第十九章
北福登市郊外の小さなビルの一階に、その事務所はあった。地味で簡素な白い看板には「野天探偵事務所」という大きな文字がゴシック体で書かれている。その事務所の小さな部屋にあるテーブルの前に、一人の女性が腰かけていた。目の前に、茶が入った湯呑が置かれていたが、彼女はそれに一切手を付けておらず、ある人物の登場を今か今かと待っていた。
やがて、西側のドアが開き、事務所の従業員とみられる女性が現れた。動作がぎこちなく、視線もほとんど固定されたまま、表情に乏しく、人間としては不自然な印象だ。
「あめかい様、おまたせしました。のてん先生が、おみえになりました。」
従業員の女性は機械音のような声を出した。どうも彼女はアンドロイドらしい。二十二世紀を迎えた今、アンドロイドのスタッフはこういった小さな事務所でも普通に雇うようになっている。
飴海零子は、アンドロイドの女性に続いて入ってきた、初老の男性に頭を下げた。
「しばらくぶりです、先生。」
恭しく挨拶をする零子に、野天というその男性は、再び腰掛けるように椅子を指し示した。
「お元気にされておりましたか?」
野天は零子に尋ねた。
「はい、先生もお変わりなく。」
零子は再び頭を下げて挨拶をした。
姉夫婦と姪の一人が雪崩に巻き込まれて命を落としてから十五年の歳月が経過していた。あの後、たった一人生き残った上の姪の多美のところに、真坂と名乗る謎の男が現れたのだ。彼が多美を狗吼村というところに連れ去った後、あの時真坂に盾ついてでも、引き留めるべきだったと後悔していた。多美を引き取る前に、真坂は言ったのだ。「あなたたちは幼い子供の面倒を二人も見なくてはいけない。一人増えたらとてもじゃないが手に負えないから私に任せなさい」と。事実、彼女と夫の勇実は三歳の息子と赤子だった娘の世話に追われていた。仮に多美を引き取ったところで、幼子二人の育児に追われ、姪の世話はおろそかになることが火を見るより明らかだった。だが、それでも得体のしれない男に姪を託すことよりかは良かったはずだった。
事実、多美はあの男に引き取られることを全く喜ばしく思っていなかった。むしろ、自分たちに助けを求めていた。それなのに、自分たちはあの男の口車に乗せられ、姪を引き渡してしまったのだ。本当に愚かな行為だったと自覚し始めたのだ。
下の子供が幼稚園に通い始めると、零子は夫の勇実に北福登郡の狗吼村に自ら赴くことを持ちかけた。勇実も多美を救いたい気持ちはあったが、星車町より千五百キロも離れた、ましてや聞いたこともない村に妻を行かせることは反対した。零子は夫の反応はごく当然だと思ったが、それでもあきらめきれなかった。育児の合間にネットなどで狗吼村を調べたが、当然地図には載っておらず、情報もほとんどといっても良いほど見つからなかった。ようやくとあるサイトの掲示板で、北福登市から行ける村だが、異世界にあり、行ったら二度と元の世界に帰れない村だと都市伝説風に書かれているのを見つけた。だが、それでは信ぴょう性があまりにも低かった。
次に零子は真坂から渡された名刺を頼りに、その住所をネット検索した。VRゴーグルを着用してバーチャルマップの中に歩み入った。そこに見えたのは炭鉱から廃棄された岩や土でできたような、大きな硬山らしきものだった。バーチャルマップの中の、硬山周辺をしばらく歩いてみた。硬山の東側に奇妙な窪みと突起がある。周囲は更地で村どころか家らしきものもない。人も住んでいないようだった。しかもそこの地名は「北福登郡黄倉字」で「狗吼村」ではなかった。
やはり狗吼村など存在しないのか…失意のままあきらめかけた時、
「どうしました?」
と背後から声をかけられ、零子は思わず振り返った。バーチャルマップの中で声をかけられるのは珍しい。振り返ると、初老の男のホログラムが立っていた。どうも彼もVRゴーグルをかけてバーチャルマップにログインしているらしかった。アバターも使わず素顔で。
「あなたは?」と尋ねようとしたところ、今度は現実世界で背後から誰かに抱き着かれ、強制ログアウトされてしまった。
「何?」VRゴーグルを外し、振り返ると小学生になったばかりの息子の健太がいた。
「お母さん、お腹すいたよ。何遊んでるの?」
「あ、ああ、ごめんね。」
零子は我に返り、答えたものの半ば上の空だった。健太は、そんな母親にも屈託のない微笑みを浮かべ、
「今日はね、お父さんも手伝ってくれるって、夕飯づくり。あと、美波の話も聞いてあげてよ。幼稚園で七夕飾り作ったんだって。」
「あらまあ、そうなの。」
健太に言われ、零子は結局自分の子供が最優先なのだと改めて気づいた。姪である多美のことは二の次になっている。それが申し訳ないと感じていた。
「じゃあ先に行ってるね。」
そういって階下に降りていく息子の後を追おうとのろのろと立ち上がりかけたその時、さっき、バーチャルマップにログインしたパソコンの画面を見ると、メールが一通届いていた。送り主は「野天澄夫」という者だった。それは紛れもなく、さっきバーチャルマップ内で零子に声をかけた人物だった。
「お母さん、早く!」
階下から健太のせかす声が聞こえる。それを聞いて零子は「ごめんね、今行く。」と答え、野天のメールは後から見ることにした。