと、
「だれかあっ、だれか助けてぇ!」
と必死の形相で絶叫した。
叫び声は大川の流れの音に飲み込まれたのか、あたりはしぃんとしたままだった。
二人は、土手から見渡せるいっぱいの人家から、声を聞いた大人が出てこないかと、ニワトリが餌をついばむように頭を動かして探したけれど、何事かと出てくる人も、窓を開けて顔を覗かせる人もおらず、町は、ただただ静まりかえっていた。
六郎とミキがもう一度助けを呼ぼうと、大きく息を吸い込んだ時、
「ろっくんっ、ミッちゃんっ」
と、いつの間にかそばまで来ていたゴミャアに呼ばれた。
ゴミャアは二人を見上げていた。
六郎とミキはゴミャアを見下ろし、穴があくかと思われるほど眼をいっぱいに開いてゴミャアの顔を見た。
片方の口の端に、さっきの煎餅のカスがついたままのゴミャアの顔からは、緊迫したものが感じられなかった。
訝しい気持と、もう叫ばなくていいのかもという期待が二人に沸き起こった。ふっと視界でなにかが動いたので、ゴミャアから視線を外してその方を見ると、ラッコが両腕を大きく振っているのが見えた。離れていてもラッコが笑顔なのがわかった。
なんだかよくわからんけれど、なんも危ないことは起こらないんや、と二人は確信すると、へなへなと体の力が抜けていき、その場にへたり込んだ。六郎はひざまづき、ミキはドシンと尻餅をついた。
しばらくして、頭のうしろで手を組んで二人をニヤニヤと見下ろしていたゴミャアが、
「あれ・・・」
と、なにかに気がついたように言った。
顔を上げた六郎とミキがゴミャアの視線の先を見ると、ラッコの後にカラフルな服装の女の子たちがぱらぱらと並んでこちらを見ていた。五人いた。
「なんやあれ?」
ミキは尻餅をついた格好で首を伸ばした。
五人の女の子たちは高低太細様々で、各々、手足を露出させていたり、体型がはっきりとわかったりわからなかったりの服装で、髪の毛も長かったり極端に短かったりといろいろな髪型をしていた。
「五人の女やったんか」
と言うとミキは、ふん、と鼻を鳴らした。そして、品定めをするかのように、しばらくじぃっと女の子たちを見たあと、
「行こか」
とゆっくり立ち上がり、ズボンの尻と手のひらをパンパンとやや大きな音を出してはたき、ちょっと肩をいからすようにしてラッコたちの方へ向かってノシノシと歩き出した。
「そやな」
と、六郎とゴミャアも続いた。
陽が西に傾き始めて、歩く三人の影が長くなった。ジャッジャッと砂を噛む六個の靴の音が辺りの空気に響いた。
ラッコたちに近づくにつれ、六郎とミキは、おや、とある違和感を抱き始めた。
笑顔のラッコが白い歯を見せている。ここ四,五日には見られなかったけれど、いつものラッコだからそれはいい。ラッコと五人の女の子。けれども、なにも違和感がない。むしろしっくりした感じがすることに二人は違和感を覚えた。
ラッコの後に居並ぶ五人の女の子はそれぞれ、自分たちの方に歩いてくる六郎とミキを、警戒するような怯えているような顔つきで見ている。
六郎とミキは、五人の顔がはっきりと認識できるまで近づいて、違和感のない理由がわかった。五人とも東南アジア系の顔立ちをしていた。浅黒い肌に特徴的な大きな目。だから、フィリピン人の母親を持つラッコと並んでいても、なんの違和感も抱かせなかったのだ。
ラッコと五人の女の子と対峙するように二人は立ち止まった。少し離れてゴミャアも止まった。
「で、どういうことなん?」
と、やや低めの声でミキはラッコに聞いてはいるけれど、ラッコを見ずに、五人の女の子を右から左に、左から右に、上から下に、下から上に首を振って見た。
