朝
或寺の僧:すっかり暖かくなったなぁ、いい天気だ。おや、ツバメが飛んでいるぞ。や、風に乗るタンポポの綿毛を確かに見たぞ。梅雨ももうすぐそこだなぁ。
――そこに一人の男性がやってくる。ぼろな法衣と笠を着て錫杖を持った、長髪の男だ。
怯懦法師:禅林殿、どうも、一年ぶりで。
或寺の僧:ああ、そういえばそうだった。この時期は、あんたも山から降りてくる時期だったな。いや、しかし、見るに堪えん姿だ。風呂でも湧かそうか?
怯懦法師:いえ、大丈夫です。ただ、地図を貸していただけませんか?一年ぶりともなると、どうも地理に疎くなって、毎年のことなんですが…。
或寺の僧:構わんよ、ちょっと待ってな。飯は食ってくかい?
怯懦法師:いえ、食事も大丈夫です。食べましたので。
――怯懦法師は地図を受け取ると、すぐさま寺の門へとつま先を向ける。
或寺の僧:今年はどれぐらいかかりそうかね?
怯懦法師:さぁ、実際やってみないことには、私には何とも。
――怯懦は僧の返答も待たずにそさくさと寺の外へ飛び出した。僧が見えなくなってようやく、彼はホッと息をつき、額の汗を拭いた。
怯懦、歌って曰く、
「恐縮の極み おもてなし
裏もないのが なお恐し
私は何も 施せず
下卑な恐怖が 積もるのみ」
――永観堂前のバス亭に立っている女学生。指で髪をすいているところに、怯懦が姿を現す。
女学生:まぁ!驚いた。幽霊かと思ったら、本物のお坊さんなんですもの。でも、本当にお坊さんなのかしら?まるで破戒僧みたいだけれど。
怯懦法師:いやさて、困ったな、南禅殿にも会おうと思っていたのだが、すっかり道に迷ってしまった。地図もあるというのに、なんと情けない…。
女学生:ねぇ!そこのお坊さん!
――突然の呼びかけに怯懦はびくりと肩を震わせ、ぶんぶんと首を回す。長い髪が尻尾のように頭の後を追う。
怯懦法師:ああ、そこのお嬢さんか。しかし、うっかり会話しようものなら、周辺住民に通報されたりして…。
女学生:あの、聞こえてますよね?おーい、おーい、おーい!
怯懦法師:ええ、ええ!聞こえてますとも。あまり大声を出しなさるな。ちゃんと耳は付いてるんですから。
女学生:えへへ、ごめんなさい。
怯懦法師:それで、どうなさったのです?どのバスに乗ればいいか分からないのですか?
女学生:いえ、そうじゃなくて。ただ、珍しいなって思って話しかけてみたんです。
怯懦法師:そうですか。私は急ぎますので、これで。
――怯懦は顔を赤らめながら女学生に背を向ける。彼が名残惜しそうにしている隙に、少女は言葉を紡いだ。
女学生:修行か何かの途中なんですか?
怯懦法師:え?修行?いや、そんな大層なものではありません。気分転換のようなものです。
女学生:ふうん。それなら、あんまり急がなくてもいいんじゃありません?
怯懦法師:まぁ、そういう考え方もあるでしょうね。
女学生:それなら、ちょっと私に付き合ってくれませんか?今、仏教史のレポートを書いてて、だから、本物のお坊さんの意見とかアドバイスとか、是非聞いてみたいんです。
怯懦法師:いや、申し訳ない。私は人に教えを説けるほど徳も教養もないのです。失礼します。
――怯懦は再び背を向け、足早に去っていく。赤面しながら、遊環のついていない錫杖で大地を必死に静めながら。
怯懦、歌って曰く、
「女子と睦むは 一人前
せん無き僧は 無人前
無闇に女子と 関われど
無間を見るのが 関の山」
――南禅寺にも寄り、一息ついた怯懦。駐車場の塀にもたれて座っていると、一人の青年が彼を見つける。
青年:びっくりした。背中がヒヤリとしたよ。おい、あんた、お坊さんか?どうしたんだ?こんなところで。
怯懦法師:ああ、申し訳ない。少し休んでいたのです。すぐよそへ行きますから。
青年:俺の土地じゃないから、別にどうだっていいけどさ。それにしてもひどい格好だな、あんた。
怯懦法師:そうですか?まぁ、そうですね。ひどい格好だ。よく言われます。
青年:ひどい匂いがするよ、ちゃんと風呂に入ってるか?洗濯は?
怯懦法師:ええ、その、あはは。
青年:おいおい、それならせめて髪の毛ぐらいは切ったらどうだい?涼しくなるよ。というか、坊主頭にはしないのか?
怯懦法師:ええ。だって、ハサミやカミソリで肌を切ったら怖いでしょう?痛いでしょう?だから伸ばしっぱなしなんです。
青年:はん。とか言って、本当は金が無いだけなんじゃないのかい?
怯懦法師:…はは、鋭いですね。
青年:やっぱりね。いやはや、気の毒なもんだね。世俗を逃れても、結局は金に苦しむことになるなんてな。
――青年は怯懦に近づき、彼の前に千円札を三枚置いた。
青年:その金で、銭湯に行って、コインランドリーに行って、千円カットでツルツルにしてもらいな。
怯懦法師:いえ、そんな、受け取れませんよ。お金をもらうためにやっているわけではないんです。
青年:気にしない、気にしない。喜捨ってやつだよ。
怯懦法師:そうは言ってもですね…。
青年:それに、いくら坊主だからって、あんたみたいなやつのこと、誰も敬っちゃくれないぜ?人に尊敬されるやつってのは、みんな清潔な格好をしてるもんさ。
怯懦法師:私は、尊敬されたいなんて思っていません。
青年:そうかい?ならこう考えよう。あんたは臭すぎる。それを迷惑に感じるやつもいるかもしれない。だから清潔にするんだ。周囲の人のために。エチケットだな。これならどうだい?「人のため」。実に仏教僧らしい理由じゃないか。
怯懦法師:人のため?
青年:ああ。
怯懦法師:その、仏教は自分自身のための宗教であって――
青年:それじゃ、達者でな。
――青年は怯懦の言葉を遮って車に乗った。怯懦は諦めたように口を閉じ、青年の車を見送る。彼は苦い顔で千円札に目を落とし、拾い上げた。そして、それを拾って何重にも畳み、用心深くたもとにしまった。
怯懦、歌って曰く、
「袈裟の垢こそ 我が血肉
髪の汗こそ 我が旅路
我が意思とれば 人は泣き
人を選べば 我は無き」
怯懦法師はおよそ人間の経験しうる全てを恐れている。あるいは、畏れているとも言えるのかもしれない。いずれにせよ、彼は恐れている。それは彼の歩みを見れば瞭然だった。群衆を恐れて閑散とした通りへ逃げ込み、しかし今度は、静寂を恐れて再び賑やかな通りに戻る。日向を恐れて日陰に入り、しかし今度は、日陰を恐れて日向へと出る。疲労を恐れて道ばたに腰を下ろし、しかし今度は、安逸を恐れてそさくさと立ち上がる。昼を恐れて足早になり、しかし今度は、夜を恐れて歩を緩める――。なんとも忙しい人だ。彼は呼吸をするように恐れては行き先を変えていたため、その道のりはぐねぐねと曲がり、昼を目前にしてようやく左京区を出たのだった。