1-4 不穏な契約成立
風呂から出た後も、トリスの入念なケアは続く。
貴族らしい部屋着を着せられて終わりかと思えば、流さないトリートメントをつけて髪を乾かし、ヘアオイルをつける。
これで終わりではない。
拭き取り化粧水、化粧水、美容液、乳液……──途中で寝るかと思った。
ようやく解放されて、私はダイニングに案内される。
ドアを開けると、ミゼラが先にテーブルについて待っていた。
彼は各国の雑誌や新聞を読みながら、何か書類らしきものを書いている。
トリスに案内されて、私はミゼラの向かい側に座る。
彼は私に気がつくと、手を止めて、トリスに何か合図を出した。
トリスが奥へと消えると、ミゼラは軽く頬杖をついた。
「お風呂はどうだったかしら? 久しぶりに入ったんじゃないの?」
ミゼラの言い方が嫌味に感じて、私はつい噛み付くように返す。
「男と一緒に入れるとは思わなかったなぁ。よりによって初めての風呂だぞ。思い出すのが嫌になりそうだ」
わざとらしく悲しい振りをすると、ミゼラは驚いた顔をして、姿勢を直した。
「入ったこと無かったの?」
「人のことを詳細に調べたくせに、村民の暮らしには疎いようだな。年中、水で体を洗うんだよ」
「知らなかったわ。情報ありがとう」
「嫌味くせぇ……」
私が舌打ちをすると、トリスが大皿を持って戻ってきた。
「ミゼラ様に失礼なことしてないだろうな」
「お前じゃないんだから」
「俺は主人に失礼なことをしない。お前だ、お前。口悪いし、態度もでかい」
「鏡見てこい。それに該当する奴が映ってるぞ」
トリスはテーブルに皿を置くと、ミゼラが見ていない隙に、私の頭を叩いた。
私が飛びかかると、ミゼラが慌てて止める。
「おやめ!」
「だってこいつが!」
「大人しくしてちょうだい!」
「トリスが最初に手を出した!」
「お前がミゼラ様に失礼しなければ!」
「二人ともよ。おやめ」
ミゼラに怒られて、トリスは明らかにショックを受ける。
私は席に戻り、トリスに向かって舌を出す。トリスは何か言いたげに口を動かすが、グッと堪えて、後ろに下がった。
ミゼラは気を取り直すと、大皿から自分が食べる分だけ料理を取り分ける。
「さっ、まずは食事にしましょ。契約の話はその後で」
「早く諦めろよ」
「アタシ、妥協しない主義なの。絶対に嫌♡」
ミゼラは料理をナイフとフォークで切り分けて、優雅に口に運ぶ。
私は庶民のような食事風景に、彼を鼻で笑った。
「貴族って割に、庶民みたいな食事の取り方をするんだな」
「常にコース料理って訳じゃないわ。好きな料理を好きな分だけ食べるのは、昔から続いてきたことよ」
ミゼラは「バイキングの名残りね」とちょっとした勉強を挟んだ。
私は適当に話を流して、料理に手をつけた。
牢獄では、泥のようなスープにカチカチのパンしか出てこなかったから、ここの料理は天国のようだ。
暮らしていた村では、しなびた野菜しか食べられなかったし、自分に豪華な食事は縁が無いものだと割り切っていた。
本当、人生はどうなるか分からない。
私はベーコンとふかふかのパン、スクランブルエッグとサラダを取り分けて、フォークを突き刺した。
トリスが丁寧に食器を用意してくれたようだが、ナイフの使い分け方も、種類もよく分かっていない。
何種類あろうと、ナイフはナイフだし、フォークはフォークだ。
そう割り切って食べていると、ミゼラとトリスの反応が気になった。
ミゼラは、驚いてはいるが『想定内』といったように食事に戻る。
一方で、トリスは唖然としていて、得体の知れないものを見るような目で私を見ていた。
(主人が調べて連れてきたのに、何でそんな目で見るんだ?)
