富田夫妻
1588年。元服した富田知勝は、父の富田一白に連れられて、時の天下人、豊臣秀吉に謁見した。
「わしの側近くに仕えるが良い。」
それから、知勝は秀吉の近習の一人になった。
富田家はもともと出雲の京極家の一族であったが、没落して近江に逃れた。一白はそこで生まれた。信長に仕えた一白は槍働きで名を上げた。秀吉に仕えてからは、交渉役として他家に向かうなどの働きをし、秀吉から名馬星崎など、度々、褒美を与えられた。また、代々受け継がれた一白の佩刀は大業物として、堀秀政の手から秀吉に渡った。1595年には、伊勢安濃津6万石を賜り、秀吉の御伽衆となった。
そんな一白も、1599年。秀吉が亡くなった翌年にこの世を去った。名を信高に改めていた知勝は安濃津城主となった。時に信高20代後半だったと思われる。そんな信高には妻がいた。名は伝わってない。仮にここでは、小夜としておこう。小夜は宇喜多忠家の娘であった。縁談は秀吉の勧めである。
「小夜にございます。」
「うむ。」
小夜も信高も至って、この時代の普通の夫婦であった。
1600年。徳川家康が会津の上杉家の征伐に向かうと、信高も家中の士300人を率いて従軍した。
「御武運をお祈り致します。」
「行って参る。」
途中、上方で石田三成の挙兵の報せが入った。軍議により、信高は伊勢へ戻り城を守ることになった。一行は急ぎ伊勢を目指した。伊勢松坂城主、古田重勝と伊勢上野城主、分部光嘉もともに伊勢を目指した。
「(石田治部少輔か…。)」
信高は三成に良い印象を持っていなかった。豊臣家の政を壟断しようとしている奸臣のイメージだった。一行は、三河鳥羽から海路、伊勢を目指すことにした。
「鳥羽津は九鬼の軍勢が守っております。九鬼は治部少輔に与している様子にございます。」
物見の者から伝令があった。
「どうされましょうか…。」
分部光嘉が顔を向けた。陸路、伊勢を目指す猶予はない。
「九鬼殿とは顔見知り故、うまく頼んで船を出してもらいましょう。」
代表で信高が志摩鳥羽城主、九鬼嘉隆のもとへ参った。
「富田殿はどちらに加担されるおつもりかな?」
開口一番嘉隆が聞いてきた。
「実のところ、私はまだ、腹を決めかねていましたが、嘉隆殿が石田殿に与するというのであれば、私もそうしようかと思います。」
「左様か。それは良いことだ。」
そうして、一行は船を出してもらい、海路伊勢を目指した。
8月5日。西軍の将、長束正家と安国寺恵瓊の軍勢は既に、安濃津城の目と鼻の先にいた。
「あれは家康の軍勢ではないか?」
伊勢湾を偵察していた兵からの報告で、海上に浮かぶ軍船を正家は遠くから視認した。
「九鬼は寝返ったのか?」
それらは信高一行が乗船している船であったが、正家らは東軍本隊と勘違いした。
「関へ戻る。」
正家らは、一時退却して関に布陣する毛利秀元、吉川広家の軍勢に合流することにした。
「上方で石田治部少輔が兵を興した。」
安濃津城に到着した信高は城の守りを固めた。翌日には、伊勢上野城主、分部光嘉の軍勢と古田重勝の援軍が合流し安濃津城に入った。城下の領民たちも城に入れて安濃津城の守兵は1600人に増えた。
「小夜。其方も女中たちをまとめて戦の支度をせよ。」
「かしこまりました。」
奥へ下がり、女中頭に戦支度をするように伝えた。
「私は城内を見て回ってきます。」
小夜は城内の様子を窺いにいった。城内では慌ただしく、人々が動き回っている。小夜は実際に戦に巻き込まれるのは初めてであった。信高も実際の戦闘指揮は初めてといって良い。
「(このようなものなのか…。)」
小夜が幼い頃、父の故郷の備前では戦が頻繁にあったというが、小夜の身近で起きることはなかった。
本丸の廊下には幼児や老人が集まっている。ところどころで、城兵が鉄砲の筒を磨いていたり、槍を並べて数を数えていたりする。外郭では足軽と一緒に領民たちも土俵の積み上げ作業に従事している。
