第十五章
いつも通り、土間での食卓を囲んだ真坂家の人間たちは多美がいないことを問題提起していた。
「あのメスガキはどこに行った?どこをほっつき歩いている?」
けふ子がいらいらしながら言った。
「数多、あんたなんか知っている?」
聞かれた数多は、母親の顔を見ずに、ネズミのミンチ肉をつまみながら、「知らねえ、俺。」と答えるばかりだった。
「それは困るな。いなくなっては色々と面倒だ。」
真坂が箸を置いて立ち上がった。
「俺が探してこよう。」
外はもう暗いので、懐中電灯を手に取り、玄関の開き戸を開けようとした途端、そこに激しく何かがぶつかる音が聞こえた。扉越しにその影を見ると、人の手のようだった。血にまみれており、その手が開き戸に触るとくっきりと赤い跡がついた。
「どうした?」
真坂がやっとのことでガタガタいう開き戸を開けると、一人の中年の男が血だらけで倒れていた。左足のひざから下が、何かに食いちぎられたようになくなっていた。
「これは一丁目の川屋さんじゃないですか。どうなされました?」
真坂がしゃがんで訪ねると、川屋という男は顔をあげ、苦し気に答えた。
「く、来る…。」
「何が来るっていうんだい?」
川屋の凄惨な姿を見て、けふ子が顔をゆがませて聞いた。
「ば、化け物…家内も食われた。」
川屋は左足を失った激痛のあまり、声を絞り出すように話す。
「化け物?公園の砂場のオオアリジゴクが出てきたってことですか?あいつは砂の中でしか生きられないはずですよ。」
こわばった声で尋ねる真坂に、川屋は首を振り、「違う。」と答えた。
「じゃあ、なんだっていうんだい?」
けふ子が尋ねたが、川屋は何か言おうと口を動かしたが、出血があまりにもひどかったのか、そのまま意識を失い、頭をがくりと落として動かなくなった。
真坂は川屋を助け起こそうとしたが、やがてある気配に気づいて顔をあげた。ズルッ、ズルッ、引きずる音が聞こえる。バラック街の狭い通りの向こうから、何かが近づいてくる。テケリリ、テケリとくぐもった声のような異音も聞こえる。その音はどんどん大きくなっていった。
「ま、まさかあいつが?」
数多が恐怖に顔をゆがませて震える声で言った。
「あいつってなんだい?何か知っているのかい、数多?」
けふ子が問い詰めるように尋ねた。数多が答える前に、彼女は唐突に口をつぐんだ。音とともに近づいてくる、肉の腐ったような異臭――それは、朝に見た、腐れ肉の塊と化した多美と全く同じ臭いだった。しばらくして、それが姿を現した。夜闇の中、バラック街のチカチカする電灯に照らし出されたそれは、元の愛らしい人間の少女とは似ても似つかないほど、恐ろしく怪奇的で、目をそむけたくなるものだった。無数の目と口、そしてうねり狂うおぞましい触手を持つ、どす黒い腐肉の塊というべきか。その大きさも、少女の身体の三倍近くほどに膨れ上がっていた。その本体にも、これまで捕食してきた人間の 髪の毛や耳、肉片などがべったりついている。
それは這うような格好で、腐肉の欠片や人体の残骸を道路にまき散らし、真坂の家の前まで近づいてきた。そして、真坂家の人間の存在を確認すると、一瞬その動きを止めた。
「多美、なのか?」
真坂が唾を飲み込み、そう尋ねるや否や、その肉塊の怪物は数多に襲い掛かった。抵抗する間もなく、数多の首は触手でねじ切られ、川屋の身体に覆いかぶさるように転がった。
「この化け物め!」
けふ子がヒステリックに叫び、包丁を振り上げて突進していった。しかし、怪物は左の太い触手で包丁を叩き落した。けふ子がそれを拾おうとする前に、右の五本の細い触手と体の前部に生えている襞付きの紫色の触手が彼女を締めあげると、その体をねじり始めた。ギリギリ、ブチブチとけふ子の身体の組織が壊れていく嫌な音がする。
「グ…グ…グ…グワガアアアアアアッ!」
断末魔の悲鳴とともに、けふ子の胴体がついに限界を迎え、上半身と下半身に分断された。上半身の裂け目から大量の血とともに、腸管がぬらぬらと飛び出した。
次に、怪物は主人の真坂も殺戮の対象とした。だが、真坂は自分をとらえにかかった触手をかろうじてかわすと、奥の部屋に逃げ込み、棚にある「硫酸」というラベルが貼られてあるガラス瓶を手に取った。怪物が障子の戸を壊し、部屋の中に入って来るや否や、真坂の片足を触手でつかんだ。真坂の身体が宙づりになった途端、彼の手の中にあった瓶がさかさまになり、硫酸が一気にあふれ出た。
「ギィエエエエエエエエエエッ!」
身の毛もよだつ悲鳴とともに煙が上がり、怪物の表皮の組織が激しく崩壊した。そこは、まだ多美の右目が残っていた部分だ。真坂の足をつかんでいた触手が力なく床に落ちる。落下の衝撃を受け身で耐えた真坂は、まだ煙を立てながら、動かなくなった怪物を見下ろした。
「俺が目を離したすきにいい気になりおって…」
激しい死闘で喘ぎながらそう呟くと、彼は奥の物置から漁業用ともいえるほどの、大きな網を持ってきた。