五人は巨体のミキを前にして顔をこわばらせていた。
「ぼくたちが思っていたようなことと違うんよ」
と、ラッコは、女の子たちを威嚇するようなミキに、取りなすように言った。
「というと?」
と六郎も聞いた。
「うん。簡単に言うと、彼女たちは南中の子たちで、バンドを組んでいて、ぼくにそのバンドのリードボーカルをやってくれへんか、ってことなんよ」
ラッコは少し照れくさそうに言った。
「リード、なんやて?」
と六郎が聞くと、女の子たちの間でふわっと笑いが起こった。
「うん、リードボーカル」
「それなに?」
「普通のバンドは歌うボーカルは一人やけど、二人で歌うバンドもあって、その場合、はっきりと分ける必要もないんやけど、中心になって歌う人をメインボーカルと呼んで、その補佐みたいな感じで歌う人をリードボーカルって呼ぶんよ」
「ふうん」
「で、彼女たちのバンドで歌を歌って、って誘われたんよ」
「確かにラッコは歌がうまいけんな。あの佐々井が褒めるくらいやけん」
と、六郎は評価の厳しい音楽教師の名前を言った。
「わたしたち、中学に入ってから、けっこう本気でバンドやっとるんやけど」
と、五人の中で中心的な感じの、横や後の髪を短く刈った女の子が話し始めた。彼女はタイと日本のハーフということをあとで知った。
「てことは小学校の時からしよん?」
「そう。初めは有名な曲のコピーをたくさんやった。去年の南地区のお祭りで演奏もしたよ。2曲だけやったけど」
「ごっついなぁ」
「でも、そのうちいろんな曲のコピーにも飽きてきて、自分たちで作るようになったんやけど、なんか物足らんなあってなって、そんでボーカルが二人おったら、変わっててええんちゃうか、て話になって、誰かおらんやろかと探しとったところに、第二西中にうちらと同じハーフの男の子で、ラッコだかラッキョだかいう歌のうまいコがおるって聞いて」
女の子たちはいっせいに笑った。六郎とラッコとゴミャアも笑った。
「問題はその後や」
ずっと黙っていたミキが、笑いもせず、大きめの声で話に割って入ってきた。女の子たちはビクっとした。
「ほなってそやろ?なんでラッコをわざわざこんなとこまで呼び出すん?ここまで一時間近くかかったで。バスも通っとらんし。自分らが会いにくるのがスジってもんやろ?」
「それは、そうなんやけど、うちら誰も西中のあたり知らんくて」
「ほいでも沢田のことは知っとったんやろ?ラッコと同し塾に通っとって、一緒に帰っとるいうコ」
サラという名の髪を短く刈った女の子はうなづいた。
「そやったら、沢田に聞いて来たらええやんか」
「いや、うちらは誰もそのコのこと、直接は知らんのよ」
「どういうこと?」
「黒井いうコから電話があったんちゃうん?」
とサラはラッコに聞いた。ラッコはうなずいた。
「黒井っていうのはニーナの彼氏なんやけど」
とサラは、一番端にいる小柄で髪の長い女の子のほうを見た。ニーナと呼ばれた子は、急に自分に皆の視線が集まると、恥ずかしそうに下を向いた。薄いピンク色のワンピースを着て、白い花の髪飾りを付けている鼻筋の通った美少女だった。
「ニーナの彼氏が南小の時、その沢田いうコと同しクラスやってん。それで、二、三ヶ月くらい前にたまたまそのコがハーフっぽい男の子と歩いてるのを見かけて、で、そのあと南町商店街の本屋でそのコを見かけたとき声をかけた、いうことなんよ」
「その話、沢田さんから聞いたことある」
とラッコが言った。
「前は南町に住んどって、この間、小学校のとき一緒のクラスだったコに会うたって。」
「ほな、そんときにラッコの話が出たっちゅうことやな?」
とミキが聞いた。
