9‐7 ソラとして生きる
目が覚めると、そこはミゼラの部屋だった。
ふかふかのベッドから起き上がるがミゼラはおらず、がらんとしていた。
私はまだ眠い目をこすって、彼のドレッサーを借りて顔を確認する。
目がまだ少し赤い。ちょっと腫れているし、冷やした方が良いだろう。
朝食の前に、着替えなくては。私が部屋を出ようとすると、トリスがドアを開けた。いつもきちんと整えているオールバックが乱れている。起きている私を見つけて、トリスは私の腕を掴んで廊下に飛び出した。
彼の冷や汗の量が多い。シャツの襟すら濡れるほどだ。長い廊下を走りながら、私はトリスに問いかける。
「どうしたんだよ!」
「ミゼラ様を助けてくれ! ダイニングでトラブルが……」
「はぁ⁉ ……まさか、敵襲にでもあったのか⁉」
私はトリスを置いて、ダイニングに向かった。
ドアを蹴破るように開けて、「ミゼラ‼」と彼の安否を確認する。
――目に飛び込んできたのは、壁に追い詰められているミゼラと、彼を追い詰めるペンスリーの姿があった。
ミゼラは両手でペンスリーの胸板を押して抵抗するが、ペンスリーは頑として動かない。体幹が良いとかそのレベルではない。迫りくる壁を押しているのと同じだ。それが、他人の形をしているだけ。
「ソラ……助けて」
「これは、どういう状況です?」
ミゼラの弱弱しい声が、私に救いを求めている。私も状況が読めなくて、どう助けに入ろうか悩ましい。
ペンスリーは低い声で念仏のように言葉を紡いでいる。
「昨晩ソラシエルが世話になったようだな。お前の部屋で眠ったようだが、我が娘に手を出してはいるまいな? ソラシエルとは契約して一緒にいる仲であろう? 無論、付き合いは健全なものであろうな?」
「何度もお伝えしておりますが、彼女と同じ部屋では寝ましたが、ベッドには入っておりません。ソラ、そうだったでしょう?」
ミゼラにそう聞かれるが、寝る前の記憶が曖昧で、本当にそうだったか覚えていない。
私が頑張って思い出そうとしているそれが、ペンスリーには否定に見えたらしく、ペンスリーは更にミゼラと距離を詰めた。
このままではミゼラが押し潰されてしまう。私は慌ててペンスリーの袖を引っ張った。
「マル・チロ伯爵、あなたが疑うようなことは一切ありませんでしたので! どうかミゼラ様を解放してください!」
「ソラシエルが言うのなら……ん?」
ペンスリーは私の目が赤くなっているのを見ると、眉間にシワを寄せてミゼラを睨む。ミゼラの喉から、勝手に「ひっ」と声が出た。
「ソラシエルが目を腫らして赤くしているが、これはどう言い訳をする気だね? 娘が泣くようなことをしたのかね?」
「誤解です! ソラ、本当に助けて」
ミゼラが壁にめり込む勢いで潰されている。ペンスリーの怒りはもう噴火直前だ。このままでは、ミゼラが冤罪でペンスリーの私刑に処される。私はミゼラを助けるのに必死で、何も考えずに喋ってしまった。
「ミゼラ様は私を痛めつけるようなことはしませんでした! むしろ優しかったです‼」
それが、どんな意味になるかも分からず。
絶句するミゼラ、口を押えるメイドたち、頭を抱えるトリスと、これが正解だと本気で思っている私。
ペンスリーの怒りが頂点に達した。
***
ようやく誤解が解けて、私はペンスリーと馬車で散歩していた。
ペンスリーは私の方を見ず、ずっと外を眺めていた。
私は彼にバレないようにため息をつく。
朝食の席はとても気まずかった。
私が事の経緯を話して、なんとかペンスリーの誤解が解けたが、ミゼラはぺしゃんこになるまで潰されてしまい、せっかくセットした髪が崩れていた。
食事中も、ペンスリーはミゼラを睨んでいるし、ミゼラとトリスは私を睨んでいて、私の好物が並んだ食事だったのに、味がしなくて参ってしまった。
今だって、本当ならミゼラと一緒に家に帰る時間なのに、わざわざ連れ出したのは、ペンスリーなりの妨害なのだろう。
私は黙って、馬車に揺られている。
「──本当に帰るつもりかね」
ペンスリーがぼそっと言った。私は「そうだよ」と返す。彼は私の方に向き直すと、「それは変わらないのかね」と再度尋ねた。
私はまた、「そうだよ」と返す。ペンスリーは寂しそうに目を伏せた。
「吾輩は、一度だってお前の成長を見ていない。初めて立つのも、初めて歩くのも、初めて喋るのも。何一つ見ることが出来なかった。今さら、父親としてやってやれることは無いだろう。だが、今までの苦労をちっぽけなものと思えるくらいの幸せを、お前に約束できる。それでもまだ、ミゼラビリスとの契約を続けるのかね?」
ペンスリーはまっずぐ私を見つめた。彼は本気だ。本気で私を家族として迎え入れようとしている。
私は目を逸らした。けれど、ちゃんと伝えようと彼の目を見つめる。
「私は罪を犯した。それはどうしたって覆らねぇ。いくら金で揉み消そうと、人々の記憶から消え去ろうと、私が知っている。最期まで覚えている。私を家族とするのは、マル・チロ伯爵にとってかなり痛手で、抗うことのできないマイナスだ」
私は彼の手を取って、手の甲にキスを落とす。
ペンスリーは私の手を強く握った。離れていかないように。
けれど、私はペンスリーの手をほどいた。私が縋ってしまいそうだったから。
「お互いが家族であることは、お互いが知っていれば十分だろ。それで良いじゃねぇか。もう私は大人になった。……なってしまった。これが、一番良い距離感だ。──そうでしょう? マル・チロ伯爵」
ペンスリーは泣きそうなのをこらえて、「そうだな」と言った。
これが最善だ。私にとって、これが一番の答えだ。
私は最後に、ペンスリーを抱きしめる。
「会えてよかったです。お父様」
ペンスリーは強く抱きしめ返してくれた。それ以上の言葉は無い。
――いいや、いまこの場に、言葉なんて必要ない。
私は一瞬だけ、ソラシエルになれた気がした。




