1 仕事の選り好み
「わたくし、ちょっとやり切れる自信がございませんわぁ。」
「え? 何か・・・予算にご不満でも・・・」
輝子先生のやんわりとしたお断りに、訪ねてきた名利兼さんは少し驚いたようだった。
え? 先生、断っちゃうんですか?
「いえいえ、そんなんじゃなくってぇ。わたくしほら、小さな住宅ばかりやってきましたでしょ? 大邸宅なんて、どうやっていいか分からないんですのぉ。それだけご予算があれば、そういうの得意そうな有名な建築家さんにもやっていただけると思いますわよぉ。黒河内さんとか単芸さんとか。わたくしなんかではぁ・・・。」
断る気満々だ・・・。(^^;)
「ああいう有名どころは設計料も高いだろう。あんただって、有名どころに名を連ねるチャンスじゃないか。」
「わたくし、主婦ですからぁ。主婦的な発想しかできませんものぉ。(^^;)」
「欲がないな!」
捨て台詞のようなことを言って、名利兼さんは帰っていった。
輝子先生、なんで?
たしかに・・・、ちょっとエラそうな上から目線なオッサンだったけど。
でも・・・・
予算、5億ですよ?
ああいう手合いは、バカ高い素材さえ使っとけば喜んでんですから——。
普段、2500万とか3000万とかで、予算との戦いのような仕事してるのに。
一発で5億ですよ!?
設計料だってハンパないですよ!? 多少値切られたって。
御堂寺設計工房の慢性的な金欠、一気に解決するじゃないですか。
わたしだって新しい洗濯機買えるし、エアコンだって・・・。いや、それどころか、もっといい所に引っ越しだって・・・。
「ごめんねぇ、輪兎ちゃん。わたし、ああいう人ニガテなんだぁ。」
輝子先生のそのひと言でわたしの暴走していた妄想は止まり、急に恥ずかしくなった。
頭の中読まれた・・・きっと・・・。
輝子先生に・・・。
例によって、思いっきり顔に出てたはずだから・・・。
「そそ・・・そうですね。わたしもちょっとニガテかも・・・。」
新しい相談の電話が入ったのは、わたしがまだ(でも、5億・・・。ちょっと惜しかったかも・・・)などと未練がましく頭の隅で考えながら、輝子先生と午後のお茶をしていた時だった。
「はい。御堂寺設計工房です。」
わたしが電話をとる。
「先生。リフォームの相談です。」
わたしの声はちょっとはずんだ。自分でも分かるほど・・・。
輝子先生は仕事を断ってしまったけど、今のところ現場はあっても設計の仕事はなく、御堂寺設計工房はヒマなのだ。
「今日の午後も空いておりますわよぉ。どうぞぉ。」
輝子先生は、ほにゃ、とした顔で電話を切った。
「築30年の大きな家の修繕とリフォームの相談ですって。予算はあんまりなさそうだけどぉ。」
予算はあった方がいいですよね・・・。
思ったけど口には出さなかった。(顔には出たかもしれないけど・・・)
夕方4時頃訪ねて来たのは、30代後半くらいの女性だった。
名前を、岡本梨花さんといった。
「父が、あのバブルの時に建てた家なんです。」
梨花さんのお父さんが建築家に依頼して、バブル絶頂期に建てた100坪を超える家なのだということだった。
輝子先生は、いつもの、ほにゃ、とした顔で聞いている。
ちょっと先生。
こっちも大邸宅じゃないですか——?
「設計した建築家はどなたなんですか?」
「わたしも聞いてないんです。父が知り合いから紹介された、とかいう話でしたけど・・・。」
梨花さんの話では、お父さんはバブル絶頂期に設計を依頼し、着工して、そして竣工間際にバブルが崩壊した・・・ということだった。
「しかもまずいことに、父の当時の友人に株の仕手戦を仕掛けている人がいて、資金を増やしてやるから——ということで建設資金を全て預けてしまっていたようなんです。」
バブルが崩壊すると、その「友人」は姿をくらましてしまった。
あとには、工事会社への莫大な借金だけが残った。
わたしが生まれる前のことだ。
バブルについては、わたし自身は「失われた30年」と言われる中で育ってきたのでピンとはこないのだけど、そんなこともあったらしいというような話くらいは聞いている。
「父は友人に裏切られたことも合わせて、ひどく落ち込んでしまって・・・。でも、母が励まして、2人で以前のように——と母は言っていました——真っ黒になって働いて、少しずつ借金を返してきたんです。」
そうしてようやく借金を返し終えたのだが、そのせいで家は30年間、何の手も入れることができないままになってしまったのだそうだ。
「でも、わたしにとっては子どもの頃からずっと好きだった大切な家なんです。」
ああ。これは・・・。
予算がどうであろうと、引き受けなければいけない話だぁ——。
わたしも貧乏症だああ———!! /(´Д`;)\