「小夜。戦の支度はできたのか?」
信高であった。
「はい。ただいま。」
小夜は奥へ戻った。
8月19日。西軍により安濃津城は包囲された。包囲したのは、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親、鍋島勝茂らの軍勢、総勢3万余。安濃津籠城側は1600余である。
「助右衛門は戻らぬか。」
先立って、家臣の疋田助右衛門を家康への使者に送ったが、途中、九鬼嘉隆に討たれていた。
8月23日。明け方、大軍を持って包囲勢は城の四方から一斉に攻め寄せた。
「始まったか。」
本丸で見守っていた信高のもとに銃声が聞こえた。それは側にいた小夜の耳にも届いた。伝令が来た。
「西より、毛利、吉川。南より安国寺、長束の軍勢が押し寄せました。」
「うむ。」
「(どうなるのだろう…。)」
本丸で戦闘を見守っていた小夜は思った。
「(私には何もできないのだろうか…。)」
そんな状況が歯痒かった。
昼を過ぎた頃、城の東手から煙が上がった。古田重勝の援軍と毛利勢の宍戸元続の戦闘だった。重勝側の放った火が燃え広がり、勢いに乗じた宍戸勢が城の外郭を破って侵入した。
「敵が城内に入ったのか!?」
南外郭を守っていた分部光嘉は東から上がる煙を見て物見を走らせた。
「(皆、同様しておるわ…。)」
城内に敵が入ったとあらば、ここも危うくなる。
「(衆寡敵せずか…。)」
多勢に無勢。光嘉は討ち死も覚悟した。
「東郭より敵が侵入したようです。」
戻って来た物見が告げた。
「大筒の用意が整いましてございます。」
「砲撃を始めよ。」
毛利、吉川の部隊が城の北方より砲撃を始めた。
「何の音だ…!?」
本丸にいた信高もその音を聞いた。
「城の北方より、大筒の射撃!東郭から敵が侵入!」
「私も行くぞ!」
信高は近習を連れて行ってしまった。
「(私はどうなるのだろうか…。)」
小夜は信高のことが心配であった。小夜は女中頭を呼んだ。
砲撃により、城の櫓楼は破壊された。西と南の外郭も破られて、城内には敵が殺到した。残すは本丸のみとなった。
「防ぎ止められぬか…。」
信高は本丸の門を出て槍を振るっていた。一人の武者が走ってきた。家臣の本多志摩であった。
「城の四方は破られ、城内には敵が溢れております…。」
「左様か…。」
「どうされまする…?」
本丸に戻って自害するかという意味であった。
「然れど、これでは本丸に戻ることもままならぬ…。」
いつのまにか前へと前へと進んでいた信高は、敵の侵入もあり、今は前線の真っ只中にあった。周りは敵味方が混戦し、戻るに戻れない。
「このまま討って出るしかあるまい…。」
信高は立ち往生に陥った。。
「ここにおられましたか…。」
分部光嘉の弟、右馬助だった。
「光嘉殿は?」
「本丸に向かっております。」
「(私も本丸に向かいたいが…。)」
信高は辺りを見渡した。それは何の確認だったのだろうか。周りは既に敵兵に埋め尽くされているはずだった。
「あれは…?」
信高の視線の先に、毛利兵の集団が乱れる様子が映った。やがて、その中の二、三人が倒れると、その隙間から一人の武者の様子が見えた。
「(何者だ…?)」
その若武者は緋縅の鎧を着て、半月の前立てを付けた兜を被っている。手には片鎌の槍を持って、また、一人毛利の兵を倒した。
「あれは、分部の者か?」
「心得ませぬが…。」
右馬助が加勢に向かった。信高も後を追う。
「女子のようですが…。」
右馬助が言った。よく見ると爪には紅が施してある。
「小夜…!?」
「御無事でございましたか…。」
信高の状況がまったく分からない小夜は、居ても立ってもいられず、鎧兜を着こむと、女中頭が止めるのを振り切って戦場へ駆けて行ったのである。
「(よかった。)」
信高に会えた小夜は安堵した。と思ったのも束の間に、再び、敵兵が押し寄せてきた。
「ここは危のうございます。本丸へ戻りましょう。」
