表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Shoggoth  作者: 小芽我
3/24

第三章

目の前に広がる景色を目にした途端、多美はまたのけぞらんばかりに驚愕した。空が赤い。最初は夕焼けかと思ったがそうではなかった。第一今の時間はまだ夕方ではなく、普通の夕焼けにしても空の一部が赤いだけだ。だがこの村の空は、全天が狂ったように赤かった。まるで血の色のように。そして、その真っ赤な空に浮かんでいるのは、真っ黒な雲だった。形は多美が元いた世界と同じで、筋雲もあれば積雲もあった。だが、色は白ではなく、全て墨のように黒かった。そして太陽はなく、全体的に黒々とした影がこの村を覆っていた。

「君が今まで住んでいた町には太陽とか月とか、星というものあっただろう。だがこの村にはそんなものはない。あるのはこの赤い空と黒い雲だけなんだ。昼はこんな感じだけど、夜は真っ暗になる。」

 淡々と話す真坂の声が響く。多美は縮こまって、彼の話をものも言わずに聞いていた。ワゴン車はトンネルから続いている坂道を下り終えると、トタン小屋がごみごみと立ち並ぶバラック住宅街に入っていった。この村の道もほとんど舗装されていない、土や石がむき出しになった悪路だった。

 そのバラック住宅街は、ほとんどが一階か二階建てで、壁は薄汚れているものばかりだった。中にはカビが生えているものもあった。黄ばんだ洗濯物が干されている家もある。それらの不潔さは赤い空の光に反射し、より一層不気味に浮き上がらせていた。太陽がなく昼でも薄暗いので、昼間から電灯をつけている家があったが、どれも古いものを使用しているらしく、チカチカと不規則に点滅している。

 その時、ちらっと多美の目に奇妙なものが飛び込んできた。ある家の前にワイヤーが張っており、そこに何かがつるされていた。最初は豚か鶏かと思ったが、どうも違った。

――それは腹を切り開かれ、内臓を抜かれた猫だった。ついさっきまで生きていたとみられるものもいて、体が小刻みに痙攣していた。見てはいけないものを見てしまった気がして、多美は吐き気を覚えた。

「何をしている、着いたぞ。」

 真坂が、口を覆うとした多美の手を無理やり引きはがしながら言った。

 車は、やはり一つの薄汚れたトタン小屋の前で止まっていた。小屋は多美が元住んでいた家の半分にも満たない大きさだ。真坂は運転席から降り、多美のいる助手席に回るとそのドアを開けた。ムウっとする、肉の腐ったような臭いが入り込んできた。その腐臭にためらっていると、真坂の手に無理やり腕をつかまれて、車の外に引きずり出された。

 この村の空気は常に生ごみのような腐ったにおいがする。多美は吐き気をこらえながら直感的にそう思った。

「けふ子、数多(かずた)、今帰ったぞ。」

 真坂は多美の手をつかんだまま、トタン小屋の、半分ペンキがはげ落ちているスライド式の扉を開けると(建付けが悪くなっており、開ける時にガタガタと大きな音を立てた)、中に呼び掛けた。この家は手前の部屋が土間になっていた。左の方にさびた水道と流し、薄汚れた食器とプロパンガスのコンロがあり、台所とみえた。

「なんだい。」

 そう言って奥の部屋から面倒くさそうに出てきた女がいた。髪は三日間ぐらい洗わず、梳いていないかのようにぼさぼさで、ほこりにまみれた灰色のトレーナーとスカートをはいている。彼女はかかとがつぶれた薄汚い、ところどころ綻びた靴を履いて土間をずかずかと歩き、多美に歩み寄るとその顎の下に手をやり、

「ふん、このアマガキか。」

 とつっけんどんに言った。口はかなり悪いようだ。

「家族がみんな事故で死んで、生き残ったんだ。ここで引き取ることになった。」

 真坂が説明すると、女はふん、と鼻を鳴らし、

「どうでもいいが、よそのガキにまで食わせるっていうのはあたしはごめんだね。」

 と多美の額をいきなり指ではじいた。爪の痛みに多美が思わず額を抑えると、真坂はまあまあとばかり女の前に立ち、

「俺に免じて勘弁してやってくれや。ここに住ませるからにはただとは言わない。それなりに家のことはやってもらうからな。」

 と多美に威圧的な嘲笑を浮かべて言った。

「まあ、あんたが言うなら仕方ない。あたしは一切責任負わないよ。」

 女はぶっきらぼうに言って背を向けて、靴を脱ぐとまた奥の部屋へと入っていった。

「あれが俺の妻、けふ子だ。」

 と、真坂は多美に女を紹介した。そして、土間から靴を脱いで上がれ、と命じた。だが、いきなり見知らぬ女に暴言を吐かれ、さらに額を指ではじかれた衝撃と恐怖で、多美の足はすくんだままだった。

「何をしている。」

 真坂は再び苛立ったような調子で、今度は多美の腕を脱臼するかと思うぐらい強く引っ張った。そして、靴を無理やりはぎとるように脱がせると、古びた木でできている床の上に上がらせた。やめてほしいのに声が出なかった。

「今度は俺の息子を紹介する。ちゃんと挨拶しろよ。」

 真坂はそう言って、多美の腕を強くつかんだまま、右の部屋の、破れた障子戸を開けた。

「数多、お前の新しい妹だ。」

 部屋は三畳と半分ぐらいの畳の部屋で、奥で一人の、黄ばんだポロシャツを着た少年が背を向け、二十世紀に流行ったと思われる携帯の電池式のゲーム機で遊んでいた。最初は真坂に呼ばれても返事はしなかったが、父親に二、三度名前を呼ばれると勢いよく振り返ってわめきだした。

