第二十三章
「お目覚めですか。」
男の声に、零子は我に返った。車の後部座席に横向きに横たえられていた。運転席に一人の男が座っていた。運転席越しに見える頭と、バックミラーに映ったその顔を見て、白髪も交じって少ししわが増えているが、会ったことのある人物だということが一瞬にしてわかった。
「真坂さん…」
「そうですよ、覚えていてくれたんですね。あなたは多美さんの叔母様でしょう?」
真坂は十五年前に星車町に来ていた時と同じく、挑発するような調子で言った。
「はい、姪はどこに?」
零子は語気を強め、問い詰めるように訊ねた。
「心配なさらないで。すぐに会えますよ。ここはもう狗吼村です。」
真坂は不気味なぐらい優しく答えた。外の景色を見た途端、零子は違和感を覚えた。それは空だった。
時刻からして明け方だったが、月も星も一つなく、どす黒さを帯びた赤褐色をしていた。朝焼けかと思ったが、空全体が血のような赤色に変わり始めていた。そして、朝なら当然見られるであろう日の出がなかった。
「多美さんですが、今日は帰ってきているはずです。」
真坂は相変わらず意味ありげな笑みを浮かべている。帰ってきている?それはどういう意味だろう。外界へのトンネルが開かない以上、狗吼村からは出ていないはずだ。この男と離れてこの狭い村の中に暮らしているというのか。それも十分あり得た。多美ももう二十五歳になる。一人前の大人だ。
「さあこちらですよ、車から出たらすぐに会えます。」
真坂はそう言って、後部座席の扉を開けた。大人になった姪を想像しながら、零子は車を降りたが、なぜか胸騒ぎがした。真坂は多美がまだ生きていることをほのめかす供述をしているが、本当に無事なのだろうか。たとえ命が無事でも、もしかすると、人間ではない別のものに変えられてしまっているかもしれないという、不安が心のどこかにあった。
車を降りた途端、植物と肉の腐ったような臭いが鼻を突き、思わずハンカチで鼻と口を覆った。
「外から来た方はこの村の臭いを最初は不快に感じます。でも、そのうち慣れますので。」
淡々と語る真坂の声が響く。赤黒かった空は、真っ赤になっていた。太陽はない。あちこちに墨のような真っ黒な雲が浮かんでいた。この世界の空は赤く、雲は黒いようだ。はるか遠くに黒々とした山が見える。足元の植物は苔かカビのようにべとべとしており、これも独特な異臭を放っていた。恐ろしく異様な、気味の悪い光景に零子は身震いせずにはおられなかった。