「そんときかどうかはわからんけど。何回か、電話でも話したいうことやから」
「ほいで、それを黒井いう彼氏が彼女に話して、彼女がバンドのみんなに話して、みんなが一度ラッコに会うてみたいっちゅうことになったんやな?」
サラはうなずいた。
「ということは、その黒井いう人が初めに沢田を知っとるかどうかをラッコに聞いたんは、電話の相手がラッコかどうかの確認のためだけやったんやな、ミキ?」
と六郎は言った。
「そういうこっちゃ。そやけど、いきなり知らんやつが電話してきてよぉ、ちゃんとした理由も言わずに大川の橋の下に来い、はないやろ?」
とミキは五人の女の子たちを見回した。女の子たちは互いに顔を見合わせ、最後はニーナ一人に注目が集まった。
ミキは話を続けた。
「言われたラッコはびっくりや。なにも思い当たることがないのに呼び出されて、いったいなにされるんやろ?ズタボロにされるんちゃうか、てずっとビクビクしとったわ」
その場がしぃんとした。
「ラッコビクビクびっくりラッコ、や」
さらにしぃんとした。ミキは、自分が引き起こした緊張をやわらげようとちょっとおちゃらけてみたのだけれど逆効果だった。遠くの車のエンジン音や山に向かって飛んでいくカラスの鳴き声がよく聞こえるほどその場を静まりかえらせただけだった。六郎とラッコとゴミャアもポカンとしている。
あったことを打ち消すかのように一つ咳払いをしたミキが、
「あんたらバンドのだれかが電話して、ちゃんと訳を話して、どっか公園ででも話ししましょ、いうんが良かったんちゃうんっ?」
と語気を強めて言うと、女の子たちは下や横を向いた。
「それはそうなんやけど・・・」
サラは眉毛をハの字にさせて、ちらっとニーナを見た。ニーナはサラの視線を感じたようだったが何も言わなかった。
そのとき、後にいたゴミャアがミキのTシャツの裾を引っぱった。ミキは振り返ったけれど、ゴミャアが黙って自分を見上げているだけなので、向き直って話を続けた。
「この一週間ばかり、ラッコがどんな気持やったと思うで?給食は食べられんくて、体重やってようけ減ったんちゃうかあ?前はコロコロしとったのにから、いまはガリガリや。背ェも少し縮んだように見えるゥ。授業には身が入らんけん、テストなんかひどいもんや。センセにもオカンにも叱られてかわいそうやったわ。のぉ、ラッコ?」
と、ラッコはミキに同意を求められたけれど、事実は話の最初のほうだけだったので、賛成も反対もできず、あいまいな顔をした。
「まぁミキ、そうポンポン言うてもよ」
と、六郎が間に入った。
「この子らやって、話がそんなふうになっとるとは思ってなかったやろうし」
「そうやけど」
「ほいでも、ラッコが落ちこんどったんは確かやで」
「そうやったんやな。ほんま、ごめんやで」
とサラがラッコにすまなそうに謝ると、他の女の子たちも口々に詫びた。ニーナは胸の前で手を合わせていた。ラッコは困った笑顔で首と両手を横に振った。
「こういうたらなんやけど、一番悪いのはあんたの彼氏、黒井いう男や」
とミキはニーナを見て言った。
巨体のミキに言われたニーナは、恐縮して、小さな体がよりいっそう小さくなったようだった。
後にいるゴミャアがまたミキの背中の裾を引っぱった。振り返ったミキは、なんや?という顔をしたけれど、またゴミャアは黙って見上げているだけなので、ミキもまた向き直って話を続けた。
「要するに黒井の邪推がそもそもの始まりや」
「ジャスイ?」
と六郎が聞いた。
「そう、邪推。つまりやな、黒井は自分の彼女が、自分以外の男と話したりするんがイヤやったんやな。早い話が嫉妬や」
「ふーん、そんなもんかの」