「なんだよ、もう!死んじまった(ゲームオーバーになった)じゃないか!」

わめき散らしながら少年が立ちあがった途端、多美と目が合った。次の瞬間、多美は髪の毛を引っ張られ、顔面を殴打され、床に倒れていた。

「お前のせいだぞ、お前のせいでゲームで死んだ。どうしてくれるんだ!」

 多美は鼻血を出し、驚いて少年の顔を見た。そして、助けを求めるように父親の真坂の顔を見た。当然自分の息子が初めて訪れる客にこういう対応をしたらしかりつけるだろうと思った。だが、

「もうすぐ夕飯だ、手を洗ってきなさい。」

 と言っただけだった。次に真坂は倒れた多美を軽く蹴ると、

「立ち上がって鼻血を拭いて自己紹介をしなさい。」

 とぶっきらぼうに言った。多美はティッシュを取り出して鼻血を拭くと、

「松﨑…多美です。」とそれだけ言った。

 途端に後頭部に再び衝撃を受けた。真坂が多美の頭を平手で打ったのだ。

「違うだろう!お前はもうここの家の子になったんだ。苗字は真坂だ。やり直せ。」

 真坂が怒気をはらんだ声で威圧的に言った。

「真坂…多美…です。」

 多美は痛みと恐怖と悲しみで、泣きそうになりながらようやく言った。

「よし。」真坂が言うと、今度は息子の数多にむこうずねを蹴られた。

「ウジウジした(つら)すんなよ、気持ち(わり)い!」

 数多は吐き捨てると、部屋から出て、水道のある土間の方に降りて行った。その行為を、やはり真坂は一切咎めることなく、脛の痛みにうずくまっている多美をひったたせ、

「何をしている、早く夕飯の宅を手伝え。けふ子がおかってにいるから。」

 と言った。

 外には闇が垂れ込め始めていた。空を見ると、真っ赤な血の色のようだった空がどす黒く染まり始めている。やがて赤い色が消えて真っ黒になるのだろう。美しい夕焼けもなければ夕日もない、ただ赤黒い空の狗吼村の夕方だった。

「手伝いに…来ました。」

 チカチカする電灯の下の土間の調理場で、先に調理台の前に立っていたけふ子に多美はおどおどと言った。けふ子は邪険そうな顔で多美を一瞥すると、

「手を洗いな。」

 とつっけんどんに言った。多美が流しの前に来た。流しの水道は、一昔前に消滅したと思われるハンドル式で、センサーによる自動水栓で暮らしてきた多美にとっては見慣れないものだった。それでもとりあえず、そのハンドル式の蛇口をひねろうとした。ところが、固まっているのか、いくら力を入れてひねっても蛇口は回ろうとしなかった。

「何やってんだい!」

 けふ子にどやされ、耳のあたりを平手で打たれた。けふ子は多美を乱暴に押しのけると、ペンチのようなもので、固まった蛇口を回した。ブシュブシュっと音を立てながら、赤さびのような、茶色いものが混じった水が出てきた。この村の人々は、毎日こういう水を飲み、それを料理に使うのだろうか…?驚きと猜疑心のあまり、ためらっていると、

「何ぼさっとしてんだ、さっさと洗ってこっちに来な。」

 けふ子に耳を引っ張られた。

「す、すみません…」

 ようやくそれだけ言って、多美は赤茶けた、錆と泥のにおいがする水で手を洗った。

 多美が手を洗い終わると、

「これで拭きな」

 という声とともに、黄ばんだ布切れが顔面を直撃した。

 汚れた雑巾のような、嫌なにおいがするその布で、多美は仕方なく手を拭いた。逆らえば、どんな目にあわされるかわからなかったからだ。

「次はそいつの腹の中から、中身を取り出してこの鍋にあけな。」

 多美はけふ子が指をさした方に視線を移した――腹を切り裂かれ、胃袋がむき出しになった猫の死体が調理台の上に乗っていた。ここに来るときに、真坂の車の中から見たものが今、目の前にある。さすがに気持ち悪くなり、多美は苦痛の顔をけふ子に向けた。

「なんだい、その顔は。」

 けふ子が近づいてきて、錆びた鉄製のお玉で多美の額を殴った。痛みと衝撃に多美は額を抑え、よろけた。

「早くやりな。」

 やらなければ、また殴られる。そう思った多美は悪臭と吐き気をこらえながら、猫の死体に手をかけた。魚の腹なら、母の料理作りを手伝った時に何回か捌き、中身を取り出したことがある。だが猫は初めてだ。というか、普通はやらない。どうすればよいかわからなかったが、けふ子に尋ねるのが怖かったので、とりあえず胃の内容物が床に落ちないように、鍋を調理台の下にもってきて、その胃袋に切り目を入れた――

「違う、バカ!」

 再びけふ子の怒声が飛び、髪の毛をわしづかみにされた。あまりの痛みに多美もきゃあと声を上げた。その叫び声がひ弱ととらえられたのか、けふ子の害意をさらに増幅させた。

「お前のようなバカは火であぶって殺菌してやるよ!」

 けふ子は罵声を上げながら、多美の髪をわしづかみしたまま、発火したガスコンロの方に引きずっていった。

「ごめんなさい、やめてください!」

 多美は必死に叫んでいたが、けふ子は容赦なく多美の頭の左上の部分をコンロの火にあてた――髪の毛が焦げるにおいが充満した。


 


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