第十四章
午後になって数多が学校から帰ってきた。
「おとん、おかん。」
土間から中に向かって呼びかけたが、父も母も姿を現さなかった。
「なんだよ、いねえのかよ。」
ぶつぶつ文句を言いながら、靴を脱ぎ、彼は多美と共有している部屋に入った。朝見た時より、さらに異形化が進んだ多美を目にすると、憎悪の表情を見せたが、まだ人間の部分が残っている彼女の右頭の髪をつかみ、無理やり引き立たせた。
「来い。」
数多は吐き気と恐怖をこらえながら、多美を引きずって土間に降りると、そのまま玄関から出ていった。引きずった跡から、悪臭のするゲル状の腐肉のようなものが剥がれ落ちていった。
数多が多美を引きずってきたのは公園だった。学校の北西にあり、広さは四百五十平米ほどで、狗吼一丁目公園と呼ばれていた。ブランコと滑り台と砂場しかない狭い公園だったが、ブランコは鎖が切れて板が外れ、到底乗れない状態だった。滑り台は錆びた鉄がむき出しになっており、長い間メインテナンスを放置していたようだった。
公園の北の方に、黒々とした砂場があった。ここが目的地のようだ。数多はもはや人間の原形をとどめない多美をそこまで連れて行った。そして、近くにあった石で多美の頭を殴った。ドロリ、と赤色に緑色が混じった血が流れ落ちた。
「キィアアアアアッ!」
多美の左目の部分にできた縦の口が金切り声をあげた。鋭い叫びに、数多は一瞬ひるんだが、憎悪感情に任せて多美を砂場に突き落とした。
砂場は流砂のように底なしになっているようで、多美の異形化した体は次第に砂の中に飲み込まれていった。その途端、巨大な昆虫のような顎が飛び出して多美を羽交い絞めにし、砂の中に引きずり込んでいった。それを見届けた数多は、とりあえず安心して帰途についた。
多美を引きずり込んだ昆虫のあごは、この砂場に棲む、体長二メートルほどのアリジゴクの化け物のものだった。砂の中ではドロドロの異形と化した多美と、巨大アリジゴクの死闘が繰り広げられていた。多美を羽交い絞めにしたアリジゴクは彼女の人間らしさを残す右腕を食いちぎった。これまで味わってきた痛みより、さらに上をいく痛みが多美を襲った。多美の痛覚に反応するように、あのつんざくような悲鳴が縦の口から発せられる。
「キィアアアアアアアアアッ!ギゥルルルルルルル…」
次の瞬間、多美の右腕があったところから複数の俣に分かれた触手が生え、アリジゴクの胴体を貫いていた。アリジゴクは全身をビクンと震わせ、そのまま動かなくなり、砂の底に沈んでいった。多美は、いつの間にか砂場の外にいた。新しく生えた触手は、自分の意志とは関係なく動くようだ。それで砂の外に這い上がったのだろう。
巨大アリジゴクとの死闘を制した多美の人間らしいところといえば、右目とまだ彼女自身の言葉をかろうじて発することができる唇だった。その可愛らしい唇も、顔の左側に縦にできた口と交差するような形で、消えかかっていた。さらに、まだ多美の意識と自我は残っていた。
「グバァ…グバァ…」
おぞましい声が聞こえていた。それは多美自身が発した喘ぎ声だった。赤黒い腐肉と化した多美の身体のあちこちにできた口が発していた。両脚はもはや溶けて消失してしまい、ヤニに似た、ゲル状の腐肉がスカートのように地面に広がっていた。アリジゴクに食いちぎられた右腕があったところからは五本に枝分かれした触手が生え、左腕も太い一本のぐにゃぐにゃの触手と化しつつあった。その触手の先、手のひらにあたる個所にも蛇の口のような穴ができていた。
多美はさらに、胸のあたりを食い破って何かが出てこようとするのがわかった。折れた肋骨のあたりだ。
「イヤ…イヤ…」
多美のまだ人間である唇はこう言っていた。これ以上、醜い姿になるのを拒んでいた多美の意識が発した言葉だった。
だが、そんな彼女の願いは通じるはずもなく、その哀れな胸を突き破り、
「イヤアアアアアアアアアアッ!」
また新たな怪奇的な触手が三本姿を現した。紫色の、ゴカイの胴体か、大腸に見える、襞のある触手だった。
醜い異形と化していく苦しみにのたうちながら、多美はこれは夢だと思った自分は、あの雪崩で気を失ってしまい、今この上なく長い、おぞましい悪夢を見ていて、目が覚めると星車町の病院のベッドにいて、両親も妹も無事なのだ。だから早く目覚めてほしい。化け物になんかなりたくない。だが、夢はいつまでも覚めなかった。このおぞましい姿は、まぎれもなく現実だったのだから。
多美のまだ人間としての部分を残す右目に、ある光景が飛び込んできた。それは、腐りかけた木のベンチに座り、痩せた犬を膝の上に抱き上げて撫でている初老の男だった。
「お前もゆくゆくは犬瀉汁にされる運命じゃろうな。ごめんな…。」
うつろな表情の、覇気のない老人は、力のない声で犬を撫でながらそう呟いていた。その姿を見た途端、多美の意志ではない、異形の意志がその老人の方に動きかけた。
(ダメ…逃げて!)
多美は異形の力を抑え込もうとし、老人に向かってそう叫んだが、声にならなかった。異形化した体は、多美の意志がいくら抑えようとしても、その圧倒的な力を止めることもできず、その老人に向かって突き進んでいった。
老人が気配に気づき、驚愕の表情を浮かべ、次に恐怖で目を見開くのが見えた。
「うわあああああああっ!」
悲鳴をあげながら逃げまとう老人を、多美の触手は犬ごとつかまえた。次の瞬間、大量の血と肉片がベンチに飛び散った。