「間違いないて。ほなけん、訳もなにも言わず橋の下に来いとだけ言うて、ラッコをびびらせておいて、橋の下で合う女の子に変な気ぃ起こすなよ、わしがおるんやで、ということを暗に匂わせたんや。の、そんなとこやろ?」
とミキはニーナに向かって言った。
「そんな感じやったと思う」
とニーナは言った。
「わたしは、メンバーのだれかから連絡する言うたんやけど、相手の番号を沢田に聞くんはわしやから、わしにさせろ、わしが聞かんのやったら番号を知ることはできんしな言うて、勝手に電話してしもうたんよ」
「な、思ったとおりやわ」
とミキは、土手の左下の人家や道路を見下ろして、なにかを探すようにしながら、
「今度はこっちの番や。黒井をここに呼んでくれるか」
と言った。
ざわっとした感じで女の子たちはまた互いの顔を見合った。
「黒井にはラッコに謝ってもらわんと」
「そやけど・・・」
とサラが口ごもるように言うと、
「そんなことせんでもええよぉ」
とラッコが言った。
「そうやでミキ。そんなんしたら、事が大きくなるやん」
と六郎も言った。
「いんや、何事もけじめはつけなあかん。ラッコ、この一週間のことを考えてみ、自分がどんな気持でおったか」
「そうやけど、結局、なにもなかったし・・・」
「今日はな。ほんでも、これからのことはわからんで」
「これから?」
と六郎が聞いた。
「そお、これからや問題は」
とミキは太くて短い腕を組んで続けた。
「ラッコがバンドの練習に来ると、いっつも黒井がおって、じっとラッコを見とんのや」
「ふんふん」
「ラッコはやりにくい。得意の歌声も出てこん。ちょっとでも彼女と話をしようもんなら、こらぁ、おどれ、わしの女をどうしよういうんじゃあ!となるわな確実に」
「考えすぎちゃうかあ?」
「なるんやて。そやから、そうならんためにも、まず始めに黒井にはきちんと謝ってもろうて、ラッコは、自分はそんな気はありません、ただ一時の助っ人として歌わせてもらいます。もちろん先になったらわかりません、バンドの主要メンバーになってしまうかもしれませんけども、あなたの彼女には一切、手を出すようなマネはいたしません、と言うときゃ、黒井やって安心するやろ」
「ぼくは女の子にそんなことせんよ」
「まぁ確かにな、ラッコはそおいうタイプちゃうけんな。ほいでもさっきも言うたように、けじめやけじめ。ほなけん、黒井を呼んで」
と言って、ミキはまた土手の左下を何かを探すように見た。
ミキは本気で言っているのではなかった。彼氏が危ない目にあうかもしれないのに誘い出す彼女はいないだろう、だから、男を呼べと言ってもニーナが黒井をここに呼ぶことはない、と踏んであえて言っていた。女の子たちに自分を強く見せようとするはったりだった。
同時にミキは危ぶんでもいた。そうは思っても、もしかしたらどこかで黒井が潜んでいて、じっとこちらの様子を伺っていて、ふいにヒョイと現れてくるのではないかと。けれども、家と家の間や、電柱やゴミ収集庫の後などに目を配ったが、それらしき人影は見当たらなかった。
「呼ぶんは、ちょっとなあ・・・」
とニーナは、他の女の子たちに助けを求めるような顔をした。
「難しい話ちゃうやん。それがでけへんのやったら、わいらのほうから行ったるでぇ」
と、周囲に誰もいないことを確認したミキが威勢良く言うと、後からシャツを引っぱられた。
またか、とミキは、
「ゴミャア、なんなん、さっきから?」
と言いながら振り返ると、今度はゴミャアはミキを見上げておらず、口を半開きにしてあらぬ方を見ている。その横で六郎も、目をいっぱいに見開いて同じ方を見ている。ミキはゆっくりと首を回し、二人の視線をたどり、その先を見た。
