2-1 ウォーキングを覚えよう
──背筋なんか、伸ばして生きてこられなかった。
農業だけでは生きられない。
忌み嫌われるこの見た目では、他の仕事も与えられない。
食事も金もなく、その日を凌ぐために、森に入っては、そこに生きる生き物たちに、手をかけた。
これ以上の苦労はないと思っていた。
それが今、こんなにも苦労するなんて。
「いったぁ!!」
頭から落ちた分厚い本が、足にクリティカルヒットする。よりによって背表紙の角が、つま先に落ちて、私はその場にうずくまった。
じわっと広がる熱と、遅れてくる痺れるような痛みが、足全体に広がって立ち上がれない。
痛みにうめく私に追い打ちをかけるように、トリスが声を張った。
「さっさと立て! 休憩時間じゃないぞ!」
「るっせぇバーカ! 足ケガしてんのが見えねぇのか節穴野郎!」
厳しい言葉を、黙って受け取る私じゃない。余計な一言を添えて、私は本を拾った。
「本が重すぎんだよ。もっと軽いのに変えろ。これじゃあバランスが取れない」
「バランスをとる練習のために、わざと重いものにしてるんだ。文句言ってないで、ペナルティーだ」
トリスはバインダーに目を移すと、私に問題を出す。
「この国の国名を答えろ」
「イーグリンド王国」
「人口は」
「6億7000万人程」
「国の主な特産物は」
「小麦、綿花、乳製品全般、最近は服飾品も知名度が上がってきてる」
トリスの問題に答え終わると、また頭に本をのせて、私はポールルームを歩き出す。
トリスはバインダーに記録をつけると、私の教育に戻った。
***
ミゼラと契約を交わした日、ミゼラは私の教養が皆無であることに絶句した。
調べたわりには、詰めが甘い。ミゼラはトリスを呼ぶと、二人でコソコソと話をする。
「やだわ、読み書き程度の教養はあるのに」
「そもそも貴族嫌いのやつです。教育の意味があるかどうか」
「2週間後に、婚約者のお披露目パーティーがあるのよ」
「今からでも間に合います」
トリスは別の令嬢を、ミゼラの計画に使おうと提言するが、ミゼラは意地でも私を選ぶ。私は契約した以上、手ぶらで帰ることはしたくなかった。
「不満だらけだが、多少の訓練はやってもいい」
できなくて困ることはあるが、できて困ることは無い。
彼の計画が終われば、私は好きなことができるのだ。その時に、もしかしたら、役に立つかもしれない。
ミゼラの表情が明るくなった。
夢みる乙女のような愛らしい笑顔で、鬼のようなことを言い放つ。
「じゃあ、ウォーキングと基礎教養、マナー講座を明日から8時間やるわよ!」
申し出をしなければ良かった。
***
「申し出をしなければ良かった」
あの時と同じセリフが出てくる。
ミゼラの宣言通り、次の日から一日中、文字通り朝起きてから夜眠るまで、勉強漬けの日々が続いている。
私は大きなため息をついた。
その拍子に、また本が頭から落ちた。これを拾うのもまた疲れる。
昨日までヒールのないパンプスだったのに、今日からいきなりハイヒールに変わり、足が痛くてたまらない。歩くのもしゃがむのも、足──特にかかと──に負担がかかって、ふくらはぎが爆発しそうだ。
疲弊している私に、トリスは労いもなく、「続き!」と訓練を強要する。私はため息と一緒に立ち上がった。
「背筋を伸ばす。まずは肩を後ろに引け。肩甲骨をくっつけるイメージだ」
私はトリスに言われた通りにする。
肩を後ろに引くと、固まった背中の筋肉がほぐれて気持ちがいい。
胸の筋肉も伸びるので、じんわりと温まっていくのがわかる。
「そのまま、力を抜け。ストンッと肩を落とす」
息を吐くのと同時に、肩の力を抜く。
猫背の癖が抜けてないから、胸を突き出しているような違和感がある。けれど、背中が正しい位置にあると重心が取りやすくていい。
昨日までは、つま先立ちをして、ゆっくりかかとを下ろし、全体的な姿勢の矯正もしていたが、ヒールに変わったので、そこは省略しているのだろう。
「歩く時は」
「線の上を歩くように、だろ」
何度も言われたことだ。真っ直ぐ、綱渡りをするように。
顎を引いて、前を見て、真っ直ぐに。
鏡に黒い髪が写った。
ミゼラが着せようとしていた服にイチャモンをつけて、取り替えてもらった細身のシルエットのワンピースは、私の体躯にはまだ大きかった。
青いハイヒールだけが上等な、今日の服装は、『貧乏人が考えた貴族の私服』並にダサい。
その格好で、頭に本をのせて、貴族の令嬢と同じ訓練を受けている、卑しい村娘。
なんて滑稽で、なんて醜いのだろう。
スルッと、本が落ちる。
後ろに落ちた本は、ゴトンと音を立てた。
「気を抜くな。ったく、お前に出せる問題がもう無くなってきた。落としすぎなんだよ」
トリスの文句も、鏡に映るトンチキには叶わない。私は嘲笑を込めて、「ド田舎の村民だからな」と返す。
自分でも、なかなか嫌なことを言ったと思う。けれど、トリスはそれに言い返すことも、笑うこともしなかった。
「お前が何を考えているのか知らないが、平民だからできないとは思ってない。できるかどうかは、本人の努力次第だろう。物理的な意味も込めて、可能か不可能かは、現状のスキルや状態によるものだ。
でも、お前は「やる」って言ったんだ。「できないかも」なんて前置きもなく、「必要ならやる」と。利益を考えてのことでもな」
私はミゼラに申し出た時のことを、トリスはよく覚えていると言った。
他の人間は、「希望には添えないかも」とか、「出来の良さは保証できない」とか、一度保身に走るそうだが、私はしなかったのだとか。
「だから、俺はお前に教える。完璧といえなくても、お前もミゼラ様も、恥をかかないくらいに」
トリスにとって、私はミゼラが拾ってきた異端分子だ。『自分の主人に仇なすもの』と見られていると思っていた。
「お前は建前上、『婚約者(仮)』だからな。きちんと教えはするから、お前も覚えろよ」
「……うるさいな。わかってんだよ」
私は頭に本を置いた。
さっきまでずっしりとした重さがあったのに、羽のように軽く感じた。