「うむ。」
信高と小夜は二人一丸となって、本丸を目指した。後ろからは右馬助と本多志摩が追っている。
「(あと少し…。)」
本丸の城戸まで、あと少しというところで、毛利兵の一団が進路を塞いだ。毛利家臣、中川清左衛門率いる集団だった。
「名のある兵とお見受け致す。尋常に勝負!」
小夜を女と知らぬ清左衛門は槍を突きつけた。
「(危うい…。)」
小夜はそれを避けた。
「私がお相手仕る!」
信高が横から槍を掛けた。
「二人まとめてお相手致そう!」
清左衛門は毛利家では大剛の士と名高い。三人が槍を合わせている間にも、毛利兵が集まってくる。
「(こんなところで手間取っている暇はない…。)」
が、清左衛門は強い。
「そこをどけい!!」
そのとき馬上から太刀を振るう騎馬武者が現れて、毛利の兵を蹴散らしていった。
「但馬守!」
上田但馬守重秀。父、富田一白よりの家臣で、大坪流の馬術を学び、自ら上田流を興した達人であった。
「(今だ…!)」
信高と清左衛門が重秀に気を取られた隙に、小夜が清左衛門の左脇腹を突いた。
「っ!」
次に信高が喉元を突くと、清左衛門は絶命して倒れた。
「早く退かれよ!」
重秀が雑兵を蹴散らしている間に、信高一行は本丸に入った。
「頃合か…。」
周囲の味方が退却したのを見届けて、重秀も自ら門内に入った。
「門を閉めよ!」
本丸の門は閉鎖された。
「富田殿、無事だったか…。」
分部光嘉らも既に本丸に入っていた。
「妻のおかげにございます。」
「は?」
光嘉も信高の隣にいる美麗の若武者が、信高の妻であることは分からなかった。
「大方様。お怪我はありませんでしたか?」
奥に戻ると女中たちが心配してやって来た。
「皆、心配をかけました。無事、信高様にお会いすることができました。」
その後、信高らは本丸より、ありったけの鉄砲を乱射し、毛利らの猛攻を防いだ。夜になり攻勢は止んだ。
「(本当に無事でよかった…。)」
今日、一日、信高と生き残れたことを小夜は神仏に感謝した。
「小夜、いるか?」
「はい…。」
信高が訪ねて来た。
「此度はまことに申し訳なかった。其方を危ない目に合わせてしまったな。」
「お会いすることができて、うれしゅうございました。」
「左様か。心配かけてすまなかったな。礼を申す。しかし、あまり無茶はするでないぞ。私は小夜の身が心配だ。」
そう言うと信高は帰っていった。
「(小夜がそこまで、私のことを思っていてくれていたとはな…。)」
信高は改めて妻に感謝した。
「(大切にせねばなるまい。)」
翌日、高野山の木食上人らが、西軍側の降伏勧告の使者として来た。信高ら籠城側は、これを受け容れることにした。安濃津城は西軍に明け渡された。信高は城下の専修寺で剃髪し出家した。
関ヶ原合戦後、城は明け渡したが大軍を相手に小勢ながらもよく戦ったということで、徳川家康より2万石の加増の上、安濃津城主に、再び信高は任命された。
「御方殿の武勇、見事也。」
信高の妻の活躍は家康にも聞こえて、多くの書物にその武勇が書き称えられた。
その後、信高夫妻は伊予宇和島12万石に加増転封されたが、それから間もなく、宇喜多忠家の子で信高の妻の弟、坂崎直盛と、甥、浮田左門との刃傷事件に巻き込まれて、改易の末、陸奥国棚倉へ流されてしまう。
「(夫を巻き込んでしまった…。)」
信高に願って、自分を頼って来た甥を匿ってもらった挙げく、弟に訴えられて、富田の家は改易されてしまった。
「(申し訳ないことをした…。)」
そのことを悔やんで一度は自害することを考えたが、信高に止められた。
「其方に助けられなければ、安濃津城で私の命は終わっていた。此度は私が其方の命を助けたい。」
信高はそう言った。
「其方がいなくなれば、私には何もなくなってしまう…。」
そう付け加えた。
富田信高夫妻は陸奥棚倉で生涯を終える。風雲の中、夫妻がともに歩んだ道程は、晩年の二人を優しく包んでいた。