大川に架かった橋の真ん中あたりに、欄干に寄りかかってこちらを見ている男たちがいた。全部で七、八人くらい。全員赤や黒や白を基調にした服を着ている。
ガムをかみながらニヤニヤしているパンチパーマの男、敵意むき出しにしてなにかしゃべっている丸坊主の男、バットを抱えている金髪男、相撲取りのように図体のでかい男、やたらツバを吐いている男、細長い顔に小さなサングラスをかけている男、欄干の柵をガシガシ蹴っている男等々、男たちは風体いでたちこそそれぞれだけれど、一様にミキや六郎たちを見ていた。
そして、男たちから視線を少し下げると、対岸の橋の下が見える。薄暗がりの中、そこにも同じような男たちの集団がたむろしていた。全部で十人くらい。顔ははっきりとわからないけれど、遠目でも、しゃがんでいる男たちの間からタバコの煙が上っているのや、オートバイにまたがってエンジンを空ぶかしさせているのが見えた。彼らも同様にこちら側に顔を向けていた。
三秒。ミキが、二つの集団の存在を認めたことから始まり、目の前の女の子たちは彼ら男たちと知り合いであり、知り合いどころかかなり親しい間柄で、中には将来を誓いあった者同士もいるやしれず、そして、二つの集団のうちのおそらく橋の欄干にいる男たちの中に黒井がいるのだろう、あのニヤニヤしているパンチパーマ男あたりがそうなのではないか、という推測がされるまでにかかった時間。
「ドウスル?」
「ドウスルモコウスルモナイ」
六郎とミキは、直立不動で表情なく、遠くにある山に目の焦点を当てながら、腹話術師のように、顔の筋肉をいっさい動かさずに会話した。顔だけでなく体も、動かしたくても動かせなかった。唇だけがマ行とバ行の音を発するときにわずかに動いた。
「ソウイウテモ、コノママズット、コウシテルワケニモイカンヤロ?」
「ソヤケド、カラダガウゴカン」
「ボクモヤ」
「ナンデヤロ」
「アノヒトタチ、キョウキョウシェイ?」
「ナンテ?」
「クチガマワラン。キョウコウシェ?」
「チュウガクセイヤトオモウ。アンナカニ、クロイモオルハズヤ」
「ホナ、ボクラトイッショヤン。アンナチュウガクシェイオルンヤナ」
「ソヤナ」
カラスの鳴き声が増えて、太陽がそろそろ夕焼けを作り出そうとしていた。
「去ねやあ?」
突然だった。
どこからか地鳴りのごとき野太い大音声が発せられ、あたり一帯に響き渡った。大川の水辺にいた様々な鳥たちが慌てたように羽をバタつかせて一斉に飛び立った。乱れた波紋が水草を忙しく揺らした。
ドスの利いた声の主はニーナだった。ニーナは小さな体を大きく怒らせ、長い黒髪が逆立たんばかりに怒り震えていた。メラメラと燃え立つ二つの美しい瞳は、大川に架かる橋の真ん中に鋭く向けられていた。
ストンと落ちるように、六郎とミキの固まっていた体と口から力が抜けた。そして扇風機が首を回すようにしてニーナに顔を向けた。ラッコとゴミャアも、自分たちの怒った時の母親とは比べものにならないくらいの憤怒の形相で、男たちをにらみつけている小柄な少女をまじまじと見つめた。
十秒ぐらい時が静かに過ぎた。
六郎たち四人が恐る恐る橋の方に目をやると、明らかに男たちがうろたえているのがわかった。
「おどれらっ、あれほどこっち来るな言うたやろ!なんでわしの言うこと聞けんのんじゃこらぁあ?さっさと去ねえ?」
さらに続くニーナの怒声に、男たちは叱られた子どものように、スゴスゴと対岸に向かって歩き出した。
しょんぼりと歩く男たちの後姿からは、先ほどまでのふてぶてしさは消えていた。一度こちらを振り返ったニヤニヤパンチパーマ男は、半ベソをかいているようで、金髪男は抱えていたバットを引きずっていた。向こう岸から聞こえていたオートバイのエンジン音もピタリと止んでいた。怒りが収まらないニーナ以外の女の子たちは平然としていた。