疑問に思おうと、私には関係ない事だ。
自分の膝や床に、パンくずや卵を落としてもお構い無しで、贅沢な料理を楽しんだ。
食後の紅茶を飲み干すと、トリスが急いで床の掃除を始める。
ミゼラは先に片付いたテーブルに契約書を置くと、細身の万年筆を一緒に並べた。
トリスが私の膝に落ちたパンくずの片付けをする。
「おい、手をどけろ。あーもう、せっかく着替えたのに」
「うるさい」
「一瞬でダイニングを汚しやがって。嫌がらせかよ。ったく」
風呂で呟いていたように、「汚い、汚い」と繰り返しながら掃除の後片付けをする。
ミゼラは、トリスが除菌を終わらせて、戻って来るまで待った。
「……さて、アタシはあなたに十分な施しをしたわ。あなたはどうやって、この恩を返すのかしら?」
「はっ、持てる者からの無償奉仕かと思っていた。存外、恩着せがましいのな」
「言ったでしょ? 別の形でアプローチしてるのよ」
「悪いなぁ、返せるもんが何にもねぇや。どうぞ、牢屋に戻すでも何でもしてくれよ。罪状追加してくれてもいいぜ。何がいい? 食料強奪? 不法侵入?」
私が煽り返すと、ミゼラは大きくため息をついた。
「──『血筋の呪縛』って知ってるかしら?」
ミゼラは、事情を伏せて私を雇うことが出来ないと判断したのか、突然そう切り出した。
「貴族の中でも、高貴な血族っていうのがあってね。途絶えちゃいけない血筋があって、その家の人間って、必ず子孫を残さなくちゃいけないの」
それが一体なんだと言うのか。
血筋が途絶えてはいけないのなら、尚更私を雇おうとする理由がない。
「アタシがその血族の一つでね。マレディクトス家は、国が出来た頃からある血族なの」
「そりゃご立派で。死刑囚を雇うなんて、親泣かせだけどな」
「違うわ。結婚したくないから、血を絶やしてやろうかと」
「ほぁっ!!?」
ミゼラはあっけらかんとして話した。
自分には兄がいて、彼が家督を継いだ。
それなのに、血筋は多く残した方がいい、なんて理由で、無関係のミゼラにも結婚を迫られている。
とうとうお見合いの予定を組み込まれたり、勝手に婚約者候補を決められそうになっていたりと、散々な思いをしているから『婚約者がいる』と言って断ったという。
「そんな、ありきたりな……」
「ありきたりでも、アタシには必要ないことなの」
でもそれだけなら、やっぱり私は必要ない。こんなことをしてまで、抵抗する理由もないだろう。適当に婚約だけして、別居していればいいんだ。
ミゼラは「そこであなたの出番」と、私を指さした。
「階級に縛られず、堂々とした立ち振る舞いが出来て、年寄りの詭弁にハッキリ口を突っ込める、新しいタイプの令嬢がいたら?
国が変わるのよ。凝り固まった、古い絵の具のようなガッピガピの価値観が一新される。前にも言ったけれど、それを出来るのが、あなたしかいないの。だから、アタシは意地でもあなたを雇いたいのよ」
一人でも、「おかしい」と言える人がいたら、血筋の呪縛から開放される。
ミゼラはそれを待ち望んでいた。
「もちもん、事が終わったらあなたを解放するわ。協力のお礼として、何でもするつもりよ。
一生遊んで暮らせるお金だって、新しい家だって用意する。別の国で暮らしたいなら、そういう手配だって出来るわ」
ミゼラは、想像も出来ないような報酬を提示する。
私はミゼラがそこまでして開放されたいのか、と納得する。
「仕事内容は?」
「要人のパーティーに出席したり、領地の見回りが主な仕事よ。そこで、アタシに嫌がらせをしようとする人や、悪意を持ってる人を遠ざけてくれたらいいわ。
家に客を招くこともあるけれど、基本的には、最初に挨拶だけしてくれたら、あとは部屋にいてくれて結構よ。
衣食住の保証の他に、必要品は支給するし、毎月お給料も支払うわ。雇ってるわけだしね。
屋敷の敷地内は自由に歩いてちょうだい。ただ、アタシの寝室と仕事場の二ヶ所だけは、許可なしに立ち入らないで」
思いのほか好条件で、文句のひとつも出てこない。こんなに良い条件で死刑囚雇って、懐事情が気になるところだ。
私が万年筆を握ると、ミゼラはからかう様に笑った。
「そんな持ち方して、契約書をダメにしないでよ?」
私は拳を握るように、万年筆を持っていた。彼はそれについて言ったのだろう。
私はその意味が分からなかった。
「たかがペンに、持ち方なんてあるのか?」
私の純粋な質問に、ミゼラも大きく目を見開いた。
私が書いた、ぐちゃぐちゃな名前。
それは、これから貴族になるというには、あまりにもお粗末だった。