2 その建築家
翌日、わたしたちは梨花さんのお父さんの住む築30年の大邸宅に伺った。
その家は関東圏の郊外、武蔵野の森の風情がまだ残る広い敷地に建っていた。
たしかに、あちこちに傷みが見える。
それにしても、想像していたよりうんと控えめな印象のある静かな建物だった。
大きいけれど、大邸宅——と呼ぶには、あまり相応しくないような佇まいだ。
表札に「金田」と書かれている。
あれ?
昨日訪ねてきた人は、岡本梨花さんだったよね・・・?
あ、そうか。
結婚されているのか。
ご両親と家の話ばかりで、何も自分のことをおっしゃらなかったよなぁ。
錆の浮いた門扉の柱にチャイムのボタンだけが付いていた。
インターホンですらない。押すと中で音が鳴るだけのやつだ。
鳴るのかな? これ・・・。
わたしがボタンの前でちょっと指をさまよわせていると、家の方から明るい声が聞こえた。
「よくいらしてくださいました。どうぞぉ。門、開いてますからぁ!」
玄関の大きなドアが開いて、梨花さんがサンダルをつっかけて出てきた。
わたしたちが門の中に入ると、梨花さんがアプローチをこちらに向かって歩いてくる。
アプローチは20メートルほどもある。広い敷地だ。
どこかで鶏の声が聞こえた。
玄関では70代くらいの老夫婦が並んで頭を下げて出迎えてくれた。
「どうも、どうも。こんなところまで来ていただいて——。娘が無理なことを申しまして・・・。設計料の費用だって、出せるかどうかわからないのに。」
輝子先生は、ほにゃ、とした顔を・・・・してない。 ?
挨拶もせずに、奇妙な笑いのようなものを口元に浮かべて、あちこちを不躾なほどに眺め回している。
目が、異様なほどに輝いている。
輝子先生・・・?
なんか、いつもの輝子先生じゃない。
どうしちゃったんですか? 先生・・・。
「先生? 輝子先生?」
わたしが思わず呼びかけると、先生ははっとして、ようやく我に返ったみたいな表情になった。
「あ、も、申し訳ありません! 失礼な真似してしまって。わたくし御堂寺輝子と申します。この度はご依頼いただき、ありがとうございます!」
輝子先生は体を二つ折りにするくらいの勢いでお辞儀をした。
私もつられてお辞儀をするが・・・。
あの・・・輝子先生? まだ正式に「依頼」されてないですけど・・・?
金田さんも、唖然とした表情でそのまま突っ立っている。
「あの・・・」
お辞儀から顔を上げての輝子先生の第一声はそれだった。
やはり目が異様に輝いている。
「こちらの家を設計されたのは・・・どなたですか?」
何、これ?
いつもの冷静な先生じゃない。
まるで建築を学び始めたばかりの学生みたい・・・。
金田さんはちょっとびっくりしたようだったが、家を褒められたのだ、と気がつくと、少し嬉しそうな表情をした。
「人に紹介されたんですが、ええ・・・と、たしか杉村さんと・・・」
「杉村常正ですよね!? やっぱり! こんな近くにあったなんて!」
輝子先生は両手で口を押さえて、少女みたいに頬を染めている。
「有名な人なんですか?」
わたしは全く知らない。これでも一応、建築学科を出てるんだけど・・・。
「一部のコアな人たちの間ではね、輪兎ちゃん。わたしの憧れの建築家なのぉ!」
輝子先生は舞い上がっている。
「特徴が出ているわぁ! 構成にもディテールにも! あの! 中も見せていただいていいですか!?」
いいですかも何も・・・
リフォームの相談ですよ、先生・・・。
仕事とか立場とか、忘れてません・・・?
「あ、はい。どうぞ。・・・お上がりください。」
金田さんは輝子先生の舞い上がり方にたじたじとしながら、スリッパを進めた。
わたしは金田さんご夫婦にペコリとお辞儀をする。
すいません。
なんか・・・いつもの先生じゃないんです・・・。
輝子先生は、1階も2階もくまなく見て回ってから、階段を下りてきて、ほう、と1つ至福のため息をついた。
「ありがとうございましたぁ。そして、大変失礼いたしました。憧れの杉村先生の仕事が、こんな間近で見られるなんて思わなかったものですからぁ。」
「そんなにすごい建築家なんですか? その、杉村なんとかっていう先生は・・・?」
金田さんが少し呆れたような、少し嬉しいような表情で輝子先生に訊いた。
「杉村先生は、住宅の他にも学校建築をよく手掛けられた方なんです。10年ほど前に亡くなられたんですが、ご存命のうちに一度お会いしたかったです。」
輝子先生は勧められたダイニングの椅子に座って、ようやく落ち着きを取り戻したようだった。
「杉村先生は晩年、過疎化による学校統廃合で取り壊されることになった校舎のお別れ会に招かれたりしてるんです。在校生や卒業生が開いたお別れ会にです。」
輝子先生は出されたお茶に口をつけて、喉を湿らせてからまた話しだした。
「普通いませんよ、そんな建築家。竣工式には呼ばれますけどね。それだけ建物が愛されたんです。それだけ、その建物は人を幸せにしたんです。」
ああ、それって・・・。
いつも輝子先生がやろうとしていること・・・。
先生は杉村常正のようになりたいって思ってるんだ——。
「建築は野に咲く1輪の名もなき花でよい。住宅は人の暮らしの背景でよい——。これは杉村先生の言葉なんです。杉村先生は最後まで、建築家として名を売るような行為を嫌っていました。ですから、知っている人が少ないんです。」
「わたし・・・」
急須を置いて、梨花さんが言葉を挟んだ。
「子どもの頃から、自分の部屋の窓から見える景色が好きでした。吹き込んでくる風が好きでした。」
ちょっと目を潤ませている。
「この家が好きなんです。だから、なんとかして住み継ぎたい・・・。」