「イヤやったろう?ほんまごめんな」
とサラが苦笑交じりに言った。
「う、うん」
と六郎とミキは口ごもった。特にミキは、この子らにはもうなにも言うたらあかんで、と脳からきつく指令されたのか、思考がまったく働かず、腑抜けた顔つきになっていた。はったりなどとんでもなかった。
「許してやぁ」
と、ようやく元の美少女顔と声に戻ったニーナは、
「気にせんとってな。あの子ら、一人一人はええ子なんやけど、集団になるとあんな風になるんよ」
と申し訳なさそうに顔の前で手を合わせた。
「そうなんや」
と六郎はうわずった声で言ったけれど、まだ怒り顔とドスの効いた声が生々しく思い出されて、まともにニーナの顔を見れなかった。
「で、ラッコ、て呼んでもええんかな、さっそくなんやけど、明日からバンドの練習に参加してくれんやろか?」
とサラがラッコに聞いた。
「うん、ぼくでええんならええよ」
とラッコはいつもの優しいまなざしで女の子たちを見て言った。サラとニーナがホッとしたように息をついた。他の3人の女の子たちも笑顔を見せた。
「それに、さっき見せてくれたこの詩、なんか気に入ったけん」
と、ポケットから四つ折りにたたんだ紙を取り出して広げた。なになにと、六郎、ミキ、ゴミャアが後から覗きこんだ。
A四の長方形の紙には丸っこい文字で詩が書かれてあった。
一輪挿しの花 眺める君が好き
心 どこか置いてきたみたいで
教室の景色に溶け込んでる
さっきまでふさぎこんでた気分
ガラス越し 君と目が合って
雲散霧消 戻ってくるなよ
聞きたいこといっぱいあるようで
きっとなにも話せないやるせない
歯がゆさ 廊下かけだしていく
ガールマン!
ガールマン!
晴れよく似合ってガールマン
OH ガ(ガ)ル(ル)マ(マ)ン
「ガール、マン・・・ガールマンてなに?」
とゴミャアが独り言のように言った。
「さあ、なんやろなあ。ガールは女で、マンは男だから・・・」
とミキは腕組みをして斜め上のほうを見た。
「そうやなあ、わからんなあ」
と六郎も言ったけれど、なぜだかまた千愛の顔が思い浮かんだ。
「それ、どうやろか?うちらみんなで作ってみたんやけど」
とサラが少し不安げな顔でラッコに聞いた。
「ええと思うよ」
とラッコが言うと、女の子たちの間で小さな歓声が起きた。
「ほんまに?それならうれしいわあ」
「どんなメロディなん?」
と言って、ラッコは詩が書かれた紙を四つ折りにたたみ直し、サラに渡そうと腕を伸ばした。サラが受け取ろうとした時、一陣の川風が二人の間をいたずらっ子のように吹き抜けて、四つ折りの紙はぐるんと一回転すると、そのまま空に舞い上がった。
「あ」
とその場の全員が宙を見上げた。
四つ折りの紙は中空を揉まれるように舞ながらだんだんと広がり、開きかけた傘みたいに、折れ目のある紙となって、そのままひらひらと大川の方へ向かった。
全員で紙の行方を目で追っていると、
「あ、あかんっ、あれ、コピーとってないんや!」
と言いながらサラが駆け出した。皆も慌てて続いた。
すぐに、折れ目のついた紙はくるくると舞い降りてきて音もなく川面に落ちた。ああー、と全員からため息が出た。
為す術もなくみんなで見ていると、間もなく、紙は大川の流れに飲まれて姿が見えなくなった。誰もその場を動かなかった。
誰よりも前で見ていたゴミャアは、しゃがみこんで足元の小石や砂を無造作ににつかむと、
「アホォ!」
と言いながら、大川に向かって投げつけた。




