第九章
ある日、多美は度重なる異食とストレスのせいで吐き気と腹痛を覚え、便所に駆け込んだ。家のそれと同じ、汲み取り式だ。狗吼村の便所は全てが汲み取り式で、水洗式は見たこともない。ことが終わって個室の外に出ると、同級生が八人ばかり待ち構えていた。全員不潔な身なりで、男子も女子もいた。
「誰が出ていいって言った?」
「お前はずっと便所に入っていろと、葛田先生が言ってたよ。」
そういって多美を教卓用の物差しや、箒の柄、素手でめちゃくちゃに殴りつけ、再び彼女を個室に押し込めた。そうしているうちに、天井と個室の壁の隙間から、何かが降ってきた。
臭いからして汚物入りの水だった。
「ざまあみろ!」
同級生たちは勝ち誇ったようにそう吐き捨てて、その場を去っていった。多美は同級生がいなくなったのを確認すると、個室を出た。彼らと入れ替わりに、葛田が来るのではないかと聞き耳を立てたが、その気配はなかった。それがなぜか、かえって不気味だった。
多美はそばにあった水道で身をかがめて汚物まみれの身体を洗った。赤さびだらけの水だったので、全然きれいにならなかった。
ずぶぬれになった頭をあげ、鏡をのぞき込むと何かが映った。それが自分の顔だと気づくまで思ったより時間がかかった。新しい家族や担任教師、そして同級生からの度重なる暴行のせいで、顔は原型がわからなくなるまで腫れ上がり、前髪の半分は抜け落ちている。鼻はひしゃげ、唇と歯茎は裂けかかって、前歯が折れてなくなっている。左目すらまともに開けない。体は醜いミミズ腫れだらけ。こんな顔を、星車小学校の同級生や担任教師の小森が見たらなんというだろうか。そもそも多美だとわかるだろうか。衝撃のあまり、放心状態に陥っていると、何かが聞こえた。うめき声のような、低い、くぐもった音だった。
多美の視線は知らないうちにそちらに向けられていた。半開きになった便所の扉の向こうに、下りの階段が見えた。今多美がいるところは一階だから、下に続く階段があるということは、地下室があるのだ。
多美は痛めた足を引きずりながら、何かに吸い寄せられるようにその階段に向かい、降り始めた。暗く、今でも何か異形のものが出現しそうな雰囲気ではあったが、自分と同じ、この村の住民からひどい仕打ちを受け、虐げられているものがいるのではないか、そうだとしたら、この地獄のような現状から救ってくれる何かが見つかるかもしれない。可能性はわずかだが、そういう期待も抱いていた。
十段ほど階段を降りたところだろうか。暗い廊下に出た。それほど長い廊下ではなかったが、突き当りに部屋があった。その部屋には、この村の昼空と同じ、赤い電球が光っていた。すると、またあのうめき声のようなものが聞こえた。今度ははっきりと。低い声だったが、女の声のような気がした。誰か、あの部屋にいるのだろう。多美は廊下を進んだ。
そして、その部屋の前に来ると、窓枠に手をかけて、中をのぞいた――
真っ赤な電球の下、何かがいた。肌色の生き物のようで、一見すると人間のようだった。臀部をこちらに向けてうずくまっていたが、気配に気づくとゆっくりと上体を起こし始めた。丸みを帯びた体に膨らんだ胸。成人の女のようだ。だが、何かがおかしい。それは、肩から上にあった。普通の人間だと、肩から首が伸び、そこに頭があるのだが、肩から上にあるものは二俣に分かれた瘤のようだった。
やがて、その生き物がゆっくりと振り返った。ようやく違和感の正体が分かった。二俣に分かれた瘤のようなものは、一つは人間の頭で、女の顔がついていた。そして、もう一つは――やはり顔だったが、出来損ないの、人間とは思えないほど醜くゆがんだ顔で、それがくぐもった声を出していたのだ。それは、人間の女の顔がついている首の本体の部分から、キノコのように生えていた。
あまりのおぞましさに、悲鳴を上げそうになった。だがそれより早く、髪を鷲掴みにされた。目の前にすさまじい、鬼のような形相をした葛田の顔があった。
「真坂、何やっとるんじゃ、貴様は!」
怒鳴り声と同時に、床に放り投げられた。多美が答える間もなく、胸ぐらをつかまれた。
「貴様、見てはいけないものを見たな。」
「ごめんなさい、わ、私は何も…」
多美がそう答える前に、葛田は彼女の髪を鷲掴みし、引きずっていった。髪が抜けて手が離れると、また掴み直す。階段もそのまま引きずったまま上る。そのおかげで多美の脇腹は何度も階段のとがった角に打ち付けられた。激痛とともに体の中でゴキリと嫌な音がした。何かが体の内部で損傷したことに間違いなかった。
葛田は多美の髪を鷲掴みにしたまま、校舎の外まで引きずっていった。地面に足がすれ、皮がむける激痛が走った。だが、葛田はお構いなくある場所まで来ると、多美の洋服をずたずたに破って剥ぎ取り、力任せに突き落とした。
そこは、ビニールシートがかけられた池だった。どうもプールらしい。やはりここも泥とさびで濁り、じめじめとした藻まで発生していた。
「お前みたいな奴は俺が洗い流してしばいたるわ!どこまで芯も腐ったガキなんだ!」
葛田はそう暴言を吐きながら、下水のような嫌なにおいのする、水面に浮いた多美の頭を押して再び沈めた。何度もそれを繰り返した。
地獄のような拷問の時間が過ぎ、葛田がいなくなった後、多美は汚水プールからはい出した。体中に激痛が走り、動くのがやっとだった。左の胸に鋭い痛みが走り、そちらを見ると何かが胸の皮を破り、白いものが突き出ていた。それは多美自身の肋骨だった。左の脇腹にも異常な痛みがあった。股から何かが流れ出た。赤黒い液体だった。おそらく、腎臓か子宮を損傷したのだろう。
このままここにいては殺される。多美は直感的に思った。この村の者たちの手にかかって息の根を止められるのを待つのか、自ら死を選ぶのか。苦痛をこらえながら、多美は顔をあげた。赤い空に黒々とそびえる山が近くに見えた。今いる狗吼小学校は、村の東端に位置しており、その先にはこの村に来るとき通ってきた、あのトンネルがあるはずである。あそこから抜ければ助かるかもしれない。一刻も早く、村外のまともな病院で治療を受けなければ。救急車を呼びようにも、電話は有線のものが村役場と「病院」と呼ばれる施設に一つずつあるだけだ。そこに行ったら狭い村のことだから、真坂家の人間か学校関係者に見つかり、どんな目にあわされるかわからない。だから自力で歩いて村を出、助けを求めるしかないと考えた。