花嫁
彼が普段口にしない家族の話をした時、もう潮時だなって思った。
私は浮かれてた。
君がくれる甘い言葉や見つめる目があまりにも綺麗で、
現実から逃避するのに十分すぎたのだ。
「それじゃあ、気をつけてね。」
ようやく座り慣れてきた助手席から降りたら、もう彼とは会えない気がした。
なんで、一番かわいいなんて言ったの。
もっと早くに出会えてたら、なんて言ったの。
本当は、我儘を言って、泣き叫んで、縋って、君を困らせたかった。
優しさと下心に漬け込んで、君を独り占めしてしまいたいと思った。
「できないの、分かってるくせに。」
「え、?」
恋心が冷めた、というより永い夢から醒めたようだった。
「奥さん、待ってるでしょ。」「送ってくれてありがとうございました。」「じゃあね。」
一息で連ねた言葉に、彼は心底驚いたような顔をした。
青天の霹靂、とでもいうような。
「なんであなたがそんな顔するの。」
「え、だって。」
彼がくれた百貨店のカヌレがまだひとつ、家の冷蔵庫に閉まってあることを思い出す。
君に会えない夜に少しずつ齧って、ずっと持て余していた。
「煙草は、ほどほどにね。」
彼は悟ったように俯いて、小さな声でありがと、と呟いた。
ありがとって何よ、と鼻で笑うと、君の目尻も下がる。
「君は綺麗だから、大丈夫だよ。」
出会った頃と変わらない眼差しで君は言う。
その真っ直ぐな瞳に、いつまでも騙されていたかった。
「今気付いたの?」
そうふざけると、彼は力なく首を横に振った。
好きだった。別に君の一番になれなくても。
もし君の血を半分引いた知らない子どもでも、きっと愛せるんだろうって思ってたよ。
もう食べ終えちゃおう。
君の愛の残飯処理をいつまでもやっていられるほど、私は若くないのだ。
「またね。」
君の言葉に首を振って、シートベルトを外した。
もう夜明けだ。朝が来る。希望の朝ってやつか。
「ねえ、来世は、結婚してね。」
そう言ってドアを閉める。一度も振り返らずにアパートの階段を駆け上がった。
見慣れた表札が見える。
袖についた君のメンソールの匂いで、少しだけ泣いた。