3-2 ラットゥス子爵とガッリーナ商人
朝食を済ませ、いつものウォーキングと挨拶の練習をする。
今日は珍しくトリスがおらず、自主練習となっていた。
私はひとりで、鏡を見ながら姿勢を気にしつつ、頭に乗せた本が落ちないように、お辞儀をする。
しかし、ちょっと前に屈むだけで、本がグラグラと揺れて、バランスが取れない。
「だぁぁ、クッソ。どうなってんだ。貴族の女ってのは」
ひとりで勝手にキレながら、私は練習を続ける。
ふと、廊下をトリスが忙しなく走っていく音が聞こえた。
来客でもあるのだろうか。何度も往復する足音と、トリスの息切れが静かに聞こえてくる。
ミゼラは貴族でもさらに偉いというのに、使用人がほとんどいない。
シェフとトリス。それ以外の使用人に会ったことがない。
以前、ミゼラは「女性は雇わない」「使用人は信用できる人だけ」「必要なものは全て領地で完結させてる」なんて、色々言っていた。
パーティーでの襲撃で、私は彼の言い分に納得した。
(危険は、自衛して避けないといけないんだな)
全てを疑って、全てを身内だけで。
そうしないと、次の瞬間には死ぬかもしれないから。
それを考えると、殺人罪の死刑囚を雇うのも頷ける。
必要性に駆られて排除する時、殺しに抵抗がない者がいた方が安心だろう。
彼の不安や心配事なんて知らないし、私には関係ないが、今日を生き抜く努力の困難さや、明日を望めない虚無感は、私も知っている。
「……最初から」
少しでも、仕事をきちんとこなせるように。必要な努力を惜しんでいたら、100%の実力も発揮できない。
本を落として何度目かのやり直しのタイミングで、トリスが汗をかいて部屋に入ってきた。
「悪いが……、着替えて応接間に来てくれ」
「着替えが必要なのは、お前の方だと思うけどな」
「お前を貶す時間も惜しい。とりあえず、さっさと着替えろ。ミゼラ様がお待ちだ」
トリスが軽口に乗ってこない。相当忙しいらしい。私も、仕方なく着替えに自室に戻る。
いつもなら着方を口頭説明するだけのトリスも、私の着替えを手伝った。アクセサリーやヘアセットまで、テキパキと済ませる。
「あまり待たせられん。走れ!」
トリスは準備が終わった直後、私の手を引いて、長い廊下を早馬のように駆けていく。
私は遅れないように、必死について行った。
応接間に近い廊下になると、二人して足を止めて、息を整える。
「無駄に……広いよな。この家」
「掃除……してても、知らない部屋が出てくんだ。……はぁ、たまに『ちっちゃくなれ』って、思う」
「それはそうだ。夜中とか……自分の部屋に戻れねぇ時……はぁ、あるもん」
「廊下の外観が全部一緒」
「もうちょっと庶民に優しい造りにしてくれ」
ミゼラの家の不満と、息を吐き出して、私とトリスは笑顔を繕う。
何事も無かったような顔をして、応接間に入った。
「ミゼラ様、呼んで参りました」
「遅くなりまして申し訳ございません」
ミゼラは私の方を向くと、ソファーから立ち上がり、「来たわね」と私の近くへと来る。
「どこにいたのよ」
頬にキスをするフリをして、彼に耳打ちされた。私もキスをするフリをして「ウォーキングを」と、返事をする。
ミゼラは、私をソファーまでエスコートした。ミゼラが座っていた向かいには、知らない男性が二人座っていた。
ミゼラは二人に「紹介するわ」と、私の腰を抱き寄せる。
「アタシの婚約者よ。ソラ・アオイノモリ」
私は紹介されると、練習した通りの恭しいお辞儀をした。
ミゼラはそれを満足気に見つめた後、私に二人の男性を紹介する。
「ソラ、こちらがフィリップ・ムスラベット子爵。財務管理省の最高責任者よ。それで隣の方が、ブルーム・プルムディ。イーグリンド王国きっての貿易商なの」
フィリップと紹介された男性は、グレーの長髪を緩くまとめ、かっちりとしたスーツを着ていた。痩せ型で、白い肌が病弱そうに見えるが、髪と同じ灰色の瞳を持ち、タレ目で微笑んでいるような口が優しい印象を与えている。
逆に、ブルームと紹介された男性は、エスニックで色鮮やかな服を着ていて、浅黒い肌には沢山のタトゥーを入れている。綺麗な琥珀色の丸い目だが、表情は硬く、見た目に反して寡黙そうな印象がある。
「お初にお目にかかります」
私が二人に挨拶をすると、フィリップは笑顔で「よろしく」と返すが、ブルームは無言でお茶をすすっている。
ミゼラはため息をつくと、男性の紹介に付け足しをした。
「フィリップは十二血族の『子』の貴族──『ラットゥス子爵』で、ブルームは『酉』の商人──『ガッリーナ商人』よ」




