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怯懦法師  作者: alIsa
3/3

暮れー誰そ彼

 怯懦は丸太町通を歩いて歩いて、左京区へと戻ってきた。時刻はもう暮れ時が近く、左京区も夕焼け色に染まっている。あの見る者に郷里を思い起こさせる、愁々たる橙色に。人をして無機物にでさえ懐古せしめる色に満たされた町の中で、怯懦だけが、色の落ちた法衣を赤く染めながら、景色から浮いている。

ふと、規則的だった怯懦の歩みが止まる。そういえば、地図をお借りしたままだったな。そして、怯懦の足は再び動き始める。彼は向きを変え、少し早足で通りを歩いていく。禅林と彼が呼ぶ僧のいる寺へと。


或寺の僧:昼もずいぶんと長くなったものだ。冬ならもう真っ暗になっていたのになぁ。それなのに、まだこんなに明々と…。まるで紅葉みたいだ。む、そうか。刻というのはそのまま四季の移り変わりを示しているのだなぁ。朝と昼と暮れと夜。春と夏と秋と冬。――冬はいつも、どれだけ目をこらしても、いつの間にかやってきているものだ。

――暮れ色の春風に誘われてふと視線をそらす。とその先に、怯懦が卒然と立っていた。

或寺の僧:おや?あんた、いたのか。どうしたんだ?

怯懦法師:地図をお返しに参りました。

或寺の僧:そうか。ついでに茶でも飲んでいけばいい。

怯懦法師:いえ、本当におかまいなく。

――怯懦はすでに歩き出している。

或寺の僧:ふうん。それにしても、毎年毎年、一日中何をしてるんだ?

怯懦法師:歩いているだけですよ。

或寺の僧:何のために?

怯懦法師:…死ぬため、ですかね?

或寺の僧:いつもこれだ。取り付く島もない。

怯懦法師:はは、それでは、また来年。

或寺の僧:今から山に戻るのかい?

怯懦法師:ええ、そのつもりです。

或寺の僧:夜の山は危ないだろう?今晩はうちに泊まっていけばいい。

怯懦法師:いえ、大丈夫です。慣れていますし、今日中に帰ると伝えてありますから。

或寺の僧:伝えてあるって、誰に?

怯懦法師:比叡山のお化けたちに、ですよ。

或寺の僧:毎年これだものなぁ、あんたは見かけによらず食えないやつだよ。

怯懦法師:あはは、誰も食いたがらないだけです。

――怯懦は諦めた顔をする僧へ背を向けたまま、夕焼けと苦笑をたずさえ、境内を出ていく。時刻はすでに、比叡山の山際から青紫色をした夜の波が押し寄せつつある頃だった。


 怯懦が比叡山のふもとに立つと、突と近くの木々や茂みがざわめき始める。風によってではない。それは次第に広がり、周囲一帯から、果てには山全体から、ざわめきが聞こえるようになった。比叡山はゆらゆらと揺れ、まるで一つの大きな影のようだ。そのざわめきは、どこからともなく、声へと変わった。


声:怯懦坊が帰ってきたぞ。のこのこと、生き損なって帰ってきたぞ。

声:生き損なった、というのも妙だな。こいつは死んじゃいないぞ?

声:だが、生きてもいない。となると、何だ?

声:生ける屍さ。よく鼻を澄ませてみろ。こいつから腐臭が漂ってくるだろう?

怯懦法師:風呂に入っていないから臭うだけです。

声:いいや、プンプン臭うぞ。生きることも死ぬこともできない、哀れな人間のにおいが。

――怯懦は声に取り合わず、山を登り始める。

声:はん。それにしても、変われば変わるもんだ。あれほど死に怯え、山に登ったおまえが、これほどまでに死を望むようになるなんてな。

怯懦法師:おかげさまで。

声:しかしなぁ。今のままでは、来年も再来年も、一生死ねないぞ?

怯懦法師:…。

声:いいか?死は生の一部なんだよ。死ぬということは生きるということなんだ。逆はない。つまり、おまえみたいに死だけを望むやつには死は訪れない。死に至るまでの生を嫌悪し、遠ざけようとするやつには。

怯懦法師:その説教はもう聞き飽きましたよ。それに、嫌悪などしていません。今でも生への、習俗への憧れはあります、尊敬も。学校へ行ったり、働いたり、結婚したり…。でも、私はそういった習俗を何一つ守れませんでした。

声:習俗の破戒僧とでも言ったところか?

怯懦法師:はは、面白いですね、それ。

声:ふん、詭弁だな。習俗への、死へと向かう生による運動への憧れなんて、軽蔑の裏返しさ。こんな醜く、浅ましく、汚らわしいこと、自分にはできない。そう思っているんだ。

怯懦法師:どうだか。

声:いずれにせよ、この運動を嫌悪し軽蔑していることを認めない限り、あんたは生きることも死ぬこともできない。習俗だの生だのを軽蔑しながらも生きているやつはいる。だがそれらを尊敬しているなんて言ったやつに、生者はいなかった。

怯懦法師:それも聞き飽きました。

――そうこうするうちに、怯懦は彼の草庵にたどり着いた。

声:まあいいさ。こっちもあんたの世話には飽き飽きしてるんだ。目覚めに怯えながら眠りに恐怖してりゃいい。

――声は聞こえなくなった。

 怯懦は歌うように呟いた。

「死ぬのにも資格があったとは、有史以前から誰も知るまい。

 死は生の一部だけれども、生は死の一部ではない。

 生から死のみ抜き取ろうとするのは、空気から酸素のみ吸い込もうとするようなもの。

 習俗を嫌悪しながらも、その中で生きていける人は立派だ。

 だからこそ、彼らには早くに死が訪れるのだろう。

 勇敢なる者には臆病なる死を。

 臆病なる者には臆病なる死を。」


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